投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「柢王、桂花、こっち来いよ!」
アシュレイが呼びに来た理由は、テーブルに置かれた、見た目も美味しそうなケーキでございました。
「クリスマスケーキですか?」
「人間界で、クリスマスプレゼントのお礼にってもらった」
桂花の問いに、威張ってアシュレイが答えて、柢王がツッコミます。
「プレゼント交換だろ、それは」
「ふふっ…断ったんだけど、その子も買ったのに、お兄さんも買ってて、2つも食べきれないからってくれたんだよ」
思い出し笑いをするティアに、アシュレイも笑いました。
「面白いんだぜ。毎年二人とも買って来るんだってさ」
「なんで、どっちが買うか決めとかないんだ?」
「パーティーするわけじゃないし、季節感を感じるから、さり気なく用意したいなと思うんだそうだよ」
「仲良き兄弟だな」
アウスレーゼ様がおっしゃると、冥界教主様はアヤしい笑みを浮かべていらっしゃいます。
「あの子の兄ならさぞ…」
「ふむ…確かに、そそられるね」
息もつかせないアヤしいトーク突入は、ティアランディアの質問で阻止されました。
「あの子?なぜご存じなのですか…まさか!」
「もちろん、そなたたちの仕事を見届けるのも、ブラック・サンタとしての我の役目だからね。ずっと見ていたよ」
「ずっとだと!!」
当然ではないかと楽しそうなアウスレーゼ様に、まさかあの時も見られていたのではと、アシュレイは焦っています。
「手をつないで飛んでいるところも、抱き締めているところも、可愛い顔を…」
「うわぁぁ!!」
「うるさい…」
アシュレイがアウスレーゼにそれ以上言わせまいと叫び、耳元で叫ばれた桂花は、とっさに切り分けていたケーキで、アシュレイの口をふさぎました。
「うぐっ…ん〜美味いっ!」
「あーんした…ずるいっ」
ティアがうらやましそうに、桂花につめよって、
「すみません。つい…」
「俺だって、めったにしてもらえないのに」
柢王がアシュレイにヘッドロックをかけ、
「我にも、食べさせてくれまいか」
ちゃっかり交ざってお口をお開けになる冥界教主様に、アウスレーゼ様が笑っていらっしゃいます。
「ふふふ、にぎやかな事だ」
守護主天様が、これほどにぎやかに過ごしていらっしゃれば、地上も幸せに違いありません。
遠見鏡は、慎吾の姿を映しておりました。
暗闇の中、クリスマスプレゼントを持って、走る姿を。
世界中の人たちが幸せに過ごせますように。
メリークリスマス。
ぽかぽか陽気に誘われて、庭のテーブルにお茶の用意をしている桂花のそばで、柢王がふわぁぁっとあくびをしていると、突然金色の嵐が現われて、平和な午後の終わりを告げました。
「我は、クリスマスプレゼントを所望する」
冥界教主様は、挨拶もなくそう宣うのでございます。
「クリスマスはサンタクロースが、プレゼントを渡すものではありませんか?」
人間界に詳しい桂花は、サンタクロースらしきお召し物の冥界教主様に、伺います。
「我は、ブラックサンタだ。だから、クリスマスプレゼントをもらう資格がある」
「…」
(ブラックサンタ…って、黒いサンタか?)
(知りません。どうしますか?)
(…任せた。お前が適任だ)
(柢王っ)
柢王と桂花のどちらが対応するか、視線で押し付けあっている事も意に介さず、冥界教主様はお話しをお続けになりました。
「この紙に書かれたものを、人間界で買って参れ。その間、こいつの世話はしておいてやろう」
こいつと、捕まえられた氷玉は嫌がって、ぴぃーと鳴きます。
「お待ちくださいっ」
「天主塔にいる。優しく世話をしてやるが、遅いと焼き鳥にしてしまうぞ」
突然現われた嵐は、哄笑と一枚のメモを残して、氷玉を連れ去ってしまいました。
「…人質だろ、それは…焼き鳥にしてどうすんだ?…まさか、食うのか?」
唖然と呟く柢王に、我に返った桂花は、冷たい目を向けております。
「柢王、突っ込むところは、そこではありません」
「いや、あんまりにも、アレだったから」
「…それにしても、あの人は、何を企んでるのでしょうか」
「仕方ない。さっさと、買い物すませようぜ。あいつなら、本当に焼き鳥にしかねないからな」
疲れたように柢王が申しますのに、桂花も確かにやりかねないと思うのでございます。
ティアランディアとアシュレイが、人間界から戻って参りますと、天主塔にも、クリスマスツリーが飾られておりました。
大きなもみの木のてっぺんには金色の星がキラキラ輝き、枝にはたくさんのクリスマスオーナメントが飾られ、幻想的な風景を演出しております。
「なっ!なんだこれ!!どうしたんだ」
「いつの間に!人間界で見たのと変わらないね」
驚く二人に冥界教主様が、お声をおかけになりました。
「ようやく、戻ったか」
「冥界教主様?どうして天界に、いらっしゃるのですか?」
「そなた達とクリスマスパーティーとやらをしようと思ってな。我らが、そなたの為に飾り付けたのだ」
アシュレイが「すごいな」と、ティアランディアが「綺麗ですね」と申し上げるのを、冥界教主様が当然のようにお聞きになっていらっしゃいます。
それを、少し離れたところで、柢王と桂花が見ておりました。
「…俺らが、ほとんど飾ったんだが…」
「柢王。聞こえますよ」
「だって、桂花っ!あいつは、遠見鏡で人間界を見て、アシュレイのお尻が可愛いとか、ティアが美人だとか、あの子は可愛いなとか、アウスレーゼ様と盛り上がってただけなんだぞ」
「何もしてないのに、そこの飾り付けは気に食わぬとかもおっしゃってましたが…触らぬ神にたたりなしですよ」
「桂花」
噂をすればなんとやら…冥界教主様にお声をかけられて、桂花と柢王はぎくりといたしました。
「これは、そなたへのクリスマスプレゼントだ。冥界に咲く花を、天界でも育つように李々に改良させた」
「このような花が冥界に?ありがとうございます。大切にいたします」
「こんな男は捨てて、冥界に永住すれば、もっといろんな花が見られるぞ」
桂花は、以前から冥界教主様に冥界に住まないかと、強引に誘われておりました。
李々がいる事には、心惹かれるけれど…
何度断っても、「断られる」という言葉が辞書にない冥界教主様は、あきらめてくださらないのです。
「吾が離れられないのですよ。李々に宜しくお伝えください」
「嫌じゃ。冥界に参って、自分で申せばよい」
ふんと機嫌を損ねた冥界教主様は、ティア達のほうにお戻りになりました。
「桂花っ」
桂花の後ろに寄り添うように静かにしていた柢王が、冥界教主様が去ると耐えきれなくなって、桂花を強く抱きしめました。
どこへも行かせないと言うように。
それに桂花は、困った人ですねと微笑い、小さな箱を渡します。
「柢王…これは吾からあなたへの、クリスマスプレゼントです」
「小さな陶器のマリア像?こんなに小さいのに精巧だな。ひんやりしているのに、この微笑みを見るとあたたかく感じる」
「フェーヴと呼びます。人間界の西の方の国では、エピファニーと言う祭りの時、ケーキの中に入れて焼き、切り分けたケーキの中に入っていた人は、その一年幸せに過ごせるそうです。自分で幸せにしたい人を決めるマリア像。柢王が気に入ればいつまでも、そばにいてくれますよ」
このマリア像のように、桂花はずっとそばにいるのだと、伝えたかったのでございます。
「自分で決めるか…」
桂花のプレゼントに込められた心を受け取って、不敵な笑みを浮かべる柢王に、桂花の笑みはマリア像と同じくらい、あたたかくなっておりました。
「「クリスマス?」」
ティアランディアとアシュレイの声が見事にはもるのに、来客用の椅子に腰掛けるアウスレーゼ様は、微笑なさいました。
「人間界では、サンタクロースがプレゼントを配る日なのだよ」
「プレゼント、もらえるなんていい日だな!」
なんで天界にはないんだろと、アシュレイ。
「そうだね。善意の人が配るのかな」
用意するのも、配るのも大変でしょうねと、ティアランディア。
「そう、大変なのだよ」
優雅に御足を組み代えられながら、アウスレーゼ様。
しかし、お召しになった帽子の先のふわふわしたぼんぼりが、揺れています…
天主塔にいらっしゃった時、いつものお召し物と違いすぎて、不審人物かと危うくアシュレイに、攻撃されるところだったのでございます。
「大変?アウスレーゼ様が、サンタクロースなんですか?」
お二人は存じませんでしたが、アウスレーゼ様は、由緒正しきサンタ服をお召しになっていらっしゃいました。
しかし、なぜか服の色は黒でございます。
「ふふっ…少し違うのだよ。我は、ブラック・サンタ」
「「ブラック・サンタ?」」
また、見事にはもりました。
「生け贄…いや、その年のサンタクロースを決める役目なのだよ」
とても楽しそうなアウスレーゼ様のご様子に、ティアランディアとアシュレイは、走って逃げたい気分でございました。
「そなたたちに、サンタクロースを任せようと思ってな」
「なんで、私達がっ」
「まあまあ、そう言わず。我からのクリスマスプレゼントだ」
アウスレーゼ様は、こちらはそなたの制服と、由緒正しき赤いサンタ服を、ティアランディアに。
こちらは、アシュレイの分とお出しになった制服に、ティアランディアの目がキラッと光りました。
ショートパンツにロングブーツ、ちょっと長めのコートがワンピースにも見えるデザインでございます。
「やります。やらせてください!」
「ティア!?」
「アシュレイ、人間を幸せにするのも、私の仕事だからね。もちろん、手伝ってくれるよね?」
もっともらしい言葉と、困ったような極上の上目遣いで、ティアランディアがアシュレイを説得するのを、アウスレーゼ様は笑って、御覧になっていらっしゃいました。
「そう言うわけで、望みを言え」
突然現われた、サンタクロースと名乗る、元気で可愛いらしいサンタクロースが言いました。
何かの罰ゲームなのだろうか戸惑う慎吾に、もう一人の綺麗で王子様のようなサンタクロースが、苦笑を浮かべています。
「アシュレイ、それじゃあ、押し売りみたいだよ。クリスマスプレゼントに望みをなんでも叶えるから、希望を聞かせて?」
「えっと…特にありません」
慎吾が断ると、赤い髪のサンタが、火を噴く勢いで食って掛かります。
「望みを叶えないと、天界に帰れないんだ!だから、早く言えっ!!」
「アシュレイ…そんな強引な…」
慎吾は、よくわからないけれど、サンタクロースもいろいろ大変なんだなと思いました。
「あの…それなら、取り寄せていた品物を、代わりに受け取ってきて欲しいんですが…」
「そんな事でいいの?」
「健さん…いえ、プレゼントを取り寄せていたんですが、急に仕事が入って、取りに行けなくなってしまって…」
健さんと過ごすはずだったクリスマス、インフルエンザで休む者がでて、約束が守れなくなってしまったのです。
健さんは慎吾とクリスマスを過ごすために、睡眠時間をけずって、予定を開けてくれていたのに。
始めは機嫌が悪かった健さんも、落ち込む慎吾に、
「しゃーねーな。この貸しは高くつぜ。おら、行ってこい。お前はインフルエンザなンか、うつされンじゃねーぞ。俺は、ひとり寂しく寝てっから、夜中に忍んで来いよ。サンタさん」
と、言ってくれました。
その後、「泣いても許してやンねーからな」と囁かれた事まで思い出して、慎吾は頬を赤く染めています。
そんな慎吾の様子は、ティアランディアとアシュレイに、それがとても大切な人へのプレゼントなのだと伝えました。
「そんなに、大事なものを、私達に任せて大丈夫?」
「いいんです。だって、初めてあなたを見た時、神様って、こう言う人なんだろうなって思ったんです。俺だって、ホテルマンですから、人を見る目には自信があるんですよ。なんて…」
笑う慎吾に、ふたりのサンタクロースは、心がほんわりとあたたかくなりました。
こんな笑顔が見られるなら、サンタクロースも悪くありません。
海賊の襲撃に遭ってから数日後。
カイシャンが王族だと知れ渡ったときこそ恐縮した水夫達も、変わらずに接してくる人懐こい子供と態度の変わらない桂花や馬空たちに、自分達のテリトリーである海の上という安心感も後押しして、すぐにいつもの彼らへと戻った。
声を取り戻したカイシャンも、おかげで前にも増して元気になったようだった。
ある日のこと。
甲板での喧騒に桂花が近づけば、騒ぎの中心はやはりカイシャンだった。
「だから気をつけて下さいと言ったのに!」
「大丈夫だって」
人だかりの中から馬空とカイシャンの声が聞こえる。
「ダメですって、まだ起きちゃ。…ったく、こんなとこ、あのおっかねぇ教育係様にでも見つかったらどうなるか……」
「誰に見つかったらだって?」
「ゲッ!」
「カイシャン様。そろそろ文字の勉強の時間ですよ」
突然の桂花の突っ込みに踏みつけられた蛙のような声を発した馬空をスルーして、桂花は自分に背を向ける格好で男と相対していたカイシャンに声をかけた。
元気になって遊ぶのはいいことだが、甘やかしてばかりではカイシャンの将来のためにならない。
「………」
「カイシャン様…?」
返事のない子供の様子がおかしいと思ったときには勝手に身体が動いていた。
カイシャンの小さな肩を掴み、我が身に引き寄せ振り向かせる。
そうして目に映ったのは、額に巻かれた白い布と赤い染み。
「――――――!」
「カイシャン様があんまりすばしっこいから、ついマジんなっちまって……」
馬空を筆頭に、周りの者たちも頭を下げる。
相撲の勝ち抜き戦の途中での怪我だった。子供相手(しかも王族)ということで当然ハンデはつけてあったのだが、運の悪いことに、たまたまカイシャンが投げられた先の木板の留め金が外れていて、その角が額を傷つけた。
「血が…」
そばで馬空が訴える言い訳じみた説明もなにも耳に入らなかった。桂花には目の前の子供以外、なにも目に入らなかった。
「たいしたことないんだ。馬空たちが大袈裟にグルグル巻きにしただけで…。それより、時間に遅れて悪かった。俺を迎えにきたんだろう? 着替えるから、もう少し待ってくれるか?……桂花?」
「勉強はいいですから。まずきちんと傷の手当てをしましょう。…吾の部屋まで来ていただけますか?」
「大丈夫だ。本当にただのかすり傷なんだから」
「ダメです…!」
「桂花…?」
いつもの冷静な桂花らしくなくて、カイシャンはちょっと不思議に思い目を見開いた。
「駄目です。…ちゃんと消毒して薬を塗って、それから清潔な包帯を綺麗に巻きましょう」
「…イヤミか、それは」
「なにかあってからでは、取り返しがつきませんから。それとも、あなた、責任が取れますか?」
殊勝な態度だった馬空がボソッともらした一声に、桂花は過剰に反応した。
「桂花は心配性だな」
そんな桂花に、カイシャンが少し笑った。
「王子が自分から手当てしてくれーって時には、舐めときゃ治るとか言うらしいのになぁ?」
「そんなふうに言った覚えはない」
「いっそ、舐めてもらったらどうです? 王子」
「さ、行きましょう」
馬空の軽口に真っ赤になってしまったカイシャンを抱き上げ、桂花は冷たい一瞥を男にくれてから甲板を後にした。
(大騒ぎするほどの怪我じゃないことくらい、分かってる……。でも…!)
早く、早く、早く――――――。
取り返しがつかなくなってからでは遅いのだ。
あのとき、守天殿に相談していれば……。
せめて、自分の手には負えないと認めていれば……。
何度も、その兆候はあった。柢王の額を封じるたび、吾は気づいていたはずだ。なのに………。
結果、あの人はひとりで魔界へ行き、殺された。
(その挙句…………!)
……感傷に浸る暇などない。
この子の傷を治さなければ。
この子の額には、傷痕を残さない。
ひとすじほどの傷も許さない。
……あれは、柢王の傷。
柢王だけの傷。
吾の…後悔の象徴。
この子は柢王じゃない。
だから、同じ傷痕は残させない。
同じ後悔は、決してしない。
「心配かけて、ごめん…」
「いいえ…」
子供を抱きかかえる腕に力を込めながら、桂花は過去の後悔に囚われぬよう、ただ歩を急いだ。
(終)
唸るような奇妙な声音の旋律が、風にのって夕暮れ近い草原を渡る。
バヤンが桂花のゲルを訪れたのは、夏も終わりのことだった。
部下数名を供として連れてきたのは理解できるが、やっと一人で馬に乗れるようになったからとはしゃいで話す子供も一緒で、しかも所用を済ませてくる数刻の間、その子供を預かってほしいと頼まれた。
カイシャンのために、わざわざ用事を作ったのだろうと思ったが、桂花は分かりましたとだけ告げた。
その奇妙な歌が聞こえ出しのは、着いた早々に発つバヤンを見送る最中のことだった。
バヤンが完全に見えなくなってから、カイシャンはあたりを見回した。どうやら声の主は、少し離れたところで粗末な椅子に腰掛ける老婆のようだ。その周りには羊の群れが見える。
しばらくその様子を見つめていたカイシャンだったが、やがて隣に立つ桂花に問いかけた。
「あれは…なんだ?」
「あれ…ですか」
問われた意味が分からず、こちらを見向きもしない子供の目線を追った桂花は、その意味に気づき得心した。
「なんだか不思議な歌だな。まるで羊たちに聞かせてるみたいだ」
「おっしゃるとおり、あれは羊に聞かせるために歌ってるんですよ」
「羊に…?」
そう見えはしたが、本当にそう思って口にしたことではなかったので、意外な答えにカイシャンは桂花に向き直り、目を見開いてそう言った。
「あの歌は、雌の羊が他の子羊に乳をやるように仕向ける歌だそうですから」
「他の仔に? どうしてだ?」
桂花の答えに、問うた子供は要領を得ない様子で訊き返す。
「…吾の言い方が悪かったようですね。他の仔、というのは、母親のいない子羊のことです。母親のいない子羊は、乳を飲むことができなければ飢えて死ぬしかありません。でも、他の母羊が乳を分け与えてくれれば、子羊は生き延びることができるでしょう?」
「……うん」
「家畜が死ぬことは草原に住むものたちにとっては大問題です。だから遊牧民の間には、ああいう歌が代々歌い継がれているんだそうですよ」
「それ、本当の話か…?」
まっ黒な瞳が『だまされないぞ』と言ってるようで、桂花の口元がほころぶ。
「吾も初めて聞いたときには信じられませんでした。でも、本当に、雌の羊にあの歌を聞かせると、不思議と他の仔にも乳を飲ませてやるようになるんですよ」
そう言われて羊たちのほうに目をやれば、かの歌を歌う老婆の近くで、それまで乳をねだろうとする子羊を嫌がり暴れていた一匹の羊が、徐々に大人しくなり子羊に乳を飲ませだした。
「本当の親子じゃないのか?」
「ええ」
事の成り行きを見ながら、桂花はそう答える。
「羊だけか?」
「いいえ。牛や駱駝や山羊の歌などもあって、それぞれに違う歌なのだとか」
「すごいな」
「ええ、本当に」
「人間には、ないのか…?」
「人には、こうやって思いを伝え合う術がありますから」
子供の問いに、言外に人には必要ないことだろうことを伝える。
「歌がなくとも、口で言って頼めば、たいていの母親は嫌がらずに引き受けてくれるのでは?」
「いやがらずに…」
つぶやくように紡がれた小さな声に、桂花は自分の迂闊さを呪った。
他の子どころか、実の子であるカイシャンへのダギ妃の仕打ちに、今更ながら胸がきしむ。
「人間にも、あればいいのにな……」
「……カイシャン様」
柢王ではない人の子に、深くかかわるつもりも情を注ぐつもりもない。
それでも、いまこの子供の心を占めているだろう実の母への思慕を思えば、思い切り抱きしめてやりたい衝動にかられる。
「俺、馬に乗ってくる」
「お待ち下さい。すぐにバヤン殿も戻りますから、遠乗りならそのあとで……カイシャン様!」
言うが早いか、カイシャンは柵に繋いであった馬に声をかけ手綱を取ると、勢いよくまたがり駆けて行った。すぐに供の者が後を追う姿が桂花の目に映り、カイシャンへと伸ばした指先を握りこむ。
(……抱いて、あやして、そんなのはただの自己満足だ)
一時の哀情は、誰の為にもならない、なにも…救ってはくれない。
ましてや、あの子が求めているのは、母親の『代わり』ではなく、『母』自身なのだ。
(吾があなたを…今でもあなた自身を求めているように……)
……過去も未来も、自分が辿ることを決めた道が決して正しいばかりだとは思っていない。
手探りで進む道。真っ暗で怖くて…孤独に慣れた頃、手を引いてくれる誰かが現れて、ともに歩こうとした途端…いつも置いていかれた。そのたび、どうすればいいのか分からなくなった。分からないまま、その影を追って……。
指針となる誰かがいれば、支えとなる誰かがいれば、ぶれずにまっすぐ進めただろうか。
「……最近の吾は迷ってばかり、分からないことばかりだよ、柢王」
でも今ひとつだけ今の自分にも分かることがあった。
あの子に必要なのは、母の代わりではないということ。
あの子の心を癒したいなら、母の代わりでは駄目だということ。
母以上の存在でなければ、母以上の想いでなければ、あの子を抱いてやってはいけない。迷いのある自分では、カイシャン以外のものに心を砕く自分では、駄目なのだ。
なにより自分は、本来カイシャンのそばに在ってはならない存在なのだから……。
夕焼けに染まりだした草原に、風がそよぎ青草がオレンジ色に光る。
カイシャンを乗せた馬が駆けた後の土埃を見ながら、拳に力をこめて握り締める。
(吾は、ここに在ってはならないもの……)
いまだ自分を引きとめ戒める術があることに、桂花は少し安堵していた。
(終)
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