投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
BREEZING
「アシュレイ…おまえ、ほんっとに運が強いよな、わかってんだろうな?」
呆れたような柢王の声が、ラベンダーと薔薇色まじりの空に響く。椅子の背に寄りかかるように肩をすくめるのに、新米機長は寝不足の
頬を紅潮させて、
「悪いのは向こうなんだぞ。こっちが怒るのはあたりまえだっ」
言うが、その言葉にふだんの勢いはない。
ホテルのロビーで到着したばかりのティアたちと出くわしたのは、別に待ち構えていたからではなかった。あれこれ考えたりして
眠れなかったアシュレイは、星の瞬く浜辺を歩いて何度もため息をつき、さすがに疲れて戻ってきたところだったのだ。
『あっ、アシュレイっ!』
自分を見つけた時のティアの嬉しそうな顔に思わず嬉しくなりかけたのも束の間、なんでティアがここへ来たか思い出したアシュレイは
頭をぐるぐる回る悩みも一気に思い出して、意識するより先、声を尖らせ、
『ティアっ、なんでおまえがここにいるんだっ』
叫んでしまった。
と、ティアの笑顔が曇って、新米機長の胸はずきりと痛む。が、言葉が喉から出て来ずにただ力だけが入った。と、大股にアシュレイに
近づいた柢王がいきなり、首にガシッと腕を巻きつけて、
『なんだぁ、アシュレイ、朝っぱらからカリカリして。腹減ってんなら飯でも食おうぜ。もうビュッフェくらい開いてんだろ?』
『って、おまえなんでも飯食えば解決すると思ってんのか、俺はなっ……』
と、怒ろうとした耳に、親友の低い囁きが、
『ロビーでティアに恥かかせるんじゃねぇよ。それに、おまえだってティアに報告することあんだろうがよ』
その言葉にアシュレイは瞳を上げた。瞬間、ちらと見せた親友のまなざしと、その、見る人が見たらわかる疲れと。瞳を移せば、
いつも同様落ち着いた顔の桂花も、それにティアも、きちんとはしているが疲れは隠し切れない。
夜通し飛んで来た三人が疲れているのは当然で、それはもとは自分のためだ。わかってはいるが、それでも、あれこれ考えた後の
アシュレイにはすなおに、よく来たなとは笑えない。それに、パイロットを殴った話をするなら、よけいに気が重い。
それでも、話さないわけにもいかないし、みんなをロビーで立たせておくこともできなくて、アシュレイは渋々、プールサイドの
レストランの席で、ニア・ミス事件の顛末を語ったのだった。
植え込みもまだ深い緑に濡れて、白く星の残る明け方の空の下、アシュレイはなるべくふだんと変わらない口調で話したつもりだった。
それでも、親友たちは瞳を鋭くしたり、見開いたりして聞いていたが、アシュレイが、
『……だから、殴った。一発だけだけど』
言った瞬間、ティアの瞳が限界まで開いて、柢王が先程のセリフを口にした、というわけだった。
「おまえらだってニア・ミスなんかされたら腹は立つだろ、当たり前だ」
いまとなっては自分でも信じていない理屈を口にすると、やはりそれが伝わっているのか柢王は瞳を鋭くして、
「腹が立つのは当たり前でも殴るのは別問題。んなこたぁ、おまえだってわかってんだろうが、その顔色じゃ。つか、ほんと運がいいよ。
見逃してもらえて。おまえ、下手したら軍の敷地から出られなかったかもしれないんだぞ?」
改めて言われたアシュレイは喉に力をこめた。が、ティアはむしろ話が聞けたからかほっとした顔になって、
「でも、よかったよ。君たちが無事で……」
きれいな顔が初めて力を抜くのを見て、アシュレイは複雑な思いを噛みしめる。ティアは続けて瞳を上げるすまなさそうに、「でも、ごめんね、アシュレイ。君のフライトによけいなことで関わることになって。本当はこんなつもりじゃなかったんだけど……」
ここへ来ることになった理由と顛末を話してくれた。
ティアはただ危険な目にあった自分を励ましたかっただけで、王室にバレタのは予定外。王室と軍には出向くことにはなるが、
それ以上関りもしないし、口出しもしない。事情がわかったアシュレイは、ただ、ぶっきらぼうに、
「心配なんかすることなかったんだ、これは俺の仕事なんだから」
胸にわだかまるものを言葉に出来ずにただ悔しいようなそう言っただけだった。
そう。一晩中、頭を巡ったあれこれのこと。
今度のことで、自分の取った態度は正しかったのか。
腹が立ったこと自体は決して謝らない。パイロットになってから、アシュレイは乗客の安全のことを考えずに飛んだことはない。
旅客機のパイロットは、安全で快適な旅を全うするのが使命なのだ。機長として、フライトの安全を守るのはアシュレイには当然の義務だ。
だが、そのやり方は、正しかったのかと──柢王の意見を聞くまでもなく、軍を出た時からアシュレイは思っていた。
パイロットもひとりの人だ。怒りもするし、間違いも犯す。それは確かなのだが、それでも──
(安全が大事なら、暴力意外の方法を選ぶべきだったんだ……)
会社員である自分が事件を起こしたらみんなに迷惑がかかる。それも事実だが、それ以前に、機長として、自分のポリシーが
安全であることであるなら、誰かを殴ってそれを訴えるのは矛盾した行為だ。あの時は空也たちにも気を揉ませたし、軍が見逃して
くれなければ大事になっていた。
直情が必ずしも悪いわけではないが──
(俺にはあんな態度は取れなかった……)
たった一機を飛ばせるためにルールを無視すると言い切った軍の官僚。それに、航務を守るのが仕事だと、聞きにくいことをあえて
自分が聞いたスタッフ。かれらの言葉に気負いがないのは、かれらがそのポリシーを生きているからだ。はっきりと、それを生きているから、
その淡々とした言葉のなかに人をハッとさせるものがある。
それに比べて自分は、何も解決に役立ったわけでもなく、かえってあのパイロットにバカにされて……。
言葉を尽くしても伝わらないものがあるかも知れないことは、アシュレイにもわかっている。それでも、説明もしないでわからせようと
するのはムリだ。いや、フライトを守る機長の信念が本物なら、例え相手がどうあれ、伝える努力はしたろうし、するべきだったと──
いまの、アシュレイにはわかっているから。だから、せっかく来てくれたティアのすまなさそうな顔を見ても言葉が出ない。本当に
言いたいことは伝えられない。
もし、自分を信じてくれるなら、心配するより、待っていて欲しかった。まだ新米でも、自分だってティアの会社の機長だ。例え不出来な
対応しかできなくても、絶対にティアにはごまかしたりはしないから、だから、自分が報告に行くまで待っていて欲しかった、とは──……。
飛ぶことは小さい頃からの夢で、父親の姿を間近に、大きくなったらあの金色の翼で大空を飛びたいと願ってきた。でも、絶対に
パイロットになろうと思えたのは、
(おまえを乗せて飛びたかったからだ……)
ティアを乗せて、ティアの会社の翼で飛びたい。パイロットには決してならないティアだけど、自分がティアの翼になって、ティアを
大空に連れていくんだと思ったから。
『大きくなったら、俺がおまえを乗せて飛んでやるからな!』
幼い頃の約束に、瞳を輝かせて頷いたティアの姿がいつも目蓋にあったから、訓練にも、『もっと冷静になれ』との指導にもすなおに従えた。
大切なその夢の第一歩は、もう適った。機長にもなれて、ティアを乗せて飛ぶこともできた。
だから今度は自分は、
(おまえが誇れるようなパイロットになりたいのに……)
自分が飛ぶことを、ティアが誇りに思えるようなパイロットになりたいのに──
なのに、自分の今回の機長としての態度は、この程度。
(心配するな、なんて言う資格、俺にはないんじゃないか──)
そのことがずっと頭の中を回り続けて、情けないのと悔しいのと腹が立つので眠れなかった、というのが正確なところ、なのだった。
と、唇を噛んだアシュレイの態度を、自分のせいだと思うのか、ティアは瞳を曇らせた。その顔に、アシュレイはよけいに情けなくなる。
柢王はといえば、言うべき時にはガツンと言って来る男だが、今回は、複雑な目をして肩をすくめるだけで無言。
東の空から薄い光が差し込んでじきに夜明けだというのに、テーブルには微妙な空気がたち込める。
と、ふいに、それまで黙っていた桂花が落ち着いた声で尋ねた。
「アシュレイ機長、そのパイロットの飛び方をどう思いました?」
その言葉に、アシュレイはハッと顔を上げた。ここに来て、誰かが他の話をしたのは初めてだ。アシュレイも心なしかほっとして、
「ああ。うまい……とは思った。腹は立つけど、飛び方はほんとにうまかった。鳥肌が立つくらい」
答えると、桂花はやはり落着き払った顔で、
「そうですか。では、オーナー。オーナーさえよろしければ、そのショーの演習を見せてもらいたいのですが」
問われたティアも顔を上げて、
「え、私は構わないけれど……」
「でも、そのパイロットは出ないんだろ?」
アシュレイがどう思うか、というようにティアがこちらに顔を向ける前に、柢王が口を挟む。と、桂花はやはり冷静に、
「ですが、レベルは近いと思いますから。旅客機の機長として、軍のパイロットの飛び方を見るのも悪くはありませんよ。スタンスの違いが
よくわかりますから」
「スタンスの違い?」
「軍のパイロットは闘うことが前提です。速さも腕も、撃ち落されないためのものです。だからファイターに臆病者はいらない。
でも旅客機のパイロットは、時に、臆病者だと言われる覚悟が必要なこともありますからね」
その言葉に、アシュレイは目を見張る。
「え、臆病者だと言われる覚悟……って、桂花、それどういうこと?」
意外な言葉に尋ねたティアに、答えたのは柢王だった。突然、立ち上がると、
「その意味は、アシュレイがそのうち教えてくれる。だよな、アシュレイ?」
「…柢王──」
アシュレイは瞳を瞬かせた。と、親友は瞳に笑みを込めて、
「おまえも思うとこはあるだろうけど、それはまとめてから言えばいいじゃん。とにかく、俺らは着いたぱっかりだし、おまえも
寝るのも悪くないだろ。それにティアだって昼から王宮に行くなら少しは休んだ方がいいし」
「私なら心配は……」
ティアが言いかける言葉を、アシュレイは遮った。柢王と、そして、同じように静かに椅子を引いて立ち上がった桂花の顔を仰ぎ見て、
「そうだな……おまえらも、疲れてるのに悪かった。それに──」
アシュレイは息を飲む。桂花の、夜明けの空の色をした瞳を見つめて、
「……礼が……言えるようになったら、言うからな」
ティアが目を見張る。にやりとした後、苦笑に近い笑みを浮かべる柢王の横で、桂花は、
「吾に言う必要はないですよ。では、後ほど」
ティアが驚いた顔で、去っていくふたりの顔を見つめる。アシュレイもまたそれを見ていたが、その瞳はいま、明けていく光に
ルビー色にきらめいて、燃えるような赤毛がまばゆい輝きを見せる。
「アシュレイ……」
不安に似た顔で自分の名を呼んだティアに、アシュレイは頷き、そして言った。
「おまえに、言いたいことがあるけど、まだ言えない。でも、俺も自分で整理して必ず言うから、それまで待っててくれるか」
と、ティアは瞳を見開いたが、すぐに、
「うん、わかった」
小さい時から同じだ。ティアは、アシュレイが本当に決めようとする時は絶対にそれを邪魔しない。そんなティアの微笑に、アシュレイも、
小さい頃からの自分の絶対を思い出す。ティアとの約束は、決して破らない。
そう頷いた機長は、まなざしを上げると、見えない何かを確かめるようにたちまちのうちに金色に輝いていく空を見つめたのだった──
「・・・ものの見事に全部吹っ飛ばしてしまいましたね・・・・・」
かすれたようなスジのはいる遠見鏡の画面に映される境界の光景を見据え、桂花はため息
をついた。
後先考えない壊滅攻撃をするのは南の太子だけではない。柢王も一見冷静に見えて頭に血
が上ると手に負えないことがある。
(・・・まったく、バカばっか・・・)と、もう一度桂花は小さくため息をついて、同じように遠
見鏡を見つめる隣のティアを見た。
「二人に帰環命令をだされますか? 守天殿。 今回は目撃者もあることですし、瓦礫の山
をかき分けて例の岩を捜すにも、いったん編隊を組み直す必要があると思われます」
「・・・・・ああ、そうだね・・」
遠見鏡の画面を見つめるティアは心ここにあらずと言った様子で、応えた。
「それから、あと20分もすれば負傷者が天主塔に到着します。守天殿、どうぞご用意を」
「・・・・・ああ、そうだね・・」
「・・・守天殿?どうかなさいましたか?」
ぼんやりと同じように返事を返したティアに、桂花が聞き返す。
ティアは桂花のほうをゆっくり振り向き、それからまたかすれたスジのはいる遠見鏡の画
面に向き直った。その顔はかすかに青ざめていた。
「・・・・なんだろう、遠見鏡の調子がずっと悪い・・・ 嫌な予感がする」
そして 中央と南の境界。
「・・・何だこりゃ」
空中で柢王はあっけにとられて周囲を見渡した。
土煙が漂っている地表は 見事なまでに更地になっていた。
衝撃音波で瓦礫がことごとく吹っ飛んだせいである。
アシュレイの技が直撃した場所に立ち上がっていた蒸気や土煙、熱い瓦礫もことごとく吹
っ飛んでしまっている。
吹き飛んだ瓦礫は柢王のいる場所を中心として、かなり離れた場所に更地を取り巻くよう
にして積み重なっていた。
「・・・なんだこりゃ、じゃねえだろう!」
いきなり後ろから頭を思いっきり叩かれて柢王は前のめりになった。
「・・・ゲホッ! お前だって人のことを言えた義理じゃねーだろーがー! ゲホゲホッ!
前に言ってた“証拠の岩”があった場所ごと吹っ飛ばしてわからなくしちまったのは、お前
も同じだろーがー! ゲホゲホゲホッッッッッッ! ゴホッ!」
振り返った柢王の背後で、アシュレイが盛大に咳き込んでいる。慣れている柢王は気づか
なかったが、特有の刺激臭が周囲に満ちている。アシュレイはそれをまともに吸い込んでし
まったのだ。
「オゾンだ。吸うな。 さっきの放電で発生し・・・・・・なんだ?」
周囲を風で吹き払う柢王の肩をいきなり掴んで振り向かせ、顔をまじまじと見つめてくる
アシュレイに、柢王が怪訝そうな顔をする。
「・・・いや、さっき、お前の目の色が何か鉛色に見えたような気がしたから」
「―――――」
無意識に額に上がりかけた手を、柢王は途中で押しとどめた。
「どしたんだよ?」
「何でもねーよ。お前が頭突きをくらわせてくれた頭が痛てーだけだ」
「イヤミをいうなぁ!」
軽口を返されたが、さっき掴んだ肩の熱さや、顔色からして、柢王の体調はどうもよくな
いようだ。 そういえば今朝天主塔に呼び出された時に、柢王も帰ってきているが体調を崩
している、とティアが言っていたことをアシュレイはようやく思い出した。 今までのごた
ごたですっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
(・・・それでもあの威力かよ・・・)
自分の結界にぶつかってきた攻撃の余波(そう、あれで余波なのだ)の衝撃の感覚を思い
出して、アシュレイは唇を噛んだ。その隣でのんきに柢王は周囲を見回している。
「・・・あれ?兵士達はどうした?」
「あいつらはな〜〜〜! 俺が目を瞑れって言ってんのに、おまえの雷光をまともに見ちま
ったのさ! どいつもこいつも涙ボロボロの雪目状態になっちまってるからしばらく使い
モンにはならない。南領へ全員直行させた! ・・・それにしても、お前ちょっとやりすぎだ
ぞ!あれは! 最初の一撃であのデカ虫は粉々になったってのに、後から後からじゃんじゃ
ん雷霆を落としやがって! おかげで俺は大変だったっての!」
「・・・・・ふ〜ん。そりゃ気の毒なことをしたな。・・・けど、アシュレイ。お前怒ってるけど、
俺の雷霆攻撃の規模があそこまででかくなっちまったのは、お前のせ・・もとい、お前のおか
げでもあるんだぜ? ・・・な〜んてな」
笑って柢王は身を翻した。地表へとまっすぐに降下して、その姿はあっという間に土埃に
隠されて見えなくなった。
「ああ?!―――おい、柢王?」
降下してゆく柢王の後を慌ててアシュレイが追う。
・・・降下しながら柢王は額に手をあてた。
布ごしに伝わる熱さは熱のせいなのかそれとも―――
(・・・憶えていない)
記憶が完全に途切れていた。 まともにあるのは、最初の一撃―――いや、もともと一撃
しか攻撃する気がなかったのだが―――だけだ。しかしそれすらも記憶が途中で薄れている。
そして周囲の光景を見れば、一撃だけで終わらなかったのはすぐわかる。
(・・・俺の意志じゃない)
戦闘の達人が意識を失っても闘い続けるという例は、たまにある。 柢王も魔風窟などで
一対多の混戦になれば、ほとんど本能だけで闘っている時はある。しかしそれは、敵をどう
斬るか、そしてどう敵の攻撃を避けるか、ということをのんきに頭で考えている場合でない
時の話だ。 けれど 感覚の内側に残る 獣のざらつく熱い舌のような――――あの、狂喜
の感触は―――・・・
「―――・・・!」
地に降り立った足から力が抜けてゆきそうになるのを、柢王は必死で耐えた。
額の布に当てた手の指に力がこもる。 布ごと何かをもぎ取ろうとするかのように深く額
に食い込むそれは、鋭く曲がった鈎のように強いものだった。その爪先がまさしく額の皮膚
を割って血を溢れ出させようとするその寸前―――
「・・・・柢王!」
名を呼ばれて柢王は上を見た。アシュレイが後を追ってくる。
アシュレイの降下が巻き起こす風で周囲の土埃が晴れ、彼の背後には広がる青空が見えた。
上空をおおっていた土煙や蒸気がきれいサッパリ吹き飛んで、青空が広がっている。
何一つ隠すもののない、抜けるような青空だ。
その青空の向こうから、アシュレイが心配そうな顔でこちらに向かってくる。
(あいつは感情がすぐ顔に出るな・・・)
それがうらやましくもあり心配の種でもある。 柢王はアシュレイに向かって手を振った。
ちゃんと笑えていることを祈りながら。
・・・・・ ピシャン・・ ―――
冥界を渡る風は重く水気を含んでいる。
肌に優しく触れて通るが ひやりとしている。
その白い肌や髪に触れて通り過ぎる風のことなど一顧だにせず、階に座る冥界教主は金黒
色に光る眸で湖面を見つめている。。
浮かび上がった負傷者達を回収し終え、冥界を薙いだ光に何事かと集まっていた魔族達も
すでに姿を消している。 湖面は再び静謐を取り戻していた。
李々は対岸に座し、階に座る教主の姿を深い紅色の瞳で見つめている。
教主の手元の扇がぱちりと音を立てて閉じられた。
今、教主は黒き水を天界の結界内に送ることを止めていた。
先の柢王による猛攻撃で、「力」を通すための管の役の魔族達の大半が脱落したと言うこ
とと、 結界こそ揺らぎはしていないが、中に満たした「水」が、ことごとく蒸発してしま
ったためだ。
「――――・・意外だったな。」
手元の扇をもてあそびながら、教主が呟いた。
李々は応えない。あれは独り言だ。対岸に座した李々は静かな表情でただ黙って深い知性
の宿る瞳で教主を見つめている。見守るかのように――――あるいは探るように。
「・・・天界人にも 牙と爪を持つ者がいる ということか」
ぱちりと音を立てて扇を開く。そして閉じる。
教主は湖面を見つめたまま、数度それを繰り返し、やがて高い音を立てて扇を閉じると、
それをそのまま階に置いた。
「・・・カケラはまだ残っていたな」
教主は階から手を伸ばして黒い湖面に指先をひたした。
―――静謐な湖面の中央にふいに波紋が生じた。
その波紋は消えることなく、その中央部からさらなる小さな波紋を生み出しながら湖の面
に広がってゆき、対岸に座す李々の膝元まで小さな波を寄越した。
「李々」
湖面に指先をひたしたまま、顔も上げずに教主が呼んだ。
「はい」
その声に李々が すっと片膝立ちの姿勢になる。
「正気で目覚めなかった者達は 全て殺せ。」
「!」
李々の見開いた瞳に動揺が走る
柢王の猛攻の際、巨虫に感覚を繋げていたがために、その雷撃の衝撃をそのまま『体験』
してしまい、感覚神経や精神系を焼き切られて湖に浮いた『管』の役目をしていた魔族達の
ことだ。今は李々の与えた鎮静剤で眠っている。
「・・・し、しかし」
「恐怖と狂気と幻の激痛だ。おまえの作る薬では治せまい。」
・・・―――――・・・・・!!!!!
教主の言葉に呼応したかのように、叫び声が轟いた。鎮静剤が切れたのだ。
ただひたすらに何かから逃れようとする恐怖の叫び。一人のものではない。二人・・三人・・・
時を追うごとに叫び声は音量を増してゆき、打ち寄せ返す湖面と唱和するかのように冥界の
底を揺るがせてゆく。
「・・・・・・」
叫び声の上がる背後に顔を振り向けたまま、李々は動けない。
「一時眠らせても同じ事だ。目覚めれば同じ恐怖と苦痛を繰り返す。」
李々は教主を見た。水面に視線を落としたままの教主は、一瞬だけその金黒色の眸を李々
へと向けた。
「―――お前なら、わずかな苦痛すら感じさせることもなく、一瞬で終わらせることが出来るだろう」
「―――――」
わずかな逡巡の後、全ての感情を深く奥底に押し込めた能面のような表情で、李々は教主
に深々と頭を垂れた。
「・・・―――御意 」
李々は立ち上がり、教主に背を向けた。 艶やかな光を帯びて背に流れる赤い髪はすぐに
冥界の薄暗がりの中に溶け込んで見えなくなった。
教主は一人になった。
階から身を乗り出し、指先だけでなく手首まで黒き水に差し入れる。背に流していた金の
一房が肩口を流れ滑って湖面に落ち、扇のように広がった。
波紋は生まれ続け、岸辺に打ち寄せ、帰ってくる波とぶつかり合い、湖面全体を揺さぶり
始めた。
黒き水の飛沫が金色に輝いて湖面に降り注ぐ。
「一対一ならば、たやすく勝てるか。 ―――では、複数を相手にすればどうだ?」
金に輝く黒き水の下で、教主の手が何かをつかみ取るように握り込まれた。
―――水面に打ち寄せ返す波紋の中より生まれ出た 数多の金の飛沫が一斉に上空へ
駆け上っていったのは、次の瞬間だった。
木枯らしに容赦なく頬をうたれて、ティアはマフラーを巻きなおす。
鉛を溶かしこんだような空が重苦しい。
(・・・・雪でも降ってきそうだ)
手袋を忘れた彼は、耐えられなくなってポケットに両手を入れた。
「転んだらキレイな顔を怪我して女子どもが大騒ぎだぜ」
背中から聞こえたイヤミに振り返ると、もう4日も口をきいてくれてなかったアシュレイが視線をそらしたままティアを追い抜いていく。
「アシュレイ」
彼に歩調を合わせると、すぐにそれを乱されてしまった。
「まだ怒ってるの?」
「あたりめーだ」
ツンと前を向いたまま赤い髪が更に足を早めた。
この幼なじみを意識しはじめたのはいつ頃からだったか・・・。
小学生の頃は手のつけられないやんちゃぶりで周りに敬遠されていた彼が、成長するにつれどんどんキレイになって・・・・夏休み前から何やらあやしい輩や視線が彼を取り巻いていて、ティアは気ばかりが急いていた。
「お前、俺に言うことがあるだろ」
「言うこと・・・?」
そういえば、きちんと想いを告げないままアシュレイを押し倒してしまったのだ。せめて告白してからにするべきだった。
結果から言ってしまえば、還り討ちにあい何もできなかったが・・・。
「約束したら許してやる」
「え?」
「二度とあんなふざけたことすんなよ?」
唇を尖らせて、すねたような顔をむけられた二秒後――――ティアはアシュレイの体を壁に押しやっていた。
「っ!」
背中を打ったアシュレイが文句を言おうとした途端、指が食いこむかと思うほど強く両腕をつかまれる。
「―――――――ふざけたこと?・・・・・私は時々ものすごく君が憎らしくなるよ・・・・」
普段のティアとはちがう低い声ときつい眼差し。本気で怒っている証拠だ。
アシュレイは目をみはったまま何も言えない。
「謝るよ、いきなり押し倒したりして卑怯だった。でもふざけてなんていない。私は・・・・・アシュレイ、君が―――・・・・」
風の音に消されてしまいそうなほどのささやきで伝えると、ティアはその冷えきった耳に唇を当てた。
優しく耳朶を舐められ、電気が走ったように体がしびれたアシュレイは、ひしと彼の腕にしがみつく。
ふるえる体をそっと離し自分のマフラーを巻いてやると、ティアは無言のままアシュレイを見つめてから、その場を去って行った。
『君が好きだ』
ささやかれた言葉が頭の中で反響して、アシュレイはいつまでも足をふみ出せずにいた・・・・・。
PRIORITY
航務課スタッフが本社にかけた電話を切ったのは、空が薄いオレンジ色を帯びかけている時刻。ようやく空いた滑走路に777便を運んだ後のことだ──
航務課長との話でわかったことといえば、ティアは確かに非公式に島に来るはずだった。が、運悪く、クリスタルの王室がニア・ミスの
ことでかけてきた電話を、古くからいて、黒髪機長に『盛りだくさんで一人前』と評されている機能しない重役のひとりが取ってしまったらしい。
結果、何も知らなかった重役は大騒ぎ。挙句、王室にもティアの島行きが知れてしまいました、ごめんなさい、とのことだった。
「タイミングが悪いですね……」
しみじみとした空也の言葉に、みんなが頷く。あまりに機能していないために誰もが無視するに慣れている隙を縫って社内に
頭痛の種を蒔くノートリアス。今回もきっとみんな油断していたに違いない。
「けど、仕事で来ないってことは、ティアの奴やっぱり俺のこと見に……」
推理的中で赤くなったアシュレイに、航務課スタッフは笑って、
「オーナーとは幼馴染だそうですね。心配なさるのも仕方ありませんよ、こんなケースはめったにないですから。課長の話では
柢王・桂花両キャプテンもオーナーと同行されているそうですよ」
「えっ、だってあいつら明後日フライトじゃ……」
言いかけて、アシュレイはうなじまで真っ赤になる。
あのふたりが揃って仕事を放り出してくるわけがない。機長の立場から言えば、今回のは同情はしても駆けつけてくるような事件では
ないのだ。それが来るとしたら絶対にアシュレイを案じたティアが頼んだせいだ! 自分だけならともかく機長のシフトまで替えるなんて──
(ティアの奴、限度があるぞ──)
ただでさえ、今日は気が立っている。そのティアの行動を笑い飛ばす余裕はいまのアシュレイにはない。と、それと見たのか、
航務課スタッフは落ちついた声で、
「キャプテン。人に想われるということも機長には大切な資質ですよ。それに友達は大切なものですし」
「でも……」
自分の立場にいきなりオーナーが食い込みそうになったら、それがオフだといわれてもいい気持ちがしなくて当然なのに。言いかけた言葉を
アシュレイは飲み込む。そんなこと思うこと自体が失礼に思えるくらい、スタッフの態度は穏やかだ。だからアシュレイもこらえて、
別のことを言った。
「さっきの──あの質問をして下さったこと、ありがとうございました」
と、スタッフはまたも笑顔で、
「気になるのは当然の問いですからね。それに、航務を守るのが私の仕事です」
(偉い、よな……)
アシュレイは複雑な目でそのすっきりとした笑みを見つめた。
本当に役割に徹している人だけが、いざという時の力になる。このスタッフ、そして、アシュレイには絶対に納得できない理屈なのだが、
それをそう思われるのを覚悟で言ってのけた隊長も大佐もゆるぎなく、沈着で……。
それに比べて、自分と来たら、腹がたつのは当然でも、もう少し、なにか対応もあったかも知れないと、いまになって思えてしまうこと自体が、
なんとも悔しいような情けないような……。おまけに、ティアは自分のことが気がかりで駆けつけてくるし、柢王と桂花まで巻き添えだ。
(俺って……)
にわか、機長としても、人としても、自分が半端なような気がして、その後、空也と向ったホテルの部屋でも、アシュレイの
気持ちは曇り空のままだった──
「やっぱり来なきゃよかったかなぁ……」
ティアは呟き、ため息をついた。後悔先に立たずというが、これはまさにその通りだ。機内から本社に電話をして、重役の絡んだ
事の顛末を耳にしたティアは青ざめた。よりによってなんでそんな大事な電話を取るのだ、と叫びたかったが、会社員として考えたら
ティアの方が間違っている。
(きっと陛下はご心配なさっているだろうなぁ。それに現地も……アシュレイだって、騒ぎになったら嫌なはずなのに・・・…)
隠密に行って、アシュレイの顔を見て励まして帰る。ただそれだけのプランだったのに、王室には知れるし、隣りの島に迎えのヘリまで
用意されて明け方前に島に到着。たぶん少し休んだら現地スタッフと王室に挨拶に行って、自分がここへ来たのはトラブルに意見が
あるのではないことをきちんと説明しなくてならないだろう。
いや、説明するのは得意だし、そもそも自分が蒔いた種だ。それはいいが、
(ふたりとも、本当にごめんね……)
急だったからEクラスしか取れず、しかも機内は混んでいる。ティアの並びは柢王と桂花で、ふたりとも椅子は少ししか倒さないが、
柢王は目を閉じているし、ティアの席から見えない桂花もたぶん同じだ。寒い国から寒い祖国、そして島。気温差、時差、距離。
どれを取っても疲れることは間違いない。その上さらにまた移動と来れば、怒られてもふしぎではないのに、ティアの話を聞いた
ふたりはごく冷静。
『んじゃ、ちょっとだけ目閉じてるけど、なんかあったら言えよ』
たぶん体調管理のための休息。どこでも眠れる柢王はともかく、人前で眠らないとの噂の桂花はどう思っているのか、話すには
遠くてわからないのがよけいに申し訳ない。
「私って、バカかもなぁ……」
もう少し、なんとかしようもあったろうに、と、ティアは落ちこんでため息をついた。と──、
「おまえがアシュレイ・バカなのは子供ン時からなんだから、いまさら気にすんなつーの。それに、起きたことを悔やむより
これからどうするか考えるのが航空会社の基本だろ」
呆れたような柢王の声に、ティアは目を見張る。
「えっ、ご、ごめん起こしたっ?」
慌ててそちらを見ると、こちらを見ていた親友はちょっと眠たげだが、いつもの笑顔で、
「静止してると寝なくても疲労の半分回復するんだよ。それに目開けてるとおまえのスーツケースから漂うカプサイシンが染みるしよ。
つか、おまえよくそれ持ちこめたよな? 俺はおまえが今度はテロで捕まるんじゃないかって冷や冷やしたぜ?」
いつもと同じ。子供の時から同じ、からかうようなあたたかな声で言ってくれる。
「でも、おまえたちにムリさせることにもなったし、本当に考えが足りなかったよ……」
その優しさがすまなくてそういうと、柢王は軽く肩をすくめて笑い、
「そんなの、わかりきったことじゃんか。オーナーが1パイロットの終わったピンチに好物山ほど抱えて駆けつけるなんてよーく
考えたらできねぇっつーの。でも、おまえみたいにふだんあれこれ考えないといけない奴はさ、たまに考えなしで動くくらいで
いいんじゃねえの? それが好きってことでもあるんだしさ。ま、おまえが鳴り物入りで来ることになったら、アシュレイは怒るよな。
現場のスタッフも微妙なとこはあるとは思うし。そこんとこは覚悟して、ちゃんとわからせる努力しろよな、ティア」
にっこりと、笑う柢王に、ティアは瞳を潤ませた。
ニア・ミスの件を聞いたとき、一瞬、体から血の気が引くのが感覚としてわかった。いても立ってもいられなくて、引き出しに
確保してあるアシュレイの好物を夢中で鞄に積め込んで──きっと部長が止めてくれなければ無意識に飛んでいっていただろう。柢王たちを待つ間も心にあったのはアシュレイのことだけで……。
本当は、じっとしていたらいいのはわかっているのだけど。放っておいても、過失がなければアシュレイは普通に三日後には
戻るのだから、それを迎えてあげればよかったのだろうけれど……。
(私はパイロットじゃないから、パイロットの気持ちはわからないけど……)
力になれるなれないは別として、アシュレイがふつうでないことにあった後くらい、励ましたり、あるいは、びっくりしたねと
笑うだけでもしたかったのだ。声だけでもよかったかもしれないけれど。ふだん側で励ますことはできないから、陸にいるときくらいは
側にいて励ましたかっだけなのだ。
だが、それもやはりオーナーの立場では、短慮かもしれないと、本社と連絡した後で、ティアは落ちこんでいたのだが──
「柢王……ありがとう。おまえにも、桂花にも、迷惑かけてごめんね」
ティアは潤む瞳で呟いた。
柢王も、黙ってついて来てくれた桂花も。航務課だって部長だって秘書だって。みんなティアのことを庇ってくれている。オーナーだから
あたりまえとは思わないけれど、オーナーだから甘やかされている部分もあるのだと、ティアにもよくわかっている。
けれど──。
誰にも迷惑はかけていないと断言できる人は、きっと周りのことが見えていないだけだ。人の好意に支えられずに存在している
人などいない。だから頼ろう、とは思わないけれど、人の優しさを、ありがとうと受け取ることも、迷惑かけないでいようとすることと
同じくらい大事なのだと、ティアは会社で働くようになってわかるようになっていた。
と、人の機微には敏感な親友はいつもながらにこだわらない笑顔を見せて、
「ま、俺はおまえらのお兄ちゃんだからな」
優しい声に、ティアは泣き出しそうな瞳で、うん! と笑った。
「オーナー、眠られたんですか」
桂花が尋ねる。柢王は、ああと桂花を向き直り、
「なんだかんだ言ったって、こいつだって激務だからな。おまけにアシュレイのことでも気疲れしたろうし、少しでも休めるなら
それがベストだよな」
席に凭れてすやすやしているティアの寝顔を横目に微笑む。と、クールな美人がくすりと笑う。
「なんだ?」
「いいえ。あれこれ気を回す人なんだなと思って」
「一番気を回したい相手が目瞑ったまま沈黙じゃあな。おまえだってあれこれ言ったらティアが気遣うと思って寝たふりしてたんだろ?
あれこれ目につくのはパイロットの職業病だよ」
笑う柢王に、桂花もかすかに瞳を細める。
「でも、こうなるとアシュレイ機長はオーナーがいらっしゃることをすなおには喜べないでしょうね」
「まーなー。あいつもティアのために機長になったってとこもあるけど、だからよけいに機長として関る立場でティアに関られると
複雑だよな。ティアにその気がなくてもこれじゃ公式に行くのと同じことだし」
だからあのてんこ盛りは、とため息をついた柢王はすぐに笑って、
「ま、なるようになる。俺らは傍観してりゃいいって。それより、おまえも少し寝たら? フライト長かったんだろ?」
と、桂花は首を振り、
「人がいると眠れないので」
「俺だけいると思えばいいじゃん。俺なんかステイ先でも目蓋の裏におまえの顔が浮んで眠れねぇ……って、あれ?」
「あなたが口と目を閉じる方がいいみたいですよ?」
と、クールな美人が肩をすくめ──
瞳で笑うカップルとオーナーを乗せた機体はそろそろ星の海を行くような夜間飛行に入るところだ──
EXCEPTIONAL RULE
「機長、気持ちはわかりますから落ち着いてくださいね」
「そうですよ、機長に何かあったら俺ひとりじゃあの機は動かせないんですからね」
真剣顔の航務課スタッフと空也の言葉に、さすがに小一時間ふたりの説得を聞き続けた新米機長はため息をついて、
「わかってます。話はちゃんと聞きますから」
答えると、ふたりはあからさまにほっとした顔をする。その態度に、アシュレイは複雑な思いを噛みしめた。
スポットから引きずるように司令塔の部屋に連れてこられてずっと、怒る気持ちはわかるが、新しい問題は起こしてくれるなと、
言葉を尽くしてなだめた空也と航務課はたしかに間違っていない。
実際、アシュレイは会社員であるパイロット。幼馴染でオーナーであるティアやその他スタッフたちがこの路線開発にかけた労力を
間近に見てきた立場でもある。一発殴ったのは見逃されても、それ以上やったら犯罪者。謹慎どころの騒ぎではない。それにアシュレイが
乗らないとツー・パイの機はたしかに明日までここに置き去りになる。軍のせいで起きたトラブルでもそれは別問題。そんなことになったら
会社はかなり厳しく非難される。
だから、あとは自分がおとなしくして、航務課や軍や本社の判断に任せるのが筋なのだとは、アシュレイもわかっているのだが……。
(あいつを殴ったことは反省しないからな──)
思い出すとまた胸がむかむかする怒りが込み上げてきて、新米機長は瞳を燃やす。
わざとニア・ミスしておきながら、まるでこちらに非があるような言い様。悪びれない態度。確かにものすごくうまいのは認めるが、
空の上に絶対はない。もしあそこで突風でも吹いたら? もしこちらのエンジンがいきなり故障したら? 大惨事になっていた可能性は
いくらでもあるのだ。それを、自分はさっさと逃げ出しておいて──
(勝手なこと言いやがって……!)
音速で飛ぶパイロットに、旅客機の、それも新米機長の手動操縦がのろまに見えても仕方ないが、安全に飛ぶことは最低限のルールではないか。
それを──
「き、機長?」
むっかぁーっ、と握り拳を震わせるアシュレイに、また怒り爆発とみたものか、空也と航務課スタッフが顔を青ざめさせる。
と、幸いなことにノックの音がしてドアが開いた。
「お待たせしました──」
入って来たのは、落ち着き払った顔の官僚と、悟りを開いた後のような肝の据わった目をした隊長。三人を見ると、直立不動の姿勢で、
調査委員である官僚が口を開いた。
「事情確認が終わりました。先ほどのニア・ミスに関しては氷暉中尉の意図的な進路妨害だと言うことを本人も認めました。中尉には
軍の規則に従って厳正な処罰を下します。処罰の内容は明日、会議で決定しますが、当分の間、かれが飛ぶことは原則的にないと思います」
アシュレイは瞳を上げたが、とりあえずこらえる。『原則的』の意味は後から質問しよう。
「処罰は正式に決定し次第、ご連絡します。それと、天界航空社に対しての補償等については明日にでも弁護士とともに連絡させて
いただくことになります。よろしいですか」
その言葉に、航務課がはいと答える。
続けて、この事故の影響で機体や乗客に万一異変があった場合の対処など説明があり、航務課がそれをまじめな顔で聞いて、
事務的な話はアシュレイにとってはそっけないほど早々に終わった。が、事故調査は本来延々何ヶ月も行われるものだから今回の
結論の早さ自体が異例なのだ。該当機長としてはそのことはありがたいことだ。
「我々からは以上ですが、他にお知りになりたいことはありませんか」
「聞いても──」
「質問をよろしいですか」
口を開きかけたアシュレイを遮るように、航務課スタッフが尋ねた。アシュレイはとっさにかれの顔を見た。と、かれはごく
落ちついた顔でアシュレイに頷いた。
「構いませんよ、どうぞ」
官僚が言うのに、礼を言った航務課スタッフは、丁寧な口調でこう続けた。
「先に断らせて頂きますが、当社は軍の迅速な対応とその後の誠実な態度に感謝しておりますし、軍内部のことに口出しをしたい
意思があるのでもありません。ですから、これは社の質問ではなく、現場で当社の機を保護する立場にあるものとしてのお伺いなのですが」
その言葉にアシュレイは目を見張る。なにを聞く気だろう? 官僚はやはり落ちついた顔で、
「構いませんよ、続けてください」
「ありがとうございます。それではお伺いします。先程、原則的に中尉が飛ぶことはしばらくないとおっしゃいましたね。ですが、
もしも今度の事故を起こしたのが当社のパイロットであるなら、当社では二度とそのパイロットに空を飛ばせることはしないでしょう。
軍の規準と我々の規準が異なるのは承知していますが、安全な飛行は全ての機が目すものであるはずです。それを越えてまで、
中尉を留め置かれる理由がなにかをお教え願えませんか」
アシュレイと、そして空也も息を飲んだ。その質問自体はアシュレイが聞きたかったことだ。ただしもっと直接的な言葉で。
だが、なんであんなヤツ辞めさせないのだと言う意味はいまのでも確実に伝わる。それを、航務課のスタッフが口にしてよかったのだろうか?
ふたりは顔を見合わせたが、スタッフ本人は冷静。そして、官僚はと言えば、これまた予想したような顔で頷いて、
「その質問は当然だと思いますし、おっしゃる通りだと思います。それに対して我々が申し上げられることは、第一には謝罪でしょう。
どのパイロットも安全に飛べて初めて、飛ぶ資格があるといえるのは軍も同だと言えます。ただし──」
官僚は、言うと瞳を細めた。ふいに、その青い知的な瞳のなかに意思の強さが宿ったように思われた。そして、言った声は、
ごくあたりまえのことを言うようだった。
「我々にはもうひとつ、言えることがあります。軍隊においては、その一機が飛ぶことで、戦局の変わる、エースと呼ばれるパイロットが
存在します。その一機で、そこにいる全ての味方を集めた以上の成果を生み出すことのできるパイロットです。軍の柱が秩序と規律で
あることは私も充分に承知しているつもりです。ですが、危急の際には、私は喜んでその柱を無視するでしょう。なぜなら、
エースとは生還できるパイロットを意味するからです。たとえその数が軍の1%にも足らない存在でも、生還できるパイロットだけが
地上を火の粉から護れる翼だとわかっているからです」
「な……」
予想もしなかった答えに、アシュレイはあぜんと目を見張る。
たった一機で戦局を変えるパイロット。そんなものが存在するのか。旅客機の機長としてはその疑問は当然のもので、だから
反論の余地はいくらでもある。
けれど、ゆるぎない真実は、肌に冷たい刃物を当てられるようなものだ。空の上の安全は誰にとっても大切で、ましてやこんな
平常時の理屈にはまるでできないその理屈を、官僚が口にしたのはそんなことは百も承知の上でのことなのだ。その飛行に文字通り
命をかけているパイロットを間近に、最悪を常に予期している人の、鋼のような現実主義。誰かの理解でその価値の変わらぬ、
それはかれの現実なのだ。
そして、かれがそれを口にしたのは、アシュレイたちに対しての誠実さなのだと──落ちついた顔の官僚の瞳を見つめたら、
わからずにはいられない。そして、その言葉の意味が胸に落ちていくに連れて、アシュレイの肌には鳥肌が立ってくる。
と──ふいに、それまで黙っていた隊長が、落ち着いた、穏やかな声で口を開いた。
「皆さんがいまのトライスター大佐の説明に驚かれるのも道理だと思います。ですが、いまのはあくまで究極の場での選択の話です。
大佐も私もそれがどのような時でも通じる理屈だなどとは考えていません。──そこで、これは私たちからの提案です。明後日の
午前、当基地で航空ショーの演習が行われます。それを、ご覧においでになりませんか」
「えっ」
またもや意外な言葉に三人が聞き返す。と、隊長は先刻、先刻パイロットを怒鳴った時とは打って変わったごく穏やかな笑みを浮かべて、
「実はこの度のニア・ミスの件が王室の耳に届きましてね。大変なお叱りを受けました。当然のことです。王室はこの度のことで
天界航空との関係に亀裂が入ることを大変に憂慮されておられます。それで、軍のパイロットがどのようなものであるのか、
少しでも見て頂ければ、今後ここへ降りられる時に不安を抱かれることも少ないのではないかと、大佐と話した結果なのです。
いま、当基地のヘリが隣りの島までオーナーをお迎えに飛んでいますから、ぜひともご一緒に来て頂ければと思うのですが……」
「オーナーですかっ?」
「ティアっ…じゃなかった、オーナーがここへ来るんですか?」
「はい。王室から、天界航空にご連絡を差し上げたところ、オーナーはすでにこちらに向われているとのことだったそうです。
直行便はもうないですから、乗り継いで明日の朝お見えになられる予定だったようですが、王室からの依頼で隣りの島まで迎えを
飛ばせることになりました」
隊長の答えに、アシュレイたちはふたたび顔を見合わせた。ティアが来るなど予想外だ。
(あいつ、なんで……まさか俺のこと心配で来たりとかしないよな……)
アシュレイは胸をドキドキさせる。会社にとって笑い事ではない話だが、ティアが来るのはそれこそ社内のルールに反する。
航務課スタッフの瞳に困惑に似た色を見て、アシュレイは瞳を瞬かせた。
と、またもそれを見取ったのか隊長が笑顔で、
「私の聞いた話では、オーナーは私的な用で島においでになるとのことです。今度の件で意見がおありだとはうかがっておりません」
アシュレイは瞬間、ホッとした。が、非公式と言ったって、来ることが王室にバレて迎えまで差し出されたらそれはもう堂々と
来るのと変わりはない。
大好きな親友に会えるのはいつだって嬉しいことではあるが、公式に来ないとしたらたぶん自分が心配で来るのだ。気持ちは
ありがたいけれど、シビアな軍の話を聞いた後では、それはまるで親に庇われる子供のようで、アシュレイは苛立たしいような
悔しいような複雑な気持ちになってくる。
(ティアのヤツ、なんで……──)
「では、オーナーと相談してお返事をさせて頂きます」
落ちついた態度で答える航務課スタッフの顔を見つめながら、アシュレイは複雑な思いに、強く唇を噛みしめていた──
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