投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
無音の世界。
部活動がなく、誰もいないプールの底から見上げる空はどこまでも歪んでいた。
最近は、何もかもが面倒で、学校へ来ること自体意味がない気がしている。
水底にいた氷暉がそろそろ上がろうとした時、すぐ上の水面で犬かきなのかクロールなのか分からない、斬新な泳ぎをする赤い髪が横切っていく。
・・・・見事にデタラメなフォームだな。
必要以上にしぶきをあげて、そのくせなかなか前に進まない男が、いっそう激しく水をたたく。
なんのコントだよ。
ハチャメチャすぎるその泳ぎに思わず笑って、肺に残っていたものを泡に変えてしまった氷暉は、次の瞬間大急ぎで底を蹴った。
沈みかかった細い体を受け止めるとそのまま抱きかかえてプールサイドへ上がる。
「―――ッ、ゲホッゲホッ」
「大丈夫か」
咳きこむ背中をたたいてやるが『要らない』という仕草に気づいて、氷暉は金網にかけておいたタオルを取りに行く。
ようやく咳がおさまったその体に、タオルをかけてやると、彼のノドからヒューヒューと喘鳴が聞こえてきた。
「喘息もちか」
だとしたら、早めに吸入させたほうがいい。今は治ったが、妹が小児喘息だったためその発作が苦しいものだということは理解している。
「・・・・ちがう。水飲んじまったとき、変なとこに入ったから・・」
羽化したばかりの蝶が畳んでいた羽根を伸ばすためにジッとしている様子、アレに似ている。
「助かった、サンキュ。でもお前、どっから湧いてでた?」
前言撤回。蝶なんかじゃない、セミで充分。
「水の中だ」
「なんだ、先客いたんだ。誰もいないの確認したのにビックリしたぜ」
「秘密の練習か?見事な犬かきだった」
「なっ!・・・・そうだよっ自分でも分かってんだ。だから――」
「俺は氷暉。泳ぎ、教えてやろうか?」
「俺はアシュレイ。お前泳ぎ巧いのか?」
氷暉を見つめる目が水面に反射する光を映してキラキラしている。「――――まぁ見てろ」
そのまま飛び込んで非の打ちどころのないクロールで水をきっていく。
「スゲー・・・」
あっという間に往復してきた氷暉にタオルを渡しアシュレイは興奮したままその腕を掴んだ。
「頼む!俺に泳ぎを教えてくれっ」
すがるような瞳に苦笑して、自分から言い出したくせにしばし考えるふりをした氷暉は一つだけ条件をつける。
「え〜?髪を伸ばせだぁ〜?冗談じゃねぇよ、ただでさえアチーのに」
「そうか、なら仕方ない。一生犬かきしてるんだな」
「わわ分かった!伸ばすからっ!頑張ってみるからっ!」
しがみついてくるアシュレイに満足し、氷暉は口元をゆるめた。
空を見上げる。
蒼いそれは綿菓子のような雲を所々に浮かべ、どこまでも澄みわたっていた。
(来た……)
上ばきのかかとを踏んで、あくびをしながら目の前を過ぎて行く赤い髪。
受付で返却本を揃えながらナセルの目は彼を追う。
水曜日。
決まってこの時間に現れる彼は、本を借りるどころか読むことすら一度もなく、ただひと眠りして帰って行く。
今日もいつもの定位置に腰をかけると寝る体制に入った。
自分を入れても片手に満たない人数。
他の曜日なら、そんなに利用価値が無いのかと、嘆くところだが水曜日は別だ。
『アシュレイ』
声には出さず、口だけ動かして呼んでみる。彼が貸し出しカードを使ってくれる相手だったなら、その名を誰かの口から聞くこともなかったのに。
――――早く帰りな。勉強なんか、家でやれよ。
作業を淡々とすすめながら様子を伺う。残っている者たちは連れ合いらしく、たまにボソボソとなにか話をしていた。
一週間に一度だけしか訪れてくれない人。まだ話したこともない人。
今日もダメだな…
二人きりになるチャンスはなかなか巡ってこない。
ナセルが諦めてため息をついた時、残っていた二人連れが同時に席を立った。
ガタガタと椅子を戻し数冊の本を借りて図書室から出ていく。
再び訪れた静寂。
夕焼けが窓からゆっくりと室内を照らしだし、アールグレイに染めていく。
ナセルは足音を忍ばせながらアシュレイの前に立った。
穏やかな呼吸をくりかえし、長いまつ毛がかすかに震えている。
自分とアシュレイしか存在しないひととき。
「アシュレイ・・・・」
洛陽が一段と輝きを増し、眠る彼の体をやわらかく包みこんでいった。
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