投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
その日、めずらしく柢王とのケンカが長引いて、仲たがいしたまま城へ戻ってきたアシュレイ。
さんざん怒りまくった挙句、ベッドに横になる頃には自分の方が悪かったのだと頭は冷えていた―――――が、かっこ悪くてとても頭を下げる気にはなれない。
柢王と取っ組みあいのケンカなんて、ざらだ。技を出しあって互いにケガを負わせることだってしょっちゅう。でも何度くだらない事でケンカしようとも、後を引くことはほとんどなかったのに・・・。
けっきょくアシュレイは、次の日塾へ行っても柢王とは顔をあわせないように気をつけ、その次の日もまた次の日もと、とことん避けつづけた。
それに気づいたグラインダーズが、自分の部屋にアシュレイを呼びだす。
「アシュレイ、いつまでもつまらない意地をはるのはおよしなさい。自分の非を潔く認めるというのも大切なことだわ。そして認めたのなら相手にきちんと謝罪すべきよ」
そこまで言われたというのにこのままでいたら、姉に軽蔑されてしまうだろうし、何よりこの先ずっと柢王と話したり遊んだり出来なくなるのは嫌だったので、アシュレイは思い切って謝りに行くことにした。
(鼻で笑われるかもしれない・・・だから言っただろって、バカにされるかも・・・)
飛びながらアシュレイの顔色は冴えない。
柢王がもし、自分をあざ笑ったら・・・・またケンカになってしまいそうだ。ため息をこぼしながら東へ向かうアシュレイだった。
「おーっ、来たかアシュレイ、なんか久しぶりな気がするな」
剣の素振りをしていた柢王が空に浮いているアシュレイに気づいて手を振る。
「なんだよ、ずいぶん俺のこと避けてくれたなお前。こっち来て顔見せろよ」
「・・・・・」
くちびるを尖らせたまま下におりると柢王が汗を拭きながら使い女に冷たい飲物を所望する。
「どした、そんな顔して」
「柢王・・・・・俺・・・この間は・・・・・」
「うん」
「その・・・・俺が・・・・悪かったっ!これで文句ないだろっ、じゃあな!」
「こらこら、待てよ!」
脱兎の如く飛んで逃げようとしたアシュレイの足首をしっかとつかんだ柢王はそのまま華奢な体を地上に戻す。
「そう慌てンなって。ノドかわいてるだろ?ちょっと休んでいけよ」
「・・・・・ん」
恐れていたような意地悪もイヤミも言わず、出されたジュースを飲む自分を満足そうに見つめる柢王。その後も、アシュレイに剣の相手をさせたり塾の宿題の多さに文句を言ったりするだけで、話を蒸し返すようなことは一切しなかった。
本当に反省している相手にしつこく説教をするような男ではないのだ。物事を冷静に判断し短時間で見極めることが、このころの柢王はすでにできていた。
「そろそろ帰る。またな、柢王」
「おう、寄り道すんな?暗くなる前に城に戻れよ」
「ガキか」
「ガキそのものだろ」
ハハハと二人して笑って、晴れた気分のままアシュレイは柢王と別れた。
「・・・あのヤロ。暗くなる前に帰れだって、バカにしやがってサ」
飛びながら顔がゆるんでしまう。柢王と仲直りできることがこんなに嬉しいなんて思っていなかった。
―――――そういえば、すっかり忘れていたがもっと小さい頃・・・柢王とアシュレイが探検ごっこをした帰り、暗くなりはじめた空の下でアシュレイは無意識に柢王の手をにぎったことがあった。
べつに怖いからでもなんでもなく、ただ、姉のグラインダーズと暗い道を歩く時「手を繋ぎなさい」と強制されていた為そのクセがつい、出てしまっただけのこと。
ところが運悪くその現場を見かけた者がいて、翌日になると教室にアシュレイの悪口が書かれていたのだ。
半分に破られた画用紙が自分の席近くに落ちていたのを拾い、つなぎあわせると『柢王〜暗いよ〜こわいよ〜』アシュレイと思しき人物に書いてあるセリフ。
それを見て逆上したアシュレイは犯人をつきとめようと走り回った。
ところが見つけた出した犯人は柢王によって既に伸されていたのだ。
「俺がやりたかった!」
文句を言うと彼は「悪かったな」と笑いながらアシュレイの肩をたたいた。
「なぁ、アシュレイ。俺はあの時うれしかったんだ。俺には兄貴が二人いるけど、並んで手ぇつないでもらったことなんか一度もねぇよ。だからお前がああして手を握ってきてくれて、なんか弟ができたみたいでうれしかった」
この時、アシュレイは「弟だとぉ?」とか「別にお前と手をつなぎたくて握ったんじゃねぇ!」とか「お前、あの兄貴たちなんかと手ぇつなぎたかったのかっ!?」とか、頭の中でグルグル回ったのだが、それらは口から出てこなかった。「うれしかった」と連発する柢王だったが、そんな彼がちょっぴり寂しそうに見えて言えなかったのだ。
だから本当のことなんてどうでもいい。
自分と二人でいるときの柢王は、グラインダーズと似てる雰囲気がたまにあるから――――だからまた、ついまちがえて無意識のうちに手を握ってしまうかもしれない。
そして、それで柢王が喜ぶんなら別にいいや――――そう思った。
「・・・・・・」
「・・・・・どうしたの、アシュレイ――――泣いてるの?怖い夢みた?」
となりで半身起こして顔をぬぐっている恋人を心配そうにのぞきこむティア。
「・・・・・なんでもない」
「アシュレイ?」
今までずっと、自分は柢王にも守られてきた。
だから、彼が守りたくても守れなくなってしまったもの全てを・・・・・人界から離れたがらない桂花のことも、これからは自分が守りたい・・・・・。
「・・・・お前も俺が守る」
「え?」
「いいから寝ろ」
起こしてしまって心配かけて。この言い様はないだろうと自分でも思うが、アシュレイはそれ以上なにも言わずティアに背を向けて寝てしまった。
恋人が夢をみて泣いていたことは明らかだったが、ティアは詮索しない。今、自分を守ると言い切ったアシュレイの瞳には、強い意志が宿っていたから。
(私だって、君を守るよ)
寝息をたてはじめた恋人の髪をそっと撫でながら、ティアもふたたび眠りについた。
雨足は強くなる一方なので撮影は延期になった。桂花はあれから柢王の方を一瞥すらせず、寧を伴って別の仕事先へと向かった。
柢王はいつになく落ち込んでしまったので、気晴らしにジムへ出かけた。ハードな運動をする気にはならず、プールでゆっくりと何周も泳いでいた。
ふと隣を見ると流れるようなフォームで泳いでいる女がいた。柢王が顔を上げると、彼女も丁度水から顔を出し、コースロープ越しに目があった。輝くような赤毛の、目も覚めるような美女であった。女は微笑んで会釈した。気があるのか、単なる社交辞令なのか見分けるのは柢王には簡単だ。今回は完全な後者であった。前者であっても今は乗る気にならない。でも気がないと分かっている相手と話すのは良い気分転換になりそうだ。柢王も会釈を返して話しかけた。
「ここにはよく?」
「いいえ、お客様に招待券を頂いたから来てみたの。良いジムね。あなたは常連さん?」
「えぇ、よく来ています」
「そう、もっと早くここに来るべきだったわね」
女は笑った。水を弾く白い肌がきれいだ。でも恐らく年上だろう。多分桂花よりも。
「泳いだら喉が渇いたわ。付き合ってくださる?」
柢王は喜んでその申し出を受けることにした。
2人はアイスコーヒーを買ってプールサイドの椅子に腰掛けた。
「あなた黙々と泳いでいたわね。一日何キロ泳ぐとか目標でもおありなの?」
「いえ、普段は上でトレーニングしていますが、今日は泳ぎたい気分だったんです。ひたすら泳いでいると何も考えずに済みますから」
「あら、恋?」
「そんなところです」
「上手くいっていないのかしら?」
柢王は苦笑した。
「実は振られました。いや、これまでその人に何回も告白しては振られ続けているんですが。でも今回は怒らせてしまって」
いつもならこんなこと話さないのだが、理知的できれいな瞳を見ていると彼女なら話してもいい気がした。
「次に行かないの?あなたなら相手に困らないでしょう」
「今までだったらそうしていたんですけど。でも今回に限ってはここまで思える相手は2度と現れないって思っているんです」
「純情ね」
「そうですね。自分でも意外ですが」
「なぜ振られたの?」
「分かりません。あまりにストレートに行きすぎたのかなとは思っていますけど」
「そんな手を使うようには見えないけど」
「普段は違います。でも今回は頭を使う余裕なくて。だから気持ちのままに行くしかなかったんです」
「上手い手とは思わないけど素敵ね。で、何と言われたの?」
「あなたに振り回されるのはたくさんだ、と」
「あら、ではあちらも少しはあなたの言葉に揺れていたということかしら?」
「そうだったら嬉しいんですけど。嫌われたら意味ありませんが。でもやっぱり諦めがつかないんです」
「ままならないから恋は魅力的なのよね。魔力と言ってもいいわね」
「あなたも恋を?」
「年の功と言うのかしら。きっとあなたよりは経験豊富よ」
「分かりますよ。あなたは魅力的ですから」
「ありがとう。でも私を口説いても無駄よ」
「そいつは残念ですね」
「口先だけでそんなこと言ったって駄目よ。上の空で口説かれても幻滅だわ。女だったら分かるし、それが分からないような女ならやめた方が賢明ね」
「座右の銘にしますよ」
女は鈴を転がすような声で笑った。
女はプロポーションも素晴らしく、行き交う他の客達は皆、振り向いていた。
気持ちは分かるぜ、と柢王はアイスコーヒーを飲みながら思った。多分自分がいなかったら声をかけてくる男はわんさといただろう。
そういえばこんなところ、週刊誌に撮られたりしないだろうな。今まで特に何とも思わなかったが、今、撮られたら余計桂花の信用を失いそうな気がする。それは困る。ヒジョーに困る。
「あら、どうかしたの?」
落ち着きをなくした柢王に女は尋ねた。
「いや、何でも、すみません。みんな振り返るからこんな美人と一緒にいるのかと今更ながら緊張してしまって」
女はクスリと笑った。
「そう。てっきり週刊誌に撮られないか心配しているのかと思ったけど」
「・・・バレていましたか」
「自分のところのスタッフがお世話になっている俳優さんが分からないほどぼんやりしていないわ」
「えっ?」
「うちのスタッフのヘアメイクの技術はお気に召して頂けているかしら?」
「…と、いうことはあなた、李々?」
「私をご存知なのね。光栄だわ」
桂花の名前を出さなくてよかった。けれどこれは桂花のことを知るチャンスだ。
「桂花の腕にはいつも感心していますよ。今まで会った中じゃ最高だ」
柢王は心からそう言うと、
「桂花とはパリでお会いになったそうですね」
と、少し身を乗り出した。
「事務所を立ち上げたばかりの頃にね。あの子がパリで勉強していた時に会ったの。素晴らしい才能だったからすぐに事務所に誘ったわ」
そこまで言うと李々は優雅な仕草で首を傾けた。
「あの子に聞かなかったの?」
「あいつとはゆっくり話す暇がないんですよ」
「そう。そしてあの子は自分のことを話さないから」
「昔からですか?」
「そうね、私の影響かしらね」
「あなたの?」
「えぇ。私の哲学なんだけど。・・・『絶対はない』」
「絶対・・・?」
「そう。特にこの仕事しているとね。もちろん仕事だけではないけど、そう思う場面にいくつも出会うわ。あなたも経験がおありだと思うけど」
柢王も李々の言うことは理解できた。芸能界という華やかな世界の裏側は美しさから程遠い。今の地位を明日、突然失う。それが決して驚くような話ではないこの世界で、第一線を走り続けることがどれほど難しいか柢王はよく知っていた。
「桂花もそんな経験が?」
「仕事もそうだけど、あの子は恵まれた環境で育っていないから余計私の言うことが理解できたのね。でもこの業界で成功するには正解かもしれないわ」
「あなたも桂花との関係がいつまでも続くとは思っていないのですか?」
「私達はこれまで支えあってやってきた。これからもそのつもりだけど、でも、いつもどこかで終わりを予感しているわ。悪い意味ではないの。例えばあの子が独立するとか、違う所で仕事をするとか、私の元から離れていくことを、ね」
「自分を委ねられる誰かを見つける、とか・・・?」
「それはあなたが望んでいるのではなくて?」
李々は柢王を流し目で見た。
「あなたが熱烈に想っている相手ってあの子でしょう?」
「えぇ」
柢王はあっさり認めた。李々は肩をすくめた。
「あなたって本当に良い度胸しているわね。誰が聞いているか分からないのに。そこが大物になれる所以なのかしら」
「度胸はないですよ。今だって明日、桂花と会うことにこんなにビビっている。俺の不用意な一言で本当にあいつに嫌われるかもしれない」
あるのはどうなっても、どこまでも桂花を追いかけるという決意だけだ。
「あの子は今までたくさん傷ついてきて、だから容易に自分をさらけ出せない。でもそれでくだらない人を近づけないのなら、それは良い事なのかもしれないわね。私はあの子を実の子のように思っているの。下手な人には渡したくないって思うほどには」
「それはあいつを縛り付けているのではないですか?」
李々は挑戦的な笑みを浮かべた。
「そうかもね。でもあなたに言われたくないわ。あなた相当独占欲強いタイプでしょう?今までその独占欲を刺激する相手と出会っていなかっただけで」
「おっしゃる通りですよ。俺はスゲー嫉妬深いし、独占欲も強い。今だってあなたにスゲー嫉妬している。だからあなたの思う壺にはならないつもりです」
「今の状況ではあなたが絶対的に不利ね。あの子が寄せている信頼も信用も私の方が上だもの」
「俺、諦めも悪いんです。さっきも言いましたが」
「諦めの悪さだけで人の心が動くかしら?あなたほどモテる人だったらそれはよくお分かりだと思うけど」
「確かに戦局は圧倒的に俺が不利ですよ。あなたのカードの方が断然有利だ。でも、俺はゲームオーバーになっても諦めませんよ。何セットでもやってやる。体力には自信があるんです。確かめてみます?この後にでも」
「魅力的なお申し出だけどやめておくわ。前途ある若者の自信を失わせたら気の毒だもの」
李々はフフっと笑うと立ち上がった。
「さて、そろそろ行かなくては。面白い時間が過ごせたわ、ありがとう」
「桂花は俺のことは信じないがあなたの言うことは信じちまう。あいつに変なこと吹き込まないで下さいよ」
「さぁ、どうしようかしら。女の細腕でこの世界を生き抜くにはズルい手も使わなくてはならないの。・・・あなたもお気の毒ね。こんな気難しい姑がいる人を好きになってしまうなんて。今度は家族構成もきちんと調べてからにした方がいいわね」
「生憎、『今度』なんか考えてもいないし、そんな物はいりませんよ」
「危険な橋ばかり渡ろうとしていると破滅するかもしれないわよ」
「あいつに破滅させられるなら本望ですね」
「ロマンチストだこと」
「恋する男は誰だってロマンチストですよ」
李々は艶やかな一瞥を投げると出口へと歩きかけて、振り向いた。
「週刊誌に撮られるかどうかの心配なんて今更じゃなくて?それに桂花との秘密の恋を続けたいなら世間には私と付き合っていると思わせておく方が便利なんじゃないかしら?」
「それは俺とのことを許していただけるということですか?」
「あなた次第ね。言ったでしょ?下手な人には渡さないって。お手並み拝見というところね。不合格だと思ったらいつでも邪魔して差し上げるからそのつもりで」
「心しておきますよ」
見惚れるくらい美しい後ろ姿がドアの向こうへ消えると同時に柢王は椅子の上にひっくり返った。
リフレッシュするつもりで来たのに。余計に疲れてしまった。
次の日の撮影。やはり桂花は自分の仕事以外は柢王を一瞥もしなかった。柢王も氷点下の怒りを感じるので近寄らなかった。それを無視する無神経さは持ち合わせていない。そんな膠着状態で撮影は何事もないかのように進行していく。柢王も何事もないかのように仕事に没頭しているように見せていた。それが出来ないようではプロではない。
数日後、柢王は他局でトーク番組の収録があったので撮影を休んだ。
トーク番組はどこもほぼ同じだ。もう慣れた。
観覧席から上がる黄色い悲鳴に爽やかな笑顔で応えること。プライベートの話に自身の恋愛観。素の自分を、少しだけ「芸能人」というオブラードでくるんで、雑誌の取材でもどこのトーク番組でも矛盾がないように気をつけながら話すことも。全てさらけ出す必要はない。求められている分だけ提供すればいい。まさか今、男への片思いに悩んで悶々としています、なんて言えないし、そんなこと誰も知りたくないだろう。事務所も大混乱になるし。週刊誌は知りたいだろうがそんなサービスしてやる必要はない。第一、桂花が傷つくことだけは絶対嫌だ。
柢王はプライベートや仕事の失敗談などを披露してスタジオを沸かせながら、収録は和やかに進んでいった。話題は柢王の現在の仕事に移った時、同じくゲストで来ていた大物女優が口を挟んだ。
「あなたのドラマのヘアメイクさんって李々のお弟子さんなんでしょ?」
こんなところで桂花の話題が出るなんて思わなかった柢王は驚きつつも頷いた。
「あ、はい。桂花ですか?」
「私、李々とは親しくして頂いているんだけど、この後パーティがあって彼女にメイクをお願いしていたの。でも彼女、急用で来られなくなって。それで急遽、彼女の1番弟子の桂花を寄越してくれたのよ。ついでだから、さっきもメイクやってもらったんだけど。彼、いーわねぇ。さすが李々の1番弟子だけあってすごく上手いのよ。しかもものすごく美形だし」
女優は上機嫌でオホホと笑った。司会のお笑い芸人は「美形だからってー」と突っ込んでスタジオが笑いに包まれたが、柢王は聞いていなかった。
早く収録が終ることをひたすら願った。
行きつけのバーに集まった女友達は、それぞれ最近のことや芸能界の噂話を披露してくれた。空也も嬉しそうにモデル達と話していた。
「そういえばヘアメイクって桂花なんでしょー?彼も誘ってくれれば良かったのにー」
1人が甘えた口調で柢王を見上げた。
俺が1番来てほしかったんだ!と柢王は心の中で叫びつつ
「事務所で仕事があるからって断られちまってさ」
彼女の髪を指で撫でた。
「そーだ!この後、みんなで彼のとこに行かない?」
柢王の向かいに座っていたモデルが声を上げた。
「あー、それいいね!」
他の女性達もはしゃいだ声で賛成した。
「何だ、みんなあいつの事務所の場所、知ってんのか?」
柢王が尋ねると、皆口々にその場所や周辺の目印になる店などを言い出した。
勿論行くつもりだった。
勿論1人で。
閑静な通りにその事務所はあった。買い物袋を提げた柢王はスタイリッシュな建物を見上げると窓から灯りが見えた。階段を上っていくとガラスのドアがあり、中を覗くと灯りに照らされて少しオレンジ色がかった白い髪がこちらに背を向けてテーブルに向かっていた。鍵が開いていたのでそっと扉を押すと、夜の静寂にカウベルの軽やかな音が響いた。白い髪が振り向くと、柢王は袋を持った腕を上げて軽く振って見せた。
「陣中見舞い」
「飲んでいたんじゃなかったんですか?」
2次会をせがむ女友達を空也に任せた後、柢王はこの場所に向かった。桂花の事務所へ行く話から巧みに話題を逸らせたことと皆、酔ったこともあり、解散時にその話題は出なかった。
「もう解散した。明日も撮影だし。本当に仕事だったんだな」
「嘘かどうか、確かめに来たんですか?」
柢王はいささか剣呑な眼差しに、けろりと言った。
「つーか、こんな遅くまで仕事なんてやっぱ気になるじゃん」
「あなたって本当に変な人ですね」
「ははっ、やっぱ?」
桂花はため息をつくと立ち上がってコーヒーを淹れてくれた。今すぐ叩き出すつもりはないらしい。
「で、本当は何なんですか?」
「疑り深いなー。本当に気になったんだぜ。前にも言ったろ?惚れたんだって」
そう言うと柢王は袋をテーブルの上に置くと中身を次々と取り出した。
「ワインと、あとチーズだろ。クラッカーも買ってきたんだ」
「・・・まだ仕事中ですので」
「んじゃあ、チーズとクラッカーだけにしとくか?このコーヒー美味いな。これにも合うと思うぜ。それにこのチーズ、美味いって評判なんだ」
「彼女から教えてもらったんですか?」
「いーや、女友達」
「あちらはそう思っていないのでは?」
「んなことないって。みんな適当に遊んでいるぜ。俺はその遊び相手の1人」
桂花は信じていなかった。この男の噂は度々聞いていた。それでも今のところ悪い噂を聞かないのはよほど要領が良いのだろう。たまに週刊誌にデート写真が載って軽く噂になる程度だ。
桂花は美味そうにコーヒーを啜っている男を冷ややかに見た。でもそんな素行で惚れただの本気だのと言われて真面目に取れるわけがない。自分の何に興味を抱いたのかは知らないが、面倒なことには関わりたくない。
柢王はチーズを口に入れ、呑気に「やっぱ美味いな、これ」と頷いている。そしてクラッカーにチーズを乗せるとテーブルの前にじっと立っている桂花に差し出した。
「ほら、お前も食えよ。美味いぜ」
桂花は無表情でクラッカーを受け取って口に入れた。口の中にクラッカーのサクサクした食感と濃厚で微かに甘いチーズの味が広がって柔らかく溶けていった。
柢王は嬉しそうに桂花を見ていた。
「な、美味いだろ。ワインと合わせるともっといけるぜ。ワインやるからまた試してくれよ」
「頂けませんよ、こんな高価なもの」
仕事で出席したパーティで、ワイン好きの主催者が勧めてきた物と同じ銘柄だった。
「いーって、遠慮すんなよ。今度来る時まで預かっておいてくれ」
「また、来る気ですか?現場で会うのに」
「いつだって会いたいんだ。現場だけなんて足りない。ずっと一緒にいたいんだ」
何の捻りも工夫もない台詞を恥ずかしげもなく、真っ直ぐ桂花の目を見て言った。
桂花は髪をかき上げた。
「あなたって諦めが悪いのか鈍感なのか。何でそこまで拘るんです?」
「昔から、本当に欲しいって思ったものは諦めないタチなの。でも正直こんなにホネがある奴は初めてだけどな」
「今までの彼女達もそうやっていたんですか?」
「いや、どっちかって言えば向こうから。まぁきっかけ作ったのは俺ってことが多いけど。それに関しては追う側になったことはないぜ。成り行きによってはちょっと追ったこともあったけど」
「あなたって最低ですね」
「嫌いになった?」
屈託ない表情で言われて桂花は心底呆れた。
「嫌いになるほどのことではありませんけどね。ただ、残念ながらあなたの気持ちには沿えません」
「それって無関心ってこと?」
「えぇ、具体的に言えば」
「きついなー。好きの反対は無関心だぜ」
「吾としては好都合ですね」
桂花は自分のコーヒーを継ぎ足した。柢王が「俺も」とカップを差し出してきたので淹れてやった。
柢王は天井を仰ぎ見た。
「振られたのは人生初だな」
「良い人生経験になったでしょう」
「本気で惚れたのも初めてだけど」
「人生最良の思い出の一つですね」
「おい、もう過去かよ」
柢王はがっくりと項垂れた。その様子に桂花の口元が思わずほころんだ時、柢王はがばっと顔を上げた。
「あっ、今ちゃんと見てなかった!」
「は?」
「今、お前笑ったろ?お前が笑ったとこ、初めて見た。一瞬だけしか見られなかったけど、スゲー、キレかった。なぁ、もう1回笑ってくれよ」
目を輝かして身を乗り出してくる柢王に桂花はため息をついた。全く、この男には何回ため息をつかされることか。
「何、馬鹿なこと言っているんですか。それよりコーヒー終ったでしょう、早く帰って下さい。明日も撮影なんですよ」
そう言うと桂花はさっさとテーブルの上を片付け始めた。
「えー、もう1回くらい、いーじゃんかー」
椅子にしがみ付いてブーブー言う柢王をとっとと玄関まで追い立てた。扉を開けると夜の涼しい空気と玄関脇にある鉢植えの花の仄かに甘い香りが室内にひっそりと入ってきた。
柢王は空を見上げ
「明日も良い天気かな」
と呟くと桂花を見た。
「ありがとな。突然押しかけたのに付き合ってくれてさ」
いきなりそんなことを言われたので桂花は面食らった。
柢王は優しい目で笑いかけると「じゃーな」と言って階段を降りていった。その後ろ姿をぼんやりと見送っていると、数段降りた柢王は突然回れ右で駆け戻ってきて
「なぁ!おやすみのチューするの忘れてたんだけど」
と真面目な顔で言ってきたので桂花は男の鼻先でバタンと扉を閉め、鍵を掛けた。そして振り向きもせずにキッチンへ行くと食器を洗い始めた。
「何だよー、舌までは入れねーぞー」
不穏なことをぼやきながら階段を降りていく足音が聞こえた。
桂花はふと振り向くと、テーブルの上には柢王が持ってきたワインが残されていた。冷蔵庫にしまおうとしたが、そのまま自分の鞄の側に置く。オレンジの灯りが一つついた部屋は柢王が来る前と同じはずなのに、何だか今はガランとして見える。扉を開けた時に入ってきた花の香りと夜の空気と共に子供のように騒ぐ声と、桂花の目をまっすぐ見て話す時の温かくて深い声とが、気配のように漂っているように思えた。
本当に厄介な男だ。桂花はこの夜、何度目になるか分からないため息をついた。
食器を拭くと、桂花は柢王が座っていた椅子に腰掛けて鞄の側にひっそりと置かれているワインボトルを眺めた。
・・・本当に、厄介だ。
次の朝、柢王は桂花の姿を見つけると「よっ、昨日はごちそう様」と声を掛けてきた。それに桂花は素っ気無く挨拶を返した。柢王はいつもと同じようにメイク中も1人で喋っていた。
ほんの一瞬風が起きただけなのに、桂花の胸には嵐が去ったような痕跡を残していた。それなのにこの男は全く変わらないのだ。馬鹿らしい。こんないい加減な男のために気持ちが僅かでも揺れるなんて全くの無駄だ。桂花は瞳に険を宿して黒髪にワックスを付けていった。
一方で、柢王は常にない桂花の様子を敏感に感じ取っていた。他の人間では分からないような違いだが、いつも桂花ばかり見ている柢王には大きな違いだった。
・・・チューさせてと言ったことが気に入らなかったのかな。でも、そんな程度のこと(?)で今更気分を害すようにも思えない。
とにかく昨夜の訪問が桂花の心に波紋を投げたことだけは確かだった。
柢王は僅かに乱暴にドライヤーで髪を乾かす桂花の手を感じながら鏡越しに桂花を盗み見た。
自分でも桂花の心を揺さぶることができるらしい。
それって期待してもいいんだよな。柢王は心の中で確認する。普通なら気分を損ねさせてしまったことに落ち込むが、神経が図太いのか1本ないのか柢王の思考回路はポジティブだ。
かくしてやたらに温度差のあるメイクルームであった。
今日の撮影は午後から外で行われた。
「はいっ、オーケー!」
監督の声で現場の空気が緩み、スタッフ達が動き始める。柢王もモニターで自分の演技を確かめていた。と、頬にポツリと雫が落ちてきた。いつの間にか雲が厚くなったと思った時、細い透明な糸のような雨がサラサラと降ってきた。スタッフ達は慌てて機材を片付け始め、出演者達もロケバスに乗り込んだり、日除けのテントの下に入ったりした。
柢王はテントの下でコーヒーを飲みながら視線で桂花を探した。どこにいても真っ先に桂花の姿を探してしまうのはもはや癖である。桂花はもう一つのテントの下にいた。柢王は紙コップにコーヒーを入れてそちらへ移った。
桂花は気配がしたので振り向くと、柢王が紙コップを2つ持って駆け込んできた。
「お疲れさん」
柢王は紙コップに入ったコーヒーを差し出した。いりませんと突っぱねたいが、大人気ない振舞いをするわけにもいかず桂花は黙って受け取った。撮影が続いていたら話しかける隙なんて与えないのに。どうしてこんな考えなしの味方につくのかと桂花は天を恨んだ。さらに不幸なことにこのテントの下にいたのは自分1人であった。静かでホッとしていたのに。
「昨日のことさ、怒ってる?」
考えなしは桂花の心情にまるで無頓着に尋ねてきた。
「あなたはどう思っているんです?」
桂花はコーヒーに口も付けずに冷たく聞き返した。
「俺はさ、お前と2人っきりで話ができてスゲー嬉しかったよ。現場だとゆっくり話できないし」
当たり前だ。そんな隙なぞ与える謂れはない。
「そうですか」
「でも、それだけの価値はあると思うぜ」
「そうでしょうか?」
「そうさ。少なくとも俺にとってはそれだけの価値があるんだぜ」
「あなたが吾の何を知っているんです?」
「そう、何も知らない。だからお前のこともっと知りたい。どうでもいい奴にはそんな気持ち、持たないぜ」
「吾はあなたのこと、知りたいとは思いませんけど」
「いいさ。俺が勝手にそう思っているってだけなんだから」
そう言うと柢王はコーヒーを飲んだ。
これだけあからさまに拒絶しているのに、なぜこの男は懲りないのだろう。しかも相手はトップスターだ。桂花を下ろすことだって造作ないし、それくらいは覚悟していた。普段はここまでしない。これまで桂花に近づいてきた人間は数多くいたし、しつこい相手もいたが適当にかわしてきた。自分の仕事に支障がないように。こんな人間は初めてだ。こんなにしつこくて、熱くて、真っ直ぐな・・・。
桂花はコーヒーを一息に飲み干すと紙コップをカンと音をたてて、組み立て式のテーブルの上に置いた。
「いい加減にして下さい」
「桂花?」
訝しげに桂花を見下ろした柢王の顔を桂花はまっすぐ睨み上げた。
「あなたに振り回されるのはたくさんです」
「桂花?どうしたんだよ?」
桂花はそれに答えず、テントから走り出るとロケバスに乗り込んでいった。
― どうしたんだよ?
そんなの、こっちが教えてほしいくらいだ。
高度四万フィート、快晴、自動操縦中のコクピット。
「えー、皆様、こんにちは。コー・パイロットの空也です。本日は再び、皆様に小辞典をお届致します」
「小辞典じゃねーだろ、今回。つか毎回毎回、なんでおまえなんだっつーの。それも俺ん時。俺になんか恨みでもあんのか」
うんざした顔でため息つく機長に、コー・パイは慌てて柢王を振り向く。
「俺だって志願してないですよっ。ただオーナーから提案があったとかで命令受けたんですからっ。柢王機長、なんか元気ないですけど
ごはん食べましたよね、さっき?」
「飯が俺の人生の悩みかよっ。…ったく、六日も会えてねぇのに代理で四日も出ちまうなんて呪いだろ、絶対」
低くつぶやいた機長に、人の顔色は見るが詰めの甘いコー・パイは好奇心いっぱい、
「え、それってCAのことですか。というか、それってもしかして欲求──」
ゴキッ。左席の機長が肩の関節を鳴らす。コー・パイは青ざめ、
「で、では練習をはじめます。皆様。今回は航行全体様子を交えた用例集です。まずは離着陸の様子からです」
手製のテキストを開いて読み上げる。
「離着陸はパイロットにとって最も緊張する場面だと言われ、実際その11分間での事故が最も多いという統計もあります。そのため
離着陸の間は一切の私語が禁じられています。それが『サイレント・コクピット』と呼ばれる状態ですね。そのため、打ち合わせはつねに
事前に済ませておきます。それが『ブリーフィング』です。例えば離陸時だと目的地、ランウェイの確認、飛行時間、高度、風向きと強さ、
離陸中止の際はどうするかなどを打ち合わせします」
一呼吸。つっこみがないので安堵した顔で続ける。
「離陸のシーンは柢王機長たちの研修の場面を思い出して下さい。あの時は、『VR』、つまり、ローテーションという機首の引き起こしから
始まりましたが、その前に実は『V1』と言う大切なコールがあります。これは『離陸決心速度』と呼ばれるものです。離陸時、飛行機は
エンジン全開で加速していますからいきなり止めることができません。下手にとめようとして滑走路を越えてしまう『オーバー・ラン』などの
事故を防ぐために、この速度を越えたら何があっても絶対に離陸しなくてはならない、それが『V1』です。不具合がある場合は一度離陸し、
あらためて降りてくることになります。問題がない場合は上昇しながら揚力を調整する翼、プラップを戻して車輪をしまいます、これが
『ギア・アップ、プラップ・オン』です」
息継ぎ。機長は頷いて、
「あってんな」
空也がほっとした顔で言う。
「テキスト作った甲斐がありました」
「テキスト作んねーと説明できねーことかよ、おまえには」
「つ、次は上昇中ですねっ。飛行機はタイヤが離れてから五分後には上空一万フィートにいると言われています。航行中の速度は大体
時速700kmくらい。計器のバランスが取れ、特に問題がなければその時点で自動操縦に切替えます。そのオート・パイロット、略して
オー・パイへの切替えのやり取りは、機長!」
「プッシュ・センター・コマンド!」
「ラジャー・キャプテンっ!!」
「ほんとに押すんじゃねぇーっ!」
「あああーっ、つい癖でーっ」
オー・パイが外れ、ひとしきりゆれる機体。顔色変えた機長がホイールを繰って機体を安定させる。ふたたび自動操縦。
「スタピライズドっ(機体は安定しています)」
空也の報告に機長は鋭く、
「おまえだろ、安定してないのっ! いーからさっさと続けて終われっ」
「は、はいっ。い、いまのように、自動操縦の間も操縦者は必ず操縦ホイールを握っています。ハイテク機の自動操縦はもうひとりのパイロットと
言ってもいいほど精巧で、時にパイロットよりうまいとまで言われますが、プログラムしていない事態には対応ができません。ですから
自動操縦でできる技術が複雑になればなるほど、その機の操縦ができるパイロットの技術も高いのが当然です。いまのがいい見本ですねっ」
「実験かよっ。つかおまえ一回監査で落ちろ!」
「そんなっ、落ちたら飛べないじゃないですかっ」
「飛んで落ちるよりましだろーがよっ。あーもー、早く終われっ」
「は、はいっ。その間、コー・パイはチェックリストを出して確認をしたり、通信をしたりなど分業作業をしているのでオー・パイの間も
決して遊んでいるのではありません。通常、航空機の無線は三回線あります。ひとつは緊急事態が起きた時の非常回線。もうひとつは
管制塔からの無線。最後は会社からの無線です。パイロットはいつも耳につけたイヤホンでその無線を聞いています。そしてときおり前方を
行く機から状況を知らせる無線が届きます。それとやり取りをするのもコー・パイの仕事ですね」
話したくないのか機長は無言。
「そ、そうやって航行が無事に進んでそろそろ着陸体勢に入る頃からコクピットはまた忙しくなります。セカンドでアシュレイ機長が
やっていたやり取りは、やや特殊な場合ですが、管制塔から指示された滑走路を確認したり、地上の天候や風を知らせるリストを出して
着陸の仕方をブリーフィングします。この際、もし着陸をやり直すことがあれば、その時にどうするかまで打ち合わせをしておきます。
つねに前倒しでいろいろなことを想定してことを進めるのがパイロットなんですよ」
「コー・パイのボケまでは想定外だけどな」
機長が鋭くつっこむ。青ざめたコー・パイは咳払いし、
「そ、そしていよいよ着陸目前になると、ランウェイ、夜ならアプローチライトを探します。それが確認できると、手動に切替え、
タイヤを降ろします。そうしているうちに着陸体勢に入る高度を告げる『アプローチング・ミニマム』のコール。1000フィートの
カウントダウンを聞きながらどんどん下降していきます。地上30フィートを知らせる『ミニマム』のコールが入ると、『ランディング』の
コール。下げていた機首を起こしながらエンジンの出力を切り、時速三百q程度の速度で滑走路に滑り込みます。そしてすぐさまブレーキを
かけながらエンジンを逆噴射して、とにかく早く速度を落さないと、滑走路は3qくらいしかないですし、次の飛行機が降りてきますから、
オーバーランしないためにとにかく急ぎます」
「おまえには絶対着陸は任せねぇ」
「な、なんでですかっ!」
「ただ急ぐだけか、急げばいいのか。ピザ頼んでんじゃねえぞ」
「そんな、ピザだって、縦にしないとかコーラ振らないとかあれこれ──」
いいかけたコー・パイは機長の鉛のような瞳に凍りつく。
「そ、そうです、早ければいいわけではありません。急いでいるからといってムリしてとめようとすると摩擦でタイヤが焼き切れてしまいます。
パンクになったらそれこそ迷惑なので慎重且つ的確に減速してタキシングウェイに移動することデス」
緊張のあまり棒読みになるコー・パイに、機長は肩をすくめながらも頷いて、
「そゆことだな。やっぱおまえ、監査で落ちろ。俺が監査官に告げ口しとくから。つか、急げ急げで早い男は嫌われる」
「て、柢王機長が言うと説得力あります。…あれ? でも欲求不満ってことは、いまの彼女はあんまりさせてくれないんですか」
「ンなこた、おまえが知ったことかっ! やっぱり落ちろ! おまえは地獄に落ちてふたつ結びの変態に可愛がってもらえ!!」
「ええっ誰ですかっ、その変態って! あ、そういえば機長、最近引っ越したんですよね? それって彼女と同居ですか」
とっさに恐怖心と好奇心がせめぎあい、後者の勝ち。尋ねた空也に、恋人の顔でも思い出したか、機長はとたんにご機嫌顔で、
「まあな」
「それじゃ宅配ピザと外食の生活も終わったんですねぇ……あ、でも欲求不満ってことは、そんなに構われてな…」
「欲求不満を連発してんじゃねえぞっ、コラ!!」
「すすみませんっ、つぃいっ!!」
「つい、だぁ? パイロットに、つい、なんかねぇんだよっ。常に全てを先読むのがパイロットだろ、玄関開ける前から、待ってる
恋人の顔色ぐらいわかってんのがパイロットだろーがっ、あぁっ?」
「すすすすみません、機長っ、でもそれ先読みっていうより単なる妄想っ……」
「あーあ、なんでおまえが隣りにいんだろな。俺ももっかい、コー・パイに戻ってクールな美人と延々ふたりで飛びてぇよなぁ」
何を思ってその結論なのかいきなり大きなため息をつく機長に、コー・パイは驚いた目をしたが、
「いい方法がありますよ!」
「あ?」
「初心に戻って宅配ピザと外食生活ですよ! 炭水化物はストレスを和らげるそうですし、それでビールガンガン飲む生活続けたらきっと
コー・パイにまた──」
「それは健康診断落ちてるだけだろっ! 頼む、キャビン、このバカ非常ドアから放り出してくれーーーー!!!」
PREPARATION
「うわ、近くで見たら結構大きいんですねぇ」
感心したようなティアの言葉に、軍の広報担当者が微笑んで、
「これでも当基地の機のなかでは小さい方です。正式な愛称は別にありますが、当基地では『エア・ドルフィン』と呼ばれている機体です」
説明するすぐ先、真っ白に洗い上げたようなコンクリートのスポットで、空色のつなぎを着た整備士たちとそれより一段濃い青の
フライトスーツと漆黒の対Gスーツに身を包んだパイロットたちが、あざやかなブルーのツートンの機体を囲んでスタンバイをしている。
朝っぱらから雲ひとつない、華氏100℃の好天気──
ティアたち天界航空のメンバーは、朝食を済ませたあと、揃って航空ショーの訓練を見に基地まで来た。
迎えのジープで司令塔まで行く間、パイロットや制服軍人たちがうろつき、黄色い『フォロー・ミー・カー』と呼ばれる誘導ジープや
迷彩色のジープが走り、時折鋭い音を立てて機体が舞い上がる様は、何度来ようがめずらしい。改めて見まわす一同に、しかし、
こちらもめずらしいらしく、軍人たちも興味ありげな視線をよこす。なかには露骨に口笛吹いてよこすパイロットもいたりして、
吹かれた美人たちより、一部機長たちの口もとに微妙な力が加わる。
司令塔にはこの前の官僚はいなかったが、隊長が待っていた。六人を見ると穏やかな顔で、
「さっそくですが、いま、機体が格納庫から出されたところです。ご案内しましょう」
あっさりと案内される。そもそもなぜここへ来たかを考えたらあっさりしすぎる態度にも思われるが、時間厳守なのはどこでも同じらしい。
一同は来たばかりの炎天下をそのまま、じりじり暑い駐機場へ。
そこに並んでいたのは、先日、アシュレイが遭遇した銀の機体より一回りばかり小さく、そして丸みを帯びた翼と機首がイルカのように
愛嬌のある機体たちだった。ピンと立った大きな垂直尾翼も尾びれのようで、見た感じ軽飛行機のようにも思える。が、案内されて側に
寄ると、さすがに高さもあるし、縦横が10×13m、ダンプカーを見る程度の圧迫感はある。
その胴にかけられた梯子の上ではパイロットがこちらに尻を向けてコクピットのチェック中。誰も一行に視線をよこさないのは
無視しているからではなく、事前チェックがそれだけ大事なものだからだ。隊長が笑顔で、かれらがドルフィン・キーパーとドルフィン・
ライダーだと説明してくれる。
もともと航空界は愛称大好き世界だ。隊長とともに案内してくれるらしい広報担当が言うように、戦闘機にも『正式な』愛称があって、
『イーグル』や『ファントム』でどこでも通じる。旅客機も、冥界航空機は官制にも『ブラック・バード』と呼ばれることがあるし、
そもそも、ジェット旅客機を『ジャンボ』と呼ぶのも愛称だ。だからこの基地ではあの機は『飛ぶイルカ』、関係者は『イルカ・
チームのみなさん』で通用する。
「身軽そうな機体ですね」
柢王がきらきら鼻面を輝かせているイルカを見遣って言う。と、広報が笑顔で、
「速度はさほどではありませんが、機体の旋廻性が非常に高く、軽いので、高度なフライトテクニックに耐えられますよ」
「へえー」
と、一同は感心。遅いと言っても約2M、軽いと言ってもtの世界だが、戦闘機はみんなめずらしい。アシュレイも興味津々、その
イルカたちを見ていた。
昨夜は思ったよりよく眠れて、朝食の時に顔を合わせたティアもいつものように微笑んでいて、明確な答えはまだ出切らないものの、
アシュレイの気分ははるかに落ち着いていた。それに、この前来た時は腹が立っただけだったが、もとからアシュレイは飛行機と名の
つくものならなんでも見てみたい質だ。間近に見る機体の、旅客機とは違う姿に思わず視線が釘づけになる。
「ここにスモークがついているのですよ」
と、隊長が翼の下の大きな排気口の右側を指す。と、そこには小さな筒のようなものが取りつけられていて、そこからスモークの
元となるスピンドル油が噴き出すと言うことだ。
大体、航空ショーといえば、整然と隊を組んだ機体が飛行しながら色あざやかなスモークで大空に絵柄やラインを描き出すのが通例。
本当はそれをする技術の高さと一糸乱れぬフライトこそが見物なのだが、そんなものは素人にはよくわからないのは花火と同じ。
結果すばらしかったらため息つくのもまた同じだ。
「これが本日の演目です」
と、広報が紙を渡してくれる。が、軍の人が軍で使うために書いた紙だ。
「デルタ・ループはわかる。あとレター・エイトも前に見たことある」
「キューピッドって何するの?」
「キューピッドは、宙にハートを描いた真ん中に回転しながら矢を打ち込むような軌跡を描くことですよ」
「えっ、天使の輪じゃないんですかっ?」
「って、トンビか、おまえは」
と、トンビじゃないが輪になった天界航空ご一行さまの会話は一般人と大差ない。むしろ航空マニアの方がもっと専門的なことを言いそうだ。
軍の広報が宙を見上げて瞬きを繰り返すのはたぶん、笑いをこらえているからだ。
「点検終了です」
イルカ・キーパーが言って隊長が頷く。ようやくパイロットたちが梯子から降りて来るのに、隊長が、
「これが当基地の第一空艇隊のメンバーです。こちらは天界航空の皆さんだ」
その紹介に、ヘルメット片手に横一列きちんと揃ったパイロットたちはああと言いたげに頷いて、
「そちらのおふたりは昨日見かけました。後の方もパイロットですか」
一番年齢が高そうなひとりが尋ねる。といっても三十代くらいだろうが。隊長がそれに、こちらチームの内訳を説明すると、
「へえー、その美人もパイロットですか?」
若いひとりの驚いたような笑顔に、黒髪機長の瞳がサングラスの下で半据わりになる。が、当の美人は表情も変えず、
「四人の編隊ですか」
尋ねるのに、隊長が落ち着いた顔で、
「しばらくは四人ですね」
その言葉に天界航空一同はサングラスの下で視線を交わす。
が、パイロットたちはごく平然として、まずいよなぁとか困るよなぁという気配は微塵もない。その態度にアシュレイはかすかに眉をひそめた。
別にあのパイロットが四六時中問題起こして隊から外れるのにみんな慣れっこだとしても、もう驚いたりはしないが……。
(大体、あいつにチーム・プレーなんかできるのか?)
エースと呼ばれるパイロットが、この隊長の言う通り、戦場を飛ばせる価値のあるパイロットなのだとしても、ショーはチームワークが
絶対で、勝手に飛んだら自分より仲間が墜ちる接近飛行だ。民間機にニア・ミスしてバックれるようなパイロットと、
(よく一緒に飛べるよな……)
アシュレイは、機体について質問している柢王と話すパイロットたちを見つめた。それが仕事なのか、それともそのうまさを信じて
いるから平気なのか……。
パイロットたちの顔にその答えは見つからず、視線を反らしたアシュレイは隊長と視線が合う。落着き払った榛色の瞳のなかに
なにかこちらに言いたいことでもあるかと身構えたが、隊長はごく普通に一同を向くと、
「では、そろそろ取りかかりましょう。皆さんには移動をお願いします。滑走路の側に監視スペースがありますから」
思惑がありそうでなさそうな掴めない相手に、アシュレイは眉間に皺寄せながらも、みんなと一緒にジープに乗り込んだ。
ゆらゆらと陽炎がゆれる滑走路。その側には確かにちょっとした公園程度のスペースはあった。が、遮るものはジープの影しかない炎天下。
パイロットたちはそれなりに涼しい格好はしているが、オーナーであるティアは薄手のシャツの襟も詰んで、帽子の下で頬がもう上気している。
アシュレイは、ウェストバッグのなかに手を突っ込んだ。そこからタオルで包んだものを取り出すと、ティアに差し出す。
ティアがきょとんとしてアシュレイを見た。それでも、反射的に差し出した手にタオルを乗せると、
「あ、冷たい」
驚いたように瞳を見開く。
「冷却材が入ってるから首んとこに当ててると体温が上がらない。けど、冷やしすぎたらだめだからな、たまには外せよ」
「え、いいの、だってこれ君が用意してたんでしょう?」
ティアが尋ねるが、アシュレイは、
「俺は慣れてるからいい」
パイロットは体については無理はしない。機外の点検の時も寒ければカイロも使うし、暑ければ冷却材も使う。だからホテルの
冷凍庫で凍らせてはいたが、持ってきたのはティアのためだ。朝食の時、ティアの格好だと暑いだろうなと思ったから。
でもそんなことは言わないで、そのまま前を向いたアシュレイに、ティアが笑みを浮かべて、
「ありがとう、アシュレイ」
ちょっとうるうる来た声でいう横で、パイロットたちは微笑んで航務課スタッフを見る。と、先読み業界の最先端行く先読みスタッフも
微笑んで、持って来ていた小ぶりのクーラーボックスをそっとコンクリートの上に下ろした。
今日は通常のショーと同様、高度3000フィートで演習を行う──隊長の説明に、パイロットたちはへぇと呟いた。旅客機の
パイロットにとって対地1000mはアプローチ目前の高さだが、そもそも戦闘機は旅客機ほど高くも長くも飛ばない。音速が出せるのも
空気が濃い高さまでだし、ドッグ・ファイトと呼ばれる空中戦が行われるのも高度ではない。第一、ショーなら見えなくては意味がないから
低くて当然だ。
別のジープでやって来た軍の人たちが、無線の用意を始める。チューニングをすませた無線から、『…アルファ・フライト、チェック・イン』
『アルファ・2』『3』『4』、と続けて短い応答が聞こえたのは、A編隊の準備が整ったという意味だ。基本的に航空界のやり取りは短く、
そして常に多国籍である関係者の誰が話しても確実に意図が伝わるようにと独自のルールがある。Aをアルファと呼ぶのもそのひとつで、
Bはブラボー。褒めてはいない。
『アルファ、エンジン・スタート』
遠くに低く轟くようなエンジン音が聞こえ始める。無線の声が官制と交信を始めた。見晴らしのいい滑走路を見ていると、やがて
タクシーウェイから青く輝く機体が現れる。縦一列整列したような同じ間隔で滑走路へと入り、そして、滑走路上で、ひし形にピタリと静止。
官制への離陸の要請が聞こえ、エンジンの音が高くなる。ゴォォォっと腹に響く音に、ティアたちは眉をしかめるが、軍のみなさんは平気。
離陸許可、そして、
『スモーク・オン、ナウ!』
先刻、隊長が教えてくれた排気口から一斉に白い煙が噴き出すとともに、機体が轟音を立てて離陸を始める。滑走しながら、まず
先頭の機のタイヤが離れた、と見る間に次の二機が同じ間隔、同じ角度でその後へ、最後の一機もスムーズに続いて、ピタリと形を
保ったままで空へ昇って行く。それはさながら水辺を飛び立つ鳥のよう。決して誰も出遅れないし、ふらつかない。
見上げる天界航空一同はその見事さにまず感心。と言っても、口をあけて見上げているのはティアだけで、後のメンバーは純粋に
職業的な感心だ。あの機種上げ何度ぐらい?とか、ギア・アップも指示なしかよ、さすが反応早いよな、とか。
そんな野次馬たちにお構いなしに、編隊が時速800kmで縦に整列。
いよいよショーの始まりだ──
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