投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
木枯らしに容赦なく頬をうたれて、ティアはマフラーを巻きなおす。
鉛を溶かしこんだような空が重苦しい。
(・・・・雪でも降ってきそうだ)
手袋を忘れた彼は、耐えられなくなってポケットに両手を入れた。
「転んだらキレイな顔を怪我して女子どもが大騒ぎだぜ」
背中から聞こえたイヤミに振り返ると、もう4日も口をきいてくれてなかったアシュレイが視線をそらしたままティアを追い抜いていく。
「アシュレイ」
彼に歩調を合わせると、すぐにそれを乱されてしまった。
「まだ怒ってるの?」
「あたりめーだ」
ツンと前を向いたまま赤い髪が更に足を早めた。
この幼なじみを意識しはじめたのはいつ頃からだったか・・・。
小学生の頃は手のつけられないやんちゃぶりで周りに敬遠されていた彼が、成長するにつれどんどんキレイになって・・・・夏休み前から何やらあやしい輩や視線が彼を取り巻いていて、ティアは気ばかりが急いていた。
「お前、俺に言うことがあるだろ」
「言うこと・・・?」
そういえば、きちんと想いを告げないままアシュレイを押し倒してしまったのだ。せめて告白してからにするべきだった。
結果から言ってしまえば、還り討ちにあい何もできなかったが・・・。
「約束したら許してやる」
「え?」
「二度とあんなふざけたことすんなよ?」
唇を尖らせて、すねたような顔をむけられた二秒後――――ティアはアシュレイの体を壁に押しやっていた。
「っ!」
背中を打ったアシュレイが文句を言おうとした途端、指が食いこむかと思うほど強く両腕をつかまれる。
「―――――――ふざけたこと?・・・・・私は時々ものすごく君が憎らしくなるよ・・・・」
普段のティアとはちがう低い声ときつい眼差し。本気で怒っている証拠だ。
アシュレイは目をみはったまま何も言えない。
「謝るよ、いきなり押し倒したりして卑怯だった。でもふざけてなんていない。私は・・・・・アシュレイ、君が―――・・・・」
風の音に消されてしまいそうなほどのささやきで伝えると、ティアはその冷えきった耳に唇を当てた。
優しく耳朶を舐められ、電気が走ったように体がしびれたアシュレイは、ひしと彼の腕にしがみつく。
ふるえる体をそっと離し自分のマフラーを巻いてやると、ティアは無言のままアシュレイを見つめてから、その場を去って行った。
『君が好きだ』
ささやかれた言葉が頭の中で反響して、アシュレイはいつまでも足をふみ出せずにいた・・・・・。
PRIORITY
航務課スタッフが本社にかけた電話を切ったのは、空が薄いオレンジ色を帯びかけている時刻。ようやく空いた滑走路に777便を運んだ後のことだ──
航務課長との話でわかったことといえば、ティアは確かに非公式に島に来るはずだった。が、運悪く、クリスタルの王室がニア・ミスの
ことでかけてきた電話を、古くからいて、黒髪機長に『盛りだくさんで一人前』と評されている機能しない重役のひとりが取ってしまったらしい。
結果、何も知らなかった重役は大騒ぎ。挙句、王室にもティアの島行きが知れてしまいました、ごめんなさい、とのことだった。
「タイミングが悪いですね……」
しみじみとした空也の言葉に、みんなが頷く。あまりに機能していないために誰もが無視するに慣れている隙を縫って社内に
頭痛の種を蒔くノートリアス。今回もきっとみんな油断していたに違いない。
「けど、仕事で来ないってことは、ティアの奴やっぱり俺のこと見に……」
推理的中で赤くなったアシュレイに、航務課スタッフは笑って、
「オーナーとは幼馴染だそうですね。心配なさるのも仕方ありませんよ、こんなケースはめったにないですから。課長の話では
柢王・桂花両キャプテンもオーナーと同行されているそうですよ」
「えっ、だってあいつら明後日フライトじゃ……」
言いかけて、アシュレイはうなじまで真っ赤になる。
あのふたりが揃って仕事を放り出してくるわけがない。機長の立場から言えば、今回のは同情はしても駆けつけてくるような事件では
ないのだ。それが来るとしたら絶対にアシュレイを案じたティアが頼んだせいだ! 自分だけならともかく機長のシフトまで替えるなんて──
(ティアの奴、限度があるぞ──)
ただでさえ、今日は気が立っている。そのティアの行動を笑い飛ばす余裕はいまのアシュレイにはない。と、それと見たのか、
航務課スタッフは落ちついた声で、
「キャプテン。人に想われるということも機長には大切な資質ですよ。それに友達は大切なものですし」
「でも……」
自分の立場にいきなりオーナーが食い込みそうになったら、それがオフだといわれてもいい気持ちがしなくて当然なのに。言いかけた言葉を
アシュレイは飲み込む。そんなこと思うこと自体が失礼に思えるくらい、スタッフの態度は穏やかだ。だからアシュレイもこらえて、
別のことを言った。
「さっきの──あの質問をして下さったこと、ありがとうございました」
と、スタッフはまたも笑顔で、
「気になるのは当然の問いですからね。それに、航務を守るのが私の仕事です」
(偉い、よな……)
アシュレイは複雑な目でそのすっきりとした笑みを見つめた。
本当に役割に徹している人だけが、いざという時の力になる。このスタッフ、そして、アシュレイには絶対に納得できない理屈なのだが、
それをそう思われるのを覚悟で言ってのけた隊長も大佐もゆるぎなく、沈着で……。
それに比べて、自分と来たら、腹がたつのは当然でも、もう少し、なにか対応もあったかも知れないと、いまになって思えてしまうこと自体が、
なんとも悔しいような情けないような……。おまけに、ティアは自分のことが気がかりで駆けつけてくるし、柢王と桂花まで巻き添えだ。
(俺って……)
にわか、機長としても、人としても、自分が半端なような気がして、その後、空也と向ったホテルの部屋でも、アシュレイの
気持ちは曇り空のままだった──
「やっぱり来なきゃよかったかなぁ……」
ティアは呟き、ため息をついた。後悔先に立たずというが、これはまさにその通りだ。機内から本社に電話をして、重役の絡んだ
事の顛末を耳にしたティアは青ざめた。よりによってなんでそんな大事な電話を取るのだ、と叫びたかったが、会社員として考えたら
ティアの方が間違っている。
(きっと陛下はご心配なさっているだろうなぁ。それに現地も……アシュレイだって、騒ぎになったら嫌なはずなのに・・・…)
隠密に行って、アシュレイの顔を見て励まして帰る。ただそれだけのプランだったのに、王室には知れるし、隣りの島に迎えのヘリまで
用意されて明け方前に島に到着。たぶん少し休んだら現地スタッフと王室に挨拶に行って、自分がここへ来たのはトラブルに意見が
あるのではないことをきちんと説明しなくてならないだろう。
いや、説明するのは得意だし、そもそも自分が蒔いた種だ。それはいいが、
(ふたりとも、本当にごめんね……)
急だったからEクラスしか取れず、しかも機内は混んでいる。ティアの並びは柢王と桂花で、ふたりとも椅子は少ししか倒さないが、
柢王は目を閉じているし、ティアの席から見えない桂花もたぶん同じだ。寒い国から寒い祖国、そして島。気温差、時差、距離。
どれを取っても疲れることは間違いない。その上さらにまた移動と来れば、怒られてもふしぎではないのに、ティアの話を聞いた
ふたりはごく冷静。
『んじゃ、ちょっとだけ目閉じてるけど、なんかあったら言えよ』
たぶん体調管理のための休息。どこでも眠れる柢王はともかく、人前で眠らないとの噂の桂花はどう思っているのか、話すには
遠くてわからないのがよけいに申し訳ない。
「私って、バカかもなぁ……」
もう少し、なんとかしようもあったろうに、と、ティアは落ちこんでため息をついた。と──、
「おまえがアシュレイ・バカなのは子供ン時からなんだから、いまさら気にすんなつーの。それに、起きたことを悔やむより
これからどうするか考えるのが航空会社の基本だろ」
呆れたような柢王の声に、ティアは目を見張る。
「えっ、ご、ごめん起こしたっ?」
慌ててそちらを見ると、こちらを見ていた親友はちょっと眠たげだが、いつもの笑顔で、
「静止してると寝なくても疲労の半分回復するんだよ。それに目開けてるとおまえのスーツケースから漂うカプサイシンが染みるしよ。
つか、おまえよくそれ持ちこめたよな? 俺はおまえが今度はテロで捕まるんじゃないかって冷や冷やしたぜ?」
いつもと同じ。子供の時から同じ、からかうようなあたたかな声で言ってくれる。
「でも、おまえたちにムリさせることにもなったし、本当に考えが足りなかったよ……」
その優しさがすまなくてそういうと、柢王は軽く肩をすくめて笑い、
「そんなの、わかりきったことじゃんか。オーナーが1パイロットの終わったピンチに好物山ほど抱えて駆けつけるなんてよーく
考えたらできねぇっつーの。でも、おまえみたいにふだんあれこれ考えないといけない奴はさ、たまに考えなしで動くくらいで
いいんじゃねえの? それが好きってことでもあるんだしさ。ま、おまえが鳴り物入りで来ることになったら、アシュレイは怒るよな。
現場のスタッフも微妙なとこはあるとは思うし。そこんとこは覚悟して、ちゃんとわからせる努力しろよな、ティア」
にっこりと、笑う柢王に、ティアは瞳を潤ませた。
ニア・ミスの件を聞いたとき、一瞬、体から血の気が引くのが感覚としてわかった。いても立ってもいられなくて、引き出しに
確保してあるアシュレイの好物を夢中で鞄に積め込んで──きっと部長が止めてくれなければ無意識に飛んでいっていただろう。柢王たちを待つ間も心にあったのはアシュレイのことだけで……。
本当は、じっとしていたらいいのはわかっているのだけど。放っておいても、過失がなければアシュレイは普通に三日後には
戻るのだから、それを迎えてあげればよかったのだろうけれど……。
(私はパイロットじゃないから、パイロットの気持ちはわからないけど……)
力になれるなれないは別として、アシュレイがふつうでないことにあった後くらい、励ましたり、あるいは、びっくりしたねと
笑うだけでもしたかったのだ。声だけでもよかったかもしれないけれど。ふだん側で励ますことはできないから、陸にいるときくらいは
側にいて励ましたかっだけなのだ。
だが、それもやはりオーナーの立場では、短慮かもしれないと、本社と連絡した後で、ティアは落ちこんでいたのだが──
「柢王……ありがとう。おまえにも、桂花にも、迷惑かけてごめんね」
ティアは潤む瞳で呟いた。
柢王も、黙ってついて来てくれた桂花も。航務課だって部長だって秘書だって。みんなティアのことを庇ってくれている。オーナーだから
あたりまえとは思わないけれど、オーナーだから甘やかされている部分もあるのだと、ティアにもよくわかっている。
けれど──。
誰にも迷惑はかけていないと断言できる人は、きっと周りのことが見えていないだけだ。人の好意に支えられずに存在している
人などいない。だから頼ろう、とは思わないけれど、人の優しさを、ありがとうと受け取ることも、迷惑かけないでいようとすることと
同じくらい大事なのだと、ティアは会社で働くようになってわかるようになっていた。
と、人の機微には敏感な親友はいつもながらにこだわらない笑顔を見せて、
「ま、俺はおまえらのお兄ちゃんだからな」
優しい声に、ティアは泣き出しそうな瞳で、うん! と笑った。
「オーナー、眠られたんですか」
桂花が尋ねる。柢王は、ああと桂花を向き直り、
「なんだかんだ言ったって、こいつだって激務だからな。おまけにアシュレイのことでも気疲れしたろうし、少しでも休めるなら
それがベストだよな」
席に凭れてすやすやしているティアの寝顔を横目に微笑む。と、クールな美人がくすりと笑う。
「なんだ?」
「いいえ。あれこれ気を回す人なんだなと思って」
「一番気を回したい相手が目瞑ったまま沈黙じゃあな。おまえだってあれこれ言ったらティアが気遣うと思って寝たふりしてたんだろ?
あれこれ目につくのはパイロットの職業病だよ」
笑う柢王に、桂花もかすかに瞳を細める。
「でも、こうなるとアシュレイ機長はオーナーがいらっしゃることをすなおには喜べないでしょうね」
「まーなー。あいつもティアのために機長になったってとこもあるけど、だからよけいに機長として関る立場でティアに関られると
複雑だよな。ティアにその気がなくてもこれじゃ公式に行くのと同じことだし」
だからあのてんこ盛りは、とため息をついた柢王はすぐに笑って、
「ま、なるようになる。俺らは傍観してりゃいいって。それより、おまえも少し寝たら? フライト長かったんだろ?」
と、桂花は首を振り、
「人がいると眠れないので」
「俺だけいると思えばいいじゃん。俺なんかステイ先でも目蓋の裏におまえの顔が浮んで眠れねぇ……って、あれ?」
「あなたが口と目を閉じる方がいいみたいですよ?」
と、クールな美人が肩をすくめ──
瞳で笑うカップルとオーナーを乗せた機体はそろそろ星の海を行くような夜間飛行に入るところだ──
EXCEPTIONAL RULE
「機長、気持ちはわかりますから落ち着いてくださいね」
「そうですよ、機長に何かあったら俺ひとりじゃあの機は動かせないんですからね」
真剣顔の航務課スタッフと空也の言葉に、さすがに小一時間ふたりの説得を聞き続けた新米機長はため息をついて、
「わかってます。話はちゃんと聞きますから」
答えると、ふたりはあからさまにほっとした顔をする。その態度に、アシュレイは複雑な思いを噛みしめた。
スポットから引きずるように司令塔の部屋に連れてこられてずっと、怒る気持ちはわかるが、新しい問題は起こしてくれるなと、
言葉を尽くしてなだめた空也と航務課はたしかに間違っていない。
実際、アシュレイは会社員であるパイロット。幼馴染でオーナーであるティアやその他スタッフたちがこの路線開発にかけた労力を
間近に見てきた立場でもある。一発殴ったのは見逃されても、それ以上やったら犯罪者。謹慎どころの騒ぎではない。それにアシュレイが
乗らないとツー・パイの機はたしかに明日までここに置き去りになる。軍のせいで起きたトラブルでもそれは別問題。そんなことになったら
会社はかなり厳しく非難される。
だから、あとは自分がおとなしくして、航務課や軍や本社の判断に任せるのが筋なのだとは、アシュレイもわかっているのだが……。
(あいつを殴ったことは反省しないからな──)
思い出すとまた胸がむかむかする怒りが込み上げてきて、新米機長は瞳を燃やす。
わざとニア・ミスしておきながら、まるでこちらに非があるような言い様。悪びれない態度。確かにものすごくうまいのは認めるが、
空の上に絶対はない。もしあそこで突風でも吹いたら? もしこちらのエンジンがいきなり故障したら? 大惨事になっていた可能性は
いくらでもあるのだ。それを、自分はさっさと逃げ出しておいて──
(勝手なこと言いやがって……!)
音速で飛ぶパイロットに、旅客機の、それも新米機長の手動操縦がのろまに見えても仕方ないが、安全に飛ぶことは最低限のルールではないか。
それを──
「き、機長?」
むっかぁーっ、と握り拳を震わせるアシュレイに、また怒り爆発とみたものか、空也と航務課スタッフが顔を青ざめさせる。
と、幸いなことにノックの音がしてドアが開いた。
「お待たせしました──」
入って来たのは、落ち着き払った顔の官僚と、悟りを開いた後のような肝の据わった目をした隊長。三人を見ると、直立不動の姿勢で、
調査委員である官僚が口を開いた。
「事情確認が終わりました。先ほどのニア・ミスに関しては氷暉中尉の意図的な進路妨害だと言うことを本人も認めました。中尉には
軍の規則に従って厳正な処罰を下します。処罰の内容は明日、会議で決定しますが、当分の間、かれが飛ぶことは原則的にないと思います」
アシュレイは瞳を上げたが、とりあえずこらえる。『原則的』の意味は後から質問しよう。
「処罰は正式に決定し次第、ご連絡します。それと、天界航空社に対しての補償等については明日にでも弁護士とともに連絡させて
いただくことになります。よろしいですか」
その言葉に、航務課がはいと答える。
続けて、この事故の影響で機体や乗客に万一異変があった場合の対処など説明があり、航務課がそれをまじめな顔で聞いて、
事務的な話はアシュレイにとってはそっけないほど早々に終わった。が、事故調査は本来延々何ヶ月も行われるものだから今回の
結論の早さ自体が異例なのだ。該当機長としてはそのことはありがたいことだ。
「我々からは以上ですが、他にお知りになりたいことはありませんか」
「聞いても──」
「質問をよろしいですか」
口を開きかけたアシュレイを遮るように、航務課スタッフが尋ねた。アシュレイはとっさにかれの顔を見た。と、かれはごく
落ちついた顔でアシュレイに頷いた。
「構いませんよ、どうぞ」
官僚が言うのに、礼を言った航務課スタッフは、丁寧な口調でこう続けた。
「先に断らせて頂きますが、当社は軍の迅速な対応とその後の誠実な態度に感謝しておりますし、軍内部のことに口出しをしたい
意思があるのでもありません。ですから、これは社の質問ではなく、現場で当社の機を保護する立場にあるものとしてのお伺いなのですが」
その言葉にアシュレイは目を見張る。なにを聞く気だろう? 官僚はやはり落ちついた顔で、
「構いませんよ、続けてください」
「ありがとうございます。それではお伺いします。先程、原則的に中尉が飛ぶことはしばらくないとおっしゃいましたね。ですが、
もしも今度の事故を起こしたのが当社のパイロットであるなら、当社では二度とそのパイロットに空を飛ばせることはしないでしょう。
軍の規準と我々の規準が異なるのは承知していますが、安全な飛行は全ての機が目すものであるはずです。それを越えてまで、
中尉を留め置かれる理由がなにかをお教え願えませんか」
アシュレイと、そして空也も息を飲んだ。その質問自体はアシュレイが聞きたかったことだ。ただしもっと直接的な言葉で。
だが、なんであんなヤツ辞めさせないのだと言う意味はいまのでも確実に伝わる。それを、航務課のスタッフが口にしてよかったのだろうか?
ふたりは顔を見合わせたが、スタッフ本人は冷静。そして、官僚はと言えば、これまた予想したような顔で頷いて、
「その質問は当然だと思いますし、おっしゃる通りだと思います。それに対して我々が申し上げられることは、第一には謝罪でしょう。
どのパイロットも安全に飛べて初めて、飛ぶ資格があるといえるのは軍も同だと言えます。ただし──」
官僚は、言うと瞳を細めた。ふいに、その青い知的な瞳のなかに意思の強さが宿ったように思われた。そして、言った声は、
ごくあたりまえのことを言うようだった。
「我々にはもうひとつ、言えることがあります。軍隊においては、その一機が飛ぶことで、戦局の変わる、エースと呼ばれるパイロットが
存在します。その一機で、そこにいる全ての味方を集めた以上の成果を生み出すことのできるパイロットです。軍の柱が秩序と規律で
あることは私も充分に承知しているつもりです。ですが、危急の際には、私は喜んでその柱を無視するでしょう。なぜなら、
エースとは生還できるパイロットを意味するからです。たとえその数が軍の1%にも足らない存在でも、生還できるパイロットだけが
地上を火の粉から護れる翼だとわかっているからです」
「な……」
予想もしなかった答えに、アシュレイはあぜんと目を見張る。
たった一機で戦局を変えるパイロット。そんなものが存在するのか。旅客機の機長としてはその疑問は当然のもので、だから
反論の余地はいくらでもある。
けれど、ゆるぎない真実は、肌に冷たい刃物を当てられるようなものだ。空の上の安全は誰にとっても大切で、ましてやこんな
平常時の理屈にはまるでできないその理屈を、官僚が口にしたのはそんなことは百も承知の上でのことなのだ。その飛行に文字通り
命をかけているパイロットを間近に、最悪を常に予期している人の、鋼のような現実主義。誰かの理解でその価値の変わらぬ、
それはかれの現実なのだ。
そして、かれがそれを口にしたのは、アシュレイたちに対しての誠実さなのだと──落ちついた顔の官僚の瞳を見つめたら、
わからずにはいられない。そして、その言葉の意味が胸に落ちていくに連れて、アシュレイの肌には鳥肌が立ってくる。
と──ふいに、それまで黙っていた隊長が、落ち着いた、穏やかな声で口を開いた。
「皆さんがいまのトライスター大佐の説明に驚かれるのも道理だと思います。ですが、いまのはあくまで究極の場での選択の話です。
大佐も私もそれがどのような時でも通じる理屈だなどとは考えていません。──そこで、これは私たちからの提案です。明後日の
午前、当基地で航空ショーの演習が行われます。それを、ご覧においでになりませんか」
「えっ」
またもや意外な言葉に三人が聞き返す。と、隊長は先刻、先刻パイロットを怒鳴った時とは打って変わったごく穏やかな笑みを浮かべて、
「実はこの度のニア・ミスの件が王室の耳に届きましてね。大変なお叱りを受けました。当然のことです。王室はこの度のことで
天界航空との関係に亀裂が入ることを大変に憂慮されておられます。それで、軍のパイロットがどのようなものであるのか、
少しでも見て頂ければ、今後ここへ降りられる時に不安を抱かれることも少ないのではないかと、大佐と話した結果なのです。
いま、当基地のヘリが隣りの島までオーナーをお迎えに飛んでいますから、ぜひともご一緒に来て頂ければと思うのですが……」
「オーナーですかっ?」
「ティアっ…じゃなかった、オーナーがここへ来るんですか?」
「はい。王室から、天界航空にご連絡を差し上げたところ、オーナーはすでにこちらに向われているとのことだったそうです。
直行便はもうないですから、乗り継いで明日の朝お見えになられる予定だったようですが、王室からの依頼で隣りの島まで迎えを
飛ばせることになりました」
隊長の答えに、アシュレイたちはふたたび顔を見合わせた。ティアが来るなど予想外だ。
(あいつ、なんで……まさか俺のこと心配で来たりとかしないよな……)
アシュレイは胸をドキドキさせる。会社にとって笑い事ではない話だが、ティアが来るのはそれこそ社内のルールに反する。
航務課スタッフの瞳に困惑に似た色を見て、アシュレイは瞳を瞬かせた。
と、またもそれを見取ったのか隊長が笑顔で、
「私の聞いた話では、オーナーは私的な用で島においでになるとのことです。今度の件で意見がおありだとはうかがっておりません」
アシュレイは瞬間、ホッとした。が、非公式と言ったって、来ることが王室にバレて迎えまで差し出されたらそれはもう堂々と
来るのと変わりはない。
大好きな親友に会えるのはいつだって嬉しいことではあるが、公式に来ないとしたらたぶん自分が心配で来るのだ。気持ちは
ありがたいけれど、シビアな軍の話を聞いた後では、それはまるで親に庇われる子供のようで、アシュレイは苛立たしいような
悔しいような複雑な気持ちになってくる。
(ティアのヤツ、なんで……──)
「では、オーナーと相談してお返事をさせて頂きます」
落ちついた態度で答える航務課スタッフの顔を見つめながら、アシュレイは複雑な思いに、強く唇を噛みしめていた──
無音の世界。
部活動がなく、誰もいないプールの底から見上げる空はどこまでも歪んでいた。
最近は、何もかもが面倒で、学校へ来ること自体意味がない気がしている。
水底にいた氷暉がそろそろ上がろうとした時、すぐ上の水面で犬かきなのかクロールなのか分からない、斬新な泳ぎをする赤い髪が横切っていく。
・・・・見事にデタラメなフォームだな。
必要以上にしぶきをあげて、そのくせなかなか前に進まない男が、いっそう激しく水をたたく。
なんのコントだよ。
ハチャメチャすぎるその泳ぎに思わず笑って、肺に残っていたものを泡に変えてしまった氷暉は、次の瞬間大急ぎで底を蹴った。
沈みかかった細い体を受け止めるとそのまま抱きかかえてプールサイドへ上がる。
「―――ッ、ゲホッゲホッ」
「大丈夫か」
咳きこむ背中をたたいてやるが『要らない』という仕草に気づいて、氷暉は金網にかけておいたタオルを取りに行く。
ようやく咳がおさまったその体に、タオルをかけてやると、彼のノドからヒューヒューと喘鳴が聞こえてきた。
「喘息もちか」
だとしたら、早めに吸入させたほうがいい。今は治ったが、妹が小児喘息だったためその発作が苦しいものだということは理解している。
「・・・・ちがう。水飲んじまったとき、変なとこに入ったから・・」
羽化したばかりの蝶が畳んでいた羽根を伸ばすためにジッとしている様子、アレに似ている。
「助かった、サンキュ。でもお前、どっから湧いてでた?」
前言撤回。蝶なんかじゃない、セミで充分。
「水の中だ」
「なんだ、先客いたんだ。誰もいないの確認したのにビックリしたぜ」
「秘密の練習か?見事な犬かきだった」
「なっ!・・・・そうだよっ自分でも分かってんだ。だから――」
「俺は氷暉。泳ぎ、教えてやろうか?」
「俺はアシュレイ。お前泳ぎ巧いのか?」
氷暉を見つめる目が水面に反射する光を映してキラキラしている。「――――まぁ見てろ」
そのまま飛び込んで非の打ちどころのないクロールで水をきっていく。
「スゲー・・・」
あっという間に往復してきた氷暉にタオルを渡しアシュレイは興奮したままその腕を掴んだ。
「頼む!俺に泳ぎを教えてくれっ」
すがるような瞳に苦笑して、自分から言い出したくせにしばし考えるふりをした氷暉は一つだけ条件をつける。
「え〜?髪を伸ばせだぁ〜?冗談じゃねぇよ、ただでさえアチーのに」
「そうか、なら仕方ない。一生犬かきしてるんだな」
「わわ分かった!伸ばすからっ!頑張ってみるからっ!」
しがみついてくるアシュレイに満足し、氷暉は口元をゆるめた。
空を見上げる。
蒼いそれは綿菓子のような雲を所々に浮かべ、どこまでも澄みわたっていた。
(来た……)
上ばきのかかとを踏んで、あくびをしながら目の前を過ぎて行く赤い髪。
受付で返却本を揃えながらナセルの目は彼を追う。
水曜日。
決まってこの時間に現れる彼は、本を借りるどころか読むことすら一度もなく、ただひと眠りして帰って行く。
今日もいつもの定位置に腰をかけると寝る体制に入った。
自分を入れても片手に満たない人数。
他の曜日なら、そんなに利用価値が無いのかと、嘆くところだが水曜日は別だ。
『アシュレイ』
声には出さず、口だけ動かして呼んでみる。彼が貸し出しカードを使ってくれる相手だったなら、その名を誰かの口から聞くこともなかったのに。
――――早く帰りな。勉強なんか、家でやれよ。
作業を淡々とすすめながら様子を伺う。残っている者たちは連れ合いらしく、たまにボソボソとなにか話をしていた。
一週間に一度だけしか訪れてくれない人。まだ話したこともない人。
今日もダメだな…
二人きりになるチャンスはなかなか巡ってこない。
ナセルが諦めてため息をついた時、残っていた二人連れが同時に席を立った。
ガタガタと椅子を戻し数冊の本を借りて図書室から出ていく。
再び訪れた静寂。
夕焼けが窓からゆっくりと室内を照らしだし、アールグレイに染めていく。
ナセルは足音を忍ばせながらアシュレイの前に立った。
穏やかな呼吸をくりかえし、長いまつ毛がかすかに震えている。
自分とアシュレイしか存在しないひととき。
「アシュレイ・・・・」
洛陽が一段と輝きを増し、眠る彼の体をやわらかく包みこんでいった。
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