投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
──Now slides the silent meteor on, and lesves.
A shining furrow, as your thoughts in me──.
冷たい風が草原を揺らす。
吸い込まれそうな遠い夜空に、零れ落ちそうな星が無限に広がり、露にぬれた草を踏み分けて歩く桂花の瞳を燦然と銀に染めている。
足元までの衣服の裾はもううっすらと重く濡れている。闇にほのかな銀が刷かれたような、月も姿を見せぬ夜。長い髪を、まだ夏になりきらぬ
草原の冷たい夜風にさらして、暗い海のようなざわめきのなかを歩くその姿を、迷信深いものが見れば、精霊だと恐れたものかもしれなかった。
いまの桂花は変化を解いている。長い白い髪、紫微色の肌。薄物の衣服の下にはあざやかな刺青がある。他に誰もおらぬと確信しての
その姿は、いまや知るものの少ない、かれの真実の姿だ。
濡れた草の匂いがざわざわと揺れるにつれて濃くなる。人間界の植物は、まるでそれが命の証であるかのようにその時節、もっとも香り、
もっともあざやかに、もっとも美しくその姿をさらしては消えてゆく。次の時節が訪れるまで。
足元に踏みしだく命の証に、薄い笑みをたたえた唇がひくくつぶやく。
「繰り返す、命、か……」
ふと、見上げた瞳がはっと見開かれたのは、銀をちりばめた空に、ふいに一条、流れていく光を見たからだ。
「流星──」
紺色の空へ、すうっと銀の筋を引いて、星が流れていく。そのあざやかな軌跡に見開く瞳のその前で、ふ…と光は輝き、そして消える。
大いなる命の、最後の、輝き。瞳の奥に、その光の跡を残して。
細められた瞳がふいに、わずか、震えた。伏せられた睫毛の先にその震えがあとから伝わっていく。再び、開かれた瞳が濡れて揺れるのは、
空のざわめきを宿したものではなかった。
「……柢王──」
桂花の指先が、唇を押さえる。いまやその震えは細い全身に広がって、うつむいた先、踏みしだかれた草を見つめる紫の瞳には涙が滲んでいた。
暗くなると──
モンゴルの草原もうねりに似たざわめきを宿す。その音が聞きたくなって外へ出る。踏みしめて歩く草の、肌に触れる感触、風の匂いは変わらない。
それでも、あのなつかしい場所で見る、目を奪うようなぎらついた光を放つ闇ではなく、この世界では、月や星だけが波のようにゆれる
草原に宿る光の全てだ。
淡く、頼りなく、この世を照らす光。命の終わりを予感し、年毎に生まれ変わる草原。天界とは違う。柢王とふたりで暮らした家の周囲の
草原とは違う。それがわかっていても。ふいに、星のない空からあの声が、
『桂花、いま戻ったぞ』
降りてくることなどないとわかっていても──
眠りを求めない体が、風にざわめきに記憶を蘇らせて、外へ出る。満天の星。違うとわかっているのに、
(柢王──……)
草の海のなかを歩き続けている時だけ、理性も苦しみも忘れて歩き続けている時だけ。
あの声を、あのぬくもりを、あの存在を、求めることができるから。
足をとめた後に心を切り裂く孤独があるとわかっていても、ただ捜し求めるように歩き続ける時だけが、もう二度と会えない人を
愛し続けて生きるこの偽りの命を救ってくれるから。
(何度も生まれる命……)
そう、この一面の草原のように。生まれて、消えて、また生まれ変わる命。
いま、命よりも大切だった人の再現が、日毎夜毎に、その命を輝かせて育っていくさまを見ている。
二度と誰かを愛しいと思うことなどないと信じた胸の奥に、どうしようもない愛しさと喜びが生まれてくる。どうしようもなく、
心が惹きつけられるのを感じている。
だからこそ、その向こうでずたずたになっていく胸の痛みを思い知る。
かれの面影をさがす罪悪感。かれに対して感じる後ろめたさ。いるべきところではない場所にいることの罪深さ。
だが、それにも増して感じる、このどうしようもない想いを、言葉でどう言い表せばいいのだろう。
(覚えていない──)
あれほど愛した記憶をまっさらにして、いま、なにも知らない輝きでその手を差し伸べてくる。何も知らない輝きで、ただ純然と、
(俺にも懐かしい気がするって言ったら、怒るか)
自分を見上げたあの瞳を見たときの、言葉にならないあの気持ちを──。
生まれ変わっても……。
どれだけかれが生まれ変わり、そして、たとえいつでもその側にいられたとしても──
狂おしい夜に、瞳の奥に怯えに似た渇望を宿して、
(おまえは俺のものだ。そうだろう?)
くり返し問いかけた人の、想い、まなざし、記憶の全て──
それはもうよみがえることはない。
(吾だけが、覚えている──)
かれの記憶はあの星のように──二度とは、戻らない。
ただ一度の命。ただ一度の記憶。それで消えていくのは自分のさだめでこそあったはずなのに……。
(それなのに、吾がこうしてあなたの生まれ変わるさまを見ている。消えていくこともしないで、吾だけが空の命を生き続けている……)
皮肉だ、と、涙を滲ませた美貌が笑みを浮かべる。
「生まれ変わったのに……でも、吾にとって、あなたはあの星のようなものだ。あの、流星のように……」
続けかけた言葉を、こぼれる涙がさえぎった。
かれの存在は、あの流星のように……
つかの間に触れてすり抜けていったのに。この胸に、消えない軌跡を刻みつけている──
「ねぇ、アシュレイ、覚えてる? 私たちの幼稚園の卒園アルバムに『オール・アバウト・マイ・フレンド』って、みんなの
寄せ書きがあったじゃない? みんなで一言ずつその子について知ってることを書いたページだけど」
最上階のオーナー・ルームで、幼馴染で雇用主のティアランディアにそういわれて、天界航空新米機長アシュレイ・ロー・ラ・ダイは
あああと頷いた。今日は夜間のフライトだが、株主総会前で『ちょっとあの世に片足突っ込んだようなイッちゃってる状態』で、
働いていると聞いたティアの様子を見るために早めに来たのだ。
「なんかあったな。皆の知ってること集めたら、そいつの情報できますよ、みたいな」
思い出して見るが、なにせ幼稚園の頃。しかも子供の時からぶっきらぼうで、感情をうまく表現できなかったアシュレイは、
『こわい』とか『よく怒る』とかあんまりいいコメントを書かれた記憶がなかった。
そこへ行くと物腰が優しくてきれいなティアはみんなの人気者だった。あまりにみんながいいことを書くので、アシュレイはただ
『俺の友達』としか書けなかった気がする。本当は『とても大事な友達』と書きたかったのに。
が、幸いティアはその不器用な昔話にはこだわっていないらしい。数日で少しやつれて心なしか遠い目をしながらも、アシュレイの
側に腰かけて、
「昨夜、アルバム見て懐かしくて。いまの君のことだったらどのくらい書けるかなーと思って」
書いてみた、と微笑むティアにアシュレイは目を見張る。
もうひとりの親友である柢王なら、
『こんなことしてっからノイローゼ寸前まで慌てて仕事すんだろーがよっ、家帰ったら早く寝ろっつーの!』
と、つっこむところだが、アシュレイはすなおに驚いた。忙しいのにそんなことを? 差し出されたレポート状のものをめくってみる。
『オール・アバウト・マイ・アシュレイ』──ちょっと気になるタイトルだが、もじっているからだろう。
ピンクの用紙に手書きのリストは、
『ストロベリー・ブロンド。ルビー色の瞳……』
などアシュレイの外見から始まって、性格は、
『正義感が強い。頑張りやさん。不言実行型』
など、ふつうの人なら『頑固・負けず嫌い・不器用』と書くところを優しい言葉で誉めてくれている。
フライト暦や経歴はもちろん、個人的なこともあり、ティアにしてくれたことのリストも長くて、なかでも一番大きく書かれているのは、
『機長になってくれたこと』『私を乗せて飛んでくれたこ と』。
本当に嬉しかったとピンクの文字で書き添えられている。
アシュレイはジーンとした。子供の時からティアはアシュレイのことを優しく見守ってくれた。それはわかっているけれど、
そうして改めて書かれていると、本当にずっと側にいて大事だと思う気持ちが一方通行なものではないと証明されているようで、
胸の中があたたかくなる。
が、それを表立って表すのは照れくさい。傍らで疲れているのか少し遠い目をしながらも、にこにこ微笑んでいるティアにわざと、
「おまえな、こんな細かいこと書いてるとストーカーだと思われるぞ」
言いながらページをめくる。
『アシュレイの好きなもの。フライト。飛行機。B社の模型飛行機。航空図鑑(しばらく航空関係続く)…。
小動物(リスとかウサギとか続く)…お餅。激辛料理(しばらくエスニック系続く)』
ほんとに何でも知っていてくれる友達だ。
『ネルのパジャマ(ウサギつき)。抱き枕(グラインダーズ主任からの誕生祝い)。マジックボール(柢王のお土産)』
そんなことまで──…・いつ、話したっけ? 下着は綿とかそんなこと、話した記憶全くないけど?
首を傾げたアシュレイは、リストの最後に燦然と輝く金色のマジックで書かれた言葉に目を見張る。
『それにもちろん、わ・た・し?』
でっかいハートマークの下に署名欄があるのは何かの契約書なのかーっ。
「ねぇ、間違ってないよね?」
うっとりしたような顔で微笑むティアに、アシュレイはああぁと頷いた。頷きながら、こういう危険な匂いのするオーナーの
ことは誰かに相談した方がいいと言う予感が強くした──
「つーか、ティアがあぶない奴だってことくらいアシュレイだってわかってるはずだろーに」
荷物を引きずって車まで歩きながら、柢王は隣りの桂花に笑みを見せた。
「オーナーもきっと株主総会前で煮詰まって妄想に逃亡なさったんでしょう。気にしなくていいと答えてはおきましたが、あなたも
会う機会があったら気にかけてあげてください」
スーツケース片手に隣りを歩く桂花も笑みを返す。
星の出る時刻──ふたりは同じ日数のロング・フライトで家をあけて、戻ってきたところだ。到着時間が三十分ほどずれるだけだから、
本社で待ち合わせて一緒に帰ろうといったのは柢王で、会うのは四日ぶり。連休前だし、食事もすませて帰る予定だった。
それで先についた桂花は手続きを終えた後、ティールームにいたのだが──
深刻な顔で入って来たアシュレイが、桂花を見つけると、あっと叫んで駆け寄ってきて、
「なあ、聞いていーかっ、あのなあのなっっ」
変な人の変さはどこからが変でどこまでは熱烈な友情だと思うか、と相談されたことからティアのことが明らかになったというわけだった。
「でも、オーナーはアシュレイ機長が本当に大事なんでしょうね。以前にもあなたから聞きましたが」
駐車場に止まった柢王の車の前で、桂花はそう言って微笑んだ。柢王はトランクに桂花のスーツケースを軽々と押し込みながら、
「必要以上に好きだよな。けど、まあそんなリストとか作られたらこいつもヤバイかって疑いたくもなるのはわかるわ。企業の
オーナーって結構自分に面と向って意見してくれる奴もないし、宗教とかそーゆーこの世から外れた路線に走りたがるって聞いたこと
あるけど、ティアの場合は物心ついたときからアシュレイ教だかんなぁ」
自分のスーツケースも押し込んでバンっとトランクを閉める。
「仲がいいのはいいことですね。それに、そういう何でも知っている友達がいるというのもいいことだと思いますよ」
微笑むクールな機長は他人の家で育ってきた人物だ。母親代わりの人物は愛情深く常識的だったが、その亭主は名うての変態。
かれの場合は、宗教には走らず、万事突き放した冷静な大人になったのだが。
柢王は瞳を優しくした。人前でいちゃつくと怒られるが、幸い、いまは他に人影はない。長い髪のきれいな恋人の腕を掴まえると
自分の方に引き寄せて、
「リストがほしいなら俺が作ってやるよ。おまえのこと全部書き出したラバーズ・リスト」
囁くのに、クールな恋人はくすりと笑う。おなじく囁く声で、
「全部…って、そんなに書くことありますか」
尋ねるのに、柢王は笑って、
「まだ教えて欲しいこともいっぱいあるけどな。とりあえず好きなものはベジタリアン料理とか、服なら白が似合うとか」
囁きながら、恋人の耳元に唇を寄せて、
「アノ時は向い合わせが一番イイとか、結構玄関先でのチューも好き、とか、さ……」
低くそう吹き込んで、にやりとその瞳を覗き込むのに、クールな美人も瞳を細め、
「それは、あなたの好きなこと、ですよ?」
「へぇ? そんなら確かめてみようぜ?」
黒髪の恋人は恋人の顎を持ち上げる。
とりあえず、さわりだけ確かめてみた恋人たちは、食事の予定もキャンセルで家に直行した。
それ以降の時間は『オール・アダルト・マイ・ラバー』、R18・覗き見厳禁だ。
そんなカップルのアダルトぶりなど知らない上空の機長は、クールな機長が冥界航空では定番だと教えてくれたおまじないを
心で必死に唱えながらフライトしていた。
(今日見たのはオーロラか蜃気楼、忘れろ忘れろ、俺はなにも見なかった──)
そんな機長と、地上で、煮詰まっていた時に書いたリストの最終項目にいまさら気づいて蒼白になったオーナーとがラバーズになる予定は、
いまのところ、ない──
ビーっ、と音がしてキャビンの緊急事態を告げるランプが点る。柢王と、コー・パイの空也が顔を見合わせた。
「コクピット柢王だ、キャビン、どうした」
尋ねるとCAの上ずった声が、
『キャプテン、L1でいま、ナイフを持った男性が、行く先を変更しろとチーフを盾に叫んでいます!』
「ハイジャックか! 犯人は何人だ、目的地はっ?」
柢王は言いながら空也に無線を指す。空也も飲み込み、非常事態を知らせる無線をいれる。すぐに官制への無線を開き、
「蓋天コントロール、こちらヘブンリー986、エマージェンシーです! ただいま機内にて男がナイフで乗務員を脅し、
行く先の変更を要求しています」
『コントロール、ラジャー! 986、ただちに警察と空軍を要請します、このまま回路を開き、機内の様子を中継してください!』
『犯人はひとりだと思われます。蓋天空港ではなく天主空港への着陸を要請しています、空港に車と現金の用意を求めています』
「乗客は無事か、怪我人はっ」
『ヘブンリー、燃料の残量確認してください!』
無線とパイロット二人の声が響くコクピットは緊張に包まれる。
レーダーの後方に未確認の飛行物体が映った。操縦していたアシュレイはコー・パイを振り向き、画像を後方に集中するように
頼んだ。マイクをいれ、キャビンを呼ぶ。
「キャビン、コクピットのアシュレイだ。悪いけど誰か左後方の窓から外を確認してくれ。何か飛行物体が接近してる」
「キャプテン、後方レーダー、移動物体はこちらに接近してきます。早いですよ」
コー・パイの報告と同時に、キャビンから上ずった声が知らせてきた。
『機長、大変です、鳥の群れがこちらへ向っています! たぶん一万羽ぐらいいます、空が真っ黒です!』
「一万羽ぁっ!」
顔を見合わせたパイロット二人は、
「官制に高度取ってくれ、二万七千。キャビン、ベルトサイン出すぞ、高度下げるから全員席につけっ」
『キャビン、了解』
「天主コントロール、こちらヘブンリー397、後方に鳥の集団と思われる移動物体を確認、高度二万七千で接触を避けます」
『コントロール、了解、レーダー上に確認。後方200度より未確認物体接近中、高度二万七千、減速せず航行せよ』
上空三万フィートに緊張が漂う。
「主任、986便、海上四万フィートでハイジャックです! 犯人は男性一人、ナイフで乗務員を脅し、天主空港への進路の
変更を要請しています」
「主任、397便、高度三万フィートで鳥の大群と遭遇、現在高度二万七千で退避中ですっ」
通信室はあわただしい空気に包まれた。手の空いている職員たちがわっとデスクにつめかける。
「986便、カンパニー、アランです。現在の状況、報告できますか」
「397便、機体との接触の可能性はっ」
「986、キャプテン誰だっ、担当ディスパッチャーを呼んでフライト状況確認しろっ!」
「986は柢王キャプテンと空也コー・パイです。航行先は蓋天空港! あと二時間で到着予定です」
誰かオーナー呼べとか航務課呼べなどバタバタ人が動くなか、
「397便、アシュレイ機長です! 現在高度を下げて航行していますが、後方の鳥たちが追撃してくるそうです、客席が一部
パニックに陥っています」
「986便、柢王キャプテンから通信です! 犯人はナイフを持った男性一人、現在コクピットのドアを叩いて機長を出せと
叫んでいるそうです。乗客乗務員に怪我はありません。共犯者もいない模様です。コントロールとの通信を優先させるため、
カンパニーの回線はオープンのままにしておくそうです」
「主任、蓋天コントロールから通信です!」
あちこちから情報が乱れ飛ぶ。
「キャビン、柢王だ。乗客は無事か。チーフは無事そうか」
『はい、大丈夫です。キャプテンこそ大丈夫ですかっ』
ドンドンドンドンとコクピットのドアを叩く音が大きくなる。
『機長、出て来いっ、天主空港に行けって言ってるんだっ』
「コクピットのことは心配すんな。皆できるだけ離れて待機してくれ。サインがついたら委細構わずベルトすること、わかったか」
『了解しましたっ!』
『出て来い、機長っ。何か燃料がないから天主空港には飛べませんだっ。おまえ金貰って飛んでんだろ、何様のつもりだ、出て来いっ!』
ドンドンドンドンドンっ。ドアを叩く犯人に、ホイールを握る機長の顔が険を宿す。官制と通信している空也がその顔を見て青ざめる。
「柢王機長、やめて下さいよ、喧嘩上等は」
「するか、バカ。おまえこそビビってドア開けたりすんなよ。絶対にコクピットに入れるな」
「もちろんです、でもこのままだとキャビンが──」
「空也、ベルトサイン・オン」
「ラジャー、キャプテン──でもっ」
「コントロール? こちらヘブンリー986、機長の柢王です。いまから機体をダウンします。進路に通行中の機体の有無を
確認願います」
『キャプテン、L6です、追ってきます! 全然離れていきませんっ』
「その、乗り合わせてるとかいう鳥学者の意見は?」
『はい、おそらく機体を鳥だと思って接近してくるのだろうと』
「わかった、客席無事か」
『お客様の一部が気づかれ、パニックになられています』
キャーっ、なんだあれっと叫ぶ声がマイク越し聞こえる。操縦ホイールを握ったアシュレイは息を呑み、
「了解。すぐまた連絡する」
マイクを切る。コー・パイに向い、
「I・have。コントロールに急下降の許可を取ってくれるか。取れたらベルトサイン出してくれ」
「ダ、ダウンですか、キャプテン」
「このまま行ったら追いつかれてぶつかるだけだ。下は海だし、ダウンの速度にはついて来れない。頼む」
「了解しました!」
「主任! 986便が急速下降を始めるそうです!」
「主任、397便もダウンですっ」
通信係の知らせに一堂がえっと叫ぶ。
『プッシュ・センター・コマンド、フラップ30』
『当機はただいまより急下降に入ります。乗務員の指示に従い、酸素マスクをしっかりとあてて姿勢を倒してください』
無線から聞こえる機長たちの声に食い入るように画面を見ると、二機の機体が高度を下げ始めている。
「おい、もう一度、機長に連絡取れっ」
「官制からオーケーが出ています、986下降体制に入っています!」
「397もコントロールが許可しました、下降します!」
見つめる係員たちの目の前で、レーダーに映る機体が急激に下降していく。まっすぐに、その速度は降りると言うより落ちるに
近い。ぐんぐんと降りていく。降りていく。降りていく!
「…っ、大丈夫かっ」
室内すべてが息を呑んだとき、ふたつの機体がレーダー上で水平ラインに滑り込む。思わずみんなが手を叩く。まっすぐに
ぶれなく低空を飛んでいる機体から、機長たちの官制に向けた声が届いた。
『ヘブンリー986、犯人が気絶したため、乗務員が現在捕縛中。高度を上げ、空港に向います、指示を願います』
『コントロール、ヘブンリー397便、アシュレイです。後方に緊迫中の鳥を降り切りました。高度を戻します、指示をお願いします』
「やったなぁ」
通信室に拍手の渦が沸く──
*
「──ティア〜…」
目の前のソファから、ふつふつとこみ上げる怒りを噛みしめた低重和音で響くのに、天界航空オーナー、ティランディアは
身をすくめた。やっぱり怒るよね、怒るでしょ。納得しながらおそるおそる、
「や、やっぱりだめ…だよね?」
友達じゃなかったらマジで締め上げる。幼馴染の親友たちのまなざしは答えとして充分すぎる。ティアはため息をついて、
「私だって、賛成してないよ。ただ一般に見せるより先におまえたちに確認してもらったほうが確実だと思って……」
「確認するまでもないだろーがっ」
柢王が叫ぶ。アシュレイも隣りから、
「何なんだ、この台本っ。こんなのシナリオそのものが間違ってんだろうっ」
や、やっぱりそうだよね、とティアはつぶやいた。そんなことはわかっていたのだ。でも、一応念のため聞いてみただけだ。
来期の天界航空は緊急事態訓練がテーマ。エマージェンシーについてビデオを作り、その対応法を巡って皆にディスカッション
してもらって緊急事態時のマニュアル作成に役立てようという話も出ていた。
そしたらまた、八人の重役たちがティアの机に誇らしげに置いていったのだ。『緊急時フライトドラマ台本』。のべ八百枚の大作だ。
あまりに重いので思わず目を通してみたら自分ひとりで抱えていたくないような内容だったから、ついパイロットの親友たちに話してみたのだ。
「大体、これいつの時代の台本だよ。いまどきナイフ使ってハイジャックする奴なんかいねーだろっ。それもダウンして捕縛だぁ?
うちはサーカスじゃねぇんだぞっ!」
「鳥が一万羽も追ってきたら先に官制が気づいて指示出すに決まってるだろ、それに何だその鳥学者って、そんなもん都合よく
乗せるんじゃねぇっ!!」
憤慨する親友たちにティアは自分のせいでもないのに小さくなり、
「いや、だって、空の上では何が起きるかわからないからって──ハイジャックだってバード・ストライクだって他人事じゃない
からって。それにダウン…急下降だって皆訓練することだしって」
「ダウンは上空で気圧が下がった時の緊急手段だっ!! 第一そんな鳥の集団が飛んでたら他の機だって墜落するだろっ」
「それに喧嘩上等はやめろって、客の命がかかってる時にそんなこと話してるバカがどこにいんだっ。非常事態時はクルー間の
連携は密になるのが当たり前だろ。こんな力づくなコクピットだからペイできねーことがしゃがしゃ言いやがるハイジャッカーに
まで嘗められんじゃねーかっ!」
「わ、わかったからふたりとも……」
「だーっ、もう、おまえな、俺はおまえが相談あるっていうから桂花との飯を後回しにして来てやったんだぞっ。どうして
くれんだ、俺が桂花と過ごせた時間をっ」
「俺だって航務課に出す書類置いてここに来たんだぞっ。これから書いたら残業だっ。明日もフライトなのに」
「ご、ごめん、本当に悪かったよ、ふたりとも」
「それにな、こんな時に官制がダウンしていーですよなんて言う訳ないだろ、無人探査機じゃあるまいし」
「こんなシナリオでドラマ作ったらパイロット全員辞表出すに決まってるぞ、ティアっ」
「ご、ごめん……」
オーナーはすっかり小さくなってへこんだ。二人ともフライト帰りに来てくれたことを思うと本当に申し訳ない。
(でも文句言うわりによく記憶してるよなぁ。問題点全て出てるし)
台本そのものが間違いだと言う点も抜かりなく。頼もしく思えたが、これ以上親友たちを怒らせる気はない。平身低頭謝って
ようやく許してもらい、
「ったく、勘弁してくれよな──あ、桂花、ごめんな、待たせて。すぐ行くからっ」
即座に携帯電話を取り出して恋人に甘え声を出す柢王と、
「あーもー、うち帰ったら洗濯しないといけないのに」
ぼやくアシュレイを見送った。
天界航空オーナーの緊急事態は、ある意味、今日だったかも知れない──。
CAたちの様子がおかしいと気づいたのは手洗いに立った時のこと。階段の側のFクラスとの仕切りのギャレーの側を通った時、
「いえでも、あの撮りようはちょっと……それにあぶなくないとは言い切れないようなご様子ですし……」
「でも、コクピットに知らせるほどのことでもないでしょう? もうじき着陸の準備に入られるのだし……」
「なあ、なんかあった?」
聞こえたささやきに、柢王はカーテンを開いた。と、
「あ、柢王キャプテン!」
チーフパーサーとCAが驚いた顔で柢王を見る。柢王はそれにようと微笑んでから、
「ごめんな、いきなり。いま通りかかったら話し聞こえたんだけど、Fクラスなんかあった?」
尋ねるのに、ふたりが困ったような顔を見合わせる。
スタッフなら日帰り飛行がほとんどの近距離便。昼過ぎに現地を出た天界航空のこの便も、もう1時間で帰着空港につく。雲は
多いが風のない、いいフライト。もっとも、今日の機長はどんな天気だろうが、クールに飛ばせる凄腕の美人だ。一泊の研修帰りの
柢王は、当然のようにコクピットに乗せてもらってその美人の手腕と美人な顔を堪能していたところだった。
「……問題というほどのことではないんですが……」
言いくにくそうなチーフに柢王は微笑む。
キャビンクルーが客のことでコクピットに連絡してくるのはよほどの時だ。CAとは所属も違うし、互いに自分のポジションは
自分たちで守るのが原則だし、安全につながる道だ。それでも、男のいない機内で、男が出ていくだけで済む話も、残念ながらこの世にはある。
「でも困ってんだろ? 何だったら俺が見に行ってもいいしさ、話すだけ話してみたらどうだ?」
笑顔で促した柢王に、ふたりはまだ気兼ねした顔をしていたが、
「実は、少し変わったお客様がいらっしゃって……」
「なんだ、CAの手握って離さないとか?」
「いえ、手は取られませんがお写真を……」
「──は、い?」
ぞくっ背筋に悪寒が走る。CAが困惑顔で、
「チーフは大丈夫だとおっしゃるんですが、CAの写真をあんなに撮られる方は……それにお見かけもちょっと……」
「……なんかすげーやな予感すんだけど。それってもしかして……髪の毛がふたつ結びでフルメークの……」
「ええ、その方です!」
「柢王機長、お知り合いですか?」
「まじでかよっ!」
*
「……ほんとにいやがった──」
頭がくらくらするような香りに包まれたFクラスの二階席。入り口に立った柢王はくらりとうめいた。遠巻きのCAと、たぶん
CAの誘導で後方に固まっている他の客たちの視線を一身に浴びながら、
「君も美しいねぇ。うちに来てくれたら給料アップの上に写真集も作ってあげるよーっ」
グロスてらてらの赤い唇を笑みの形に猫なで声出している客の手には、デジカメ。困惑顔のCAが、
「いえ、わたくしはこちらの仕事が好きですので……」
答えるのに、フラッシュ炸裂! 感動顔で、
「困った顔も美しいねぇ! まったくティアランディアくんは趣味がいいなぁーっ!」
前回より濃いいアイラインくっきりの瞳輝かせているその姿。
またですか? な長い金髪ふたつにゆれる、黄金スーツに赤紫のシャツ、ネクタイ緑のパイソン柄の、鳥肌立つよな超絶美形。
忘れてないけど忘れたい、ライバル会社冥界航空の、いろんな意味でのキレ者オーナー……。
(なんでグランドスタッフ満席だって断らないかなぁ……)
絶対コクピットに知らせるわけにはいかない機長は、心でつぶやき深呼吸。空気を確保し、その側へ行くと、最低音の声で、
「お客様、仕事中のCAの撮影はご遠慮下さい」
と、ん? と振り向いた冥界航空オーナーはそのマスカラばっちりの金黒色の瞳を見開いて、
「あああああーっっ、おまえはうちの桂花に手を出した美を解さない若造ーーーーーっっっ!!」
「勝手に大声でカミングアウトしてんじゃねえよっっ!」
と、叫んだ客より叫んだ機長にキャビン中の咎める視線が突き刺さる。社員だとわかるからか、もうひとりが見るからに危ないからか。
痛い機長は咳払いして、
「…とにかく、うちのCAは仕事中ですから、撮影はご遠慮下さい」
周囲に見えるようににっこり笑みを作りながらも、目だけ本気で見返す。と、美をこよなく愛し、美を確保するためなら文字通り
何でもやる経費度外視の美の追及者は、美の対象外に向ける無関心な顔と目つきで、
「相変らず美を解さん若造だな。これは芸術活動だよ」
断言。傲然と、顎を反らせば髪の毛ゆらり。奥さんに吊るされてもその美のストーカーぶりに反省はないらしい婿養子に、機長も笑顔で、
「変質活動の間違いですよ、お客様」
バチバチバチバチ! 初対面で火花散ったのは柢王機長には二人目だ。ひとりは恋人、ひとりは変態。恋と変とは似て非なり。
二度目の今日は対決拡大版の予感する。
「まったく芯から美に無能な若造だな。大体、それが客に対する態度かね、君はどういう教育を受けているのだね」
蔑む目つきのオーナーに、CA背後に庇った機長も負けず、
「シュタイナー教育です。ちなみにお客様の座席代金は三人分です。追加はいますぐ払ってください」
「む、なぜ三人分なのだね、若造?」
「その髪、左右にはみ出してますから」
一本あたりひと席。と、冥界オーナーは顔色変えて、
「これは私のポリシーだぞっ! ポリシーは魂と同じだ、魂に質量などないっ! だから追加など払う必要はないっ!」
「魂ゼロ円っ? つか、凶器でしょーっ、それっ!」
ブンブン振られるふたつ結びに、一歩後退しながらも、立ちすくんでいるCAに目で避難を指示すれば、美人CAは感謝のまなざしで
頷いてダッシュで後方へ逃げる。と、見守っていたCAたちも、雛を守る親鳥のように急いで確保。
「失礼しました、お客様、お飲み物でもお持ちいたしましょうか」
いっせいに、笑顔で他の客に尋ねかけ、見たくないのか客たちもああとうなずき、キャビンには無理やり和やかな空気が戻ってくる。
CAたちの祈る視線に、任せとけオーラで返す黒髪機長は、ふたつ結びを見下ろして、
「ともかく航空法の観点からも撮影はご遠慮願います。コクピットの計器にも支障をきたしますから。お聞き入れ下さらない
場合は、最悪、降りていただくことになりますよ」
下は海だが気にすんな。言うと、冥界オーナーはバカをバカにする無機質の瞳で、
「そんな航空法はないよ、若造。機内撮影が禁じられているのはコクピットと軍上空からのみだ。それに家電で壊れるコンピューターなど
載っているわけがないだろう」
さすがに航空会社オーナー、な返事をよこす。が、動くバイオ・テロ相手の機長は平然うそついて、
「航空法は七分前に改定になりました、機内での過剰な撮影は禁固刑です。それに当機搭載のコンピューター・システムはNASA開発の
スーパー・グラス・ハート・プログラムですので少しでも傷つくことがあると動かなくなるニア・ニート・システムが作動します!」
「そんなシステム初耳だぞ、意味があるのかね?」
ない。つか、そもそもこの世にない。腹で答えた機長は口ではきっぱり、
「ともかく、これ以上撮影なさると、このカメラは没収となり、お客様には非常ドアからダイビングを──」
「断るっ! これは私の美の記録簿だぞっ、渡せるわけがないだろう、若造っ!」
「そこか、断るとこっ!」
ダイビングはいいのか! つっこみたい機長は、しかし、ぐっとこらえて、
「とにかくっ、撮影はやめていただきます、よろしいですね」
断言する。と、冥界オーナーはグロス艶々の唇を不興に歪め、
「全く美を解さんヤツがいる世界だな! 美を写し取るのは美の愛好家の義務なのだぞ! 大体、私が送ったカメラはどうしたのだね?
あれで私に桂花の寝顔を送ってくれるという大事なミッションを、よもや忘れているのではないだろうねっ、若造っ!」
「忘れる以前に受けてねーだろ、そんなミッション・インポッシブル! つか、あれはそのためのカメラかよっ!」
「そのため以外にどんな目的があって送ると言うのだね! 君の写真なんか受けとらないぞっ!」
「金もらっても送らねぇから心配すんなっ!」
叫んだ機長は、酸欠なのか息切れる。くらくらしながら、
「とにかく、カメラなら桂花がゴミに出しました。DVDも一緒に」
と、オーナーは機体が落ちるかとばかりの絶叫。ふたつ結びがビシビシゆれて、これって危険だろ、破壊活動だろ!
「なんということだーーーっ!!! あれは私の最高傑作桂花シリーズのひとつなのにっ! なにが気に入らなかったんだね、
編集かね? それともタイトルかね? やはりもっと華麗なタイトルをつけてあげればよかったかな。あ、それとももしかして、
デジカメの画像解析度が低かったのかね。あの後もっといいのが出たんだが、それだったら──」
「単にいらなかっただけっ!!」
盗み見バレて翌日の生ゴミに出されそうになった黒髪機長は断言する。クール・ビューティーとは怒らないからクールなのではなく、
怒った時にも骨から凍りそうにクールだとわかった貴重な経験だ。
「…ん? いま、シリーズのひとつって……」
と、冥界オーナーは一転、得意げに、
「あたりまえだろう。うちには他にもムービー集もある。あ、ムービー集なら桂花も喜ぶな! あれは美しいからなぁ。黒い
制服姿の桂花、ああー、美しいなぁぁぁぁ。入社当初なんか初々しいからなぁぁ、可愛いからなぁぁぁぁっ」
それ金払うから俺に送って! 口走りかけた機長は必死で首を振る。ダメダタメダメダメ。今度バレたら本気で追い出される!
(生身生身俺は生身の方がいい!)
自分に言い聞かせてふと見れば、オーナーはデジカメいじって涙目だ。どうやらマイ・データ持ち歩きらしく、桂花ぁぁ…と
画面覗くのに、どっと疲れた機長はため息で、
「じゃ、撮影はなしってことでお願いしますからっ」
釘を刺し、ぐったりしながらコクピットに戻ったのだった。
*
「バカですね。そんなことなら李々に言うといえばよかったでしょう、あなた念書の写しを持っているんですから」
あきれたような機長の言葉に、疲れ果てた黒髪機長ががっくりと落ちこんだのは自宅の居間。
コクピットにはコー・パイもいたし、あの後、もう一度下に降りてチーフに聞いたが、以降、オーナーは涙目でひたすら、
桂花ぁぁとつぶやいていただけだったそうなので、よしとして、自宅に戻ってから報告したのだが──
そう言えばあった。桂花の半径1q以内には立ち入りませんと実印押した念書の写しが。それには確か、天界航空にご迷惑は
おかけしませんとも書いてあった。
「忘れてた……。え、ってことは俺のあのバトルは無意味? ええーっ、すげぇがんばったのに、俺」
がっくり、脱力してソファに突っ伏す柢王に、隣りに座る桂花は苦笑して、
「よけいな責任背負うからですよ。CAたちは吾やあなたより上手なんですから放置しても何とかしたと思いますよ。でも、吾の
シップでがんばってもらいましたからね。ありがとう」
優しい手が、髪を撫でるのに、黒髪機長はパッと顔を上げ、
「もっかい誉めて。つか、すげぇ誉められたいんだけど、誉めて」
速攻、頭を桂花の膝に移して、すりすりねだる五歳児ぶり。いま泣いたからすがもう笑うとはこのことだ。
そんな機長が、恋人の腕で甘えに甘えている時刻──
あやしいピンクの照明の地下室、寝る前の大画面で、『桂花ムービー』全二十巻上映中のオーナーは、
「やはりムービーだな、動画は美しい。あの若造もデジカメの価値がわかったようだし、次は一安心。さっそくタイトルを考えねばなぁ」
ひとり納得、ピンクのボンボンうんうんとゆらし、ダビングしたDVDの桂花ラベルにうなずいている。
黒髪機長の次のエマージェンシーは、カミング・スーンだ──。
―――そして東領。
蓋天城の執務室では、次期蒼龍王たる翔王と、その補佐であり弟である輝王がともに二人
して書類に目を落としていた。
書類に目を落としていた翔王が ふと顔を上げて窓の方を見た。
「・・・兄上?」
と呼びかけてそこで輝王はハッと窓の方を見た。窓に駆け寄り開け放つ。
「―――――・・・っ!!」
なぜ今まで気づかなかったのか これほどの破壊的な霊気を。
自分と根を同じにしながら、全く異質の力。・・・いや、異質ではなく大きすぎて同じもの
に感じられないだけなのか。
天に浮かぶ城である蓋天城からは、天界の景色が一望できる。 その、南の地。天主塔に
近い境界線で炸裂する巨大な戦闘霊気に輝王は息をのんだ。
「・・・柢王だな。派手な奴だ」
席を立とうともせずに やれやれとため息をついて書類を揃えて横に押しやる兄の姿を
輝王は振り返って愕然と見た。
(・・・派手だと?)
確かに派手だ。兄の目にはそう映るのだろう。・・・まだそう言えるだけの余裕が、兄には
あるのだ―――。
「・・・・・・」
だが 輝王には 脅威だ。
これが文官を目指した者と武官を目指した者との力の差というものなのか。
いつの間に、これほどの力を備えていたのだろう。
(・・・闘っても おそらく勝てないだろう な。)
だがそれはいいのだ。自分は血と泥に汚れる武官など、もともとなる気はなかった。力に
など頼らなくとも、相手を打ち倒す方法などいくらでもある。だから別に柢王に力の差で負
けたところで輝王自身は特に悔しいと思わない。
・・・だから問題はそこではない。脅威は別のところにある。そしてそれは自分だけの問題
ではない。
(柢王はまだ若い。)
つまり 今の時点でこの威力だというのならば、 まだまだこれから力が伸びる可能性が
大いにあると言うことだ。
―――現に、あれだけの攻撃を続け様に放ちながら、力は一向に衰える気配がない。
(・・・いつの日か、兄を超える可能性が・・・ないとは言い切れない)
輝王は翔王を見、そして窓の外に視線を戻した。
・・・・・昔から兄は次代の王として 輝王の前にいた。
父の跡を継ぐのは兄だと。弟である自分はその下について生きていくのだと。周囲の者達
は皆そう言った。
それが定められた道だと。
別に、それをいやだとは思わなかった。兄のことは好きだったので、むしろ輝王はすんな
りとそれを受け入れた。
・・・兄は優秀なくせに、人の上に立つ者の鷹揚さと言いきれない妙に抜けているところが
あった。そして輝王はそういうところが放っておけない性分だった。
そんな輝王を、翔王もすんなりと受け入れた。
それが相性というものなのだろう。
―――実際、執務の補佐は、輝王にとっては楽しいとさえ言って良かった。
下にいるからこそ、見えてくるものは多い。兄に任せられるのは最終的な決断だけで、
それに至るまでの諸々の経緯や情報はすべて輝王のもとに入ってくる。
(仕える者こそが、真の主人なのだ―――と 錯覚すら覚えるほどに・・・)
輝王はすぐに、情報を操作することや他人を動かす術を覚えた。
東国の利になることなら、禁忌に触れるようなこともやった。
最終的には、兄さえ裏切っていなければそれでいいのだ。
――― 天界の 一角。
東国という名の領域―――次期蒼龍王である兄のもとで、輝王は思いのままに采配を振る
うことが出来た。
それがずっと続くのだと思っていた。
年の離れた弟が生まれるまでは―――。
(・・・昔からそうだった。なぜか気に入らなかった。)
こちらの思惑など一顧だにせず、好き勝手に動く。そのせいでこちらにまで敵が増える
こともあった。
最大級にひどかったのは、天界のタブーである魔族を人界から連れ帰ったあげく、己の
副官に据えるなどと言う暴挙に出、しかもそれをほとんど力業に近いやりかたで、周囲に
認めさせた。
そのせいで弟に対する周囲からの風当たりはいっそう厳しいものになった。
・・・それでもいつの間にか弟の周囲には、人が集まっている。
敵も多いが、損得勘定抜きの味方も多い。
自分とはどこかが違う 弟。
自分が気に入らない者はすべて顧みなかった輝王も、どういうわけか柢王の存在だけは無
視できなかった。
それは柢王が文殊塾を卒業し、元帥の地位についたあたりから特に顕著になった。
目障りだと思いつつも、それは血のつながりゆえのことだと、ずっと思っていた。
だがそれは間違いだった。
なぜ今まで気づかなかったのか。
( ・・・・・無視など 出来ないはずだ )
柢王は、自分の前にいたのだ。―――後ろではなく。
着々と力をつけ、いつの間にか自分を追い越し、その前へ―――。
幾本もの光柱が立つ暗い境界の光景を見据える輝王の手の中で、 窓枠が みしりと音を
立てた。
・・・これで わかった。
あれは 敵だ――― 。
「・・・・・一つの地に 王たる獣は 二頭も 必要ない―――」
自分の前に立つ者は―――聖なる獣を戴いて立つ王は 兄だけでいい。
それ以外は 要らない。
(・・・私の領域に これ以上踏み込ませるものか―――)
「・・・何か言ったか?」
翔王の問いかけに、別になにも、と輝王は美しいがゆえに寒気すら感じさせる笑みを浮か
べながら窓を閉めた。
その背に翔王は何か言いかけ、弟の笑みに気づくと黙って書類に視線を落とした。
・・・・・ ピシャン・・ ―――
黒い水の上を、陰鬱な気配を漂わす風が吹き抜けてゆく。
その風は階に座す教主の髪をゆらしていったが、教主の瞳は湖面に映る光景を見つめたま
ま動こうともしない。
ふいに扇をもてあそんでいた教主の手が引きつった。 手に持っていた扇が階に音を立て
て落ちる。背後に控えていた李々がふっと頭を上げた時、教主が何かを断ち切るように拳を
握った。
「―――教主様?」
わずかに膝を進めた李々の視界が、一瞬白く染まった。
・・・―――湖面が、光り輝いていた。
冥界の底が、一瞬 白々と輝いた。
それは、天界の光景を映し出している湖面から発されているのだった。
光の中心に、微かな影があった。
「・・・・・・っ!」
李々はようやく、その光源が―――湖面が映し続けている―――天界の境界の光景そのも
のだということに、気づいた。
――― 凄まじい大気の振動と、まばゆいばかりの光芒の中央に、不吉な塔のように
黒々とそびえているのは、あの巨虫だ。
周囲をなぎ払うかのような光の中で、なおその存在を誇示しているかのように見えた
その巨虫は、次の瞬間 人界の伝え語りにあった、雷に撃たれて崩れ落ちる、禍咎の塔その
もののように その内側から白い光を迸らせて砕け散った―――。
「――――・・・」
わずか、数瞬の出来事だった。
光の弱まってゆく湖面に目を吸い寄せられたまま、威力のすさまじさに息をのんで体を固
くしている李々の耳に、微かな音が届いた。
「・・・・あの黒髪も一撃で倒すか―――。」
―――低く教主が笑っていた。
握り込んだ拳をもう片方の手で抑えつけるように包み込んでいる。
拳の方の指先がかすかに痺れたように感じるのは、黒い水を通じて巨虫に感覚の一部を繋
げていたからだろう。
巨虫を操作する力の糸(のようなもの)を切断するのがもう一瞬遅ければ、少々危なかっ
たのかもしれない。
足元に進み出た李々が扇を拾いあげ、膝をついて差し出したのを教主は黙って取り上げか
け、ふと視線を湖面にもどした。
・・・・・湖面が、また瞬いていた。
間をおかずして、瞬く銀光が収斂して天と地をつなぐ 幾本もの禍々しい光を放つ柱とな
る光景が、湖面に映し出された。
「・・さながら 雷の神殿だな・・・・・」
扇を取り上げながら、教主が呟いた。
冥界を薙ぐ白光に、待機していた魔族達が何事かと対岸に集まりだした。教主の姿を認め
ると、次々に膝を折って頭を垂れる。
「・・・あ」
李々が声を上げて立ち上がった。
水音が響いて次々と湖面に浮かび上がるものがあった。
力を通すための『管』の役目として配置していた魔族達だ。
・・・突然の中継の切断に対応しきれなかったのだろう。感覚を繋げたままだった彼らは、
巨虫を襲った雷撃の衝撃を、そのまま『体験』したのだ。
見た目は無傷だが、全身を駆けめぐる力の逆流に耐えきれず、精神を焼き切られた者も多
いだろう。
(正気を保って目覚められる者は、おそらく数名・・・)
無意識にもてあそんでいた扇が、高い音を立てた。
・・・・・いまいましいことだ。
これで使える者がさらに少なくなった。
李々が一礼すると湖面を飛んでその者達をすくい上げ、対岸に集まってきた魔族達に指示
を出しながら引き渡し始めた。
約半数が、脱落したようだが、湖に浮かび上がった者達の中に、氷暉と水城の姿はない。
(とっさの判断で、感覚を遮断したか・・・。当然と言えば当然だが)
あの程度で倒れるような力量なら、最初から最前線に配置したりはしない。
少なくともあの二人がいるならば、戦局に大きな乱れは生じないだろう。
「・・・赤毛と黒髪の力量も測れたことだしな」
手元の扇を鳴らした教主は、始まった時と同じように、急激に収束に向かう境界の光景を
見おろして、ふと眉根をひそめて呟いた。
「・・・・あの 黒髪の霊気―――」
天界の王族が持つ、強大な霊気。
爆発的に膨れあがり、轟雷が放たれる前の一瞬―――繋げていた感覚を断ち切る寸前に
感じた、・・・あの、違和感。
(・・・・・むしろ 魔族に近い・・・?・・)
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