投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
桂花は採取したばかりの薬草を家の裏の泉で洗っていた。
自家用でもあるが、商売用の方が多くなった。それというのも金使いの荒い王子様のおかげである。軍の給料は充分良いにも関わらず、それだけではやっていけないくらいには使ってくれるのだから恐れ入る。「本当にお前って働き者だよなー」と呑気たらしく言う顔面を思いっきり張り倒したこともあるのだが、そんなもので反省してくれるような可愛い性格ではない。
というわけで桂花は今日もせっせと生活費のために薬作りに精を出している。
洗った薬草を籠に入れると裏口から家へ入った。濡れた手を拭こうとした時、ふと指輪をしていないことに気が付いた。籠を机に置くと、急いで泉へと引き返し、さっき自分がいた辺りの草を丹念に掻き分けたが見当たらない。泉の周辺は桂花によってきれいに手入れされているのですっきりしている。あればすぐに見つけることができる。しかし、まろやかな金色の光を放つ、上品で華奢なデザインの指輪はどこにもなかった。薬草を干したら夕飯の支度に取り掛かろうと思っていたのに、それどころではない。
桂花は着替えると慌しく戸締りをして外へ出た。
四国随一の繁華街である花街。
メインストリートを最近、花街でちょっと有名な青年が急ぎ足で歩いていた。
白い肌、流れるような黒髪。そこらの役者よりもはるかに美形だが、意外にも薬師である。しかも薬師としての腕もさることながら腕っぷしも強い。
道行く女性達は色めきたち、顔見知りからは次々と挨拶の声がかかる。夢竜という青年はそれに軽く挨拶を返しながら道を進んでいく。こんなにも有名なのだが、街を出た後の彼について知る人は誰もいない。しかし「花街・花の男衆」の筆頭で、警備総司令官であり、さらに領主の三男である柢王元帥が古い友人だと言うので取り立てて不審を抱く者はいなかった。
さて、夢竜は彼の薬を扱っている店のうちの一軒である茶屋へ入っていった。ここでは酔止めや胃薬を置いてもらっている。暖簾をくぐると算盤を弾いていた女将が顔を上げた。
「おや、夢竜さん」
夢竜は挨拶もそこそこに切り出した。
「女将、吾が昼間、薬を卸した時に指輪を落としていかなかっただろうか?金色の」
「指輪?見ていないけどねぇ」
女将は従業員達を振り返るが皆、首を横に振った。
女将は眉を上げた。
「良い人からのプレゼントかい?」
「いや、形見なんだ、母の」
「そりゃあ、大変だ」
女将は気遣わしそうな表情で見つかったら声を掛けると約束をしてくれた。夢竜は礼を言って外へ出た。
「ここではないか・・・」
暖簾を背に桂花は呟いた。
『これ、やるよ』
そう言いながら指に嵌めてくれた。口調は軽く、でもとても大事そうに手を取って。そして柢王は中指に収まった指輪の上から愛しそうに紫微色の指を撫でた。
桂花は「夢竜」の淡い褐色の指を、大切な記憶をなぞるようにそっと撫でた。
柢王からもらった物達で、桂花にとってどうでも良い物など一つもなかった。愛しい記憶が詰まっているものばかりだから、一つも失くしたくはなかった。
必ず見つけなければ。今日寄った店には全て行ってみよう。
桂花は、今は漆黒の髪を背に払うと通りへ出た。
すると
「あら、ごめんなさい」
話しに花を咲かせながらそぞろ歩いていた若い芸妓達の1人と肩がぶつかってしまった。
「いや、こちらこそ」
桂花は軽く会釈を返すと、再び歩き出した。背後では
「きゃー、夢竜さんよ、夢竜さん!」
「すっごい近くで見ちゃった」
「素敵よねー」
彼女達のはしゃぐ声が響いていた。
指輪のことで頭が一杯であった桂花の耳に、彼女達の他愛ない話し声が飛び込んできてしまったのは、話題が自分の恋人のことであったからかもしれない。とにかくそれが意識の間を縫うように届いてしまった。
「そう、それでさっきの続きなんだけど。この街に柢王様の子がいるらしいわよー」
「えぇ、本当に!?」
「芸妓が生んだ子なんだって」
思わず桂花の足が止まった。振り向く衝動を何とか堪えたが、足は前へは動かなかった。指輪から、意識は完全に彼女達の話しの方へと移ってしまっていた。気が付くと桂花は木の陰へ寄っていた。
芸子達は桂花のいる木の側で立ち止まって話しを始めた。
「じゃあ、その子供は王族の血を引いているってわけね」
興奮気味な1人に向かって、もう1人が呆れたように言った。
「でも芸妓の子じゃ仕方ないわよ。所詮、身分違いじゃない」
「そうよー。そんなもの一夜の夢に過ぎないわよね。こんな所じゃよくある話しだもの。期待する方が馬鹿なのよ。それくらい分からなきゃ」
「まぁね。じゃないと惨めなだけよね」
身分違い・・・。一夜の夢・・・。惨め・・・。
彼女達の無邪気な声の一つ一つが桂花の胸に突き刺さる。
まるで自分のことを言われているように思えた。
桂花はゆっくりと息を吐き出した。
あの人の足だけは引っ張りたくない。そうするにはどうすれば良いかをいつも考えていたが、とんだ欺瞞だ。最良の方法を知っているのに、それを無視して必死に頑張ってきた自分はなんて滑稽なんだろう。
噂の的になっている、顔も知らない芸妓を思った。彼女はどうしているだろう。王族で、元帥で、花街の花形である男の子供を産んだことに有頂天になっているのだろうか。それとも現実を思い、一人で惨めさを噛み締めているのだろうか。
身分違いの恋なんて、幸せだと思えてもそんなものは一夜の夢。
眠りにしがみ付いたところで夢は必ず終る。
ちゃんと分かっていたはずなのに、柢王との時間があまりにも幸せだったから。
けれど朝は必ずやって来る。
朝日は隈なく、残酷なほどに全てを明らかにする。
柢王を幸せにする方法はとんでもなく、簡単なことなのに。
それをしなかったのは、彼のことを1番に考えているフリをしながら、実は自分の幸せのことしか考えていなかったからなのだ。
― 吾は柢王の人生を台無しにするところだった・・・。
桂花は唇に苦い笑みを刻んだ。
「愛」を言い訳に1番大切なものを壊してしまうところだったのだから、そのきっかけを与えてくれた芸妓の親子には感謝すべきなのかもしれない。
『あなた、芸妓に子供を産ませたそうですね。吾はそんな男と一緒に生きることはできません』。
あの人だって何も言えまい。まぁ、王族の子供ならその霊力で真偽はすぐに分かるが。しかし今の桂花にとってその子供のことはどうでも良かった。願わくは柢王がその子供を認知して親子で幸せに暮らすという展開はやめてほしいけれど。しかし、そんなことを願う資格は自分にはないのかもしれない。
いつの間にか若い芸妓達の姿は消えていて、夢竜の姿をした桂花は1人木に凭れていた。
「吾は大丈夫だ。もともと1人で生きてきたんだ」
以前、柢王に言った言葉を呟いた。
嘘じゃない。本当だ。1人には慣れている。
あの指輪だって、簡単に失くしてしまうのだからもしかしたら自分が思うほど、思い入れはなかったのかもしれないし。
無理矢理そんな言葉を引っ張り出してみて、無理矢理頷いた。
本当に納得しているのか?という心の声は、納得する、しないの次元ではないという言葉で塞いだ。
平気だ―、平気だ―。
溢れ出しそうな感情を塗り潰すように心の中で繰り返しながら桂花は木から離れ、花街の門へと歩き出した。
もう、指輪を探す必要はなかった。
家に戻ると桂花は夕飯の支度を始めた。話しは夕飯の後にしようと思った。腹が減っているとあの人は冷静に聞いてくれないだろう、という自分でも馬鹿馬鹿しいような理由で夕飯の支度をしている。いや、食事を作っておいてから仕度をしよう、そしてあの人が帰ってくる前に出て行けばよい、何を未練がましく先延ばしにしようとしているのだ、今すぐ手を止めて、荷物を纏めるべきだ ―。心の中で錯綜する声とは裏腹に、紫微色の手は手際よく料理していた。
その時、桂花の横を爽やかな風が通り抜けた。
同時に長くて剛い腕が桂花の細い身体をギュッと抱きしめた。
「いい匂いだな。今日の晩飯は何だ?」
呑気な声が顔のすぐ横から聞こえて、頬を黒髪がくすぐった。
柢王が桂花の肩に顎を乗せて、鍋の中を覗きこんでいた。
「ただいま、桂花」
振り向いた桂花の唇を柢王は軽く啄ばんだ。
「・・・おかえりなさい」
桂花が返事をすると、恋人は嬉しそうに笑った。そんな顔を見ると決意が揺らぐ。やっぱりやめよう、と思いかけた時、「惨めなだけよ」という芸妓の華やかな声が甦ってきた。
「柢王」
「ん?」
首を傾げた柢王と視線が真っ直ぐぶつかった時、桂花の唇から零れたのは、家路の途中で散々考えてきた、どの言葉でもなかった。
「あの指輪、失くしてしまったんです、あなたがくれた」
なぜ、と思った時はもう遅かった。柢王は目を丸くしている。
「だから・・・」
桂花は自分の服をギュッと掴んだ。予定外のことを先に言ってしまったがまだ間に合う。
桂花は今度こそ言おうとしたけれど、言葉は何も出てこなかった。用意していた、柢王を切り捨てる言葉は一片も思い出せない。その代わり、涙だけが後から後から溢れてきた。
柢王は桂花を抱き寄せた。
「何、泣いてんだよ、全く」
「泣いて・・・なんか・・・っ」
「馬鹿だな、桂花は」
本当に馬鹿だと思う。あれだけ考えたのに柢王の顔を見た瞬間に全部消し飛んでしまうなんて。
「何を失くしても、また手に入れればいいじゃねーか。俺は何度だってお前に渡す」
そして柢王は桂花の肩を掴んだまま腕を伸ばして顔を覗き込んだ。
「それにそんなに大事にしてくれてたなんて、スゲー嬉しいよ」
「柢王・・・」
さっきとはまた違う感情に桂花の胸が詰まった。
柢王は桂花の髪を優しく撫でた。
泣いている桂花を見て嬉しかった。
自分が与えた物をそこまで大切にしてくれていたこと。そして失うことに慣れたふりをすることが上手くなってしまっていたのに、失くしたことに対して、悲しいと思い、その感情を自分に見せてくれるようになったことが。
宝石のような容姿で甘えるふりをして、相手の心を思いのままに蕩けさせることはあっても、桂花の心はいつも固く凍えていた。
今はまだ、完全とは言えなくても心を預けてくれる程度には信頼してくれるようになったと思ってもいいだろうと柢王は思った。
柢王の手が桂花の頬を包んだ。紫水晶の瞳が真っ直ぐ柢王を見ている。
自分も桂花の全てを見失わないようにずっと傍にいようと思った。
2人の顔がゆっくり近づいた。
―と、その時。
バサバサっという忙しない羽音が優しい静寂を破った。と、同時に冰玉が窓から飛び込んできた。そして桂花の方へ一直線に向かってくる。嘴には光る物がある。よく見るとあの指輪だった。桂花は思わず叫んだ。
「冰玉、どこにあったんだ!?」
冰玉は桂花の肩に止まると、得意げに羽を広げてピィと鳴いた。愛鳥の言うことは何となく分かる飼い主達であったが、残念ながら例外はある。
桂花はさっさと柢王の腕から抜け出ると冰玉を抱きしめた。冰玉も嬉しそうにピッピチュと囀って桂花に小さな頭を摺り寄せた。
良いところで放り出されてしまった柢王は空になった腕と恋人とを見ながら、何だか素直に喜べない気分であった。
アシュレイを帰したちょうど一時間後に帰宅した柢王を、桂花は嬉しそうに出迎えた。
「今日はずいぶん早いですね」
「雹が降るかもな。四海先生が珍しく〆切前に原稿を書き上げてたんだ」
「それは珍しいですね。降りますよ、雹」
何気に失礼な発言をしつつ桂花は夫のカバンと書店の袋を受ける。
「今日、アシュレイ殿がいらしたんですよ。一時間ほど前に帰られましたが」
「なんだ、あいつまた来てたのか」
「えぇ。例のごとく、どら猫を追ってました」
「プッ、それでまた保護してくれたんだな?サンキュ」
柢王は外したネクタイを桂花に渡し、靴下を脱いだ。
「でも、あんまアシュレイを甘やかすなよ。迷子になったって大人なんだからほっといても平気だって」
う〜ん、と伸びをしてシャツを脱ぎながら柢王は風呂場へと向かう。
「ほっといたら何があるかわかりませんよ?今日だって・・・」
言いかけて桂花は口をつぐむ。あの妙な夫婦のことを話して、わざわざ柢王に心配をかけることはないだろう。それに、きっかけを作ってしまったのは自分で、アシュレイのせいではない。
「今日だって?」
「今日だって・・・吾が居合わせなければ、今ごろまだ迷ってましたよ。迷子になったって認める人じゃありませんから、意地になってドツボにはまり続けるのがオチです」
「ハハッ言えてる。で、ティアが必死に探しまわって、それでも見つからないと半べそで俺たちに捜索願い出すんだろ」
「そうです。だから見かけたら即、保護です」
「保護だな」
クスクス笑う妻の肩を抱いて、柢王は自分が風呂に入っているあいだに書店で買ってきた本を見ておくよう、告げた。
「なんの本だか」
先日など、『新妻も喜ぶアノ手コノ手』などというタダレた本を買ってきた夫だ、ろくな物ではないだろう。
しかも、「こんなヌルイのぜんっぜんダメだ!」とかなんとか喚いていたくせに懲りてないらしい。
ため息をついて袋から本を取りだした桂花の動きがとまる。
『二人のカワイイ赤ちゃんのために、最強!幸運!の名付け本』
「・・・なんて・・無駄に長いタイトル」
苦笑しながら桂花はどこかホッとしていた。
もしかしたら、多忙な夫は子供のことなど頭にないのかもしれない、と思っていたから。
「吾との間に子供を望んでくれている・・」
苦笑が微笑に変わり、胸がいっぱいになる。
さっそく読み始めると、画数によって吉凶があるとか漢字の意味だとかが細かく説明されていて、なかなか興味深い。
桂花はいつのまにか夢中になってあちこちのページをめくっていた。
「いい名前つけような」
気づけば柢王が風呂から上がって、冷蔵庫のビールをとっている。
「けっこう面白いですね、この本」
桂花は栞をはさむと柢王のいるダイニングへ向かった。
「俺、いくつか候補にあげてるのがあるんだ」
「吾も・・・実は考えていたのがあるんです。調べてみたら総合で見てもなかなかいいみたい」
桂花は柢王から缶をとりあげると、ひとくち含んですぐに返した。
「吾も子供は欲しいけど・・・でも、もうしばらくはあなたと二人きりの生活を楽しみたい」
甘えたようにもたれかかって来た桂花の体を、柢王はそのまま軽々抱きあげた。
「おまえ逆効果。今すぐにでも懐妊させちまいそー」
「ばか・・」
時計の針が日付を変えるにはまだまだ時間がある。
柢王は久しぶりにたっっっぷりと妻を可愛がることに決めた。
「そう。奥さん、見ちゃったんだ・・驚いたでしょ」
夕食のあとかたづけを早々に済ませ、部屋に引きあげたアシュレイは、今日のできごとをティアに話していた。
氷暉とのことは「聞かなかったこと」決定のため、報告の必要はない。
「あれは大変そうだ。今日だって家にいたってことは欠勤したってことだろ?」
「ふふ、でもサボリじゃないよ?有休。大事な記念日なんだって。あの夫婦はね、大変そうに見えるけどうまくいってるんだ。傍目から見たらそうは思えなくてもね」
夫婦って面白いね。とつぶやいてティアはごろんと横になった。
「私は君と一緒になれて本当に幸せだよ」
にっこりと笑うティアにつられて、「俺も」と素直にアシュレイも頷く。
「結婚してすぐに借りた家のころも、二人きりの幸せはあったけど、大家族の良さを知らなかったもの」
「ごめん・・・あの時、俺のせいで・・・」
「あやまらないで。あの時、君がリス(タマ)を拾ってきて大家さんとケンカしなければこの家には来ていなかっただろう?ここに来て、初めて私は本当の家族にしてもらえた気がする」
「あの大家は頭きたよなー。リス飼うなら出てけって頭ごなしに怒鳴りやがって」
「でもそのおかげで今がある。私は満足だよ」
――――嬉しい。
自分の実家に入ってくれただけでもありがたいというのに、嫌がるどころか幸せだと言ってもらえるなんて。
「ティア、俺ぜったいお前を大事にする」
「アシュレイ・・・私も。君と君の家族を・・今では私の家族でもあるこの家のみんなを護ると誓うよ」
座っているアシュレイの手を握りしめ、心の中でティアはため息をつく。
(早く日曜日にならないかな)
しかし、いざ日曜日になると、今度はだんだん気分が重くなっていくのだ。
子供の頃でさえ、日曜日を特別なものだとは思っていなかった。
同級生たちが口を揃えて「日曜日の夕方は憂鬱になる」と言っていたが、自分にはまったくその気持ちがわからなかった。
なのに今ごろ・・・結婚してから、身にしみてそれがわかるのだ。
明日からまた会社だと思うと憂鬱になる。
アシュレイとずっと家にいたい。それが無理ならポケットかカバンにアシュレイを忍ばせて出勤したい。
四六時中アシュレイといたい。
こんな風に、ティアは結婚してからというもの毎週日曜日の夕方から憂鬱な気分になるのだった。
「?」
横になったまま物思いにふけっていたティアは、手のひらをくすぐられているような感覚を覚え我にかえる。
「なにしてるの?」
声をかけるとアシュレイはパッとその手を離した。
「どうかした?」
「今日さ、桂花に借りた雑誌に手相占いが載ってたんだ。生命線って知ってるか?」
「うん」
「そこが途切れてると・・・・短命だったりするんだって・・」
「うん?」
アシュレイがなにを謂わんとしているのか察することができずにティアは首をかしげた。
「お前の線、途切れてるみたいに見える」
不安そうな瞳を向けるアシュレイに慌てて起き上がったティアは、そっと妻を抱きしめた。
「やだな、大丈夫だよ。私は君を置いていなくなったりしないよ」
「うん・・・」
「それで君、私の生命線を延ばしてくれてたの?」
「こうすれば線が長くなって、長生きできそうだろ?」
再びティアの手をとり、アシュレイはそこをなぞった。
「〜〜〜〜アシュレイ・・・」
感動して涙ぐんだティアが視線を落とすと、アシュレイの指先は見当ちがいな線をなぞっている。
「まいったな・・・・ほんとに君は――――かわいすぎるっ!」
「ぅわっ?!」
後ろにひっくり返ったアシュレイは、それでも後頭部をティアの手に包まれていたので痛くはない。
「ねぇ・・・そろそろ欲しくない?」
「なにを」
「私たちの赤ちゃん」
「赤っ・・」
顔をまっかに染めた妻をひときわ強く抱きしめたティアは、これまたまっかになった耳元で優しくささやいた。
「生まれてくる赤ちゃんは、君似のかわいくて元気いっぱいな子がいいな」
ずっといっしょ。ずっと愛してる。
きっと―――――あしたもいい天気。
「待てぇぇぇ―――っ!」
聞き覚えのある声が近づいてくる。
「この泥棒ドラネコ〜ッ」
どんどんその声が近くなり、角の所で赤い髪が見えたと思った瞬間 、ギニャッと短い悲鳴(?)が聞こえ、太ったネコが塀のうえから桂花の足元に落ちてきた。
「バカめ。性懲りもなく俺の魚を盗んだりするからだ、天誅!!」
カカカと高笑いを決めたのは、桂花の義従妹であるアシュレイ。
「まったく・・・・あなたという人は。たかがネコ相手にどこまで走ってきてるんですか」
「あれ、桂花?ン、どこだ?ここ」
「ハァ・・また迷子になってる。だいたいこのネコに物をとられるの何度目ですか?」
「いちいち数えてねーけど、ぜんぶ取り返してるぜっ」
胸をはるアシュレイに、『取り返すよりも盗られないようにする方が先ではないか』と心中でつぶやく。声に出さないところが桂花の聡いところだ。
「人をナメやがってムカツク猫だぜ」
敵にぶつけた買い物かごを拾い、ブリブリ怒っているアシュレイの横で、伸びているネコのカラーを桂花が確かめる。
「名前と住所が彫ってあります・・・エンマ?これの名でしょうか。こう度々の泥棒はこまりますね。いちど飼い主の方に忠告すべきなのでは?」
「う〜ん」
「この住所からすると、ここからそう遠くはないですね、吾もつき合いますよ」
「ホントかっ?」
嬉しそうに笑ったアシュレイは、買い物かごから出したビニール袋にネコをぶち込んで、歩き出した。
「A・NA・GO・・・アナゴ・・って、まさか・・・」
怪訝な顔をしたアシュレイをよそに桂花が呼び鈴をならす。
『・・・だぁれー?せっかくいいトコだったのにィ』
その声は、問うたくせに訪問相手の確認もせず、門を解除した。
自動に開いたそれをぬけ、玄関へと足をすすめる。
ド派手なバイオレットの外観、ポーチへ続くスミレの群落。扉の手前、左右対に置かれたダビデ像。窓から見える必要以上にフリルをあしらった薄紫のレースカーテン。インターホン越しのあの対応。
「・・・・・・・」
引き返したい気持ちが二人の中でじわじわと広がる。
桂花がアシュレイに向かって「やはり帰りましょう」と言おうとした時、玄関の扉があいてしまった。
「なぁに?誰?私に用?」
すけすけのネグリジェから見えるバイオレットの下穿はブーメランのような際どさ。
長い髪には、やはりバイオレットのカーラーがいくつも付いている。
前に、紫色を好む人は欲求不満だと聞いたことがあるが、それが正しければ目の前の人物はかなりの不満なのだろう。不満が服を着て歩いているだけかもしれない。
桂花が冷静に観察するあいだ、アシュレイは口をぽかんとあけたまま。
「あ、突然おじゃましてすみません。吾は波野桂花と申します・・・このネコ、お宅の飼い猫ですよね?」
アシュレイの代わりに桂花が前に出ると、相手はネコの入ったビニール袋を一瞥したが、それを無視して桂花に向きなおる。
「桂花。いい名だね・・・私は穴子ネフロニカ。ネフィー様とお呼び」
高飛車に言い放つと、ネフィーは不躾な視線で桂花の全身をなめまわしてきた。
そのあけすけな態度に、不快な表情をストレートに出す桂花だったが、相手はまったく動じない。
「ねぇ・・・・後ろの小猿は外にほっぽっといて、私と楽しいことしない?」
ネフィーの細い指先が、ゆっくりといやらしく桂花の頬をすべる。
唇にその指がきたら噛み切ってやる。と思ったが、寸前でそれは離れていった。
「やだ〜こわい。怖いけど・・いい目だね・・・・なんと言っても色がいい。涙で濡らしてやりたい」
ギリ、と歯をかみしめた桂花の後ろからいきなり、ビニールを破ったネコが飼い主に向かって飛びついた。
「っ!!」
否応なしにそれを受け止めることとなり、しりもちをついたネフィーが悲鳴をあげた途端、すごい勢いで廊下を走ってきたのは、おそらくこの家の主人だろう。
その男を見て、呆けていたアシュレイが「アッ!」と口をおさえた。
「ネフィー様、どうなされたのです?!」
「山凍〜痛いよぉ」
「お前たち、何者だ」
山凍と呼ばれた大きな男がウソ泣きをしているネフィーを抱き上げながら桂花とアシュレイに目をやると、先ほどのアシュレイ同様、「あ」と口をひらいた。ただし、声は出していない。
アシュレイと山凍がたがいに硬直しているのを見て、なんとなく事情を察した桂花が、説明に入る。
「お宅のネコが、こちらの『フグ田アシュレイ』さんの物をたびたび盗んでいくのです。それで――――」
「なぁんだ、バッカみたい。ネコに盗まれるなんてどんだけトロイのさ」
「ト、トロイだとっ、お前のネコの仕業なんだぞっ開き直るな!」
「だからどーしろっての?うちのエンマに鎖でもつけとけっての?・・・・・くさり・・・いいかも」
桂花に流し目を送り、「ムフフ」と笑ったネフィーに背筋が寒くなったアシュレイは、義従姉の肩を抱いてにげるように玄関をとび出した。
「桂花、見ただろ桂花、お前二度とこの辺うろつくなよ?アレは危険だ、変態だっ」
そしてその『変態』の夫が・・・・あろうことか家にも何度か来たことがある、ティアの同僚の『穴子さん』だったとは。
恐妻家だとは聞いていたが・・・・・ちょっと・・・いや、かなりチガウ意味だと思う。
「穴子山凍・・・・一体どういう趣味してンだ・・」
桂花の家に立ち寄り、数冊の雑誌と母(李々)に渡すよう頼まれたローズマリーを受けとったアシュレイは、公園のベンチで風呂敷を結び直していた。
「 この買い物かご小っさいな、ろくに入りゃしねぇ。今度ティアにもっと大きいのを買ってもらお 」
風呂敷と買い物かごをそろえて、ふと顔をあげたとき、公園の前を行く酒屋の御用聞きを見つけた。
「おいっ!三河屋の氷暉っ、ここんとこご無沙汰じゃねーか」
突然呼びとめられた氷暉はアシュレイに気づいて足を止める。
「代わりに教主の旦那が行ってるだろう」
「なんかあったのか?教主の旦那に訊いてもなんでもないの一点張りで教えてくんないし」
「・・・そんなに俺のことが気になるのか」
「え?なんだって?」
「ただの二日酔いだ」
「二日酔いって・・・おまえ呑めないはずだろ?」
「まぁな」
氷暉はこちらへ歩いてくるとベンチに横になり、アシュレイのヒザに、勝手に頭をのせた。
「よせよっ、誰かに見られたら変な誤解されるだろっ!」
「動くな、頭が痛む」
どこまでも自己中な言い分にムッとしたアシュレイだったが、本当に具合が悪いのだろう、顔色の冴えない氷暉を見たら、立ち上がることができなかった。
「なんで飲めもしない酒なんか飲んだんだ?教主の旦那、よくそんな理由で休むの許してくれるな」
許すもなにも、当の雇い主が言い出したのだ。
『酒屋の従業員が下戸では話にならぬ。たしなみ程度、呑めるようになるまで特訓せよ』と。
この命令は、氷暉にとって渡りに船だったため、逆らわずに特訓を開始したのだ。
「・・・この前、お前が言ったんだろう。俺が酒を飲めるようになったら二人で一杯やろうと」
「ハァ〜?人のせいにすんなよ」
「飲みたかっただけだ・・・お前と」
「へ?」
「ニブイ。わかりやすく言ってやる。おまえ、俺とつき合え。俺とつきあえば御用聞きのたびにお前の好きな酒を持って行ってやる」
「バッ、バカな冗談はよせっ!」
「俺は冗談など言わん」
「そんなのドロボーだろっ」
「・・・・・・そっちか。安心しろ、給料天引きだ・・・じゃなくて、冗談抜きでお前が欲しい。俺とつき合え」
たしかに冗談を言っている顔ではない。でも、それならなおさら冗談じゃない。
「誰がつきあうかっ!!」
慌てて立ち上がったアシュレイに、頭をおさえる氷暉。
「だいたい俺はティアと結婚してんだぞっ、分かってンだろっ!」
「それがどうした。そんなもの、俺にとっては障害にもならん」
「こここの不道徳男っ、お前は明日からうちに出入り禁止だ!わかったな!」
アシュレイが唾を飛ばしながら叫ぶのを薄笑いで見ていた氷暉は、その怒った顔に近づいて言い放つ。
「せいぜい俺に隙を見せないようがんばるんだな、若奥さん」
ツンと頬をつつかれて、口をパクパクするだけで言葉にならないアシュレイを尻目に、彼は公園から去って行った。
「・・・・俺はなにも聞いてねぇ。聞こえてねぇ・・・聞かなかったことにする・・」
青い顔をして耳をおさえ、呪文のように繰り返しながら、アシュレイは早足で帰途についた。
「これ…返さなくてもいいだろ…?」
フビライが出て行くと、カイシャンは小さな声で尋ねた。
「なんなんですか、それは」
「言ったら、返さなくてもいいか?」
「…カイシャン様、」
「言っても言わなくても返さないといけないなら、言わない!」
呼びかけに否定の意を感じ取り、カイシャンは桂花の言葉をさえぎった。
「わかりました。じゃあ、言わなくてもいいですから、返してください」
いつも素直な子供の頑固さに、桂花もつい突き放したような言い方で答えてしまう。
言いすぎたかもしれないと思ったときには遅かった。
いっぱいに目を見開いた子供が、可哀想なくらい情けない表情で自分を見ている。
「桂、花…」
呼ばれてもなにも返せず、桂花は思わず顔をそむけてしまった。
「けい…か?」
もともと子供は苦手だった。
うるさくて自分勝手で我を通すことしか知らない、我慢することを知らない、泣けばいいと思っている、大人が譲るのが当然だと思っている、この世で一番図々しい生き物、できれば一生近づきたくない、かかわりたくない生き物。
(言ってもわからないんだから、少しくらいきつく言ったって………)
「…………けぃ…か…っ!」
涙のからんだような声に、そむけたばかりの目線をつい戻してしまう。
無意識に自分の中に言い訳を探していた桂花の目にカイシャンが映る。
涙がこぼれないのが不思議なくらい瞳を潤ませ、それでも自分から目を離さない子供の顔が……。
「…けぃ……っ」
(――――――― ああ……)
唐突に、目の前の子供には折れるしかない自分を桂花は痛感した。
「………………柢王が、」
そして心で苦笑しながら、慎重に言葉を選んでカイシャンに告げる。
「……そうですね……柢王が、あなたにあげたものですから。吾が返せというのは筋違いですね」
「……桂花、怒ったのか…!? でも、でも、俺っ…!」
だが選んだつもりの言葉は、思いのほか素っ気無い響きで当の子供に届いてしまったらしい。
「男が、『でも』なんて言うもんじゃありません。……吾は怒ってませんし、」
桂花はひとつ息を吐いて、続けた。
「吾のほうこそ、すみませんでした。あの人を疑りすぎてたようですね。あなたがそれほど気に入るものを選んでくるなんて…」
「…………うん」
「ところで、」
改まって続けられた桂花の言葉に、思わずカイシャンは身構える。
「その…柢王からのものとは別に、吾からのお返しも受け取っていただけますか?」
「えっ!?」
「よかったら、次からはご一緒に」
そう言ってカイシャンの大好きな優しい笑みとともに渡されたのは、何の変哲もない普通の茶色の事務用封筒だった。
「開けてもいいか?」
どうぞと、桂花が頷いたのを見てカイシャンは軽く留められただけの封を剥がす。
「……あ、」
(しろ、だ……!)
中から出てきた二つ折りの白い厚紙。
それは、手作りの『プライベートお茶会』への招待状だった。
しかも桂花の仕事が手空きであれば、カイシャンが望むときにいつでも何回でも薬屋『夢竜』でお茶をご馳走してくれるという、無期限無制限のフリーパス。
「…俺、だけか?」
「どういう意味ですか?」
「アイツも、いるのか…?」
「あなたが望まないものを、呼んだりしませんよ」
近くをうろついているかもしれませんが、とは心の中でだけ付け加えておく。
「………友達も、呼んでもいいか?」
「あなたが望むなら、どうぞ」
「あ…ありがとう!」
思いきり大好きな人に抱きついて、自分がどんなに嬉しいかを伝える。
「俺も…っ、俺もお茶請け作って持ってくから、一緒に食べてくれるかっ?」
「お待ちしてます」
「うんっ!」
毎日だって桂花に会いたい。でも、忙しい桂花の邪魔はしたくない。
カイシャンは子供なりにそう考えて、近所の薬屋に行きたいのを我慢していた。
招待状をもらったからって、桂花が忙しくなくなるわけじゃない。だから今まで通り、頻繁には訪ねられないだろう。
それでも嬉しかった。桂花の気持ちが、カイシャンには泣きたいほど嬉しかった。
「桂花、桂花っ……ありがとう!!」
「はいはい」
小さな子供をあやすように桂花がカイシャンの頭を撫でる。
桂花にされる子供扱いだけは悔しいと感じるカイシャンも、今日ばかりは嬉しくてたまらない。
「もうすぐ春ですから、桜のお茶はどうですか」
「うんっ。だったら俺、おじいさまに教わって…下手だけど…桜餅作ってみる!」
「期待してますよ」
「うんっ…あ、でもその前に、」
――― おじいさまが戻ったら最初に「ありがとう」って言おう。
――― それから「今度は、桜餅の作り方を教えて下さい」って頼むんだ。
――― カルミアにも、明日塾に行ったら一番に「ありがとう」って言おう。
――― それから……
「どうしたんですか?」
突然黙ってしまったカイシャンに、桂花が問う。
「ううん、なんでもない。桂花と俺と、俺の友達と……。楽しみだなぁって考えてただけだ」
ニッコリ笑って答えたカイシャンに、桂花も穏やかな笑みを返す。
「吾も楽しみです」
――― それから、
――― 一緒に桂花のお茶会に行こうって、カルミアを誘うんだ!
終。
余談(1)-------------------------------------------
カイシャンと桂花を残し、フビライが訪れたのは近所の茶飲み友達『水晶宮』だった。
「どうじゃ、うちのカイシャンの元気玉は。甘くてまろやかで美味この上なしとは思わぬか」
「ふむ…いつもと同じと思うが。だがうちのカルミアもコレが好きで、よく余の部屋にねだりに来おる。『父上、喉が痛いのでいつもの飴を下さいませんか』と。下から見上げるようなおねだりが、それはもうかわゆうてのぉ…」
「それでいつも持って歩いておるのか」
「でなくては、あの子のおねだりにすぐに応えてやれぬではないか。ああ、だが前に、失敗したことがあった。あの子にねだられた時、飴と一緒にトロイゼンが特別に夢竜で調合させたという薬を出してしまっての」
「トロイゼン殿は、どうしてもそなたに後添えをと考えとるようじゃの」
「余はもう誰も娶るつもりはない。だが、トロイゼンは諦めきれんようで、『旦那様はまだまだお若こうございますれば、いざというときにはぜひこれを。元気すぎるほどお元気になるそうでございます』とな…。まあそんな話はさておき。飴玉とその薬を一緒に出してしまった折り、あの子がカワイイ声で、それはなあに、それも甘いのですか? と訊くので、そばにいたトロイゼンが『これはお父上様の、苦〜いお薬でございます。坊ちゃまが飲んだら守天様に聖水を頂かなくてはならなくなりますぞ』と脅しての。…あのときのあの子もまたかわゆかったぞ…フォッフォッ」
「おぬしの親バカは、たぶん死んでも治らんのだろうの」
「そなたの曾孫バカ以上と自負しておる」
そんなジジバカ談義で盛り上がる幸せなふたりだった。
余談(2)-------------------------------------------
「俺がせっかくお返ししといてやったのに」
「…………どうしてあなたが」
「チビ、喜んでたろ〜?」
ニヤニヤ笑いの柢王に、やはりなにか変なものを贈ったのではないかと桂花の心中は穏やかでなくなる。
「って、おい! どこ行くんだよ!?」
「モンゴル亭です。カイシャン様に言って、やはりあなたからのものは返してもらってきます」
「はーーーっ!? やめとけって。俺が大枚はたいて作らせたんだぞ!? うち持ってきたって意味ねえし、」
「意味!?」
「…や、意味、つーか…なんつーか」
「……まさかと思いますけど、爆弾とか…」
「そんな危ねえもん、俺が作らせるわけねえだろっ」
「だったら…」
まだまだ不審げな桂花に、仕方なく当たり障りない程度に意味を話す。
「あれはな、おまえに似せて作らせた人形なんだ。あのチビ、生意気にもおまえに惚れてんだろ。だから、さ…」
「人形……」
それも自分に似た……。
だから…?
だからあの子は、あんなに一所懸命だったのだろうか、中身のことを訊かれて赤くなったのだろうか……。
「な? もういいだろ、ガキんちょの話は」
「ええ……」
「んじゃ、もう寝るか」
「…まだ早いですよ」
「俺への返しももらわねーとなっ」
「なに言ってるんですか。だいたい、あなたからはなにもいただいてませんよ」
「やったじゃん。2月14日の晩から翌日にかけて、たっぷりと俺の愛を、おまえに」
そう言ってニッコリ笑った柢王に、反論する隙もなく桂花は寝室へと拉致られた。
――― ガキは人形で我慢しな
――― 本物は絶対手に入らねんだから
――― つか、俺が絶対手放さないし、放してやる気もねえからな
柢王の心の声は、誰にも聞こえなかった。
余談(3)-------------------------------------------
その夜のカルミアは……。
カルミアのチリチョコに非常に感激したらしい守天から、白くはないがお返しに七色の輝くマシュマロを頂いた。残念ながら白くはないが、敬愛する守天からのお返しと、なにより自分の手作りのチョコを喜んでくれたというのが嬉しい。
カルミアは自室のベッドに正座すると、そっとマシュマロをひとつ口に運んだ。
「・・・・・・・・・・・・・っっっっっ!!!!!!!!」
………死ぬ思い、というものを、カルミアは生まれて初めて味わった。
「ティ……ア、兄…様っ………」
焼けつく喉をおさえ、はいつくばってテーブルの水差しから直接水を一気する。
ようやく人心地ついて、気がついた。
ベッドの上においたマシュマロの箱の中に、小さなメモが入っている。
手に取ってみればティアの直筆で、マシュマロには異国から取り寄せた唐辛子の20倍辛いと言われる激辛粉末を使用したと書いてある。そして最後に「この前のチョコ、本当に嬉しかったよ。一緒に友人と頂いたのだけど彼が凄く気に入ってね。お礼に特別注文したものだけど、気に入ってくれると嬉しいな」とある。
一緒に食べたという友人のことが少し気にはなったが…。
「こんなにすごいものがお好きなんだったら、僕の作ったものなんて、まだまだ子供騙しだったんだろうな…」
箱の中のマシュマロを見ながら、カルミアは心で敗北感を感じていた。
「よーーーーし!」
そして、すっくと立ち上がり、カルミアは心に誓った。
――― 来年は、もっと辛いものに挑戦だ!!
余談(4)-------------------------------------------
カルミアが誓いを立てていた頃・・・
「どうしたんだ?」
「いや…なんだか急に寒気がして…」
「って、どこ触ってんだっ!」
「いやだから…温めてもらおうかなと」
「寒いんなら、これでも食ってろ!」
「!!!!!!!」
無理やり口に詰め込まれたものに、ティアは生まれて初めて目から火が出る思いを味わっていた。
(完)
そうして、3月。
「カイシャン、そなたに言伝じゃ」
「誰からですか?」
塾から帰るなり、曽祖父に言われてカイシャンは首を傾げた。
「その前に。2月のチョコのお返しは済ませてきたか?」
「はい」
カイシャンの返答に「ふむ」とひとつ頷くと、フビライは派手な色合いの大きな紙袋をカイシャンの前においた。
「柢王殿からそなたにと」
「……………………は?」
「柢王殿から、そなたに渡してくれと頼まれた」
「…柢王殿から、ものをもらう理由がありません」
「向こうにはあるように言うておったが」
「は?」
「そなた、先月桂花に贈り物をしておったであろう? なんでもその返しじゃと柢王殿が昼頃持ってこられた」
「どうしてアイツが…っ!」
「…ん?」
「い、いえ、なんでもありません。どうして柢王殿が…」
「そなたが贈ったチョコで、とてもよいことがあったとか…楽しそうに話しておったぞ」
(楽しいこと…? 俺が桂花に贈ったチョコで…!?)
(わからない……)
桂花へ贈ったチョコの返しに、どうして柢王が来るのか。
桂花に贈ったものなのに、どうして柢王がお礼に来るのか。
意味も理由もわからなくて…でもわからない気持ちの悪さよりも、カイシャンは心の中に苛立ちと悔しさを感じ始めていた。
「とりあえず中を確認して、柢王殿に礼を言って来るがよかろう」
「……」
「カイシャン?」
「……はい」
尊敬する曽祖父に言われ仕方なく、紙袋の口を少しだけ開けて覗き込む。
最初に目に飛び込んできたのは、――――――― 白。
「!!」
「ほぉ……、これは見事な」
声を詰まらせたカイシャンの横から手元の紙袋を覗き込んだフビライも、思わず感嘆の声をもらした。
「桂…花……?」
中には背丈30センチ弱ほどの明らかに桂花を模したと思われるミニドールが一体。
どうやって作られたのか、その髪も肌も瞳も……全てが本物のようにカイシャンの目をひきつける。ただ現実の桂花と比べると、人形ということを差し引いて考えても、等身の比率や表情などから、若めに…と言うか可愛く作られているように見えた。
「そなたが桂花を慕っておることを知った柢王殿が、わざわざ匠に頼んで作らせたものに違いない。よかったの、カイシャン」
「は…い」
目を奪われながら、それでも次第に冷静になっていく。
(どうしてアイツが、俺に……?)
「失礼します」
「桂花っ!?」
声がして振り向くと、ついさっきカイシャンも入ってきた勝手口から桂花が現れた。
「おお、桂花ではないか。さきほど柢王殿から素晴らしい贈物をカイシャンに頂戴した。よろしく伝えておいてくれ」
「……まさか……、来たんですか、あの人…、………!」
「桂花…?」
フビライの言葉にそれでも半信半疑の桂花だったが、カイシャンの手にある見覚えのある紙袋を見つけ、一瞬言葉を失った。
(桂花、なんか空いてる紙袋で死ぬほどでっかいのってねえか?)
(なにに使うんですか? 棚の一番上に不用な紙袋がおいてありますけど、死ぬほど大きくはないですよ)
(んー)
今朝の柢王との会話を思い出し、いまカイシャンの手にある紙袋の色や模様に、まさにあの紙袋だと確信する。
「カイシャン様、」
「なんだ?」
「それを…返してはいただけませんか」
「え…」
柢王の思惑を考えこむあまり無口になりがちのカイシャンだったが、意外な桂花の申し出に逆に今度は言葉に詰まる。
「な、……なん…で?」
「……いえ、すみません。少し頭を冷やしてから出直してきます」
「え…? ま、待って! 桂花、待って! 俺の…俺のあげたチョコレート、美味しくなかった? …嬉しく、なかった、のか…?」
来た早々、柢王からの品を返せと言ったかと思えば突然踵を返し出て行こうとする桂花の袖口を掴んで、懸命になってカイシャンは言葉を継いだ。
「いえ…いいえ、そういうことではありません。とても…美味しくいただきました。嬉しかったですよ。ただ……」
歩を止め振り返り、桂花は必死に自分を見上げてくる黒い瞳を見つめて問いかけた。
「カイシャン様、ひとつお聞きしてよろしいですか? チョコに粉がかかっていましたが、あれはどこで?」
「カルミアがくれた。…桂花は苦いものが好きだから、これをかけるといいよって」
「……………なるほど」
「好き、じゃなかった…のか?」
「いいえ……。でも、そうですね……吾よりも柢王のほうが好きだったようです。だから、それをあなたに」
「アイツも食べたのかっ!?」
「すみません、あっと言う間に…」
そう、あっと言う間に……。
粉雪が風に舞い、できれば外には出たくないと誰もが考えるだろう、2月のその日。
薬屋『夢竜』の前に、営業に出ていた桂花の帰りをじっと待つカイシャンの姿があった。
毛糸の帽子に毛糸のマフラーと毛糸の手袋、たっぷり厚着の上にコートを着込み、分厚い靴下の重ね穿きにもこもこの長靴。完全防備なのだろうが、外にのぞく顔は雪に濡れ頬は真っ赤だった。
通りすがりのおばちゃんたちの心配はもちろん、近所の肉屋や魚屋や寝具店や諸々の人たちも心配して数分おきに「うちに入って待ったらどうだい」と声をかけるがカイシャンは動かない。『モンゴル亭』の主に言えばなんとかなるかと思ったが、あれの好きにさせてやってほしい、と返される始末。こうなれば桂花がダメでも、せめて柢王が帰ってきて薬屋の中にカイシャンを入れてやってはくれないだろうかと遠巻きに皆が願っていたとき、
「…カイシャン様!?」
カイシャンが、そして皆が待ち焦がれていた桂花が帰ってきた。
同時に勝手に見守り隊(仮名)も安心して密かに解散した。
「桂花っ…!」
「どうしたんですか、こんなところで…。ああ、こんなに手も頬も冷たくなって…!」
自店まで目と鼻の先まできたところでカイシャンの姿を認めた桂花は、すぐさま走り寄って膝を折り、自分のコートを着せかけた。その上から小さくて冷たい身体を抱きしめる。
(………うわぁ)
じんわりと春のような温かさに包まれて、カイシャンの心は逸った。
「桂花っ。俺、桂花に…」
俺が作ったチョコレートを、と胸に抱いたままの包みを意識しながら言いかけて……一瞬にして身体からぬくもりが消えた。
「なんだ、早かったな?」
「…あなたは遅いお帰りで」
突然二人の後ろに現れた柢王が、桂花を羽交い絞めるようにして掬い立たせていた。そのままおんぶお化けのように背中に張り付き桂花の襟首に顔を摺り寄せている。
「おまえがいないのに、ひとりで待つなんてイヤじゃねーか、なあ!?」
「そうですか。わかりました。重いからどいてください」
「この重みが好きなくせに〜〜〜〜〜〜!!」
バキッッ!!
――――――― 没。
「カイシャン様、さあ早く中へ。少し温まったら、モンゴル亭まで吾がお送りしますから」
「大丈夫。俺、いっぱい着てきたし。桂花に渡したいものがあって待ってただけだから」
そう言って「ありがとう」とまず自分にかけてくれた桂花のコートを返し、手の中に大事に持っていたものを桂花に差し出す。
「…これ、は…?」
「俺が作ったんだ。バ、…バレンタインだから。そ、そしたら俺、帰る。おやすみ桂花!」
「え…? あっ…!」
少し照れくさそうに言いたいことだけ早口で告げてしまうと、桂花に引き止める隙も与えず、カイシャンは雪明りの中を駆けていった。
「ガキんちょ、なに持ってきたんだ?」
小さな後姿を見送る桂花の背後から、いつのまに復活したのか、柢王がひょっこり顔を覗かせ、桂花の受け取ったものを奪おうと手を出した。
「ダメです!」
その手をピシリと打って、桂花は薬屋の戸を開けた。
すぐに湯を沸かし、最近お気に入りの青茶を入れる。
そうしてカイシャンからの包みを開き、中のものに笑みがこぼれた。
「一緒に食べて行けばよかったのに…」
それぞれ大きさも形も微妙に違う、不恰好な一口大の生チョコレート。
でもだからこそ、カイシャンが一生懸命に作ったものだとわかる。
「いただきます」
着膨れした子供の姿を思いだし明日モンゴル亭に身体の温まるお茶でも届けようと思いながら、早速桂花はひとつ取って口に運んだ。
「………?」
瞬間感じた違和感は、それが口の中であっと言う間に解けた途端、確信に変わった。
(これは…!)
「いただき〜♪」
「柢王…っ!!」
止める間もなく、柢王も口に入れてしまう。
「結構うまいな〜。んでもガキんちょの分際で俺の桂花にバレンタインチョコ贈るなんて…アイツ最近調子こいてんじゃねーかっ」
口調だけは憤慨した様子で口に放り込み続ける。
「はぁ…」
「なにため息ついてんだ、おまえ」
口の周りに青緑色のパウダーをつけた柢王が、不思議そうに問うてくる。
「別に」
そっけない桂花にそれ以上追求しなかったが、答えは数時間もせずに出た。
雪は降りやまず、この冬一番の底冷えのする夜だったが、主人が戻った薬屋は熱帯夜のごとく熱い夜だった。
営業の疲れもあり、翌朝は柢王より起きるのが遅くなってしまった桂花だったが、そのとき、ガキんちょにお礼しないとな…と笑いながら呟く声を聞いたような気がした。
柢王がカイシャンに礼だなどと、それこそ信じられなくて、たぶん幻聴だろうと思っていた。
そうしてひと月が経った、今朝。
「ガキへの返しは俺がしとくから、おまえはなんもしなくていいぜ」
突然そう言われ、はいそうですか、と了承できるはずもなくきっぱりと断った。
吾が頂いたものですから、吾がお返しをします、と。
だが柢王も引かず、
「いいって。マジ、絶対アイツが喜ぶもの用意しといたからさ!」
尚もきっぱりと言い放ったのだった。
(喜ぶもの、って…………)
あの人のことだから、絶対なにか変なものを無理やり押し付けてきているに違いない。
そう思い、どうしても予定から外せない馴染みの客だけを回り終え、モンゴル亭へと急いだつもりの桂花だった。
………結果は柢王に後れを取ってしまったわけだが。
「アイツが食べたのは、…別にいい。でも、」
「でも?」
「……これは…返したくない」
「カイシャン様」
「だって、これは俺がもらったものだ!」
「カイシャン、我侭を言うでない」
「いいえ、吾のほうが勝手を言っているのですから」
そう言ってカイシャンを見て、ふと疑問が湧く。
どう贔屓目に見てもカイシャンが好意を持っているとは思えない柢王から贈られたものに、どうしてそれほど執着するのだろうかと。
「カイシャン様、それではその中身を見せてはいただけませんか」
「…知らないのか?」
「え?」
「桂花は、この中身を知らないのか?」
「え、ええ。……でも柢王のことですから、なにか不調法したんじゃないですか?」
桂花の決め付けたような物言いに、もしここに柢王本人がいても桂花の言葉は変わらないのだろう、とフビライの面にかすかに笑みが浮かんだが、桂花が気づいたのはカイシャンの変化だけだった。
「…だったら、」
ほんの少し顔を赤らめ、カイシャンにしては珍しくそっぽを向きながら言った。
「これを俺が持ってるのが、イヤってわけじゃないんだな」
「は?」
「フォッフォッフォッフォッフォッフォッ」
「おじいさま…っ!」
「いやいや、すまん。…おお、わしはちょっと用事を思い出した。少し出てくるが、あとは頼んだぞ」
「え、あの、吾もすぐに帰りますけど…」
「では、わしの用事が済むまでここにいてやってはくれぬか。店のほうは大丈夫なのじゃろ?」
「まあ…たぶん」
あまり役には立たないが、とりあえず店番はいる(はずだ)し…と、だらけた様子の店番を想像しながら桂花が答えると、
「では、頼んだぞ」
そう言い置いてフビライは出て行った。
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