投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
天界テレビの社長室。
柢王は身を沈めいているソファをしげしげと見た。
「これ、イタリアで買ったやつじゃないよな?あれ、どうしたんだよ?」
ティアは書類から顔を上げずに答えた。
「使用禁止にしたよ。今は私のマンションにある。それは代わりに買ったやつなんだ」
「使用禁止?何で?」
「だってあれはアシュレイと私の大切な場所だもの。他の人が使うなんて絶対ダメだよ」
「大切な・・・場所?」
「ソファって狭いから少し不便だけど、でもスリリングでいいよね。たまに落っこちるけど」
ふふふ・・・とティアが幸せそうに笑うほど、柢王は顔色をなくしていった。
親友が幸せなのは嬉しいが、どうも頭のネジを1本どこかへ落としてきた様子に(件のソファの下にでも落ちているに違いないが)柢王はこのテレビ局の未来を案じた。
親友の心配を余所に幸せ一杯のティアは続けた。
「アシュレイにうちの社員にならない?て誘ったんだけど、社員になると現場で働けなくなる可能性があるから嫌だって言われちゃったんだよね。そんなの任せてくれれば大丈夫って言ったら人事にお前が口出すなって言われちゃって。まぁ、ああいう筋の通ったところが格好いいんだけど。しかも夜は可愛いし」
言うだけ言うとティアはホワンと視線を飛ばしてどこかへ行ってしまった。大方ピンクの靄のかかった昨夜の記憶の中で遊んでいるのだろう。昨日電話した時に、今晩はアシュレイとアバンチュールなんだとウキウキした口調で言われて柢王は携帯を持ったまま脱力したのだ。
柢王はため息をついて
「じゃ、そろそろ行くわ」
と、聞こえてないだろうが一応告げて社長室を出た。エレベーターホールでティアの秘書の山凍を見かけた。あんたも大変だな、と心の中で同情して柢王はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降りると柢王はそのままメイクルームへ向かった。共演者への挨拶は済ませてしまっている。以前も一緒に仕事をした人もいれば、初めての人もいる。それはスタッフも同じだ。柢王は赤毛の大道具係を思い出して笑いを噛み殺した。あのティアを壊すとは中々だ。泣く女性が何人いることか。そちらも適当に慰めておかねば。忙しい時は用事が重なるものだ。
メイクルームの扉を開けると、ヘアメイク担当は化粧台の上に大きなメイク道具入れを開けて道具の確認をしていたが、柢王を見ると会釈した。
「もう準備させていただいてもよろしいですか?」
「あぁ。よろしく」
柢王は慣れた様子で化粧台の前に座った。青年は丁寧に柢王の髪をとかしはじめた。
柢王は鏡の中の自分を見て、何事もないような顔をしていることにホッとした。
心臓が喉から飛び出そうなくらい鼓動が激しい。思考停止の中で、繊細な手が今は首筋に触れないことをひたすら願った。
超絶美形のヘアメイクアーティスト。
昨夜、女友達が言っていたことを思い出した。
「確かまだ俺達一緒に仕事したことなかったよな」
美容師は手を休めずに鏡越しに柢王の顔を見た。
「えぇ、初めてですね。申し遅れましたが、桂花と申します」
「こんな美人と仕事ができるなんて、この仕事やっててよかった。あんたどこの店にいるんだ?今度からそこ行こうかな」
「普段から美人とばかり仕事なさっているでしょう。それに吾は美容院ではなくて事務所に勤めていますので」
「そうか。それは残念」
もっと話をしたかったが、残念ながら2人きりの時間はここまでだった。
桂花のアシスタントが入ってきたし、共演者も来てしまったので桂花は後をアシスタントに任せてそちらへ行ってしまった。
初日の撮影を終えて帰宅したのは夜だった。まずまずの滑り出しだ。現場の雰囲気も良いし。うまくいきそうだ。スタジオで木材をせっせと運ぶアシュレイを見つけ、柢王は「よっ、アバンチュールはどうだった?」と声を掛けるとアシュレイは真っ赤な顔で木材をガラゴロと落とした。途端に、
「えっ、アシュレイ、彼女できたのか?」
「嘘だろー」
ワラワラと寄ってきた他のスタッフ達に紛れてしまったアシュレイを尻目にさっさと柢王は休憩場所であるスタジオ隅のテーブルへと帰っていった。
「バカヤロー!柢王!!」
人だかりの中からアシュレイの怒声だけが聞こえた。
彼女じゃなくて彼氏だよなー、とはさすがに柢王も言わなかった。あれ?両方彼氏になるのか?
今日は中々楽しかった。柢王は気分良くソファに倒れ込んだ。ただ1つを除いては。脳裏に白い髪がよぎる。あのヘアメイク担当は、仕事が済むと柢王が飲みに誘う前にさっさと帰ってしまった。結局話しができたのはあの僅かな時間だけだった。
今日一日、柢王はさりげなく桂花のことを周囲の人間に聞いていた。分かったのは、ニューヨークやパリで活躍していた李々というメイクアップアーティストが経営する、ヘアメイク事務所に勤めていること。ドラマや雑誌など幅広く仕事をしていること。柢王よりも年上であること、どうやら恋人はいないらしいこと・・・。それだけだった(とりあえず最後の項目だけ確認できたら良かったのだが)。よく桂花と一緒に仕事をしているという女優に聞いても、物静かで聡明そうな寧という桂花のアシスタントに聞いても、柢王の人懐っこさと話術をもってしてもそれ以上のことは聞けなかったのだ。皆、隠しているのではない。本当に知らないようなのだ。
柢王は自分の頬にそっと触れた。桂花の手がここに触れた。彼の手はひんやりしていたのに、触れられた跡は燃えるように熱くなった。
ティアに呆れていたというのに。
アシュレイをからかったばかりだというのに。
「運命の出会い」なんて頭から信じていなかったというのに。
絹糸のような白い髪。宝石のような硬質な美貌。深遠な紫水晶の瞳。
その瞳の奥にあるものに触れたいと灼けるように願った。
もう認めざるをえない。
扉を開けて、彼と目が合った瞬間に。
心どころか、魂さえも奪われてしまったことを。
1度決めてしまえば迷わず行動をするというのが柢王のスタイルだった。そしてそれは大概成功していた。しかし、今回は勝手が違うようだ。人生そう上手くはいかない。貴重な教訓である。全く恋というのは含蓄豊かだ。今までなぜそれに気が付かなかったのか。適当な恋愛ばかりだったからだろうか。そういう意味では自分は初心者なのだ。
柢王はスタジオ隅の休憩コーナーからセットを見つめながらため息をついた。柢王の悩みの種は、ヒロインのオフィスのセットの中でヒロイン役の女優の髪を直していた。どうもビギナーズラックも狙えないようだ。今日も防御壁は万年雪を頂く峰のようにそびえたち・・・、つまり内面に触れる隙間さえなかった。桂花はいつものように鮮やかな手際で柢王の支度を整えると、さっさと共演者の支度へと移っていった。メイクの最中も話はするのだが、いまいち手ごたえがない。折を見て話しかけたりするのだが、チャンス自体中々ないし、あっても反応は芳しくない。それでも諦める気持ちはどこを探してもないのだから自分でも感心する。柢王は無意識に丸めてしまっていた台本を見た。ドラマなら事件が起こって急速に距離が縮んでいくなんて展開もあるのだが、現実では望むべくもない。そんなもの待っている内に撮影が終ってしまう。そうしたら打ち上げで何とか今後とも付き合いができるようにもっていくしかないが、彼のことだから打ち上げに来ないかもしれない。今のうちに地道に気長に忍耐強く働きかけるしかないわけで。
桂花がセットから出てきて、柢王は椅子から立ち上がった。
「よ、次は俺のシーンだよな。頼むな」
「えぇ、よろしくお願いします」
桂花は会釈して仕事道具の入ったケースが置いてあるテーブルの方へ行ったが、そのまま柢王も付いて行った。
「お前って本当に上手いよな。正直こんなに上手い奴、初めてだ。事務所じゃ1番の腕だって聞いたぜ」
「オーナーには敵いません」
「でも従業員の中じゃトップなんだろ。1番古いスタッフのうちの1人なんだっけ?」
「吾と同じくらいに入った人達と大差ありませんよ」
桂花は道具を出し入れしながら柢王の方を見ずに返事だけを返した。
柢王は傍にあった椅子を引き寄せ、それにまたぐように座り、背もたれに顎を乗せた。そして桂花の顔を下から覗き込んだ。
「パリでオーナーに会って、その腕を買われて事務所に入ったんだってな」
「えぇ、あちらに住んでいた時期があったので」
そこまで言うと桂花は柢王を見下ろした。
「随分吾のことをご存知ですね」
「こんな程度で随分って言うなよ。まだまだあんたのことはたくさん知りたいのに」
「なぜ?」
「惚れたから・・・て、答えじゃ駄目?」
柢王の蒼い眼差しと桂花の紫のそれとが絡み合った。
先に目を逸らしたのは桂花の方だった。
「駄目ですね。そんな下手な口説き方じゃ」
「俺は本気だぜ」
柢王は椅子に背もたれに頬杖をついて、本気なのかふざけているのか分からない表情で言った。
桂花はメイク道具入れをパタンと閉めて腰を伸ばした。
「そうですか。トップ俳優に口説かれるなんて光栄ですね。光栄に思っていますから次のシーン、遅刻しないで下さいね」
そう言うと桂花は寧に何か指示を与えながらスタジオから出て行った。
スラリとした後ろ姿を見つめながら柢王は
「俺は本気だぜ・・・」
と呟いて、先ほどの桂花の眼差しを思い出した。思えば初めてまともに見てくれたような気がする。
静まり返った紫の瞳からはやはり何の感情も読み取れなかった。
撮影は順調に進んでいく。桂花とは何の進展もない。そんな日々が流れるある日、その日の撮影が終った後、かねてから飲みに行きたいとせがまれていた女友達数人と、人気アイドルで共演者の空也とで飲みに行くことになった。
休憩時間、柢王は仕事が一段落ついた桂花を捕まえた。ようやく掴んだチャンスだ。ここは外せない。柢王は逸る気持ちを無理矢理抑えて桂花に声をかけた。
「今日、飲みに行くんだけどお前も来ねーか?モデルやってる俺の女友達と、あと空也も来るんだ」
2人きりと思われたら速攻で断られるかもしれないので、柢王は先にそうではないことを言った。本当は2人きりで行きたいところなのだが、この際贅沢は言っていられない。とりあえず来てくれるだけでも万々歳だ。
桂花は微笑んだ。
「ありがとうございます。空也にも誘ってもらったのですが事務所で仕事が残っているので今回は遠慮させていただきます」
何っ!?あいつ、俺に断りもなく。けれど断られたら断られたでどーしてもっと粘らなかったんだよ!と腹が立つ。
しかし柢王はそんな心情をおくびにも出さず、頭をボリボリと掻いた。
「そりゃ残念。でもそれが片付いたら合流ってのもありだぜ」
気持ちのままにしつこくするのは嫌われるもとだ。押しと引きのバランスが大事、なんて頭では分かっちゃいる。
「明日までかかりそうなので。明日は多分、事務所からこちらに来ることになると思います」
「大変だな」
疲れを微塵も感じさせず、仕事をこなしている。こんなに細身なのに結構タフなのだ。そっかぁ、タフなのか、と無意識に危ない方向に想像が行った柢王は慌てて頭を振った。
煩悶する柢王を置いて桂花はさっさと次のシーンの準備に移っていた。
「わっ」
突然、後ろから腕をひかれ桂花はよろけた。
「柢王・・・いきなりは止めてくださいって、いつもいっているでしょう」
「冷たいこというなよ、早くおまえに会いたくて全力疾走してきたんだからさ」
二週間ぶりに下界から戻った恋人は、甘えモード全開で桂花を抱きしめてくる。
「まだ仕事が・・・」
「そんなの後、後っ」
「でも、あと少しで」
「少しってどれくらい」
「夕方までには」
「仕方ねーな」
柢王はもう一度ギュッと桂花を抱きしめると、やっとのこと腕をといた。
「じゃあ、その間に城に行ってくるとするか」
「蓋天城に?」
「ああ。 親父にコレ頼まれてたからさ」
柢王は下界から持ち帰った紙袋から菓子箱をひとつ取り出した。
「・・・ちんすこう??? なんです?」
「あっちの銘菓。前に土産にやったら気に入ったみてーでさ、勿論おまえにもあるんだぜ」
「―――ちんすこう・・・がですか?」
「いや、ウチのはこれ♪」
柢王はガサガサといくつかの菓子を取り出し、一番大きなのを桂花に渡した。
「『うなぎパイ』・・・この『夜のお菓子』ってネーミングは何ですか」
胡散臭げなキャッチコピーに桂花は眉を寄せる。
「いいだろ、それ♪ 一発で気に入っちまった」
柢王はケラケラ笑うと残りの菓子も桂花に渡す。
「そっちはティアにな。アシュレイからの差し入れ。アイツはあと数日あっちにいるみてぇだけど」
「こっちの箱は?」
「おっと、これは翔王、輝王にだ」
「彼等にも土産ですか?」
驚き桂花が顔をあげる。
「食うかどうかは知らねーけど」
「あなたって人は・・・」
菓子の中身を知って、桂花はため息をついた。
「クククッ、大丈夫。あいつらには分からねーって。これでも色々考えたんだぜ、ひよこの形の饅頭にするか、ひよこじゃアカラサマだから鳩の形のサブレにするか」
「で―――『吉備団子』ですか」
「そ♪ へーき、へーき、俺も吉備団子にまつわる話知ったの最近だしっ」
じゃあ行ってくるわと桂花の頬に唇を寄せると柢王は紙袋を手に窓から出て行った。
「アシュレイからっ!!」
ティアは眼を輝かせ、桂花が差し出す包みに飛びついた。
「こっ、これは!!」
包装紙を開けるなりティアが固まる。
「守天殿?」
いぶかしげに桂花はティアの持つ菓子箱をのぞきこんだ。
「『おたべ』? この菓子の商品名ですかね」
桂花の言葉にティアは強く頷いた。
「それは分かってる。分かってる、けどっ、でもっ」
「でも?」
「もしかしてっ・・・アシュレイが誘ってる?」
「ありません」
桂花はきっぱり答える。
「でもっ、数ある菓子からこれを選んだのってーーー」
「偶然です」
「下界に下りて練れてきたってこともーーー」
よほど欲求がたまっているのだろう・・・珍しく諦め悪くティアが食い下がる。
「ありませんね。柢王じゃあるまいし」
「――――――――――――――――」
撃沈。
有能な秘書に僅かな期待をもきっぱり絶たれ、ティアはガックリうな垂れる。
やれやれ〜桂花は肩をすくめた。
だが箱を手に立ちすくんでいるティアをこのままにしておくのも躊躇われ、椅子に座らせお茶をいれてやった。
「何はともあれ折角差し入れてくださったのですから一息入れましょう。吾はその間に資料をあつめてきますから。そうだ、これも宜しかったらどうぞ」
桂花はお茶と柢王土産の『うなぎパイ』テーブルに並べると執務室を後にした。
―――ガタガタッ―――
椅子がひっくり返る音を背にしたものの、桂花は構わず蔵書室へと足をむけた。
「よく食ったな」
戻った柢王は減った菓子箱を覗き嬉しげに笑った。
「吾はまだ食べてません。なんてったって『夜のお菓子』ですから。 たくさんあったんで守天殿とナセル室長におすそ分けしたんです」
「そっか♪」
何を期待しているのか、いつになく弾んでいる柢王を尻目に桂花はシラッと言い募る。
「そう、先ほどナセル室長に教えて頂いたんですが―――『夜のお菓子』って家族団らんでいただくお菓子って意味だそうですね」
「―――――へっ!!」
「ですから」
桂花はにっこり続ける。
「今夜はいつになく中睦ましく過ごしましょう―――もちろん冰玉も交えて、ね」
―――柢王が撃沈したのは、、、言うまでもない。
「聞きたくなかった・・・・」
ティアが執務室の大きな机につっぷすと、華奢な体は机上に連なる紙山に完全にかくれてしまった。
後ろに結った長い髪がいつもより重く感じられた彼は無造作に髪どめをはずし、遠見鏡へ視線をなげる。
執務がたまったりふさいだ気分の時は、自分の知らない世界を映しだし、気分転換するティアだったが今日ばかりはそれもためらわれた。
「―――そういえば、初めて遠見鏡を使った日は興奮のあまりなかなか眠れなかったっけ」
執務室にいながらにして大抵の場所は見てしまえる鏡に驚異して、脅威して・・・。
再び顔を伏せたティアは塾でのことを思いかえす。
塾の帰り、アシュレイを教室の外で待っていたティアは、自分のとりまきである女子らの会話を耳にしてしまったのだ。
「守天さまの執務室にあるっていう鏡をご存知?」
グループのリーダー的存在である女子がおもむろにきりだした時、ティアはつい反応して耳を澄ました。
「ええ、遠見鏡と呼ばれている鏡のことね」
「どこでも見てしまえる鏡でしょう?」
「素敵だわ。私、他国のようすとかぜひ見てみたいわ」
「私も!きっと一日中見ていても飽きないわよね」
話をふった途端食いついてきた友人たちのようすに満足げな顔をし、そのくせ呆れた口調で彼女は続ける。
「バカねぇ、あなたたち。考えてもごらんなさいよ、守天さまは見ようと思えば…例えばプライベートな場所だろうがなんだろうが見てしまえるってことよ?」
一寸の沈黙がながれ――――――次の瞬間けたたましい悲鳴があがった。
「まさか、あの品行方正な守天さまに限って・・・でも・・」
「守天さまだって殿方だものね・・・」
ここで再び悲鳴があがる。
本人が聞いているとも知らずに彼女たちの話はどんどんエスカレートしていき、耐えられなくなったティアは逃げるようにその場を後にした。
「あ・・・アシュレイに渡さずに帰って来ちゃった・・」
アシュレイが読みたがっていた本を帰りに貸すことになっていたのだ。
ところが、アシュレイが上級生とケンカをした件で文殊先生に呼びだされてしまったため、ティアは彼を待っていた・・・のだが、結局は渡せないまま帰ってきてしまった。
「どうしよう・・・まだ帰ってないかなアシュレイ」
自然と遠見鏡へ向きなおったティアの動きがとまる。
「・・・・塾にアシュレイが残ってるか見るだけで覗きなんかじゃない」
震える声で、言い訳しながらティアは塾を映しだした。
「いない・・・」
最初に教室をチラッと映した時、まだ彼女たちの姿があったので、あわてて中庭や飼育小屋に変えたが、赤い髪はどこにも見あたらない。
「やっぱり帰っちゃったかな・・・」
諦めかけたティアがもういちど教室に合わせると、果たしてアシュレイはそこにいた。
「あれ?さっきはいなかったのに…」
彼は剣呑な雰囲気で、5人の女子と対峙している。
「なんなのよ!いきなり怒鳴りこんできてっ」
「だから、お前らいつもティアの周りでキャーキャー騒いでるくせに陰で悪口なんか言うなって言ったんだ!」
「な、なぁに?偉そうに!ちょっと守天さまに良くしてもらってるからっていい気になって!だ、だいたい“かもしれない”って言っただけじゃない!」
必死に言い返してはいるが、アシュレイの気迫におされ、今にも泣きだしそうだ。
「ばーか。柢王ならともかく、あいつがやるわけねぇだろ!それに万が一のぞくにしたってテメーらみてぇなブス、誰がのぞくかっ!うぬぼれんな!」
「なななんですってぇ〜!」
泣く寸前だったはずの顔がものすごい形相に変わり、思わずひるみそうになったアシュレイだが、負けてなどいられない。
彼女たちを睨みつけたまま壁に拳をつらぬいて、できる限りの低い声をしぼりだす。
「女だからって、それ以上ティアを悪く言ったら容赦しねぇぞ」
壁に手を突っこんだまま物騒な目をむけるアシュレイにおののき、彼女たちは先生の名を叫びながら壁の穴のことを告げぐちしに退散していった。
「・・・・・うそばっかり。いつも、女相手じゃ殴れねぇ――…って言ってるじゃない」
大きく映しだされたアシュレイにピタリと寄りそい、うるむ瞳を何度もこすって・・・・ようやくティアは微笑みを見せた。
その後、アシュレイはすっぽりハマってしまった腕を文殊先生に助けてもらいながら、無事ぬくことができたのだった。
長い髪をきりっと一つにまとめ、身軽な服装で長棒を持って中庭に現れた姉の姿に、
病気だとずっと言い含められていたアシュレイは始め心配そうに見ていたが、 レースと
姉が手合わせする段になって、ようやく安心したようだった。 芝生の端っこに座って
のんきに姉に声援を送っている。しかし残念ながら弟の声援はグラインダーズの耳には届
いていない。
「・・・・・!」
レースに向かって打ち込みながら、グラインダーズはまたしても自分の力のなさに怒り
狂っていた。 いくら打ち込んでも手応えがない。いや手応えがないのではなく、攻撃を
すべて流されるのだ。あっという間に息が上がったグラインダーズに対し、レースは余裕
しゃくしゃくだ。
小休止のあとでレースの提案によりアシュレイと二人がかりで攻撃することになった
のだが、これもまたいくら攻めてもレースは びくともしない。
「アシュレイ!」
姉に遠慮があるのか今ひとつ攻め込みが甘いアシュレイに、グラインダーズは目配せを
した。 何かぴんと来るものがあったアシュレイは飛び離れるとグラインダーズとタイミ
ングを合わせて横合いから同時にレースに攻めかかった。
「?!」(×2)
二人の目の前にレースの姿はなく、長棒が突き立っているだけだった。勢いが付いたま
まだった二人の棒先はそれを左右から挟み込むように打ち据える形となり、衝撃で長棒は
跳ね上がってくるくると回りながら空を飛び、石畳の通路の上に落ちた。
長棒が甲高い音を立てて中庭の石畳の上に転がった
「・・・レース?!」
同時に打ちかかってきたと判断するなりレースは長棒を支点に棒高跳びの要領で彼ら
の頭上を飛び越えて二人の後ろに降り立った・・・・・ということに気づいたのは、慌てて振
り向いたところを大きな手にそれぞれ頭を掴まれて、側頭部同士をごつんとぶつけ合わさ
れてからだった。
「〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」(×2)
・・・姉弟仲良く頭を押さえてしゃがみ込むのを見て、レースは笑いながら長棒を拾って
ゆっくり戻ってきた。 グラインダーズより一足先に立ち直った(石頭だけに)アシュレ
イは「俺もその技をマスターしてやる!」と長棒相手に格闘している。
頭を抱えた手をようやく外したグラインダーズに、レースはにっと笑って聞いてきた。
「気は済みましたか?」
「・・・・・全然!」
背の高い武術指南役を睨み上げ、目尻に涙を浮かべたまま怒ったように言い切るグライ
ンダーズに対し、彼女を見おろすレースはただ笑みを深くしただけだった。
「・・・ええ?! 力一杯握ってたって?両手で? そりゃ駄目ですよ、お嬢。 長棒っての
は伸縮自在を利点とするエモノなんですよ。剣と同じように扱っちゃ駄目ですって」
文殊塾での事の次第をグラインダーズから聞き出したレースは「そーいえば、城では
剣の稽古が主でしたね・・・」と頭を掻いて天を仰いだ。
「私がそれで良いって言ったのよ」
グラインダーズの武術指南としてよこされた彼は、最初 剣の扱いよりもむしろ暗器の
使い方を教えたがった。
暗器というのは、体に隠し持つことの出来る小さな武器のことで、護身・暗殺などの非
常事態のために作られ、発達した武器の総称である。
暗殺にも使われる・・・ということもあって、暗器というとあまりいい印象がないかもし
れないが、小さいため、たとえば上衣の飾り襟の裏やハンドバックの中、あるいは装身具
そのものに仕込めるため、女の護身用具としてはこれ以上に使い勝手の良いものはない。
使いこなすことが出来れば、不当な暴力から身を守るのにこれほど適した道具はないだ
ろう。
しかしグラインダーズはそれをきっぱりと拒絶したのだ。
剣がいい、とはっきりと言ったのだった。
「・・・でも。・・・・・結局、力では勝てないのね」
ため息をついて言うグラインダーズの言葉を、レースはあっさりと否定した。
「何を言っていらっしゃるのか・・・勝てるに決まっているじゃないですか。」
振り向いたグラインダーズが「どうやって・・・?」と不審そうな顔をして聞くのに、レ
ースは何でもないことのように笑って言った。
「・・・・・お嬢。あなた『霊力』の存在を忘れてやしませんか? 霊力は第三第四の見えな
い巨大な手のようなものです。喧嘩の時だって霊力を使えば、長棒ごと相手の腕をへし折
ることだってできたんです」
レースの言葉にグラインダーズはきょとんとした。・・・武器を使っての闘いの時に霊力
を併用してつかうなんて考えたことはなかったからだ。 霊力をつかうのはお互い霊力を
使っての遊びに近いじゃれ合いか、素手の時ぐらいだ。
「・・・そんな馬鹿な。文殊塾の武術の授業でも普通に教えて・・・あ―――」
レースが顔をしかめて口ごもったその先の言葉は、聞かなくてもグラインダーズにはわ
かっていた。 武器と霊力を併用しての稽古をしているのは、男児のグループだけだ。
この歳になると基本的な体操の他は、男児と女児に分かれて武術指導が行われているのだ。
まあ、もちろん、習う前から習うより実戦で慣れてしまった、という弟のような変わり
種もいるわけだが・・・。
グラインダーズはため息をついた。
「問題は山積みね・・・。でもレース、もしあの時に霊力を使っていたとしても勝てたかど
うかはわからないわ。・・・だって私の霊力は最近とても不安定になっているの」
「勝ててますって」
相も変わらずこともなげにレースは言い放つ。
「・・・レース。一体そう言えるだけの根拠はどこにあるの?!」
振り向いたグラインダーズが いらだつように睨み付ける。
「お嬢、自分が成長期だって事を忘れてんじゃないですか? 体が急激に成長するこの頃
は成長に伴って霊力だって増大する。力そのものが弱くなったわけではないのです。
・・・ただ、成長が急激すぎて体と霊力のバランスがうまく取れなくなるから、不安定にな
っているだけです」
「・・・だったら、なおさら!」
「―――そして最大の根拠。・・・それは王族の霊気が ふつうの天界人が持つ霊気とは
まったく違うというところです。 ・・・密度も練度も精度も。大気中の霊気を共振させる
その力も、何もかも全てが―――。」
「―――――嘘。」
レースが笑ってこちらを見ている。
「・・・ただ存在しているだけで、強者―――。王族とはそういうものなのですよ。」
どうして、そんな恐ろしいことをあっさりと笑って言えるのだろう。
その笑みの中に、何かが含まれていれば、少しは安心が出来ると思うのに。
「・・・・・ ・・・・・ ・・・でも、レース・・ ・・・・・それなら・・・私が、霊力を使って他の人に攻
撃するのは・・・卑怯、と言うことになるの・・・?」
「何故?自分が持っているモノを使うのが悪いことですか? 使えるモノを使って何が
悪いのですか? 下手な出し惜しみをして使わずにいればそれの価値は下がり、自分が危
なくなるだけ。・・・・・そんなことを言っていたら、蜂に針があるのも、鹿に角があるのも、
それこそ花に香りや蜜があることすらも、卑怯って事になりますね。」
最後の言葉は何だか余計だと思ったが、グラインダーズは黙っておいた。
「・・・・・強者の『霊力』・・・か。 ・・・でも、レース。それじゃ何だか変だわ。
だって、アシュレイは血肉に溶け込み、霊気を精製しやすくする霊槍である斬妖槍で魔族
退治を行っているわ。・・・アシュレイはほとんど教わることなく武器と霊気とを併用し
て闘う術を身につけた。 そして確実に腕を上げ続けている・・・たった一人で大きな魔獣
をたくさん倒している。アシュレイは強いわ。
・・・それなのに、どうしてさっきあなたに、あんなに簡単にあしらわれてしまったの?」
「・・・・・」
レースはアシュレイが離れたところで長棒相手に一生懸命格闘しているのを確認して
から、ぼそっと小さな声で言った。
「標的が大きいからです」
「・・・は?」
話をそらされたのかと思ったが、レースは笑っていない。
「的(マト)が大きければ大きいほど矢は当たりやすいものです。アシュレイ様の霊力と
行動力は大人顔負けですが、いかんせん技術が全然追いついていない。
・・・言ってしまえば、思いきり力をぶつけていらっしゃるだけですからね。・・・だから小手
先技では簡単にあしらわれてしまうわけです」
「・・・・・でも、強いことには変わりないのよね?」
「申し上げておきますが、「攻撃は当たらなければ意味がない」です。正確に、相手のダ
メージになるような場所に当てなければ、たちまち反撃されます。・・・今はまだ大きな魔
族が相手だからいいですが、人型魔族の強者が相手だと確実に負けます」
「・・・・・・厳しいことを言うのね」
「魔族相手に負けることは「死」を意味します。 死より厳しいものなどありませんよ」
レースは あっさりと怖いことを言う。 真実だから、怖いのだ。
グラインダーズは何度目かのため息をついた。
「・・・結局、どんなに霊力が強くても、それを使いこなすだけの技術を身につけなければ、
意味がないのね」
アシュレイが、レースに稽古をねだっている。レースが立ち上がった。
「・・・ま、そういうことです。どうします? 今まで通り稽古を続けますか?」
「続けるに決まっているわ。今まで通りだけじゃなく、文殊塾では教えて貰えないことも
ちゃんとね! ―――でも、そうね・・とりあえず喉が渇いたわ」
「承りました。王女さま」
レースが笑い、思いがけない優雅さでお辞儀をして見せた。
CONVICTION
「……けどおまえさ、たまに俺よりアシュレイに優しいことがあるよな。俺が悩んでもアドバイスとかくれなさそうなのに、アシュレイには
するもんな」
柢王がベッドにいる桂花の背中にそう言ったのは、窓の外で朝の光が輝き始める時刻。与えられたツインで眠りに就こうとする前だ。
とはいえ、さっさと眠る気はないらしく、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら隣りに転がり込んできた柢王に、桂花は落ち着いた目を向けて、
「あなたに弱みを見せる気があるとは意外ですね。それに、あれはアドバイスではありませんよ。旅客機のパイロットには勇敢さより
求められるものがありますから」
いつもと同じ声で答える。柢王はその横顔を眺め、
「それはそうだけど、あのタイミングで言われたら俺だってハッとするって。誰だって、一度は考えることではあるけどさ──自分の
規準はなにかって。ただ安全に飛ぶんじゃなくて、なんで安全に飛ぶのかを、基準にしなきゃならなくなる時は来る。けど、アシュレイなんか
端から見てたらなんで悩むんだってくらいいろんなことがくっきりしてるようなヤツなのに、まーそーゆーやつに限って鈍いっつーか、
自覚しねぇっつーか、迷う余地なんかねーだろっつーとこで迷ったり悩んだりするんだからなぁ。んっと、矛盾してるよ」
やれやれと言いたげに、枕の上で喉を反らす。と、クールな美人も苦笑して、
「自分に厳しい人の方が、自覚はしにくいかも知れませんね。誰でも、安全には飛びたいはずです。ただ、自分がなぜ安全に飛ぶかを
はっきりと自覚していないと、人の意見に迷わされる可能性がある。アシュレイ機長がそうだとは思いませんが、理由はわかっていた方が
いいですよね。ただ、大した理由である必要はないんですが……」
「だよなぁ。この空じゃ自分にはムリだから飛びません、でもいいわけだよ。自分さえ自覚して迷わなきゃ。安全に飛ぶ理由はそのまま、
安全のためには飛ばない理由だ。誰かになんて言われても、会社が損しても飛ばない──決定的な理由があるならノーを言うのも簡単だけど、
そうは見えなくてもノーを言うには自分のなかにどんなに小さくても理由がいる。パイロットの判断がいつも正しいわけじゃないけど、
空の上でホィールが握れるのは俺らだけだし、飛べるから行けって言うヤツが実際側にいて代ってくれるわけでもないしさな」
「パイロットの責任はパイロットにしか背負えないですからね。自分の飛ぶ理由は自分で決めないと」
「それがあれば安全を大事にすることにはっきり規準が生まれるってな。けど、アシュレイの場合は、カンのいいヤツの陥穽っつーか、
あんまり大事すぎて、きちんとしねぇと自分が情けないってプライドなのかわかんねぇけど、俺だったら迷わねぇよ。殴らねぇしよ。
そーゆーとこがホント、アシュレイだよ。純粋っつーか融通きかねぇっつーか」
「トパーズみたいに……」
「あ?」
「トパーズという宝石があるでしょう? あれは元々、『内側に焔を探す』という意味の言葉から来ているそうですよ。温度の高い
焔の中は最も純粋だとか」
「……だよな。純粋だから、小さな迷いが自分で気になる。それがあいつのかわいいとこ、だな」
柢王も微笑むと、ふいに、
「けどさ……ひとりで飛んでひとりで降りて。戦闘機の役割が俺らとは違うのは百も承知だけど、そんな飛び方俺にはできねぇよな。
俺は客がブリッジを渡る姿見るのなしで飛びたいなんて思わないけど」
と、クールな美人は瞳を深め、
「それがあなたが安全に飛ぶ理由、ですか。……戦闘機の編隊では、真っ先に、リーダーの機が地面に突っ込めば迷わずそれに続けと
教えるそうです。それだけの信頼がないと戦場など飛べない、ということでしょうが、吾には不合理な信念のようにも思えますね。
それに、吾は後ろにある命しかこわいとは思えませんから、地上のことを考えて飛ぶファイターには向きません」
「おまえの腕で後ろにある命がこわいから安全に飛ぶって言われたら、立つ瀬ねえヤツ山ほどいんぞ。けど……ま、勇気があるってのは確かに、
こわくないってことじゃないよな。それに、危険に飛びこむ翼も安全を絶対視する翼も、同じものを大事にはしてる。後はそのどちらを、
どんな理由で選ぶのか。飛ばない理由も飛ぶ理由も同じことだ。アシュレイだってただ自覚するだけ……なんだけど、これがまた、
言うのは簡単、するのはなぁ」
「ですが、考えられるのは答えが出せるからですよ。どのみち、吾たちがどうこう言っても意味のないことですしね」
桂花は冷静な声でそう答えた後、ふいに瞳を細めて尋ねた。
「──眠るつもりじゃなかったの?」
と、シルクリネンのシーツの上からその体のラインをなぞっていた柢王は笑って、
「考えたら、寝る時間はたくさんあるんだから、もっと大事なことをしたいなぁって」
「あなたこそ、たまには迷ってみたらどうです?」
「いまはダメ。恋人が他の男のこと心配してたら、迷うは俺の選択肢にはねぇもん」
柢王は笑って桂花の体をひっくり返し、その瞳を覗き込む。と、クールな美人の答えは囁くように、
「──可愛いことばかり、言う人ですね」
爽やかな朝の気温は、この部屋だけアシェンダント中──
「本当に迷惑をかけてすみませんでした」
ティアが改めて頭を下げたのはきらきらと輝く王宮から出ていくリムジンのなか。太陽は真上の昼下がりのことだ。
部屋に戻った後もアシュレイのことが気がかりだったものの、旅の疲れもあってうつらうつらしたティアは、迎えに来た航務課スタッフと
共にクリスタル王宮を訪れた。道々、アシュレイから聞いた話とつき合わせて事情を聞き、覚悟を決めて陛下の御前に立った。
いたくご心痛のご様子の陛下は、しかし、ティアが言葉を尽くして、自分がここに来たのは事故に意見があるのではなく、単なる私事で、
事故に関しては口を挟むつもりはないと説明すると、ようやく安堵なされた。そして軍に行くティアに車をご用意下さり、帰り際、
『わが国にも誇れるパイロットがいることをぜひ、ティアランディア殿にもご理解頂きたいものです』
心からのお言葉に、自分が来たことで、陛下にもご心配をおかけしたことがまざまざと理解出来たティアはため息をついたところだった。
が、そんなティアに航務課スタッフは落ち着いた笑顔で、
「オーナー、どうかお気になさらずに。先程も言いましたが、オーナーの立場なら機長を心配するのは当然ですし、私も今回のニア・ミス自体は納得できたことではありません。それでも全員が
ぶじで降りられたことはよかったことです。あとはここからどう対応していくかだけですが、軍も誠実に対応してくださるようですが──」
かれは、ふと口許をほころばせるといたずらっぽい瞳を見せて、
「オーナー。軍の方たちはなかなかに手強いですよ」
その言葉と笑顔にティアは瞳を見開く。
「そ、そうなの?」
尋ねると、スタッフは、
「はい。ですから、こちらも負けないでいきましょう」
気負いのない声でそう宣言する。ティアは思わず目を見張り、そして笑い出しそうになった。
グランド・スタッフと呼ばれる地上勤務員はめったなことでは慌てないし、取り乱さない。できることをテキパキと、柔軟性高く対応する。
バックなし、時に強気なヒコーキ野郎たちを支えているのは、実にこうした決して折れない柱たちだ。フレキシブルなその態度と強さは、
オーナーだって見習いたいもの。
アシュレイのことはまだ気になるし、話したいこともいっぱいあるが。
(私もいまできることをきちんとしよう)
言いたいことを整理するまで待っていてくれと言った言葉を信じて、いまはできることをする。それが自分のいまの役割だし、
アシュレイに対しての信頼だ。
そう自分に言い聞かせたティアは笑顔を見せて、
「お手並みを拝見します」
その信頼を言葉ではっきり宣言したのだった。
「あの、天界航空の機長さんですよね?」
ふいにかけられた声に、アシュレイが振り向いたのは、じりつく日差しが赤毛のてっぺんを焼く街の通り。
仮眠した後、街へ出た機長はTシャツ、短パンのラフななりだが、心はそんなにラフではない。
光まばゆい雑駁な街は、けばけばしい看板が立ち並ぶ通りにあでやかな衣装やみやげ物、香辛料を山盛りにした籠が並んだ店。
食べ物の匂いに潮風と埃っぽさが混じり、濃い緑を揺らす葉の間にはあざやかな花が咲き群れている。ガタつくアスファルトを走るのは
レトロに近いポンコツ車。美しい衣装をまとった褐色の肌の女や男、せわしげなビジネスマンに、リゾート仕様のカップルたちが行き交う眺め。
それはこの五ヶ月のうちで見なれた活気あるでエキゾチックな街の様子で、ふだんならアシュレイは興味津々、ぶらつくが、今日は違う。
「もし、あいつが飛んでこの人たちが助かるなら……」
どんなパイロットでも飛ばせる、という意見はリアルなものとして実感できる。
でも、旅客機の機長だって、それと同じ責任を抱えて飛んでいるのだ。だからそのことを、頭と心を整理して、みんなにわかって
もらえるように。自分が本当にみんなを守れるように。
(伝えられるようにならなきゃ……)
と──、心に噛みしめていた時だったので、アシュレイははっとして、振り向き、目を見張る。そこにいたのは見覚えのない若い男女。
きょとんとしたアシュレイに今度は男の方が笑顔を見せて、
「昨日の便の機長の方でしょう? 見送りに出て来てくれましたよね?」
「あっ」
昨日は軍の基地だし、客がバスに乗って去るまで見送ったものの、ふだん接点がないアシュレイには客のひとりひとりの顔までは記憶にない。
慌てながら頭を下げて、
「昨日は大変ご迷惑をおかけしました」
言ったのに、
「いいんですよ。新婚旅行のいい記念になりましたから」
「ほんと。CMで見て選んだ飛行機でしたけど、こんなにわくわくするなんて思わなかったし、それに機長さんがお若いのにも驚きました。
アナウンスとかとても落ち着いていたからもっと年配の方かと思っていたんですよ」
と、微笑むカップルは、見れば真新しいリングも揃いの仲睦まじい様子だ。その幸せそうな笑顔にアシュレイは目を見張り、そして、
あの…と尋ねかけた。
「……わざわざ、うちを選んで乗ってくださったんですか」
と、カップルは頷いて、
「ええ。去年でしたっけ、金色の翼で行くリゾートのCM。虹が出てすごくきれいで。それを見て、ふたりで決めたんです。新婚旅行は
絶対にこの金色の飛行機で行こうねって」
「新婚旅行くらい、夢のあるものがいいよねって話してて、でも、本当に夢みたいなフライトでしたよ」
「夢みたいな、フライト……?」
「あー、パイロットの人だと、空の旅は当たり前かも知れないですけど、僕たちにはめったにない経験だから。とても楽しかったし、
ずっと自分たちが特別な旅に出ているんだなあって思えたんですよねぇ」
と、男の方が照れ臭そうに笑顔を見せる。その言葉に、アシュレイは瞳を瞬かせた。胸の奥になにかあたたかいものが沸き起こるような
ふしぎな気持ちに、そのふたりの顔を見つめたが、ふいに女の方が手を打って、
「あ、それで、お願いがあるんですけど……よかったら、一緒に記念撮影してもらえないかなと思って」
その言葉に、アシュレイは、えぇっと飛び上がった。いや、記念撮影はいいが、
「あっあのっ、でもこんな格好なんですけどっ…!」
いくらなんでも新婚さんの記念写真にこんな格好はないだろうっ! が、ふたりは笑って、
「いいんですよ、格好は」
「これが僕らの飛行機の機長だって、僕らはわかっていますから」
その言葉に、アシュレイの頬は紅潮する。
見ず知らずのカップルの輝くような笑顔の横で、新米機長は通行人が引き受けてくれたカメラに目を向ける。
「はい、撮りますよ!」
カシャ、とシャッターの下りた瞬間。
そこに映った機長の笑顔は、久しぶりの晴天だった──
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