投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
アシュレイは天界テレビの社長室から大都会の夜景を眺めていた。まさかこんなところから夜景を見られるようになるとは思わなかった。
「お前、いつも仕事しながらこんなの見てるんだな」
「まぁね。でもこのきれいな光を作っているのって遅くまで仕事している人達なんだなって思うと複雑だよ」
「きれいなものって大変だよな」
アシュレイも頷いた。
ティアはデスクから立ち上がるとアシュレイの横に立った。
「ドラマが中止にならなくて良かった。本当にありがとう。アシュレイのおかげだよ」
「俺はただ仕事しただけだ。お前こそ、しょっちゅう差し入れ持って来てくれてありがとな」
ティアは忙しい仕事の合間を縫って、こっそりスタジオに差し入れを持って来てくれた。それが普段では食べられないような高級な物ばかりでスタッフ達は恐れおののきながらもおいしく平らげていた。もちろん他の番組スタッフには内緒だ。
ティアは首を振った。
「1度現場をじっくり見たいと思っていたんだ。夢が叶ったよ。私こそとても楽しかった」
「そっか?」
準備中のスタジオの様子を本当に熱心に見ていたティアはすっかり現場のスタッフとも顔見知りになってしまっていた。ティアは本当に楽しそうで、アシュレイも何だか嬉しかった。
「うん。アシュレイが何であんなに一生懸命になっていたのか改めて分かったよ。本当に楽しそうだったよね。最終日は涙が出そうだった」
準備完了を祝ってスタジオで乾杯したのだが、ティアも呼ばれて参加したのだった。
「お前も来てくれて、みんな喜んでたぜ」
「本当?まぁ、これからはあんなことできないと思うけど」
ティアは社長だ。生真面目で、それ以上に上司思いの秘書が渋い顔をしながらも時間を作ってくれたけれどいつまでも我侭は言っていられない。
「また、通常業務に戻らなきゃ。現場を近くで見せてもらって今まで以上に頑張ろうって思ったよ。今回みたいなことがまた起こらないようにしっかりしなきゃ」
ドラマ再開の報を聞いて病床の会長はすっかり元気になったが、「恋愛はご自由になさって構いませんが、我が社のためにも番組のことはスタッフ達に任せて下さい」と愛息子に、にっこりぶっすりと釘を刺され、また倒れそうな顔色になった。
「社長業も大変だな」
いつ何が起こるか分からない。誰かに足を引っ張られるかもしれない。それらを全て背負っていかなければならないのだ。
ティアは視線を落とした。
「うん。本当は私がこんな事態になる前にきちんと処理しておかなくてはいけなかったのに。迷惑かけてごめんね。でも・・・本音を言うと逃げ出したいことばかりだ。君が羨ましいよ。私と違って君はたくさんの味方に囲まれている」
思わぬティアの本音にアシュレイは目を見開いた。
「な、何言ってんだよ。1人じゃねーだろ。俺だっているじゃねーか!」
「本当!?」
項垂れていた頭がガバッと上がり、ガシッと両腕を掴まれた。
「本当に私のものになってくれる!?」
・・・一体どう聞いたらそう解釈できるのだ。
「私には君しかいないんだ。20階で会った時からそう思っていた」
いるじゃねーか。あの秘書とか、秘書とか、秘書とか、秘書とか・・・。
「今回は君のために頑張ったんだよ。もちろん親友が主演するからっていうのもあったけど」
「そーだ!ほ、ほら、そいつがいるじゃねーか!」
「あいつは親友。恋人の対象じゃないよ」
こ、恋人!?
アシュレイはザザザーっと後ずさりしたが、ティアは両腕を掴んだままズンズン付いてくる。アシュレイの腰辺りに障害物があたってついに行き止まり。はっと振り向けば高級ソファがスタンバイ。
「ふふふ・・・。この間船便でやっと届いたんだ。イタリアの家具はいいよ」
何の話だ。
「ティ、ティア。俺、い、急いで手直ししなきゃいけないとこが・・・」
「そうだね。私達もやっとクランクインだ」
いっちゃった目でいっちゃった台詞を言うティアを止められる人間は、残念ながらこの場(この地球上)にはいなかった。
「ティア〜〜〜〜!!!」
・・・クランクイン。
昼少し前、アランは20階の回廊を急ぎ足で歩いていた。今日はゆっくり食事をしている時間がない。テイクアウトしたパスタが入ったランチボックスを抱えてエレベーターホールを目指していると、窓際のソファに誰かが座っていた。通り過ぎようとした時、その人物がヒョイと振り返った。
「やあ、君はアランだったね、営業部の」
「社長!」
アランは立ち止まって、慌てて頭を下げた。
ティアは立ち上がるとアランの前に立った。
「今回のことは君達の頑張りのおかげで予定通り撮影に入ることができた。本当にありがとう」
「いえ、社長のご尽力のおかげです。本当にありがとうございました」
アランはもう1度深く頭を下げた。
「スタッフ達も頑張ってくれたし。ところで君は大道具のアシュレイとは随分親しいみたいだね」
「はい。仕事がきっかけで。あの人は仕事への情熱がすごくて、俺も見習いたいなと思っているんです」
「…でも、彼は職人気質で気難しいところがあって、大変じゃない?」
「いえ。俺、あの人の我侭に付き合うのが楽しいんです」
営業の職業病ですかね。アランは照れくさそうにそう言うと一礼して歩き去った。
ティアはその背中を見つめながら
「異動させちゃおっかなぁ・・・」
と据わった目で呟いた。
「何だ、これってあいつらの話しじゃねーか」
苦笑すると柢王はソファに寝そべりながら眺めていた台本をテーブルの上に放り出した。
「なーに?何か言った?」
声の方へ視線をやるとショートパンツからスラリと伸びた足が近づいてくる。その持ち主は人気女性ファッション誌の専属モデルで、最近はよくCMにも出ている。彼女は柢王の隣のソファに腰を下ろすと台本を手に取り、パラパラと捲った。
「あ、これ、今度あなたが出るドラマでしょ?どんな役?」
「ドジでひたむきなヒロインに恋するプレイボーイのサラリーマン」
「やーだ、ハマリ役じゃない」
「そーお?」
感情移入が役者にとって必須なら、自分には恋愛物なんて1番向いていないと思う。そういえばこの間撮り終えた映画も恋愛が絡んだものだった。映画にしろドラマにしろ、恋愛が全く絡まない話を探す方が難しいだろう。役についてはもちろん毎回真面目に考えているが、特に感情移入しなくてもやっていけるので構わない。
いつの間にか、彼女は携帯電話でお喋りに興じていた。相手はモデル仲間らしい。柢王は視線をボンヤリと天井に向けた。
スカウトされ、何となくこの世界に入り、人気モデルとしての地位を確立した頃、たまたまもらったドラマでの役がきっかけで瞬く間にトップ俳優となってしまった。周りは常に一流モデルや女優、アイドル達で華やかだし、仕事は結構面白いし順調だ。順風満帆、というのだろう。
「ねぇ、今度のあなたのドラマのヘアメイク担当、誰か知ってる?」
「さぁ?」
話しかけられて我に返った。電話は終っていたようだ。
「『桂花』よ!アタシもさっき聞いてびっくりしちゃったんだけど」
その名前なら聞いたことはある。メディアには出ていないので一般には知られていないが芸能界やファッション業界では知らない者のいないヘアメイクアーティストだ。
「前に友達がショーで彼にメイクしてもらったことがあって。それがぶっちゃけ他のどのヘアメイクさんよりも上手いんだって。おまけに桂花って超絶美形なのよ、アタシも顔だけは見たことあるんだけど。でね、友達が言うには手も超綺麗で、その手で顔や髪に触られて気絶しそうになったってー」
「ふーん」
「あーん、アタシもいつか彼にメイクしてもらいたいな。いーわねぇ、一緒に仕事できるのよ!」
そう言われても男である自分はヘアメイクにはあまり関心が湧かない。むしろソイツが男であることに少々がっかりだ。
「もうっ。柢王ったら!ちっとも関心ないんだから。ちょっとはリアクションくれたっていいんじゃない?」
そう言うと彼女はスプリングをきかせて柢王の頭の横に座ると、唇を尖らせて可愛らしく睨んだ。
「そりゃあ、面白くないさ」
柢王は細い腰に腕を絡ませた。
「とびきりの美人が俺以外の男に目を輝かせているときちゃあね」
彼女は嬉しそうに微笑んで柢王の頬を長い指でつついた。爪はネイルサロンに行きたてらしく、この間会った時とは違う色になっていた。それは昨晩デートした女子アナの爪と同じ色で、流行りなのかなと思った。
「やーね。柢王よりいい男なんていないって思っているのに」
「どーだか」
彼女の柔らかい唇の感触を楽しみながら柢王はアシュレイのことを話すティアの顔を思い出していた。
見たこともないくらいに幸せそうだった。そこまでの過程は柢王も詳しくは知らないが、アシュレイの存在がティアの心を癒したのだろう。そしてアシュレイも。アシュレイは多分顔を真っ赤にして噛み付くように否定するだろうが。その様が目に見えるようで柢王は思わず笑った。
「なーに?」
「べーつに」
いつかそういう相手が自分にも現れるだろうか、と一瞬浮かびかけた思いを柢王は笑い飛ばした。理想と現実が違うことくらいよく知っている。理想は理想でしまっておいて、現実を適当に楽しむのが自分には1番だ。ティアとは背負う物が違い過ぎる。彼は皆が羨むような地位にいるが、日々神経をすり減らす毎日だ。人の羨望なんて何もしてはくれない。それよりも心癒される存在の方が必要だ。自分は世間に顔を知られている分、ある程度の不自由さはあるが、何を背負っているわけでもない。守るものは自分の身一つだ。そんな浮遊感に言いようのない不安が時折掠めるが、それも一瞬だけ。空虚が心を満たすのを許すにはやることが多すぎる。仕事に遊びに。これらがあれば時はそれなりに楽しく過ぎる。順風満帆。結構じゃないか。それで充分だ。
さて、明日はクランクインだ。午前中からだから適当にして寝ておかないと。明日、アシュレイには何と言ってやろうか。きっと何を言っても面白い反応を返してくれるに違いない。
柢王は片手で彼女の髪に触れながら、もう片方の手で台本を閉じた。
Fin
「パイロットが帰還しないっ?」
アシュレイは信じられない思いで目の前の軍服姿の人々の顔を見つめた。
と、クリスタル空軍の副指令、隊長、そして事故調査委員の官僚ふたり。どれもおそらく40代、きびきびと有能そうな人たちが、
揃って冷静でまじめな顔で頷き返す。アシュレイが思わず瞳を瞬かせ、
(…パイロットが勝手に無線切って帰って来ないんだぞ? それって、悪いこと、だよな?)
確認するように、隣りの空也と航務課スタッフの顔を見るのはある意味当然だったかもしれない。
乗客とクルーの入国と税関手続きをすませ、荷物と共に送り出したアシュレイたちは機体を点検した後、現地航務課と共に
この司令塔に連れて来られた。航務課スタッフも下から見ていたらしく、怒り心頭のアシュレイに、毅然とした顔で頷くと、
「考えられないミスですね。厳重な調査を依頼します」
言ったのだが──。
結果はドアが開くなり、並んでいた軍の偉い人たち一同が最敬礼で頭を下げ、
「当基地のパイロットの進路妨害で民間機を危険な目に合わせたことを心から申し訳なく思います」
と、真摯な態度で完全に自分側の非を認めるという異例な謝罪。天界航空一同はびっくりだ。
いや、確かに先ほどの事故は明らかに軍のパイロットが悪いはずだが、調査も入らないうちから責任を認めるなんてことはふつうはない。
しかもそうやって丁重に謝った後で、パイロットを束ねる隊長と言う人が落ちついた口調で、
「異例とは承知ですが、680号の無線は切られているため、現在のところ直接連絡は取れません。座標を確認し、迎えの機を
飛ばせていますから、パイロットは一時間以内には戻るでしょう。あなた方には先に事情調査をお願いします」
と、パイロットが無線切ってバックレました、の報告だ。これで驚かなかったら相当肝が太いと思うが、並んだ皆さんの顔には
狼狽した気配もない。あきらめたように、みんな冷静。
(もしかして、いっつもこんな問題起きてるんだろうか……?)
あまりにいつもだからみんなこんなに落ちついてるんだろうか。思わずアシュレイは疑ってしまう。
それでも、当の本人がいない以上、アシュレイも他の人をしめあげるわけにもいかず、納得できないまま、空也とともに聴き取り調査を
受けることに同意したのだった。
調査が終わったのは小一時間ほどしてから。といって、非は既に決まっていたので、機体の調査も兼ねてだ。
タラップから、日差しの強い外に出ればガソリンと排気の匂いが焼けた滑走路の方から潮風と共に流れてくる。耳を劈くような
鋭い音に滑走路を見れば、タキシングしてきた銀の機体が滑走路を加速しているところだった。
左右の主翼に平たい胴を持つ機体はそれ自体が大きな翼のようだ。鋭い機首とコクピット以外は丸みを帯びたものはその主翼と
胴の下の対空ミサイルだけ。後ろに立った水平安定板と平たい尾翼の間の不釣合いなほど大きなタービンからふいに焔が噴き出した、
と、見るうちに一気に舞い上がる。
それはまるで獲物を襲う猛禽のような鋭さだ。あっという間にゴーンとエンジン音と白い筋を残して雲の向こうにきらめいて、
しばらくすると、どぉーんと雷のような音が上空から届いたのは、機体が音速を超えた証だ。
その展開の速さにアシュレイは目を見張る。
旅客機の優先事項は安全と快適性。速度はその後ついてくる。機体も大きく重いからあんな風に急角度で上昇すること自体ムリだ。
たまに軍が一般空港を代替に降りることがあってもそれは最低限の時間だけ、パイロットはターミナルにもよらず去っていく。
だから国際線機機長でも、軍の機やパイロットを見る機会は一般人と大差ない。
見渡せば、敷地をうろつくパイロットたちはみんな濃いオレンジのフライト・スーツに長靴姿。手にはヘルメット。かれらはその上、
酸素マスクと対Gスーツをつけ、背中には脱出用のパラシュート・ハーネスを背負って飛ぶのだ。視界を確保するため、コクピットは
パイロットの腰まで窓。ドームのように流れるフォルムの蓋の外はすぐ空の狭い空間だ。旅客機ほどの与圧もないし、耐寒スーツも時には着用。
同じパイロットと言ってもまるで異なる。旅客機には最大9Gに耐える訓練はなく、離陸中にわざとエンジンから焔を噴かせる
馬力も必要ない。旅客機が長い時間を安全に快適にサービスを盛り込んで飛ぶのと違って、あれは、
「戦闘機、だもんな」
存在する意味から違う。確実なのは、どちらも乗っている人の命は守られるべきだということだ。
と、ふいに上空の一角がきらりと光った。ん? と手をかざして見上げればそれは、翼を広げた銀の機影。ギィィーンと鋭い音を響かせて、
減速しているとも思えない速度で見る間に滑走路の正面まで高度を下げてくる。後ろから出てきた官僚がああとうなずき、
「機長、680です」
「えっ」
慌てて視線を戻すと、機体は滑走路の入り際ですでにアスファルトを鷲掴みにするように機首を起こした角度でタイヤをつくところだ。
引き起こしが早過ぎる。
「パンクするっ…!」
減速も充分せずにタイヤをつけたら焼き切れて弾けてしまう! そうなったらあの速度の機体は反動で滑走路に叩きつけられる!
手すりから身を乗り出したアシュレイの目の前で、タイヤがダンっ! と滑走路についた。肌を震わせるいやな軋み。車輪から黒煙が上がる。
と、同時にエンジンがドォーンと火を噴いた。機体は逆噴射しながら鋭い音を立てて滑走路を過ぎていき、そして──
「嘘、だろ……」
まるで、余分な速度を全部放り出しでもしたように、なめらかに減速していく。すべるように、滑走路の中ほどまで来て、
何事もなかったかのように、速やかにタクシーウェイへと入っていく。倒れるどころか、わずかなブレも見せないで──。
いつのまにか隣りに来ていた空也が息を飲んで目を見張るが、アシュレイも言葉が出てこない。こんな着陸は見たことがない。
滑走路が長いのは伊達ではない。十分に減速しないと危険だから何qもあるのだ。それを、あんな速度のまま、入り口でタイヤを着いて、
跳ね飛ばされないどころか奇跡のような減速。ブレもなくタクシーウェイに入れるなんて・・・…。うまい、の域ではない。あれは、神業だ。
と、その戦闘機はタクシーウェイからこちらの駐機場に入ってくる。ゆらめくような陽炎のなか熱を帯びた銀の機体が間近に迫る。
それは、アシュレイたちのいる機体の隣りでぴたりと止まった。
「帰ってきたぞ!」
わらわらと整備士や制服姿の人々が機体に駆け寄る。隊長の声が鋭く、
「さっさと降りて来いっ!」
呼びかけるのに、きらめくドームのコクピットが開く。酸素マスクを外したパイロットの顔はまだわからないが、風に乗って届いた声は、
低く、そして明瞭だった。
「うるせぇな」
すまなさのかけらもない声。かけられた梯子を降りて来る体躯は刃物を思わせる痩せた長身。そのパイロットは地上に降りると、
めんどくさそうにヘルメットを脱いだ。見ていたアシュレイは思わず身を硬くする。
それはまるで氷のような色合いをした若い男で──無造作に切った髪も蒼に近い。日差しのせいなのか青味を帯びて見える痩せた面の、
右頬から瞳にかけて、はっきりと目につく傷跡がある。その醒めた瞳が、ふいにタラップから見ているアシュレイたちの方に向いた。
瞬間、バカにしたような笑みがその酷薄そうな唇に浮んだ──ように思われて、アシュレイの血は一気に熱くなった。
「あっ、キャプテンっ!」
空也の声を背中にタラップを駆け降りる。その背に慌てた空也と待ち構えていた官僚、一緒にいた航務課スタッフも続いて、
「氷暉! 自分が何をしたかわかっているんだろうな! 今度という今度は容赦しないぞ、わかっているのかっ!」
大声で怒鳴りつけている隊長の声も消し去るような声で、
「てめえっ、どういうつもりだあぁっ!!」
アシュレイは叫ぶとパイロットの胸倉めがけて弾丸のように飛びこんだ。相手はアシュレイより背が高い、そのフライトスーツを鷲掴みにして、
「こっちは客を乗せて降りるところだったんだぞっ! なにかあったらどうしてくれてたんだっ!!」
ルビー色の瞳を怒りに炎のようにして、その男の顔を睨み上げた。
と、落ちついたを通り越して、バカにしたような低い声が、
「人にどうしたこうしたいう前に、自分の腕を上げろ、ガキ」
ハッと息を飲むのに、続けて、
「目の前を油断した飛び方でちんたら飛んでるから正気に戻してやっただけだ。なにかあって墜ちていたらそれはおまえの責任だ。
俺はあんなふらふらした機にぶつけられるほど器用じゃない」
高度の空の最も深い色よりも冷たく濃い藍色の瞳で見下され、瞬間、心臓が冷たくなった。次の瞬間、ドッと逆流。ガツッ、
と音がしたと思うと、握った拳が相手の頬を思いっきり殴っていた。
空也と航務課が顔色を変えてアシュレイの両腕に飛びつく。
「キャプテン、落ちついてくださいっ!」
「傷害事件はやめて下さいっ!!」
「止めるなっ! あいつの言いぐさはなんだっ! あんなこと言われて引き下がれるかーっ!!」
アシュレイは暴れたが、ふたりも必死で押さえて放さない。
と、殴られたパイロットの方は、その頬を押さえるでもなく、よろめくでもなく、ただ、下らない茶番でも見せられたように、肩をすくめ、
「バカの上に直情か。道理でな。隊長、話はなかで聞きます。このちびザルがうるさい」
くるりときびすを返して去っていこうとする。アシュレイの怒りは全身をまわる火のようだ。取りつくふたりを振り解こうと手足をバタつかせ、
「待てーっ! 誰がちびザルだーっ! 話は終わってないぞっ、待てーっ!」
「わああ、キャプテーンっ!! 気持ちはわかりますから冷静にーっ!」
「わかるなら放せーっ! これが冷静になれるかーっ! 空也、放せっ、放せーっ!!」
死に物狂いで暴れるアシュレイにも振り返らずに、パイロットはどんどん先へ歩いていく。周りにいた整備士たちは驚いて見ているが、
隊長と官僚はまるで一度見たドラマを見るかのような予期した顔を見合わせると、
「すぐに事情を聞きます」
「詳細は追って知らせます。あなた方は司令塔で待機していて下さい」
丁寧だが厳しい口調でそう言って、足早にパイロットの後を追いかける。
後には、アシュレイが両腕にひしとしがみつくふたりを振り払おうと暴れながら、
「放せ、放せっ、放せーっ!!」
喉が嗄れるほどの大声で叫ぶ声が、炎天下のスポットにこだまするばかりだ──
「忍っ、俺が悪かった、頼むっ、出てきてくれ〜〜〜っ」
くれ〜くれ〜くれ〜・・・倉庫に二葉の絶叫が響き渡る。
だが無常にも扉は堅く閉ざされたまま。
ガツン―、二葉は岩戸を蹴る。
「二葉ダメだよっ!! 電子ロックだもん。 壊したら余計やっかいだよ」
「―――わかってる」
桔梗の忠告に振り上げた拳をそのまま下ろした。
「中にいるんだろうな」
「あっ、疑っちゃう!? わざわざ一緒に足を運んでやってるっていうのに」
「悪いっ、俺が悪かった」
二葉の謝罪に機嫌を直した桔梗は、扉の出っ張りを指差す。
「ほら、この岩肌ね、誰かが入ると出っ張るようになってんだ。悠がね忍がここの鍵を持って出かけたって」
「にしても、何だよ、コレ」
二葉は前にそびえる大きな岩戸を見上げる。
古びた倉庫の中にこんな大岩が積み上げられてると誰が思うか。
それより、どうやって中に運び入れたのか。
地下鉄はどうやって地下に入れたの? と同じくらい不思議に思う。
「面白いでしょ!? 最近とったCMセットなんだ。 あんまり俺たちが絶賛したんで、倉庫の持主が壊すまで好きにしていいって」
「何のCM?」
「いま流行りの岩盤浴」
「がんばんよく・・・・ってアレか? 岩をひきつめた中で寝そべるサウナみたいな」
「う〜〜ん、厳密には違うけど、ま、その岩盤浴だよ」
「俺も詳しくは知らないけど、岩盤浴って火山岩だがの遠赤外効果で体内の悪いものを発汗させるってヤツだろ? だからって、こんな原始的なセットにしなくたって・・・」
「原始的っ!! ええーーっ!! 一目瞭然じゃん!! 分かりやすいじゃん!! CM見たら二葉も絶対納得するって」
「どんなCMだよ?」
「ふふーん、聞きた〜い?ダメダメ企業秘密だもん。でもっ二葉がどーしてもって言うなら教えてやっても〜〜〜」
「いらんっ」と突っぱねたいところだが、桔梗の機嫌を損ねるわけにもいかず二葉は渋々頷く。
オンエアー前に誰かに話したくて仕方なかったのだろう。
桔梗はバッと顔を輝かせると意気揚々と説明を始めた。
「えっとね、人生の荒波に揉まれ疲れきった青年がこの岩戸に閉じこもる。 そして数刻。 再び扉が開くとっ!! ジャジャジャジャーーン!! リフレッシュした美貌の青年(つまり俺ね)が颯爽と現れるってワ・ケ。 ねっ、ねっいいと思わない? 」
・・・思わない。
まるでカップラーメンじゃねーか。
危うく出かけた言葉を二葉は飲み込む。
だが悪評を敏感に嗅ぎ取った桔梗はキッと顔つきを変えた。
同時に話題も方向転換。行き先はもちろん二葉へ直球ど真ん中。
「忍ねぇ、閉店までローパーで待ってたんだってーー、二葉から誘ったんだってねーーー、かっわいそーーーー」
「わかってるって、ネチネチくり返すな。だからこーして謝ってんだろっ」
「ゴメンで済んだらケーサツはいらないっ」
微妙に怒りが摩り替わっている。
三日前、DVD鑑賞の約束を卓也にすっぽかされたことにだろうか?
「そりゃ、たまにはローパーで飲もうって言ったのも、日時を決めたのも俺だよ」
「そ、れでー」
「日を間違えたのも俺っ!!」
「フン」
勝者桔梗。
敗者の二葉はガックリ肩を落とした。
―――ドンドコドコドコドンドコドン―――
―――ドンドコドコドコドンドコドン―――
「なっ、なんだ、なんだ!!」
突然の騒音に二葉が飛び上がる。
「扉が開く効果音だよ」
勝手知ったる桔梗がツラツラと説明する。
「よかったね、出てくる気になって。けど忍責めたら俺が許さないよ」
責めるも何も、二葉はこの騒音にすっかり毒気を抜かれている。
扉の効果音!?
CMヒットはないなと二葉は再度確信した。
―――ギィギギギギッ―――
軋む音と共に岩戸がゆっくり開き始める。
二葉と桔梗は待ち構え!!
「しのぶーーー・・・・・・・・へっ、え、かずきぃぃぃぃっ!?」
扉から現れたのは二葉の兄、一樹・フレモントだった。
「あれ〜〜〜?なんで〜〜〜?」と桔梗。
「・・・・・・・・・・・・・」沈黙の二葉。
「これ、中々いいね」
そんな二人の前に一樹は颯爽と歩み寄る。
リフレッシュした美青年そのものだ。
「さすが一樹。俺の従兄弟だけあるね。。。現れ方もすっごく様になってたよ♪」
セットを誉められ上機嫌な桔梗は、瞬時チャンネルを一樹モードに切り替える。
打てば響くとはこういうことなのだろう。
桔梗はピョンピョンと一樹に跳ね寄った。
「で、一樹はどーして此処にいるの? 」
「昨日、忍にCMの話を聞いてね、天の岩戸のセットなんて面白いだろ?」
「ふうん。で、忍と来たの?」
「あれ、小沼。二葉も来たの?」
一樹が答える前に、当の忍が缶コーヒーを手にヒョッコリ現れた。
忍は手にしたコーヒーを一樹と桔梗に差し出す。
「俺はいらない。 それより二葉と和解してやってよ、深〜く反省しているみたいだからさ」
「和解? 反省?? 」
首を傾げる忍。
桔梗は大きく忍に頷くと、今度は一樹の腕に抱きつき「CMの再現してあげる♪」と岩戸内へと引っ張っていく。
何が何だか分からず二人を見送った忍は、説明を求めて二葉に向き直る。
すると今まで黙り込んでいた二葉がいきなり口火を切り始めた。
「俺が悪いっ、悪かった。悪いのはわかってる。ケド避けることねーじゃん、部屋に閉じこもってるかと思えば黙って出社してるしっ」
「ちょっ、ちょっと待って。部屋に閉じこもってるって・・・それは卓也さんの作る新カクテルが美味しくて、ついつい飲みすぎて帰った途端寝ちゃったんだよ。おかげで今朝の商談には寝坊しちゃうし、声かけようにも二葉シャワーだったろ? 」
「ケド連絡くらいよこしたって・・・」
「メール入れたよ」
「・・・あ――――っ」
慌てて取り出した二葉の携帯、電源はオフ。
電源を入れた途端、待ってましたと着信音がひっきりなしに流れ始める。
忍専用の着信音だ。
ズ―――――ン
頭を抱えた二葉はとうとうその場にしゃがみこんでしまった。
忍も黙ってそれにつきあう。
途中コーヒーのプルドップを引き渡してみたものの、二葉の顔は上がらない。
やっと二葉がそれを口にした頃、二人の足はすっかり痺れきっていた。
だけど、もう大丈夫。そう思い、忍は静かに口を開いた。
「二葉、昨日電車に乗っただろう? その時電源切ったんじゃない?」
「へっ・・・えっ、あーーーーーーーっ!!」
思い当たったのだろう、二葉が声をあげる。
そんな二葉を見て忍は微笑む。
『携帯電話が及ぼすペースメーカーへの影響』
それを知ってから二葉は優先席付近では必ず携帯の電源を切る。
多分、昨日もそうだったのだろう。
そんな二葉は誰よりもかっこよくて、誇らしい。だから忍の笑みが消えない。
だのに二葉はひたすら謝り続ける。「悪い、ホントごめん」と。
そんな二葉が愛しい。
だから、つい言葉がこぼれ落ちる。
「二葉、大好きだよ」
―――ドンドコドコドコドンドコドン―――
―――ドンドコドコドコドンドコドン ―――
再び響き始めた騒音に忍の言葉はかき消される。
「・・・・・え?」
「ん、、、何でもない。ほらっ、二人の女神のとうじょうだよ」
「女神?」
「岩戸に身を隠すのは日神(太陽神)アマテラスなんだ。小沼も一樹さんもピッタリだと思わない?」
「太陽ねぇ〜〜。しいて言えば夏のギラギラしたヤツだな」
普段通りの忍に安心し浮上した二葉は、憎まれ口を叩きつつ扉に足をむける。
その大きな背中を見ながら忍は思う。
それなら、二葉は冬の太陽だ・・・と。
どんなに寒くても、どんなに辛くても、絶えず温もりを与え続けてくれる。
なくてはならない存在。
―――ギィギギギギィ―――
「ヤッホー、忍ーっ」
岩戸から桔梗が飛び出してくる。
忍は笑って手を振る。
そして太陽達へと駆け寄った。
「やれ、夏はしんどうて敵わん」
閻魔は冷蔵庫に手を伸ばすと中から缶ビールを手にとり、ツマミはどこかと中をひっかきまわす。
奥の方に冷えきったスルメが小さく畳まれたのを発見し、最近傷む歯で噛めるだろうかと思案したのち、それはゴミ箱行きとなった。
「うぃ〜・・・・効くのぅ・・・この暑さの中での一杯は」
年金でマッサージチェアーを購入してしまった閻魔には、それのローンがまだ残っている。本当はエアコンも買いたかったが、日頃のお遊びのせいですっからかんだ。
今ハマっているゲイバー『教主の館』。そこの教主ママに閻魔は骨抜き状態なのだ。
「今月はもうムリじゃな・・・・あぁ、教主ママに会いたい」
うっとりとした顔でつぶやくが、すぐに暑さによって現実へと引き戻された閻魔は、残りのビールをいっきにあおって、扇風機のスイッチを入れる。
風力を「強」に切り替え、顔を近づけた状態でお決まりの「あ”〜」の一声をあげた。
頭の中で来月の小遣いはいくらまで使えるか、ソロバンをはじきながら。
その夜。
怒号のようなイビキが響きわたる六畳一間という狭い空間で、あるもの達が嘆いていた。
「もう、嫌だ・・・嫌なんだっこんな生活っ!」
「どうした、ティア」
「だってっ!くる日もくる日もあんなジジイの肩や腰揉んでるんだよっ!」
「それが仕事じゃねーか」
アシュレイが一刀両断する。
「そうだそうだ。俺だってなぁ、あんなジジイに風送んなきゃなんねーンだぞ?しかも、あのヤロすっげー近くまで顔寄せやがって、泣きたいのはこっちだ!」
柢王もうなりながら声をあげた。
「それを言うなら吾だって。においのキツイものを入れられて、何度も体を開かれて中を覗かれてひっかきまわされて・・・」
―――――――ゴクッと喉を鳴らしたのは柢王(扇風機に喉?)
「お前・・・その言い方よせよ・・・なんか・・妙な想像しちまったぜ」
「なんだなんだお前ら!仕事だろ?文句ばっか言ってんじゃねーよ」
「だって・・・アシュレイには分からないよこの気持ち。君は夏場は・・・・」
「そうですよ。あなたなんて、最近めっきり仕事されてないじゃないですか」
言いよどんだティアの台詞を引き継いだ桂花が容赦のないひとことを放った。
「なっ、なにおうっ」
「そーだよな、お前ヤカンだし。夏場は熱いものなんて飲まねーもんな」
「ヤカンって言うな!ケトルって言えっ、ケトルって!」
「・・・同じじゃね―か」
「うるせーっ!うるせーっ!俺だって好きでボーっとしてんじゃねーよ!他の家じゃ、ちゃんと麦茶を煮出してから冷やしてんだっ!こ、ここはあのクソジジイだから水に入れるだけの・・・・あんなの『邪道』だ・・・・くそぅ・・・・このクソジジイのせいだ・・・・・屈辱だっ」
「ア、アシュレイ、落ちついて?私は君のその真っ赤な体とか熱いところとか大好きだよ?こんな家に来ちゃってとても悲しかったけど、君に出会えたからこれまで我慢してきたし」
ティアが必死になぐさめるが、アシュレイは聞く耳をもたず低い声で唸っていた。
数分後。
火にかけていないヤカンが、何故かひとりでに熱くなり発火したことによって、閻魔の部屋から火が出てしまう。
幸い飛び起きた閻魔によってすぐに消火され、小火ですんだが・・・・「これで来月教主ママに会いに行くことはできなくなってしまった」と、彼はハンカチを食いしばるしかなかった。
一方、火の手が上がるのを間近で見ているのに、逃げることもできなかった三人は、それ以来アシュレイを怒らせるようなことは決して言わなくなったとか。
アシュレイは天界テレビに着くと、一目散にエレベーターホールを目指した。エレベーターが1階に着いて、ドアが開ききるのを待ちきれずに身体をねじ込むようにして乗り込もうとした時、丁度降りようとした人とぶつかりそうになった。
「おっと失礼・・・。アシュレイさん?」
「ナセル!」
脚本家のナセル・ノースであった。
「どうしたんです?そんなに慌てて」
「お前こそ、まだ残っていたのか?」
「俺は打ち合わせが長引いたものですから。アシュレイさんはまだ仕事ですか?」
「違うんだ・・・、いや、仕事のことだけど。でも今日は別の仕事してて。あ、でも仕事のことなんだ」
「ちょっと落ち着いて下さいよ」
ナセルは笑ってアシュレイを連れてエレベーターホールから少し離れた。
「一体どうしたんですか?仕事のことって待機中のドラマのことでしょう?」
「そ、そうなんだ。ナセル、あのドラマ、中止にならずに済むかもしれねーぞ!」
ナセルが驚いた顔をした。
「どういうことです?何か状況が変わったんですか?」
アシュレイは吹き抜けのロビーに立つ太い柱の陰にナセルを引っ張っていき、声を潜めた。
「今回のことはブラック&ヘルの、10億円もする新作ネックレスをドラマの中で使うってここの会長が勝手にした約束が原因なんだ」
「そんなことが?」
「悲恋」のことを口にしなかったのはあくまで自分の精神衛生保護のためだ。
「と、とにかく。そのネックレスを使えばブラック&ヘルは文句言えないはずなんだ」
「でもどうやって?そんな高価なもの使える場面を今から作るのは難しいですよ」
アシュレイは頷いた。
「そうなんだ。でも話の筋に影響しなければいいんだろ。だからそれ着けるのはヒロインじゃなくって女優とかモデルとかなんだ。それでネックレスのデカい広告パネル作ってさ、飾っておく。そうしたらさりげなくテレビに映るし、しかもそれは単なる背景にしかならない」
「飾るって、どこに?」
「それはさ、ショーウィンドウとかに・・・て。あ、れ・・・?」
ナセルは困った顔をした。
「アシュレイさん、ドラマの中で実在の企業の名前を出すのはちょっとまずいと思いますよ」
「そっか・・・」
せっかく起死回生のアイディアだと思ったのに。アシュレイはがっくりその場にしゃがみこんだ。
「やっぱダメだな、俺って。後先考えないで・・・」
ナセルは慰めるようにアシュレイの背中をぽんぽんと叩いた。
「そんなに落ち込まないで下さい。俺はいいアイディアだと思いますよ」
「でも使えないと意味ねーよ」
「そんなことありません。もう少し掘り下げてみましょう。例えば飾る場所を変えてみたりして」
ナセルは少し考え込んだ。
「・・・ショーウィンドウか。そういえばヒロインは大手アパレル会社のOLだ。そこの職場に飾ったらいいんじゃないでしょうか」
「職場?」
「確かヒロインの会社は新作ドレスを発表したばかりという細かい設定がありましたよね。広告の写真でモデルさんにそのドレスと一緒にネックレス着けてもらえばいいんじゃないですか?そうすればメインはドレスですが、ネックレスも充分目立ちますよね。話題にもなりますよ」
「そんな設定あったっけ?」
ナセルは苦笑した。
「俺が考えたわけではないんですけどね。美術さん達が考えた設定ですよ」
「あ・・・」
すっかり忘れていたが、確かそんな話があった。割りと自由な雰囲気の現場で、美術担当達は遊び心を発揮して話の筋には関係ない細かい設定を色々考え、それを基に道具を用意している。
アシュレイは飛び上がるように立ち上がり、ナセルの肩をバンバン叩いた。
「すっげぇ、ナセル。やっぱお前って頭良いよな。ティアに話す前にお前に相談できて良かった」
「ティア?もしかして社長ですか?」
「あぁ、ブラック&ヘルの取締役ともう1度話すって言っていたけど、具体的な案を持って行った方が絶対説得力あるだろ。だからあいつには1番に話さなきゃと思ったんだ。早速行ってくるわ」
「待ってください。いつの間に社長と知り合ったんです?」
「この間、初めて会ったんだ。最初はいけ好かねぇ奴だと思ったんだけどさ、あいつも現場が好きでこのドラマのために1人で冥界教主と話付けようとしてくれてるんだ。それってさ、放っとけないというか、俺も何かしてやりてーじゃん」
そう言うとナセルが何か言う間もなく、アシュレイはエレベーターへ向かって駆けていった。そして途中で振り返ると、アシュレイはナセルに向かって手を振った。
「サンキュー、ナセル。やっぱお前って頼りになるよな!あいつきっと喜ぶよ!」
ナセルは曖昧な表情で微笑み返した。
元気よく跳ね返ったストロベリーブロンドがエレベーターの中へと消えると1人ロビーに残ったナセルは
「頼りにされて、ライバルが出てきたんじゃあな・・・」
と肩を落としたのだった。
ガラス張りのエレベーターはアシュレイを乗せてぐんぐん上昇していく。瞬く間に眼下には黒いビロードの上に宝石箱を引っくり返したような夜景が広がった。けれどアシュレイには目の前の光景よりも先ほどの案のことに心を奪われていた。30階までの時間がとても遅く感じられる。やがてエレベーターはチンという軽い音とともに止まった。扉が開ききるのも待てず、アシュレイは飛び出した。この階には来たことがない。ただ、社長室があると聞いたことがあるだけだ。
誰もいない廊下を「社長室」と書かれたドアのプレートを探して走ったが、社長室を見つけるのに大して時間はかからなかった。何せ広いわりにはドアの数がほとんどない。
「社・・・じゃねーや、ティアー!いるなら開けろ!」
律儀に言い直してアシュレイは重厚な雰囲気のドアをドンドン叩くと、すぐに扉が開いて目を丸くしたティアが顔を出した。
「アシュレイ!どうしたの?山凍殿がいなくてよかった・・・。そんなことより入って」
社長室はゆったりとした広さで、シンプルだがセンスのいい部屋だった。部屋は微かに甘い良い匂いがしている。何だかティアの笑顔を思い出すような・・・ってそんな場合じゃない。
アシュレイは咳き込むように切り出した。
「あのネックレス、ヒロインが着けなくてもドラマの中ででっかく使える方法があるんだ」
ティアが軽く目を見開いた。
「どういうこと?」
「広告だよ。モデルか女優かにあれ着けさせて、その写真ででかい広告作ってヒロインの職場に飾ればいいんだ」
職場のシーンで毎回その広告が視聴者の目に触れる。もちろんブラック&ヘルの名前はドラマの中で出さないがそれでも話題にはなるはずだ。ドラマの筋にも影響しない。
ティアの目が輝いた。
「すごいよ、アシュレイ・・・。そんな手があったなんて」
アシュレイは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「まぁ、俺が考えたというよりもナセルの案なんだけどな」
「ナセルって脚本家の?」
「あぁ。さっき下で会ってさ、一緒に考えてくれたんだ。俺じゃここまで考えつかねぇし」
「ふーん。…でも、これでドラマを中止しなくて済むんだね」
「まだだ。その前に先方に話してもらわないと。準備は俺達でできるけどそっちはティアの仕事だぜ」
冷静な振りをしているが、本当はすぐにでもプロデューサーのところに走りたい気分だ。
「そうだね。さっそく明日の朝にでも行って来るよ。その前にプロデューサーと話さないと。それはすぐに連絡を取るよ。冥界教主殿と話がついたらすぐに準備に移ってもらおう」
ティアは興奮を抑えるように机の周りを歩き回った。そして上気した顔でアシュレイを振り返った。
「ありがとう、アシュレイ。正直無理かもしれないって少し思っていたんだ。これで希望が持てるよ」
アシュレイは笑った。
「俺だって自分の『好き』は守りたいさ」
ティアはアシュレイの手を取った。
「絶対中止にはさせないから。待ってて」
アシュレイは大きく頷いた。
翌朝、ティアは冥界教主を訪ねた。金を出さずに済んだと思っていた冥界教主と壮絶な舌戦を繰り広げたが、ティアが執念の粘り勝ちをもぎ取った。そしてすぐさま昨夜連絡を入れておいたプロデューサーに電話をし、プロデューサーの指示で製作会社が広告パネルの作成を始めた。幸いなことに広告モデルとして候補に挙がっていた大物女優のスケジュールが空いていたのですぐに写真撮影が行われた。そして広告作成と並行して止まっていたドラマの準備も再開し、まさに怒涛のような数日間の末、執念と幸運とに支えられ、当初予定していたクランクインの日から数えて5日前の夜中。ようやく全ての工程が終了したのであった。
Powered by T-Note Ver.3.21 |