投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
その夜。
閉店後の甘味処「モンゴル亭」に、カルミアがやってきた。
敬愛するティアランディアに、毎年愛の証のチョコ菓子を手作りして贈りたいという野望を抱いていたカルミアだったが、周りにそんな芸当(菓子作り)ができるものは見当たらず…。今年こそはと考えた末、家が甘味処で器具が揃っている上、自身も菓子作りの経験者らしい同級生に思い当たった。
だが近所で同級生とはいえ、当のカイシャンとは挨拶すら交わしたことがない。
躊躇ううちに日は過ぎギリギリの今日、ようやく声をかけることに成功したカルミアだった。
……だったのだが、
「そうじゃ、そこでココアパウダーを」
ジジつきなのは、なぜ。
「おじいさま、そろそろお寝みになって下さい。明日も早くから仕込があるのではありませんか?」
「おお、そうじゃな。それではそろそろ寝むとするか。カイシャン、カル坊の布団はちゃんと敷いたか?」
「はい。ここの片付けが終わったら、すぐに眠れるように用意してあります」
「うむ。ではあまり遅くならんうちに寝むのだぞ」
「はい」
「カル坊もな」
「…はい」
「…………どうして僕がカル坊なんだっ」
フビライが厨房をあとにしてしばらくすると、地を這う声が作業中のカイシャンの耳に届いた。
おまえのほうが俺よりちっちゃくて可愛く見えるからじゃないか…と心で即答したカイシャンだったが、口には出さない。そういえばカイシャン自身もカルミアの姿が視界に入らず見逃すことがたまにある、というか…さっきもあったな、と思い出す。
「おじいさまは水晶宮の旦那とは古馴染みだし、おまえのことも生まれたときから知ってるからじゃないのか。俺も、おまえの父上や番頭さんと商店街ですれ違ったりすると『カイ坊、いつも元気だな!』って言われるぞ? …たぶんこっちが知らなくても、大人のほうでは俺達のことをよーく知ってるつもりでいるんだろうな」
「…………フン」
カルミアはまだ不満気だったが、カイシャンはなんだかおかしかった。
「それより、俺のはそろそろ仕上がるけど……」
自分の分は不器用ながらもフビライに教わったとおりオーソドックスではあるがそれなりに仕上がりつつある。あとは冷蔵庫で冷やしてパウダーをまぶしたりトッピングをすれば出来上がりだ。
だがカルミアのものは………。
「…それはまずいんじゃないか」
フビライが出て行った途端、カルミアは持ってきた大きな風呂敷包みの中から赤やら青やらの粉末や物体を取り出して、チョコ生地に大量に混ぜだしていた。
「マズイわけないだろ、この僕が愛を込めて作ってるのに! …まぁお子様な君には理解できないかもしれないけど、大人なティア兄様は死ぬほど辛いものがお好きなんだ!」
「ほんとにか?」
「柢王殿がおっしゃってた!」
自信満々に胸をはって答えるカルミアに、
「…………そ、そうか」
嘘くさいと思いつつ、カイシャンは頷いてみせた。
「そういえば、あの薬師は苦いものが好きだって言ってたぞ」
「苦いもの? でもうちに来ると俺が盛ったみつ豆とか、丸めた大福とか好きだって言ってくれるぞ」
「社交辞令じゃないのか」
あっさり返されたカルミアの答えに、
「…………そ、そうだったのか」
カイシャンはショックを隠し切れない。
「落ち込むなよ、うっとおしい。…そう思って、君の分も用意してきた」
ほら、と渡されたのは掌に納まるサイズに小さく折り畳まれた紙包み。開いてみれば青緑色した粉が入っている。苦いものでこんな色なら、ニガウリとかの類だろうか。フビライが好きで、前に新メニューの味見でゴーヤゼリーを作ってくれたのだが、それきりカイシャンは食べる勇気を失ったままだった。粉を見つめながら、そんなことを思い出していると、
「それを出来上がったものにまぶせば、少しはあいつの好みに仕上がるんじゃないかと思う」
「……カルミア」
「ほら、これも」
カルミアから渡されたのは自身もさきほどから着用している不織布マスクだった。
「粉って結構飛ぶからな」
たとえ愛する人が好むものでも、辛いのやら苦いのやらを吸い込んでは大変だ。お菓子作りどころでなくなるかもしれない。
「…うん、ありがとう」
カルミアの準備のよさに一瞬面食らったカイシャンだったが、すぐに心からの感謝を述べると、おそろいのマスクをつける。
そうして再びふたりは無言で作業に没頭したのだった。
そして―――。
口にふくめば、ほんのり冷たさを感じた瞬間ふわりと舌のうえでとろけるような、愛の手作り生チョコレートが完成した。
カルミアのものは、食感を楽しんでもらおうと赤唐辛子と青唐辛子を細かく細かくみじん切りにしたものを生地に練りこみ、表面には赤・青唐辛子のパウダーをまぶした究極のチリチョコレート。
そしてカイシャンのほうは、実は入ってないまでもニガウリパウダー(推測)がまぶされた、ほんのり苦味の利いた大人のためのゴーヤチョコ。
「うん、いいじゃないか! …っと、そうそう、これこれ…」
出来上がった生チョコを前にご満悦だったカルミアが、なにやら楽しそうにゴソゴソと風呂敷包みの中を探り出す。
その横で、カイシャンはふとこの数時間を振り返った。
…ここに来るまでの道のりは、カイシャンにとって遠く険しいものだった。
甘味処「モンゴル亭」を手伝う看板曾孫ということで周囲には誤解されがちだったが、実のところカイシャンは手先が器用なタイプではなかった。
店の手伝いも、フビライが言いつけるのは、混ぜるだけとか丸めるだけとか、極力簡単な作業だけで。
だから今夜の、いきなり厨房を使わせてほしいという子供達の申し出にも、フビライは出来るだけ簡単に作れるものをチョイスして自ら指導に当たったのだった。
それでもやっぱりカイシャンは容器をひっくり返してしまったり、湯煎のところを直火にしてしまったりと簡単な失敗を繰り返し、そのたび挫折しそうになっていた。
(ほんとに俺にできるんだろうか…)
(……こんなグチャグチャなものもらったって、桂花、迷惑なんじゃないのか?)
不器用な自分の掌の熱で融けかかったチョコをボーッと見ながら、そんな考えが浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。
「なにしてるんだっ、握るなバカっっ!!」
「カイシャン、氷じゃ」
もしカイシャンを叱咤激励してくれた二人がいなかったら、きっとここまで辿りつく事は出来なかっただろう。
自分がここまで来れたのは、ふたりのおかげなのだ……。
「おいってば!」
「ぅわっ…な、なんだ?」
すっかり自分の世界に浸りきっていたカイシャンは、カルミアの声に一気に現実に引き戻された。
「ボケッとしてる暇なんてないだろっ。ほら、コレ!」
そう言って差しだされたのはラッピングセット一式。
「おまえ、本当に用意がいいな…」
「当然だろ」
カルミアの性格もあるのかもしれないが、それら全てが守天への愛の表れなのだろうとカイシャンは思った。
(俺も頑張らなくちゃな…!)
「小さすぎるかと思ったけど、このくらいでちょうど良かったな」
そうつぶやきながら満足げにカルミアがチョコを小箱に入れて漆黒の紙で包みだす。慌ててカイシャンも箱と包装紙を手に取る。
そうしてカルミアは金、カイシャンは薄紫のリボンをつけ、翌日それぞれ意中の人にチョコを贈ったのだった。
「どうだった、ちゃんと渡せたか?」
「うん。おまえは?」
「僕が渡せてないなんてこと、あるわけないだろ」
フン!とばかりにそっぽを向かれても、カイシャンはつい笑ってしまう。
「なんで笑ってるんだ」
「いや別に…。チョコ、気にいってくれてるといいな?」
「なにボケたこと言ってるんだ君は」
カイシャンの言葉にカルミアは呆れたように大きな息を吐くと、きっぱりと言い切った。
「この僕がリサーチして、ちゃんと好きな味に仕上げたんだから、気にいらないわけないだろっ。絶対気に入ってるはずだ!」
「そうだな」
自信満々のカルミアに、笑顔でカイシャンも大きく頷いた。
ところで、2月半ばといえば、例年塾ではちょうどさまざまな行事が催される時期だった。縄跳び大会や雪の彫像作り大会、定期試験に卒業式の予行練習、春にある入塾式の準備等々、大人同様、子供の世界もそれなりに多忙だった。
そのため二人の子供達は、チョコを渡したきりどちらも彼の人と顔を合わすことなく毎日が過ぎていった。
塾からの帰り、2月の夕暮れは早く、既にあたりは薄暗い。
曽祖父フビライとともに暮らす甘味処・モンゴル亭のある商店街はもう目と鼻の先だった。
「きらいなの?」
あまり見覚えはないけれど、行く手をさえぎるように突然目の前に現れたのは、どうやら同じ塾に通う女子らしい。
「…嫌いじゃないけど、、、」
「よかった! それじゃ、一日早いけど…これっ!」
「え? あ……おいっ!」
言いながら素早く手提げ袋からピンクにラッピングされたものを取り出した女子は、戸惑うカイシャンにそれを強引に押しつけ、またねと軽やかに走り去った。
その後姿を呆然と見送りながら、カイシャンはただ小さく息をついた。
塾に通いはじめてから、毎年不思議に感じる現象がある。
それは2月になると女子が無理やりチョコをくれることだ。
常日頃、理由もなく人から物を受け取ってはならないと諭す曽祖父フビライにも、このときばかりは『3月のお返しを忘れてはならん』とアドバイスとともに受け取ることを強く勧められた。カイシャンとしても甘いものが嫌いというわけではない。決して嫌いなのではないのだが、どうにもわけがわからない。
「どうして2月にチョコなんだ…?」
「子供だな」
女子から押しつけられたチョコに目をやり、ポツリつぶやいたカイシャンの後ろから偉そうに答える声がした。
たった今、女子が走り去ったときには誰もいなかったはずなのに…と不審に思い、カイシャンが振り返ると、
「・・・なんだ、風呂屋の息子か」
「誰が風呂屋の息子だっ!」
「じゃあ、風呂屋の……若旦那」
「…………」
どうしてわざわざそんな持って回った呼び方なんだ…というカルミアの心の声は、当然だがカイシャンには届かない。
「……僕には立派な名前がある」
なので仕方なくカルミアは最大妥協でそう返した。
「呼んでいいのか?」
「…しょうがないな」
こいつ何様だと思うような言動にも、カイシャンはさほど頓着しない。
カルミアは、誰にでもこうなのだと知っている。
同じ商店街に生まれ育ったふたりではあるが、幼馴染というほど親しいわけでもないし、同じ塾に通うようになったからといって、仲のよい塾友というわけでもなかった。それでも、カルミアの性質くらいは知っていた。
来るもの拒まずだが滅多に自分から誰かに近づこうとはしないカイシャンと(例外が桂花)、塾の幼稚な子供達(というか、自分以外のもの)に対して完全に上から目線で、他人が勝手に自分の名前を呼ぶことにすら嫌悪の表情を隠さない、いつでもどこでもえらそうなカルミア。
相反する二人のようだが、カイシャンはこのえらそうな風呂屋の跡取りが嫌いではなかった。
「じゃあ、カルミア」と話しかけると、ほんの少しこめかみのあたりをひくつかせるのが分かっておかしかったけど、顔には出さない。
「俺は子供だけど、それがどうかしたのか?」
続く言葉に、許した途端呼び捨てか!?と心で密かに突っ込んでいたカルミアだったがすんでのところで我慢した。そんな細かく拾っていたら商店街の中に入ってしまう。こういうデリケートな類の話は、おおっぴらに話してきかせるものでなく、秘めやかに密やかにすすめるものだと相場は決まっている。
「2月14日のチョコレートは、違うんだ」
だから、カルミアは少し声を抑えて言った。
「今日は14日じゃないぞ?」
言ったのだが、すぐに瓦解した。
「だーかーらー!! さっきの子も、一日早いけどって言ってたじゃないか! 本当は14日に渡すものなんだよチョコはっ」
「…………」
「なんだよっ!?」
「いや、別に…」
なにか言いたげに口を開きかけたカイシャンだったが、カルミアの剣幕に首を振って心の中で呟く。
(…ただ、詳しいなと思って。チョコのことはもちろん、さっきの女子の言葉とか)
「それで、ものは相談だ」
カルミアは年配者(トロイゼン爺)に育てられたせいか、たまに言葉が子供らしくない。
「うん」
だがこちらも曾爺に育てられた筋金入りの爺っ子カイシャンだ、全く気にならない、どころかなんだか親しみやすささえ感じている。
「僕たちも、チョコを作らないか?」
「・・・・・・・なんでだ?」
「あああもううううう!! ほんっとうに無知だな、君はっ」
そうして苛つきながらカルミアが説明を始めた。
2月14日とは、大好きな人にチョコレートを贈る日。
チョコを渡せば、即ち「大好き」の証。
チョコが手作りなら、さらによし。
そして、3月14日にお返しがくれば……
「くれば? 来ると、どうなるんだ?」
「ふたりは、永遠に結ばれるんだ」
「う………、う、うそだろ、俺、去年もその前も…チョコくれた子達に『ありがとう』って3月に………」
「なに返したんだ?」
「元気玉。俺がこねたんだけど…」
「…それって琥珀色のだろ?」
「うん」
「なら心配いらない。永遠に結ばれるためには、お返しは『白いもの』じゃないとダメなんだ」
「そ、そうなのか?」
カルミアの返答に、よかったと息を吐く。吐きながら、やっぱり(詳しいな…)と感心するカイシャンだった。
「それでどうするんだ!? 作るのか、作らないのか」
「作る…!」
(作って、俺も桂花に渡そう…!)
柢王あたりが聞けば絶対爆笑されるような乙女な誓いを、カイシャンは心に刻んでいた。
天主塔執務室。
震える桂花を長椅子に座らせてから、遠見鏡に駆け寄ったティアは、息をのんで遠見鏡の
画面を見上げた。
「・・・・・ 嘘・・・」
―――遠見鏡の画面は完全に停止していた。
かすれた画面に映し出されているのは、地中から躍り上がる数頭の巨虫の姿―――
「 嘘。―――嘘!・・・アシュレイ!柢王!」
遠見鏡を何とか動かそうとティアは試みたが、画面はびくともしない。
「・・・ああっ!どうせ停止するなら、アシュレイのアップで停止してて欲しかった!」
わらわらと躍り上がる巨虫が映される画面を見つめてティアが恨めしそうに言い、がっく
りと肩を落とした。
「・・・・・」
(・・・遠見鏡が 停止した・・・?)
ティアの戯言をコンマ1秒で記憶の彼方にスルーし、長椅子の背に体を預けたまま桂花は
事態の深刻さに、閉じていた目を見開いた。
まだ体が重い。・・・そして、何よりも恐怖。冷え冷えとした、底の見えない恐怖。
先ほどから、桂花にはとらえようのない、わからない事ばかりが起こっている。
(・・・ それでも・・・考えなくては・・・・・)
今の桂花には、それしかできないのだから。
先ほど見えた境界の光景―――・・・
そして 水音。
(―――水音・・・?!)
目を見開いたまま、桂花は凍りついた。
水音は、まだ鳴り響いている。
水音は、ひどく近いところで、まだ鳴り響いている―――。
・・・桂花の すぐ前で。
「―――・・・!!!」
目だけを動かし、水音の根源の位置を探り当てた桂花は、視線を眼前の光景に据えたまま、
音を立てぬようゆっくりと慎重に体勢を入れかえながら、低い、かすかに震えを帯びた声で、
まだ遠見鏡に向かって嘆いているティアに呼びかけた。
「・・・守天殿。どうか、お静かに。決して大きな音を立てたりなさらぬように」
「あ、ごめん。そんなにうるさかった?」
執務中に時々背後から聞く事のある(それは執務を放棄して遠見鏡に張りついている時や、
妄想と幻想の虜になって、やはり執務を放棄している時など)桂花の低い声に、ティアは我
に返って口元に手を当てた。
「・・・そうではなく・・・。・・・そのまま、ゆっくり壁沿いに移動して、部屋を出て下さい」
「桂花・・・?」
緊張を含んだ桂花の声に、ティアが口元に手をやったまま、そろりと、長椅子の方を見る。
「・・・―――どうぞお静かに。」
長椅子に腰を下ろし、背を向けたまま、桂花はこちらを振り向こうともしない。
「・・・・!!!!」
ティアはようやく理解した。 桂花は振り向かないのではない。振り向けないのだ。
「・・・どうぞ、お早く。部屋の外へ」
桂花の座る長椅子の正面――――テーブルの上に黒々と立ち上がるものがあった。
逆光で輪郭しか見えないが、輪郭だけで、それが「何か」と言う事はわかる。影の上部で、
巨大な一対の目がぎらぎらと光っていた。
桂花はそれと睨み合っているため、動けないのだ。
「・・・ゆっくり。 決して急いで動かないで下さい。 これは、動くものは全てエサと見な
して襲いかかってくる種です。」
(――――――魔族!)
それも巨大な―――虫型の。 いや、境界に出現した巨虫達と比べれば、小型という事に
なるのだろうが、それでもティアや桂花の身丈と同じくらいだろう巨大さだ。
「―――何故魔族がここに・・・?!」
「冰玉が持ち込んだ、あのカケラが・・・ ・・・守天殿、お願いですから、早く・・・」
ティアのつぶやきに、桂花が低く返す。桂花の背中からピリピリとした緊張が漂っている。
「・・・まさか、あの状態から再生したのか?」
黒い影がゆらゆらと左右に揺れ動きながら前に進み出て、桂花の上に不吉な形の影を落と
した。桂花はそれを厳しい表情で睨み付けたまま動けない。
「・・・気づくのが遅れた、吾の失態です。・・・吾が時間を稼ぎますから、その隙に扉まで走っ
て下さい。」
桂花の言音に、初めて焦りがにじんだ。
(一瞬でいいから、隙が出来れば―――)
巨虫との距離が近すぎる。桂花が飛び離れるより巨虫が桂花を捕らえるほうが早いだろう。
(・・・でも、せめて守天殿が部屋を出るまでは防ぎ切らねば)
桂花は、厳しい表情のまま すぐに飛び出せるよう、両手と両足に力を込めた。
―――次の瞬間、部屋中に白いものが飛び散った。
それらは蝶のようにひらひらとした動きを伴って、執務室中に舞い広がった。
「・・・ッ?!」
―――巨虫が跳んだ。 桂花の頭上を斜めに飛び越え、長椅子の横に据えられた、清水が
満々とたたえられる大壺の口の縁にぶつかるようにして留まった。 衝撃で壺がぐらぐらと
揺れる。
「―――― 一人だけ逃げるなんて、出来るわけがない!」
ティアが、執務机に積み上がる書類の山をなぎ払ったのだ。 そのまま執務机を回り込ん
で、桂花のほうへ移動しようとしている。
「・・守天殿! 動かないで下さい!」
口から水を振りこぼしながら、ぐらぐらと揺れる壺の口に器用に乗ったまま、巨虫は首を
振り動かして辺りを見回した。 部屋中を飛び散る書類の動きに巨虫は一瞬幻惑されたよう
だったが、生きて動く餌しか食べないこの種の虫は、それが生命のないモノの動きと見て取
ると、途端に興味を失ったようだ。 ―――そしてその時。
「あ・・!」
事もあろうに、床に散らばった書類に足を取られ、ティアが派手に転んだのだ。
巨虫が首をねじって振り向いた。
―――壺が倒れ、大量の水が床の上を流れた。
「守天殿!」
桂花の悲鳴に近い声と同時に、執務机の上に、ダン!と音を立てて覆い被さるように
落ちてきたものがあった。
机の上に積み上げた残りの書類が、振動で次々と崩れ落ちて床に舞い上がる。
「・・・あ・・・・・」
ティアは身動きひとつできずに床に腰を落としたまま、執務机の上からギラギラとした目
で自分を見おろす、巨大な生物を見上げた。
―――逆三角形の頭部。 飛び出た複眼。 獲物を噛み砕き咀嚼するための巨大な口。
巨大な鎌状の捕獲脚である前脚を持ち上げ、後ろの4脚で立ち上がる、直立に近い その姿。
体型、生態ともに、敵を待ち伏せ、素早く攻撃し、襲うことに集中させたスマートな姿。
・・・肉食の虫としては窮極的な存在 ――――
―――――ぎらぎらと黒光りする体色の 金色の複眼を持つ、巨大な蟷螂だった。
「・・・・・!!!」
ティアは虫遊びをした事がない。 素手で触った事もない。(守護主天という特質状、捕
まえる事が出来なかったというのもある) 図鑑などを丸暗記しているので、姿形や名前、
そしてその生態行動などは暗唱できるが、実のところ、どうもこう自分から進んで触ろうと
いう気になれないのだ。 だから虫といえばアシュレイや柢王が捕まえたモノを横からそっ
と覗き込んていた記憶しかない。
(―――アシュレイの小さなてのひらの上に乗っていた、薄緑色の細くて長い昆虫)
(―――柢王がちょっかいを出すと、細いけれど大きな鎌の前脚を振り上げていたっけ)
けれど。
(私は、怖くて触れなかった。 その虫の、目が。何だか、とても、怖くて―――)
その目が。今、ティアを見おろしている。 巨大な鎌状の前脚が―――・・・
―――突如、横合いから白い風が 蟷螂にぶつかってきた。
「下がって下さい守天殿!白繭の結界に入って!」
執務机の上から蟷螂を床に蹴り落とした桂花が ティアを背後に庇い、蟷螂の前に立ちふ
さがった。
桂花の突然の乱入に、黒い蟷螂は鎌状の前脚を胸の前で振り上げた姿勢のまま、じりじり
と距離を取ると、ぶるっと身を震わせて、己の羽を広げて見せた。 メタリックな黒色の表
羽根の下からあらわれた計四枚の薄い金色の羽には、鳥の目玉のような気味の悪い模様があった。 巨虫は、その羽を高々とうち広げ、振り動かす。 羽と腹部がこすれて、ビィーン
ビィーンと音を立てた。
これは この種の虫特有の、威嚇のポーズだ。 己を大きく見せつける事によって相手を
脅かすのである。
「・・・・・」
桂花は、いつでも動けるよう膝をおった姿勢で体を半身にし、威嚇する蟷螂と睨み合いな
がら、片手を白い長衣の裾前に手を這わせた。
白い長衣の下に桂花は動きやすいシャツと短い丈の下履きを身につけている。 その腿に
は数本の短剣をつけた特殊な剣帯を巻いているのだ。
この虫の前脚の動きはおそろしく鋭く、速い。 武器の一つも持たずに、こんな巨大で危
険な虫と闘うのは無謀だ。
動くのに邪魔な長衣を脱ぎ捨てたかったが、そんな時間はなかった。 下手に動けば巨虫
の攻撃を受ける事になる。 桂花は腿に巻いた剣帯とその短剣の位置を指先で探り当てると、
一気に長衣の裾前を大きく後ろに払って剣帯を巻いた方の足をむき出しにし、短剣を引き抜
こうとし――――
「―――・・・っ?!」
桂花は愕然とした。 短剣の鞘が払えないのだ。
短剣は剣帯に鞘を固定する形で、柄を留める金具を外し、掴んで払えばすぐ抜けるように
してある。常時使用できるよう、日々の手入れと点検は欠かしていない。今日も執務室に入
る前にきちんと点検をした。その時にはちゃんと抜けた。
金具を外すところまでは、いつもどおりだった。現に自分の手は、短剣の柄を握っている。
―――その手が。
「・・・・・!!!」
手が、体が、桂花の意志に反して、全力で剣を抜く事を拒んでいるのだ!
「桂花!」
風切音と共に繰り出されてきた黒い鎌の一閃を、桂花は首を反らせ、かろうじて避けた。
次に横合いから来た鎌をとっさに桂花は掴んで止めた。 鋭いのこぎり状の突起が手のひ
らに食い込み、白い血が滴った。
しかし桂花は今、滴る血や、巨虫の攻撃よりも、別の事に驚愕していた。
(・・・これが、守天殿の、呪―――!)
執務室では武器は使えない。これは、誰もが知る事実だ。 しかし、武器の持ち込みは許
されている事を桂花は常々不思議に思っていた。武器を使用してはならないのなら、最初か
ら扉を護る衛士にでも渡しておけばよいのではないかと。
しかしそうではなかった。使わない事を強制されているのではなく、最初から、使おうと
しても、使えなかったのだ。
・・・執務室に足を踏み入れる者は、それが例え己にとって命に関わる危機であろうとも、
『傷つける道具である 武器を 決して 使ってはならない』と、脳に直接刷り込まれる
―――――それは そういう 呪 なのだ。
「・・・桂花!」
床に滴る白い血に、ティアが息をのんだ。
「守天殿!武器の使用許可を!」
桂花の声にティアはハッと顔を上げ、一瞬より短い躊躇の後、短く叫んだ。
「・・・承認する!」
ティアの言葉と共に、執務室の空気が一瞬揺らいだ。
そして腕と手にかかる重圧が消えた瞬間、桂花は短剣を抜き放つと、剣先を虫の脚の関節
部分に突き入れるなり、斬りとばしていた。
ふいに、そのまなざしがどこか、手の届かないところを見ているように思えることがある。
憂いを含んだ瞳が切なげで、その細い輪郭がいまにも風景のなかに薄れていきそうに思われて。
思わず、その腕を掴まえ、引きよせて、
「どこにも行くなよ──」
瞬間、なにが起きたかわからぬような──不安な夢から覚めやらぬような瞳でこちらを見るきれいな顔を、胸に押しつけさせるようにして
抱きしめると、いつも決まって、束の間の沈黙のあと、胸の奥に、苦笑いするような、かすかな声がこうささやく。
「……どこにも行きませんよ。なにを心配しているんです?」
その問いに、言葉で答えられるものはなく、ただ、
「どこにも行くな。俺がいるから、どこにも行くなよ」
繰り返すしかない、自分がいるのを知っている。
「……桂花?」
頭のなかに重い痛みがあるような、不快な気持ちで目を覚ますと、梁の上にいた冰玉がぴい、と一声鋭く鳴いて、パタパタと降りて来る。
羽ばたきながら、ご機嫌そうにぴぃぴぃ訴える冰玉に、柢王は息をついて、笑みを浮かべる。
「そっか。桂花は薬草摘みか……」
鈍い痛みを感じる体を無理やりにシーツの上に引き起こす。報告を終えたとばかり、ぴぃと叫んで元気に煙突から外へと出ていく冰玉の姿に、
柢王は苦笑いを浮かべてため息をついた。
眠りながら、体が強ばり続けていたのは、たぶん、不安のせいなのだ。目が覚めたら、桂花の姿が消えていて、この部屋のなかに自分ひとりが
残されているような不安が胸から離れずに、意識の奥底でずっと細い体が腕のなかにいることを確認し続けていたからだ。
「……バカらしい、んだよな──」
もう何度目かも忘れたセリフを、自分自身に呟いてみるが、胸の奥を冷たい指で触れられたような、この不安のかけらはいつまでも消えない。
昨夜──愛しあった後の夢のなかで、桂花が何を見たものか。
無意識の低い嗚咽に目を覚まし、抱きしめると、乱れた息にその動揺の強さを表わす桂花の瞳はここではない場所を映してゆれていて、
暗闇のなか、流れる白い髪の先から、夜のなかに溶けていきそうに思えた。
なんで辛い夢を見たのかと、問うことはとうに諦めた。李々のことがきっかけでなくても、桂花のここでの生活は、常に、張りつめた高音の
弦のような鋭い緊張を宿したものだ。触れ方を間違えれば、ふいに断ち切れてしまう気配はいつもある。
自分には、口に出せないあれこれを桂花がその胸に抱えた挙句が夢に流す涙だとしても、それは仕方がない。
ただ──
『なにを心配しているんです?』
かすかな、ささやくその声に答えることができないのは、自分のことを映していないその瞳に、問うことを恐れているからだ。
『本当に、おまえが映していたいのは誰の存在だ?』
ふと、風景を見る目がここから消える時、夢のなごりにとらわれている時──ここにないものに心を奪われている桂花を引き寄せ、
今現在に引き戻す瞬間。切り替わる刹那の桂花の瞳に過ぎる色が、怯えに見えるから。
それは悲しい思いへの怯えなのか、それとも、そこから引き戻される怯えなのか──。
それが最後に不安と悲しみと孤独を与えた人であっても、自分には見せないあれこれを、桂花が無意識に問うのはいつもただひとりの人だ。
その肌に美しく刻まれた魔族の証と同様に、桂花の心の奥底に深く刷り込まれた特別な存在。
絆など信じるなと繰り返したその自分の存在が、いまも、桂花のなかに特別なものとして残っていると知ったら、その人はどう思うのだろう。
その言葉を信じて生きてきた桂花がいまも彼女の存在に涙を流すこと──その思いの強さもまた、絆なのだという矛盾を。
それはきっと、バカげた思いだ。
たとえそのまなざしが自分を置き去りにする瞬間があったとしても、桂花はいま自分の側にいてくれる。未来も約束も信じない、
そんな桂花が自分の『絶対になる』『側にいる』と誓ってくれたことこそが全ての真実だ。
手の届かないまなざしに、誰を見ていたいのかと思う気持ちは馬鹿げている。手を離したらふいにいなくなると思うことは馬鹿げている。
そのまなざしから引き戻す瞬間、消えないように腕に閉じこめるのは馬鹿げている。
それでも──
柢王は息をついた。まだ冷たさの残る胸の上にそっと指を押し当てて、低くつぶやく。
「矛盾…してるのは、わかってんだけどな……」
あの細い、冷たい指先がこの胸の奥底に触れてからずっと、自分はふたつの温度にゆれ動いている。
誰かを、こんなにも愛しいと思う焔のような奔流と、その存在を失うことへの、冷たい不安にゆれている。
*
あの人は、一体なんであんなことを言うのだろう──。
まだ露をたたえた冷たい草を摘みながら、桂花は低くつぶやいた。
悲しい夢に心をゆさぶられる夜。柢王はいつも桂花の体をきつく抱きしめてささやく。
『どこへも行くなよ』
まだあやふやな自分の震える体を包みこみ、呪文のように、
『俺がいるから、どこにも行くな』
そう繰り返す柢王の気持ちは、わからなくないけれど。
そうでなく、ふいに、自分でもなにを考え、なにをしていたか意識していない瞬間、抱きしめて、そうささやくのは一体なにを感じたものだろう。
ハッと、自分がいましがたとらわられていたことを思い出そうとする刹那、無防備な自分の瞳の奥底にどんなものを見るのか、青い瞳に
痛みにも似た色がよぎって、
『どこにも行くな。俺がここにいるから、どこにも行くな』
鼓動の乱れる熱い胸にこちらの頭を押しつけるようにして繰り返すのは、一体どういうことなのだろう。
計りかねて──言葉より確実に、いまここより他にいないと意識を切り替えさせる体温に、心のどこかがすり抜けるような思いを感じながら、
『……どこにも行きませんよ』
どうしてそんなことを聞くのかと、答えの返らない問いをその胸に聞くだけだ。
どこにも行かない……どこへも行けない。
誰よりも、わかっているはずなのに。
桂花は薄い唇に静かな笑みを浮かべる。
意識していないのに──時々、どうしようもない気持ちになって、答えを求めるように記憶の生々しさに心を委ねることもある。
そして思い知る、答えの返らぬよるべなさや、魔族である自分と天界人である柢王との違いに、冷たい指が触れるような、言葉にならない
その気持ちが、消えてなくなることはないかもしれないけれど……。
「それでも、どこにも行かないのに……」
いま例え、目の前に李々が現れても、もう自分はその手は取らない。自分は決して、柢王の手を離さないとわかっているから。
覚悟など、どれだけあればいいのかわからない。不安定な自分の思いが、いつか限界を超えて、何を破壊し、傷つけ、失うことになるかも知らない。
その果てしない葛藤に、耐え続けられるかどうかの自信すらない。
それでも──……
日陰の冷たさはその背に隠して、太陽のあたたかさだけを与えようとしてくれる人。
胸の奥底に、触れさせるのはかれの指だけだ。
それはまるで奇跡のように──
吾の世界を輝きで満たす、黄金の指先。
「あれは?」
数週間ぶりの休日。底をつきはじめた食料や日常雑貨の買出しに柢王と向う途中の上空。
桂花は眼下のにぎやかな様子に目を留めた。
「婚礼だ。東の地だけでもいろんな式があるんだぜ」
見ていくか?桂花の返事を待たず柢王は地に下りた。
良品質、低価格の買い物の極意として桂花は女性に、柢王はそこそこの色男に変化しているので二人の正体に気付く者はいない。
「よう、誰の婚礼だ?」
柢王は通りかかる娘に声をかける。
「仕立屋の次男と家具屋の桃花よ。うふふ、ブライスメイド選ばれたらどうしましょう」
派手なドレスをひらめかせ、娘は浮かれた足取りで通り過ぎる。
婚礼には綺麗な独身女性がブライスメイドとして花嫁に付き添うのだ。
柢王と桂花は自然と娘の向った方へ歩を進めた。
噴水の前に作られた特設会場は甘い花の香りと笑いに包まれている。
新郎、新婦を囲み、親族、友人、街行く人々すべてが祝福する和んだムードに柢王も自然と溶け込んでいる。
その中、桂花はただ一人覚めた目で傍観していた。
「あなた!!手伝ってちょうだい。プライスメイドが急な腹痛なの」
凍りかけた桂花を甲高い声が我に戻した。
でっぷりとした中年女性が汗をにじませ桂花の腕をつかんでいた。
華やかなボンネットから察するに、式の関係者なのだろう。
ボンネット婦人は桂花の答えなど待たず「あなたならピッタリ」と勝手に決め付けたものの連れの柢王を見ると僅かに顔を曇らせた。
「ダンナさん?」
「式はまだなんだ」
柢王が笑って応え、戸惑う桂花の背を「頑張れよ」と押し出す。
柢王を睨んだのも束の間、桂花は引きずられるように花嫁の元へと連行されていく。
「どっちが主役やら・・・花嫁サンも気の毒に」
桂花の背を見送りながら言葉と裏腹に柢王は誇らしげにつぶやいた。
柢王の手にたくさんの食料や酒がさげられている。
婚礼で得た品だ。
「得したな」
ほくほく顔の柢王。だが桂花は黙りこんでいる。無理やりプライスメイドを勧めたので怒っているのかと思ったもののそうではないらしい。
「なぁ、どうした?」
「なんでもありません」
返す桂花は上の空だ。
「疲れたか?」
柢王は荷を片手に移し空いた手で桂花を引き寄せる。
素直に柢王に寄り掛かりながら桂花は先ほどの式を思い返していた。
花嫁の澄みきった笑顔と綺麗な涙を。
純真無垢な笑顔。
彼女はなぜあんなふうに笑えるのだろうか?
「得したなぁ」
自問する桂花の横で繰り返し柢王の声がつぶやく。
「当分はもちそうですね」
大量の報酬を見て今度は桂花も応える。
「――-違う、違う」
「・・・食料のことでしょう?」
「再確認さ」
桂花の瞳を覗き柢王は続ける。
「今日は人界でおまえを見付けた日なんだぜ。そんな日におまえが一番だって確認すんなんて、やっぱ俺はついてる♪」
「―――――――」
「おまえが一番」
言って柢王は桂花に荷物を押し付けると、桂花ごと横抱きに空へ飛び上がった。
「わぁぁぁぁぁぁぁvvvvvvvvv」
下から一斉に冷やかしの口笛が鳴らされる。
「いいだろ〜〜〜っ!!!」
柢王は笑顔全快で対抗する。
出会った頃から変わらぬ笑顔。
それを見ながら桂花は気付く。笑ってる自分に。
熱い思いがこみあげてくる。
その思いが何なのか桂花には分からない。けれど何にも代えられない。愛しい。
「お幸せにー」
色とりどりの花びらが桂花に降り注ぐ。ブーケが投げられたのだ。
新婦が笑って手を振っている。
ぎこちなく桂花もそれに応える。
柢王は笑いながらそんな桂花を抱きしめる。
小さな街全体が幸せの色に染まる。
春の小さな街角。
そこにはもう、寂しい傍観者の姿はなかった。
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