投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ガッシャーン!!
と、大きな音がしたのに続けて、アシュレイの、この世のものとは思われない声が響き渡った。
「アシュレイッ!」
玄関にいたティアは顔色変えて、廊下を走った。息を切らせて台所へと飛び込む。
「アシュレイ、どうしたのっ?」
暖簾払いのけて叫んだティアの前には、床に砕けた大皿に飛び散った野菜、それに金色に輝くから揚げをぼうぜんと見つめ、へたり込んでいるアシュレイの姿だ。
「アシュレイッ! 大丈夫、けがしてないっ?」
アシュレイの側に膝をつき、その肩をゆさぶるティアの視界の向こうで、オブザーバーたちも声も出ないで瞳を見開いている。
一瞬のことだった。ティアの帰宅に勢いよく振り向いたアシュレイの手に持っていた菜箸がから揚げ載せた皿のふちにぶつかって、あっという間に皿は床に落ちて砕け、せっかくできたから揚げは飛び散ったのだ。
「ねぇ、アシュレイ、しっかりして! けがしてない?」
尋ねるティアに、アシュレイはぼうぜんとしながら、
「……っかく──」
ふいに、焦点の戻った赤い瞳が揺れて、
「……せっかく、俺…おまえに、から揚げ、うまくできたから……」
呟いたアシュレイの声が、悲鳴のように高くなる。
「俺っ、今日は、ちゃんとできたから──今日は、ほんとにちゃんとできたから……おまえが、恥ずかしくないように、今日はちゃんとできたのに……──なのにっ、なのに最後にこんななんて……俺なんかやっぱりだめなんだーーーっ!」
うわあぁっと床に突っ伏したアシュレイにティアはあぜんと目を見張る。
「アシュレイ、アシュレイ、ねえ、顔上げて。危ないから、ね、落ち着いて!」
「お、落ち着いてなんかいられるかっ……せっかく、せっかく作ったのに──やっと、ちゃんとできたのに……俺なんか最低だっ! 飯もまともに作れないっ、役立たずな嫁なんだっ!」
丸くなった背中が震えて、くやしい悲しいくやしい──叩きつけて叫ぶよりはるかによくわかる。ドアの向こうで桂花も涙目だ。団地の部屋の壁紙すすけるくらいにあんなにがんばったのに……!
「アシュレイ──」
ティアはつぶやき、そして、息をついた。震えている赤い髪に手を当てると、優しい声で、
「そんなことない。私は世界一の奥さんをもらったって、いま改めて思ったよ」
アシュレイが涙声で、嘘つけっ、と叫ぶ。うずくまったまま、
「そんな、気休め聞きたいんじゃないっ、俺は、俺はおまえにほんとに……ほんとに──」
こんな嫁を選んだとティアが笑われることがないように、ティアが恥ずかしくないように──と。
声に出さない気持ちを感じ取ったように、ティアは微笑んだ。きれいな顔に、まぶしいものでも見るような笑みが浮かんで、
「気休めなんか、君には言わないよ。君はいつでもストレートに来るんだから、私が遠慮してたらいつも負けっぱなしだろ? 私はいつも君と出会えたことを幸せだと思ってる。君が本気で笑ったり怒ったりする姿を見ていると、私も心から曇りがなくなるような気がする。そこそこに幸せ、なんてないんだって、君と出会ってからわかったよ。君といると私は幸せだ。だから、君のことを恥ずかしいなんて絶対に思わないよ」
静かだが、優しい言葉に、アシュレイの震える背中がかすかに動く。それでも、まだ涙声で、
「……嘘、つけ──」
「嘘じゃないよ」
「……飯もまともに作れなくてもか?」
「君の作るご飯はいつもおいしいよ」
「そんなの嘘だ。それに他の家事だって俺、母さんや桂花みたいにちゃんとできないし、おまえの嫁らしいことなんかなんにもできないじゃないか」
「そんなこと言うなら私だって、どこが君の亭主らしいの? それに──」
ティアは微笑むと、言った。
「君は私の大切な人なんだから、自分のこと役に立たないなんて言わないで。それは君自身にも、私にも失礼だよ」
「──ティア……!」
アシュレイが、驚いたように顔を上げる。濡れた瞳が、目の前に、優しく微笑んでいる瞳を見つめる。ティアはそれにとろけそうな笑顔を見せて、
「君が好きなんだよ。君は私の宝物なんだからね」
「……ティア──」
「──おまえたち、せっかく盛り上がっているところを何だが」
と、ふいに背後から聞こえた声に、ふたりは飛び上がった。あわてて振り向くと、そこには暖簾かきわけ、こちらを見ている部長の、面白そうな、やれやれと言いたげな、ふしぎな笑顔。あっ、と叫んで立ち上がったふたりに、
「あわて者のツガイはあわて者、客を置き去りにして消えるとは、ティアランディア、おまえも子ザルといい勝負だな」
「す、すみません、部長。あわてていて、つい──」
「それに子ザルも子ザルだ。聞いていれば飯も作れないだめな嫁だとかなんだとか、それは一体誰に対する礼儀だのつもりだ? 私は子ザルの元気な顔を見に来ただけだぞ。歓迎する気があるなら、客は笑顔で迎えるものだ」
言われて、アシュレイが真っ赤になる。あわてて、すみませんっと頭を下げかけ、
「ティ、ティアっ、靴っ!」
「あっ!」
ティアも自分の足元を見て、目を見張る。部長が笑いながら首を振り、
「見るといい、子ザル。ティアランディアは会社では実に有能だが、子ザルのことでは考えられないことだってする。おまえたちは似合いの夫婦ではないか」
「……部長──」
アシュレイの瞳が、悔し涙でなく、潤む。
「アシュレイ、ここは私が片付けるから、君は部長を案内して」
「でも──」
「夫婦なのだからするということは任せればいい。それに、ティアランディアは靴を脱がなくてはならないからな」
と、からかうように笑った部長に、アシュレイは目を見張る。その笑みと、そして、この上なく優しく微笑んでいるティアの顔を見比べると、
「──はいっ!」
元気いっぱい、笑って頷いた。
廊下を行くアシュレイと部長の、
「でも、部長、その子ザルはやめてください」
「では赤ザルか? それとも赤毛ザル?」
「って、なんでそんなにサルっ?」
うっきーっと怒る声と笑い声を聞きながら、ティアはホッと息をついて、靴を脱いだ。勝手口にそれを出そうとして──見守っていたオブザーバーたちに気づく。
「カッコイイ亭主じゃん。あんなの素面じゃなかなか言えねぇよな。尊敬したぜ」
目が合った柢王が笑って言う。ティアはそれに心からの笑みを見せて、
「ありがとう」
言った言葉に、桂花は潤んだ瞳で頷き、三河屋さんはちょっと複雑な、だが優しい顔で微笑んだ。かれらが去って行くのを見送って、台所を片付けながら、
「君に秘密がまたできちゃったね──」
特訓に気づかないふりをしたこと+本当は見守ってくれる人たちがいたこと。
「でもそれは、いい秘密、だよね」
ティアはにっこり微笑んで、廊下を急ぎ足でアシュレイたちのいる部屋へと向かったのだった。
店に電話したら、アランからこてんぱんに怒られたナセルがあわてて配達に戻るのと別れて、桂花たちは家に向かってぽかぽか陽気の道を歩いていた。
ため息をついた桂花に、柢王が笑って、
「おまえも安心したよな。お疲れさん」
眠ってしまった冰玉をよいしょ、と肩先に担ぎ上げ、もう一方の手を桂花に差し出す。桂花はちょっと頬を赤くしながらもその手に手を載せた。
「料理はなんでしたけれど、部長さんには可愛がってもらっているようですし、うまくいったと思っていいですよね」
言うのに、柢王がバーカ、と笑う。
「うまくいくいかねぇが問題じゃねぇよ。自分の嫁さんが、自分や自分の客のために一生懸命になってくれてんのが嬉しいの。出来不出来じゃなくて、そういう、人のために尽くせる姿に、部長だってティアのこと、いい嫁もらったなって思ったんだよ」
それに、俺もな、といたずらっぽくウインク寄越す亭主の顔を、桂花は瞳を見開いて見上げる。
ハメを外させれば向かうところ敵なしの能天気な亭主、なのだが──桂花が育児に疲れてうとうとしていたりする時には、そっとブランケットをかけて、皿洗いしてくれていたり。休みの日には子守りを引き受けて『おまえもたまには気晴らししてこいよ』と笑顔で送り出してくれる。
忙しく見えても、本当に大切なことは、ちゃんとみていてくれている。ティアも、きっとそうなのだろう。
桂花は微笑んだ。片手に冰玉、片手に桂花。仕事でふさがっていない時には、その手はちゃんと自分たちのものなのだ。
そっと、よりそってみた桂花に、
「ん? なに、うちの旦那は世界一だなぁって思ってる?」
亭主はふざけたようにいいながら、その手を肩にまわしてしっかり引き寄せる。桂花は笑い、
「うちの旦那様はうぬぼれが強い楽天家だなぁ、なんて思っていました」
優しい瞳で見上げると、世界一男前な亭主は笑いながら肩をすくめ、
「んっと、そういうとこすなおじゃねぇもんな。ま、冰玉も朝まで起きないだろうし、今夜は久々ゆっくり話でもしようぜ」
ベッドのなかで、さ。ささやいた亭主の手の甲を軽くつねりながら、桂花は幸せそうな笑顔で小さく頷いた。
*
「なぁんだ、お姉ちゃんって、ほんとに大雑把なんだから」
呆れたようなネフロニカの言葉に、隣にいたパウセルグリンが首を振って、
「そんなこと言ってはいけないよ、ネフィ。人にはそれぞれ得手不得手があるんだからね」
無人島に行った家族が戻ってきた夕食の席───居間のちゃぶ台囲んで、アシュレイはようやくみんなに事情を打ち明けた。
仲人が来るのに黙っていて、叱られるかと思ったが、父さんも母さんも、熱烈バトルで消耗したのか静かに微笑むだけでなにも言わなかった。失敗話にはあきれたものの、小学生にしてその流し目とミニスカひらりで男子学童のアイドルである妹は人のいるところに戻れたのが嬉しいのか、機嫌は悪くない。
「それでお姉ちゃん、出前取ったの?」
尋ねるのに、ティアが代わって、
「材料に余分があったからね。もう一度作ったんだよ。その間、部長も台所で様子を見ていらしたんだ」
「まあ、部長さんが台所に?」
と、グラインダーズが目を見張る。ティアは笑って、
「たっての希望でしたから。それに、私もここの台所は好きです。アシュレイやお義母さんのあたたかさが伝わるような気がして」
その台所でリトライされたから揚げを口に入れた部長は、とことんこなれた大人だ、なるほど、と頷いて結婚式の話を始め、自然にから揚げのことは話題から完全削除した。
「まあ、おまえもこれからはもっとまじめに家事に励むことだ。母さんを見習いなさい」
と、まじめすぎてたまに自分が何言ってるのかわかってない山凍父さんが重々しく頷くのに、
「父さん、姉さんには姉さんのやり方がありますよ」
頭切れて冷静沈着、時に父さんよりしっかりした弟が静かに釘を刺す。アシュレイを除く女性たちがうんうん頷くのに、父さんはなぜとわからず狼狽。
その姿に、ティアは微笑んだ。みんなわかっていて、でも、アシュレイのやりたいように気づかないふりをした。
(ほんとに君と出会ってよかった──)
アシュレイはもちろん、あたたかな家族やいとこ夫婦、見守ってくれる近所の人たちのなかに入ることができて、本当に自分は幸せだ。微笑みながら、
「お義母さんは才色兼備ですから、アシュレイもいずれ似てくるかも知れません。でも、私はなにより、アシュレイがアシュレイらしくいてくれるのが一番嬉しいんです」
「ティア──」
「ただ、けがには気をつけてね。そのことだけが心配だから」
言ったティアに、アシュレイは頷いて、
「明日、部長に会ったら、今度来るときには最初からちゃんともてなすから──笑顔で、って言っといてくれるか」
「うん、わかった」
と、ティアも微笑み、和やかな空気に包まれ、意味なく笑い始めた一家の台所。散歩から帰ってきた猫のタマが明日の父さんの弁当のために残しておいたから揚げを一口かじり、どっ、と調理台から転げ落ちたのを見たものはいない。
ともあれ──アルペジオの終わりはいつも、完全な和音だ。
「子ザルとは連絡がついたか」
ロビーから戻ってきたティアに、部長が尋ねる。ティアは微笑んで答えた。
「おいでを楽しみにしているそうですよ」
と──賑わう見本市会場、少し先に見える取引先の社員に目礼しながら、
「それはありがたいが、無理をして家を燃やしていては話にならないぞ」
笑うアウスレーゼ部長はティアの直属上司で、仲人。当然ながら、アシュレイの性格も料理の腕もご存知で、勝手に『子ザル』とあだなつけ、自宅には仲人のお願いの時にアシュレイが持参した手作りクッキーを『百年経ったら固形燃料』と銘打ち飾っている、超然とした大人だ。
そんな上司にティアはにっこり笑って、
「今回は特訓したみたいですから。それに料理は火が通っていたほうがおいしいですよ」
愛があれば石炭もウェルダン。
「好きだ、可愛いで続くのは少しの間だけだぞ。後はお互い、片目瞑って、片耳塞いでおくぐらいが長持ちの秘訣だよ」
「それは仲人の言葉ではありませんよ、部長」
と、顔を見合わせたふたりは笑いあった。
勝気な奥さんとフランクに円満保っている部長の言葉は、こなれた大人のもので、ティアにも、まあそうかもしれないという気もしなくはないが、
(私はアシュレイのことならなんでも見ていたいけれどな……)
たとえば、この数日いつも絆創膏が絶えないこととか、時に前髪焦げていたりすることとか。昼間は『買い物』と称して出て行くが、なかなか戻らず、しかも買い物籠は空のまま。近所の人に桂花さんの住む団地付近で目撃されていたりすれば、何をしているかくらいはわかる。
お義母さんも仕方のない顔で笑って言っていた。
『あの子はこうと思ったら絶対に聞きませんから』
(ほんとに君は一途な人なんだよね──)
あの見合いパーティーの時だって、アシュレイは他の女性たちのように着飾ったもの欲しげな様子は少しもなくて、着心地のよさそうな服を着て、おいしそうに肉にかじりついていた。心からのその笑顔。見ているこちらまで嬉しくなった。
知り合ってみればワイルドであわてんぼうなところもあるが、いつでも一心、笑う時も怒る時も本気なアシュレイの側にいるとのびのびとした気持ちになれる。
そのアシュレイが自分のためにがんばってくれる、その気持ちが本当に嬉しいから、秘密のつもりの特訓に気づいたそぶりは見せないが、けがをするのは心配だ。さっき30分後には帰るよと知らせるついでのように確認したが、今日はやはりひとりだった。
(気をつけてよ、アシュレイ──)
宙にまなざしを向けたティアに、上司は笑って、
「タイム・リミット目前──さて、子ザルがどんなもてなしをしてくれるか、楽しみだな」
*
「うわあああああーーーーーっ」
狭い台所に叫び声が響き渡る。勝手口の戸のかげから伺っていたナセルの顔が青ざめる。
せっかくレシピ通りにまぜた調味料を流しにひっくり返し、アシュレイの、ボール拾う手が小刻みに震え、一瞬、ルビー色の瞳が泣くかと思われた。
がっ、新米妻はキッ、とまなざしを上げると空に向かい、
「もう一回混ぜればいいだけだ! よし、やるぞっ」
気合を入れ直して、もう一度調味料をカップに入れる。ナセルもホッと息をつく。
『まだ配達あるんだろ? 気をつけて行けよ』
白いフリルの肩越し、振り向いたアシュレイにそう言われたナセルが去らなかったのは、なにもその可憐なショットが煩悩ストライクだったからではない。
いや、それも七割あるが、残りの八割はやはり心配だからだ。七日連続以下同文に加え、昨日、御用聞きに来た時、アシュレイの母親であるグラインダーズさんからさりげなく『明日もお願いしますね』と頼まれたことから言っても、ここはきちんと見届けないと。
と自分に言い訳し、仕事はアランにテレパシーで任せて見守っているのだが、当のアシュレイはドアが開いていることも気づかないほど料理に熱中していた。
今日のごはんは『鳥手羽先のから揚げ甘酢あんかけ。野菜も添付できるし、卵スープはおこげ入れたら雑炊風にもなりますお客様』だ。
基本調味料混ぜるのと火を通すだけの簡単作業だが、それなりに見えるお得ごはん。しかもあんかけだから、から揚げが若干冷めても大丈夫の時間差攻撃。冷蔵庫には万一に備え手羽二号たちも待機しているし、レシピは桂花さんの手書きで作業工程込み。万事抜かりなし、と、人の家の台所事情を必要以上に知る御用聞きは頷く。
流しの横の狭い調理台の上のバットには実にランダムに並べた鳥手羽がすでに塩コショウされている。さっきの失敗に懲りて
ボールをしっかり抱えた新妻は、真剣な顔でそのなかに確実に材料を入れていく。酢、大量。黒酢、大量。砂糖、大匙3…
え? と、驚く三河屋さんの前で、新妻も眉間に皺寄せながら、
「こんなに入れたっけ? でもこれそう書いてあるよな?」
怪訝そうにかざすレシピはさっきこぼれた調味料で字がにじみ、mlのmが消えている。リットルですか、酢ーーーっ! 甘酢じゃなくてほぼ純粋ブレンド酢でしょそれーーーーっ!!
心で叫ぶ三河屋さんをよそに、新妻はがしゃこがしゃこ、ボールの中身をかき混ぜる。たちまち漂う殺菌効果抜群の香りに三河屋さんが咳き込みかけ、あわてて口押さえたところへ──
「アシュレイさん、おらんかのーっ」
「あ、裏のおじいさんだ」
聞こえたしわがれた声に、アシュレイは慎重にボールを置くと、手を拭きながら玄関へ向かった。
その隙に、ナセルはパッと靴脱ぎ、台所に飛び込むと、砂糖と塩の容器から中身掴んでボールに放り込む。がしゃがしゃ混ぜて、すばやく味見、
「とりあえず酢じゃないっ!」
ボールを戻し、急いで外へ。
『おおう、アシュレイさん、回覧板じゃ。今回は特売のすっぽんエキスが出ておるぞ!』
『すっぽん? でもうち両親がそういうのはいっぱい持ってるから──』
『おお、そうじゃった、ご両親もまだまだ現役じゃからのぉ、アシュレイさんたちも負けられんのぉ』
玄関から聞こえるのんきな会話とは裏腹、三河屋さんは心臓バクバク。見守っていた方が寿命縮むのに、愛の力で現状否認。深呼吸するその肩が、ふいにポンと叩かれる。
「ナセルじゃんか、何してんだ?」
「あ、柢王さん、桂花さん──」
と、疑惑の四ヶ月くんもパパにだっこ。原因と結果の揃い踏み。
挨拶そこそこ、
「うまくいっていますか?」
「つかなんか催涙弾みたいな匂いするけど、大丈夫か、この家?」
尋ねるふたりに説明するより先に、アシュレイのスリッパの音がして、一同はあわててドアの影に隠れた。
「ったくもー、この忙しいのに何なんだ、すっぽんすっぽんって、そんなにすっぽん体にいいなら飲んで長生きすればいいだろっ」
と、入って来たアシュレイは、さて、と気を取り直したように、くだんのボールに向き直る。箸の先でその中身をちょんとつついて、手の甲にのせてペロッ。
「うん、いい味だ」
にっこりと頷くのに、ナセルがよろめく。
(なに? ナセル、よだれ出そうな顔してるけどそんなにうまいのあれ?)
(なにかが違う気がしますけど……)
目で会話する夫婦の隣で三河屋さんは、可愛い赤毛の新妻がフリルエプロン、から揚げ差し出し、『はい、あーんっ』する場面を妄想中。独身男の妄想力は無限大。
が、その妄想も、新米妻が再び別のボール取り出した瞬間に消える。今度のレシピはにじんでいない。書かれた通りに材料をきちんと計り、スープを作るアシュレイに、桂花がドアの影からうんうんと頷く。
今度は卵を別のボールに割って──ガシャ!
『あ……』
砕けた卵で手のひら黄色にして、新米妻の瞳が潤んだように思われる。でも、再びキッと瞳を上げて、手を洗うと冷蔵庫に向かういじらしい背中に、見守るナセルはくらくら。桂花は両手揉み絞ってハラハラ、赤ん坊はパパの肩口よだれダラダラ。
ともあれ、今度は卵が割れた。見守る一同安堵の吐息。アシュレイもホッとした顔で頷くと、卵を溶き、鍋にスープを移し、火を点ける。
「弱火だよな。それで次は、酢を一回あっためといて──」
大鍋に移される酢の量に桂花が目を見張る。鋭く振り向いたのに、ナセルが、
「いや、それがかくかくしかじか……」
説明する間にも、アシュレイは、水溶き片栗粉を作り、スープをとった戻しホタテやネギを刻んだり、皿に野菜を敷いたりとこまめに働く。エプロンのすそがひらひらして、三河屋さんがくらくらするのとは裏腹、ひとつずつ作業を終えてゆく。
「なんだ、あいつ結構やるじゃん」
意外そうに囁いた柢王に、桂花は微笑み、
「がんばりましたからね」
「みたいだな。つか、ま、俺の桂花が先生だもんな。なぁ、冰玉ぅ?」
「ばぶぅ」
「もう、口ばっかりの癖に。ねぇ、冰玉ぅ?」
「ばっぶぅ」
どっちなんですか四ヶ月くん? つっこめない独り者は黙って監視続行。
大鍋いっぱいの酢に大匙3杯の水溶き片栗粉を加え、
「これをとろ火にしてる間に、揚げるんだよな」
揚げ物鍋を火にかけるアシュレイに、いや、その酢は朝まで煮ないととろみつかないからと首を振る。それに気づいた柢王が笑って、
「親切な応援団のために、俺も手伝うかな」
と、冰玉片手に抱えたまま携帯電話取り出すと、少し離れたところから電話をかけた。リーンと家の中で電話の音がして、
「誰だよ、いいところなのにっ」
アシュレイがバタバタ出て行く音。
「おう、アシュレイか。忙しいとこわるいんだけどさ。ちょっと冰玉がおまえの声が聞きたいって言ってんだよ。なぁ、冰玉?」
と、柢王が携帯電話差し出すと、なんと齢四ヶ月の赤ん坊は、
「ばぶばぶぅ」
そんな口八町親子にだまされたアシュレイの、
『冰玉か。どうしたんだ?』
優しい声が廊下から届くのを聞きながら、ナセルと桂花は台所に飛び込み、
「片栗粉ってどのくらい溶くんですか、桂花さんっ」
「その袋全部をこの水で! あっ、油かけたまま火の側離れちゃだめって言ったのに!」
速攻溶いた片栗粉を入れ、揚げ物鍋の火を消し、急いで外へ出る。
再び一同ドアの影で見守り体制。電話切って戻ってきたアシュレイは微笑みながら、
「それにしても、冰玉はまだ『ばぶぅ』しか言わないのに、よく俺と話したがってるとかわかるな、柢王。やっぱ父親だからかな。ティアもそのうち……」
言いかけ、耳まで真っ赤。三河屋さんはやや蒼白。わかっていても知りたくないことはあるものだ。
ともあれ、何も気づかない人妻は、再び揚げ物鍋に火をつけ、いよいよから揚げだ。
「油がころころ音を立て始めたら少し火を弱める、んだよな」
七日自分に言い聞かせた言葉を繰り返す。その姿に、桂花が何度も頷く。
油が熱される音がし始め、アシュレイは火を弱め、菜箸の先をつける。頷いて、
「よし、行くぞ」
手羽一号をひとつ、取り上げて、ジュッ! カラカラ乾いた音が響く。真剣な顔で鍋を見つめるアシュレイ。そのアシュレイを真剣に見つめるナセルと桂花。そのふたりの姿を面白そうに見る柢王とよだれ垂らす赤ん坊。
「う…わっ、できたーっ!!」
アシュレイが瞳を輝かせた。頬を上気させ、見つめる箸の先には、奇跡のようにこんがりと黄金色に揚げられた手羽一号の姿!
「アシュレイさん……!」
ナセルと桂花も瞳を見開き、その光り輝くから揚げを見つめる。
まるで錬金術でも見るように──そっとキッチンペーパーに載せられた一号を皮切りに、アシュレイが狂喜しながら鍋に入れていく手羽は次々と金色に揚がってゆく。
「よかったぁぁ……」
アシュレイが微笑む。泣き笑いしそうな笑顔だ。それを見守る桂花の瞳もうるうるして、いったい、から揚げごときで人はかくも感動するものか。
ともあれ、嬉しさに瞳潤ませたアシュレイが、最大限の丁寧さでから揚げを皿に盛りつけた時、ガラッと引き戸のあく音がして、
「アシュレイ、戻ったよ!」
「あ、ティアだ!」
アシュレイが嬉しそうに身を翻した瞬間──
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