投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
・・・あの魔族が欲深いヤツでなければ、多分今ここに自分はいなかっただろう。
「・・・おい、アシュレイ大丈夫か?」
地面に横たえたアシュレイの頬を柢王は軽く叩いて呼びかける。それにアシュレイは
うめくようにして応えたが、目を開けようとはしない。腹部の傷を押さえる手のひらの下
からは血が流れ続けていた。
(・・・まずいな)
早く処置をしなければ本当に危ない。
しかし、聖水を置いている場所まで歩いて10分くらいかかる。
(・・・止血が先か)
剣の柄をきつく掴んだままの形で固まってしまっている右手の指を一本ずつ引きはが
しながら、たった今出てきたばかりの黒々と口を開ける魔風窟を柢王は振り返った。
・・・いつもと同じように示し合わせて、文殊塾の帰りにアシュレイと魔風窟に魔族狩りに
連れ立った。 そこでおそろしく強い魔族と遭遇してしまったのだった。
―――まるで暴風だった。
天界人とは全く違う 流儀や型に沿った動きなど一つもない。 そこにあったのはただ
狂気のような力のみ。
狭い魔風窟を縦横無尽に跳ね回り、関節が多いため―――数えただけでも片腕に6関節
はあった―――鞭のように撓(しな)ううえに途中で軌道を変えさえするその棒きれのよ
うに細くて長い両腕が振るわれるたびに、あらゆる方向からうなりを生じて繰り出されて
くるおびただしい剣閃―――・・・それに自分たちは圧倒され―――そして敗退した。
「―――」
真っ正面から攻撃したアシュレイは腹を刺された。それを見た柢王は、アシュレイを抱
え上げると魔風窟の出口へ向かって走ったのだった。 その途中で背を切られた。
「・・・・・・あ−あ」
背中に回した左手にべっとりと付いた血に柢王は舌打ちした。背中全体が熱いが、出血
は止まりかけている。骨を切られたわけでもなさそうだ。
最後の指を引きはがして、掴んでいた剣が地面に落ちた。それを左手で拾い上げて鞘に
戻そうとして、鞘を剣帯ごと無くしていたことを柢王は思い出す。
・・・生きて魔風窟を出てこられたのは、ひとえに背中を切られると同時に断ち切られた
剣帯に差し込んでいた、宝玉つきの鞘のおかげだろう。 それが剣帯から外れて足場の悪
い魔風窟の通路脇の岩場に転がり落ちていかなければ、あっという間に追いつかれて殺さ
れていた。
―――運が良かったのだ。
上衣を破ってアシュレイに簡単な止血を施し、余った布で手早く即席の剣帯を作って剣
を差し込んだ柢王がアシュレイを抱え上げて歩きだそうとした瞬間、視界が揺れた。思わ
ず膝をつく。膝をついた瞬間体の力が抜けた。残る力をふりしぼってアシュレイの体を投
げ出さないように地面に横たえるのがやっとだった。
体を支えることが出来ず、柢王はアシュレイの隣に倒れ込んだ。
「・・・まず・・い」
背中の血は止まりかけていたが、走っているうちに流した量が多かったらしい。
こんな所で倒れたら、ますます危険だ。さっきの魔族も、もしかしたら追ってきている
かもしれない。
何とか立ち上がろうとするのだが、足も腕も思うように動かず地面をひっかくように動
くばかりだ。
おまけにただでさえ暗い視界が、ぼやけて遠のこうとしている。
(動け・・!)
地を掻くばかりの手足を叱咤する柢王の、遠のいてゆく感覚の片隅で 夜だというのに
小鳥の声が聞こえたような気がした。
・・・人の声が聞こえたような気がして、柢王は目を覚ました。頬に草の感触がある。
だからここはまだ魔風窟から出たところであるということがわかった。
少なくとも近くに妖気は感じられない。あたりの暗さで、気を失ってからそれほど時間
が経っていないらしきことに柢王は安堵し、そしてふと気づいた。
背中が奇妙に暖かかった。それにいい香りがする・・・。
「・・・・・?」
背中にまわしかけた手に、何かが触れた。
「触らないで。まだ完全に傷が塞がったわけじゃないんだから」
柢王の手をゆっくりと押し戻しながら、声が頭上から降ってきた。
柢王は目を見開いた。
それは、聞き馴染んだ幼なじみの声だった。
―――しかし、どう考えても、こんな所に居るはずのない、いや、決して居てはいけな
いほうの。
「・・・ティア?!」
首だけ振り向けて頭上を見れば、夜目にも見間違えようのない、月のように輝いて見え
る金髪の幼なじみの貌がそこにあった。
「この バ・・!」
馬鹿野郎!こんなトコで何をしている!天主塔に帰れ!、と続けようとした柢王が背中
の痛みに顔を引きつらせた。
「動かないで!まだ傷口がふさがってないんだから!・・・片手ずつ同時進行っていうのが、
こんなに大変だとは思わなかったよ・・・! 」
仰向けに寝かされたアシュレイと、うつぶせに寝かされた柢王の間にティアが座って
それぞれの傷に両手を伸ばしていた。彼の小さな両手から金色の光があふれて彼らの傷に
そそがれている。
柢王とアシュレイは同時進行で ティアに手光で傷を癒されているのだった。
ティアの顔はいつになく険しく、汗が頬をつたって顎の先から滴っている。
「・・・ティア。俺の傷はもういいから、アシュレイの傷を優先してやってくれ。 かなり深
く腹をえぐられているはずだ。」
柢王は腕を伸ばしてティアの腕をとんとんと叩いてからそっと押しやった。
「でも、柢王・・・」
「 俺のは、走っているところをやられてるからたいしたことはない。血が止まったんな
らもう大丈夫だ。・・・ちょっと休めば、回復する から・・・」
躊躇するティアに柢王は何でもないことのように笑いながら言った。しかし言い終える
なり、柢王はそのまま また気を失うように眠ってしまった。
「・・・・・」
寝入ってしまった柢王の顔を見、それからティアはアシュレイの顔を覗き込んだ。青ざ
めた顔色のまま、浅い細い呼吸を繰り返している。柢王の言うとおり、アシュレイの傷は
深い。そして彼の意識はまだ一度も戻っていないのだ。
ティアは唇を噛んだ。
「・・・ごめん。 ごめんね 柢王」
柢王の背に走る赤い傷痕をしばらく見つめ、それを焼き付けるかのように一瞬ぎゅっと
瞳を閉じると、ティアは柢王に背を向けてアシュレイに向き直り、アシュレイの傷口に
両手をかざしたのだった。
・・・・・いい香りがする―――。
どうしてこんなに暖かいんだろう。
さっきまで寒くて痛くて血のにおいがしてて―――
(血のにおい)
(痛くて)
ずっと叫んでたような気がする。
(ちがう)
痛いのは刺されたところじゃない。
痛いから叫んでいたんじゃない。
(どうして―――)
「アシュレイ・・・?」
やさしい、温かい声。 甘い香り・・・
「アシュレイ?」
ぼんやりと目を開けると、ティアが自分を覗き込んでいた。
(・・・・・ここは文殊塾なのかな・・・)
授業に飽きたりするとよく木陰で眠った。途中で目が覚めると隣でティアが笑っていて。
その温かさと甘い香りに何だかとても安心して・・・。
それでよく柢王に『おまえら寝てばっかだな』と笑われたものだ。
( ・・・柢王 ・・・文殊塾・・・・ )
今日、文殊塾の帰りに、柢王と・・・・・ ――――!
「―――柢王!」
叫んだ途端に腹部に走ったその痛みで、アシュレイは はっきりと目覚めた。
空が暗い。草の匂いの混じる外の風。
血のにおいと、腹部の痛み――――
(・・・やっぱり、夢じゃ、なかったんだ―――!)
「アシュレイ!」
呼び続けてようやく目を覚ましたアシュレイが、突然起きあがりかけるのを慌ててティ
アは上から押さえつけた。
「・・・柢王は!?」
傷の痛みをこらえながら噛みつくように尋ねるアシュレイには、何故ここにティアが居
るのかを疑問に思う余裕などなかった。
「・・・柢王なら大丈夫、血は止めたから。今は隣で眠っているから起こさないであげて」
見えやすいようにティアがそっと体をずらす。アシュレイは首だけを回して隣に眠る柢
王を見た。うつぶせに横たわる幼なじみは、顔を反対側に向けているために顔色も表情も
わからない。
しかしその分 背中はよく見えた。
「・・・・・・っ!」
アシュレイは目を見開いて柢王の背中を見た。
―――右肩から左の脇腹に向かって斜めに走る 赤い傷痕を。
「・・・だめだ! ティア!」
傷口にかざすティアの手をいきなりつかみ取って、アシュレイは首を振った。
突然の彼の行動にティアは驚いて一瞬気がそれた。手のひらからあふれる癒しの光が
アシュレイとティアの手の間で消えた。
「アシュレイ?! 動いちゃ駄目! 何で、いきなりどうし・・・」
何とか手を振りほどいて再度傷に手光をあてようとするティアの手を、またアシュレイ
が掴んで傷口から遠ざけようとする。
「アシュレイ!」
「俺は要らない!俺の傷なんかどうでもいいから、柢王の傷を治してやってくれ!」
叫んだ拍子に傷に走った激痛にアシュレイは息を詰めた。しかしティアの手を遠ざける
ことは止めようとはしなかった。
「・・・アシュレイ」
彼の呼吸が落ち着くのを待ってから、ティアはアシュレイに顔を寄せてそっと語りかけ
た。
「・・アシュレイ、聞いて。君の傷はとても深い。早く傷を塞いでしまわないと大変なこと
になる。お願いだから手を離して。―――それにこれは柢王の願いでもあるんだよ。
柢王は大丈夫。出血は止めたし、傷も君ほど深くないから、すぐ治るよ。」
「―――嘘だ!」
弾かれたように アシュレイは叫んだ。
・・・降ろせと。捨ててゆけと言ったのに。
「―――だめだ!だめだだめだ! 背中に傷なんて!」
あの時。刺されて動けない自分と魔族の間に走り込んで来るなり 自分を抱え上げた
その左腕は、 焼けた石のように固くて熱かった。
・・・降ろせと。捨ててゆけと言ったのに。
自分を抱えてさえいなければ、柢王は傷つくこともなかったのに―――。
アシュレイは20階まで一気に階段を駆け上がった。無性に走りたかったからである。と、急に視界が開けて思わず目を細めた。廊下は大きな窓がずっと続いていて、展望台のような設計になっている。目前にはにょきにょきとビル群が建っていて、それらの合間を縫うように遠くに水平線の薄青い線が見える。あぁ、今日はよく晴れているんだなと思った。ずっとスタジオに籠もっていたから全然気づかなかった。20階はおしゃれなカフェのような社員食堂があるが、落ち着かないから滅多に利用しない。もっぱらスタジオでコンビニ弁当だ。でも、この景色は好きだ。空を飛んでいるような気分になる。いくら好きでもモグラのような生活に息が詰まってくることもある。そんな時はここまで一気に駆け上るのだ。今日はそんな気分だった。
スポンサーとなると自分にはどうしようもできない。自分は外部の人間なのだ。いくらいい物を作り上げてもどうしようもないことがあるのだ。そう頭では理解しつつ腹が立つ。
「クソッ」
アシュレイはこんな天気に不似合いな気分を少しでも吐き出すように呟いた。昼前なので廊下には人気がない。窓に向けて置いてあるソファにゴロリと横になった。人が通っても隣の観葉植物が目隠しになってくれるだろう。目を閉じると瞼を通して日の光が透けて見える。うとうとしていると突然腹の上に何かがボスンと落ちてきた。
「ぐえっ!」「わっ!」「社、社長!!」
様々な悲鳴が交差し、(ちなみに最初のはアシュレイである)アシュレイが飛び起きた。
「な、何だ〜?」
腹をさすりながらソファの下を見ると、尻餅をついていた青年が淡い金色の頭をさすりながら立ち上がった。
「ごめんなさい、気が付かなくて。あ・・・」
アシュレイも彼の姿が記憶の隅に引っかかった。確か。
「社長、お怪我はありませんか?」
「うん。私は平気だよ、山凍殿」
慌てて近寄ってきた男を見上げた青年の顔を見てアシュレイは「あっ」と声を上げた。
「お前、昨日木にひっかかってた奴!」
「そういう覚え方はやめてよ」
昨晩出会った現場志望の(とアシュレイが勝手に思っている)青年は苦笑した。
「何してんだよ。仕事中じゃねーのか?」
「仕事の途中だよ。ちょっと座ろうと思ったら気が付かなくて君の上に座ってしまった。本当にごめんね」
気が付かなくてって。
「仕事のことでも考えていたのかー?それだったら俺だって・・・」
て、こいつの仕事って。
アシュレイはようやく青年の傍で苦い表情をしている大男の存在に気が付いた。
そういえばこいつはさっき何と言った?
アシュレイがさっきの騒動の記憶をプレイバックさせる前に大男が口を開いた。
「お知り合いですか?社長」
しゃ・・・
「社長〜〜〜〜!?」
アシュレイはルビーの瞳をりんごくらいに見開き、口をぱくぱく動かした。空気しか出てこない。それを見て青年は困ったように微笑んだ。
「そういえば昨夜は言っていなかったね」
アシュレイの顔が噴火寸前に真っ赤になった。
社長だったとは。そういえばここの局のパンフレットに写真が載っていたような。同僚の女の子達がキャーキャー言っていたような。
「彼は製作会社から来てくれている美術さんだよ。アシュレイだったよね、こちらは秘書の山凍殿」
秘書というより香港映画のアクションスターが似合いそうな男はむっつりとアシュレイを見ただけだった。
「社長、お客様がお待ちになっております」
「あぁ、そうだね。それじゃあ、アシュレイ。仕事頑張って」
「あ、は、はい・・・」
笑顔で軽く手を振って青年社長は秘書を伴いアシュレイの前を通り過ぎた。上等なスーツに包まれた細い背中を見送っていると、アシュレイは自分を20階まで走らせた原因を思い出した。アシュレイは理性よりも感情の方が光速のごとく速い。
「おいっ!ちょっと待てっ」
丁度廊下の角を曲がろうとしていた背中が止まる。アシュレイは青年社長から10歩ほど離れたところまで走り寄り、ビシっと指を突きつける。
「頑張って、じゃねーよ!お前、昨日俺が担当しているドラマを知ったよな。ドラマが中止になりそうなこと知っていて何で黙ってたんだよ!」
確かに昨夜、アシュレイは彼に自分が担当しているドラマを教えていた。
動きかけた秘書を目顔で止め、青年社長は冷えた眼差しでアシュレイを見た。
「関係者というだけでそんな大事なこと喋れるわけがないだろう。それに君はうちの社員じゃない」
「でもっ、でも、クランクインまでもう時間がないのに、こんな時に中止なんて!」
「君の心配はありがたいけどね、直前で企画が白紙になるなんてことはこの世界じゃよくあることじゃないか。君だって知っているだろう」
アシュレイはぐっと詰まった。彼の言う通りだ。資金繰りとかあらゆることが原因で消えた企画なんてたくさんある。衣装合わせの段階で中止になってしまった話しもある。今のところアシュレイにそんな経験はない。全部聞いた話だ。しかしそんな経験、まっぴらごめんだ。
「もちろん私も人事とは思っていないよ。このドラマはうちの目玉だからね」
秘書は促すように社長の背に手を添えた。
「君の作品への情熱は理解しているよ」
呟くように言うと青年社長はそのまま歩き去って行った。
アシュレイは拳を震わせてその背中を見送るしかなかった。
ドラマはとりあえず待機となってしまったので予定がぽっかり空いてしまった。いつまでこのぽっかりが続くか分からないということが余計にアシュレイを苛立たせる。殺気のオーラを揺らめかせながらエントランスまでぶらりと出た。エントランスには出入りする社員や見学者の一団などが行き来している。その中に何組かスーツを着た3、4人ほどの男性が、ここの社員らしき人間と話ながら歩いている。どうやら他社の人間が仕事で来ているようだ。アシュレイはふと思いついた。スポンサーのことなら営業が窓口になっている。そこの人間なら今回のことを何か知っているじゃないだろうか。アシュレイは携帯を取り出し、アランに電話をかけた。
丁度、昼時だったのでアランは社員食堂に誘ったが、あそこのキラキラした(洗練された)雰囲気が苦手だと断ると、アランは近くの公園まで出てきてくれた。文句も言わずアシュレイの我侭にニコニコと付き合ってくれる奇特な青年である。
というわけで、アシュレイはアランと2人でベンチに座って、アランが食堂でテイクアウトしてきてくれたサンドウィッチを頬張っている。あそこの雰囲気は苦手だが、味はいいよなと思った。
そして例の一件について尋ねてみた。
「もう大変なんですよ。仲介の広告代理店も事情をよく分かっていないみたいだし」
「本当にあのドラマ、中止になるのか!?」
「それは絶対避けたいところです。あのドラマは目玉ですからね。だから今、社長も頑張ってくれています。午前中もブラック&ヘルの取締役と会っていたらしいですし」
さっき会ったときは丁度それに向かうところだったのか。でも本当にドラマ中止を阻止する気があるのだろうか。アシュレイは冷ややかな眼差しを思い出した。
「噂によればあちらの取締役とうちの会長とでいざこざがあって、それが原因らしいです。本当のことは分かりません。でも、何であれドラマが中止なんてことになったら・・・。考えただけで頭が痛いですよ」
アランがコーヒーに視線を落としてため息をついた。
さっきまで威勢が良かったアシュレイも、何となく一緒に落ち込んでしまった。
「こういうことになったら俺達がいくら良い物作ったって、何の役にも立たねぇよな。所詮、そっちからのゴーサインが出なかったら俺達の出番はないわけだし」
アランは慌てて首を振った。
「そんなこと・・・。毎回、アシュレイさん達が良い物を作ってくれるから視聴率が取れるんです。そうでなくちゃスポンサーもついてくれません。おかげで俺達だって仕事がやりやすくなっているんです」
「そうかな・・・」
「そうですよ。視聴率が取れるってことはそれだけ大勢の人達にとって魅力がある番組だからです。大勢の人達が見ているのを知っているからスポンサーだって契約してくれるんです。今回だって何か行き違いがあったんでしょうけど、先方だって今までの実績を考慮してくれると思いますよ。それができるのはアシュレイさん達のおかげなんです」
一生懸命言ってくれるアランの言葉が嬉しかったが、どう表していいか分からなくてアシュレイは残りのサンドウィッチを一口で食べ、コーヒーを一気飲みした。アランはそんな様子を微笑みながら見つめていた。
数日後、アシュレイは宝石店のCM撮影に参加していた。ブラック&ヘルのグループ会社であることを聞いて無理やり付いてきたのだ。敵情視察もしたいが、何よりも仕事に集中してささくれた気持ちを落ち着かせたかった。あの青年社長に噛み付いたことを上から何か言われるかと思っていたが、何も言われないので拍子抜けと同時にホッとした。
ドラマのことは移動の車中でも話題になった。アシュレイもそのことを尋ねられたが、「まだ決まったわけじゃねーよ」と返すしかなかった。実際ちっとも分かっていないのだ。
撮影が行われるのは宝石店の中だった。大通りに面した、ヨーロッパで見かける古い石造りの建物を模した馬鹿でかい店舗で、撮影場所として用意された部屋は30畳ほどの総大理石の白く輝く部屋だった。大理石に見える壁紙ではない、本物だ。機材を床に下ろすだけでも緊張する。
おまけにCM用に用意された宝石はシンプルだが値段の見当もつかないような高価なものばかりだ。
「本日はよろしくお願いいたします」
と笑顔で挨拶した従業員もモデルのような洗練された美人だ。
Tシャツにジーンズというゴージャスな空間に明らかに不似合いな格好でモソモソと準備を始めたアシュレイ達に、先ほどの従業員は続けた。
「本日は撮影の見学をしたいと、もうすぐ本社から取締役も参ります」
何っ!?アシュレイはギラリと振り返った。何と敵が自ら来る。アシュレイはこの雰囲気のせいで本来の目的を忘れかけていたが、俄然道具を運ぶ手にも力が籠った。
出演する女優も入り、撮影が始まった頃、入り口の方が俄かに騒がしくなった。と、大勢の従業員を従えて総大理石の部屋を超越したような雰囲気の男が現れた。金髪をゆったりと流した背の高い美男で、思わず撮影が止まってしまったほどであった。噂のブラック&ヘル・コーポレーションの代表取締役、冥界教主である。
冥界教主は従業員が用意した革張りの椅子に腰掛けながらスタッフににっこり笑いかけ、
「皆さん、我のことは気にせず仕事を続けてください。我はしばらくここで見学をさせて頂きます」
と鷹揚に言った。
その言葉にスタッフ達はぎこちなく仕事を再開した。アシュレイはさりげなく冥界教主の近くで道具の手直しを始めた。敵をよく知ることが勝利への近道である。アシュレイは1人戦闘態勢であった。あの青年社長も一応動いているらしいが、あのスカした態度を見る限り期待はできない。所詮数字が取れれば下々が踏んだ大変な過程なんざ、知ったことではないと思っているに違いない。だったら俺が撮影再開させてやる。あんな奴に任せていたら一生あのドラマは日の目を見ない。アシュレイは手にした小道具の陰からじーっと冥界教主を見つめていた。見られている方はいたってくつろいだ様子で撮影を眺めている。時折、手にした資料に目を落としたり、従業員に何か尋ねたりしている。と、部屋に入ってきた従業員が冥界教主に何か囁いた。アシュレイは手にしたネジをさりげなくそちらの方へ転がし、それを慌てて追いかける振りをして聞き耳を立てる。全部は聞こえなかったが、「天界テレビ」という単語だけが耳に入った。ということはあのドラマのことだ。冥界教主は静かに部屋から出て行ったので、アシュレイもその後をこっそり付いていった。
都内某所にある大手テレビ局、「天界テレビ」。
局内の廊下を「白い○塔」の回診シーンのように闊歩する年寄りを中心とした満足顔の団体がいた。
「今度のドラマも初回からうちの視聴率がダントツでしょうね」
「前回も最終回までトップだったからのぉ。今回もまず間違いないじゃろう」
局幹部達、通称「八紫仙」。その名前の由来は不明だが、8人全員が会長から下賜された紫のスーツを着ているからだと言われている。恐らくは何か大変名誉な記念品であろう。なぜよりによって紫なのかとか、「八紫」は分かるが「仙」は何だ、むしろ「32」ではないか、などの答えられない質問はご遠慮願います。えぇ、たとえあなた様が株主でも(その一方で、32人も紫スーツが増殖したら鬱陶しいというご意見も一部承っております)。
さて、話題の新ドラマだが、若い男女とその周囲の人々が繰り広げる恋愛劇である。
ヒロインと、一流企業に勤める、しかも仕事もできるというプレイボーイとが出会い、男性はドジだがひたむきなヒロインの姿に心癒され、真の愛に目覚め、その一方で常に斜に構えている男性に当初は反発するヒロインが、本当は優しくて繊細な彼の姿を知って心惹かれていき、さらに周囲の人間関係も絡めつつ、横恋慕等のお約束の障害や、それによって生じるお約束のすれ違いを乗り越え、お約束の全員揃ってのハッピーエンド・・なんてお約束の展開がお約束されている笑いあり涙ありのドラマである。脚本は人気脚本家が手がけ、主演は若手ナンバーワンの女優と俳優。脇は最近注目のアイドルやお笑い芸人、ベテラン俳優で固めている。放送は毎週月曜の夜9時から。どうぞお見逃しなく。
地下のAスタジオでは現在、新ドラマの準備が進行中である。
金鎚や電気ドリルの音がけたたましく響き、木屑の粉がもうもうと上がる中、たくさんの人間が大掛かりな作業していた。その中でアシュレイも黙々とベニヤ板に釘を打っていた。これはヒロインが住む部屋の壁に使われるものだ。すぐ側では同僚が床部分を作っている。撮影開始の日に間に合わせるため、作業は急ピッチで行われている。今回のドラマは恋愛もので、キャスティングも豪華である。すでに業界内では高視聴率が予想されている。
アシュレイは立って、板の継ぎ目を確認した。彼にとって視聴率は正直二の次であった。もちろんスタッフの一員として、自分が関わった作品が高視聴率であれば嬉しいが、自分が納得いく仕事ができたかということの方が大事だった。大道具を担当してもう数年経つが、未だに自分の仕事に対する情熱は変わらない。むしろ物作りの奥深さを実感する度にそれは増していくようだ。
「アシュレイ。壁できたら組み立てるぞ」
同僚が声を掛けた。
「あぁ、もうできる!」
振り返って大声で答えてからアシュレイは急いで木材に最後の釘を打ち込み、仕上がりを確認すると数人でそれをセットの中へと運び込んだ。
「俺、もう3日も家に帰ってねー。風呂も入ってねーよ」
「俺も彼女に会ってないんだ。少なくともこれが終るまで無理だよな」
「テメーらグズグズ言ってんじゃねーよ。スケジュールが押してんだぞ」
アシュレイはぼやく同僚を蹴飛ばし、さっさと壁を組み立て始めた。
「あーぁ、今日も徹夜だな、きっと」
誰かの声で、携帯電話で時間を確かめるともう夜中だ。アシュレイは仕事で家に帰れないのも風呂に入れないのも平気だった。「そんなんじゃ出会いもないじゃない」と姉はため息をつくが、同僚達の、彼女がどうしたとか今度の合コンの相手は一流企業のOLだとかの話題には全く関心ないし、姉とその恋人との付き合いを見ても、姉が幸せなのは弟として大いに結構だと思うだけで、振り返って我が身を嘆くという気持ちは皆無だった。仕事が何より面白いし、第一「男は仕事」と思っているのだ、本当に。
それでも今日で丸1週間スタジオに篭っている。体力だけには自信のあるアシュレイだが、さすがに少し疲れた。
「よーし、少し休憩しようか」
壁を組み立て終わった時、リーダーが声をかけた。途端に現場の空気が緩み、やれやれという感じで皆あくびをしたり、積み上げられた荷物の上や床など思い思いの場所に寝転んだりした。
アシュレイも伸びをすると、コーヒーを買いにスタジオを出た。地下階のロビーには人気はなく、自販機から買ったコーヒーのプルトップを抜くと空々しく明るい蛍光灯の下、カコンという軽い音がやけに大きく響いた。アシュレイは微かに甘いコーヒーを半分ほど一気に飲んだ。と、その時
「クッシュン!」
後ろで大きなくしゃみがして、アシュレイは思い切りコーヒーを吹いた。
「な、なんだよ」
振り向くと、後ろの大きな鉢植えの木の陰から鼻を小さくすすりながら青年が出てきた。仕立てのいい淡いベージュのスーツを着た、見たこともないくらい美しい青年だった。
「何やってるんだよ、お前」
しかも、なぜか髪を木の枝に引っかけてじたばたしている。アシュレイはズカズカと近づくと枝を取ってやった。
「ありがとう」
青年はやっと枝から解放されるとにっこり笑った。その笑顔はどきりとするほどきれいだったが、アシュレイはただぶっきらぼうに頷いただけだった。男の笑顔にどきりとした自分を不覚と思った。
「休憩していたらつい寝てしまって。寒くなって目が覚めたんだ」
青年は照れたように言った。
「ここまでわざわざ降りて休憩しているのか?」
青年の洗練された服装から上階にあるデスクワーク系の部署にいる人間であろうと見当をつけた。
「うん。でも現場の空気が好きなんだ。現場の仕事はよく知らないけれど。時間があればこの辺りに来るんだ。そういえば君のことも何回か見たよ。製作会社から来ているんだよね。美術さん?」
「あぁ、大道具なんだ」
本当に現場に興味があるようだ。青年はアシュレイと同じ年齢くらいだ。きっと入局した時に製作に行けなかったのだろう。それとも入局してから現場に興味を持ったのか。
「好きなら現場で仕事できるように異動願い出したらいいじゃねーか」
アシュレイの言葉に、青年は曖昧に笑顔を返しただけだった。それを見てアシュレイはテレビ局も色々あるんだなと思った。
「おーい、アシュレイ、どこだよー。もうすぐ休憩終わっちまうぞ」
背後から同僚の自分を探す声が聞こえた。壁に掛かっている大振りの時計を見るとそろそろ休憩が終りそうだ。アシュレイは器用に空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
「じゃ、俺、行くわ。今、大詰めなんだ」
「何の番組をやっているの?」
アシュレイはドラマのタイトルを言うと、青年が微かに複雑な表情を見せた。それに気が付かず、アシュレイは「じゃあな」と言うとスタジオへとダッシュした。
アイツ、現場でやっていくにはちょっと頼りなさそうだな、と走りながらさっきの青年のことを思った。しかし要はヤル気の問題である。
もし、現場に来たら俺が鍛えてやるか。
「あー、その前に準備、終るかなー」
人のことよりまず自分のこと、である。
アシュレイはスタジオ目指して素晴らしいスピードで廊下を走りぬけた。
結局、アシュレイは仲間と共にスタジオに泊り込みとなった。やっと一段落ついた時には夜明け近くの時刻になっていた。
「うーん・・・」ガンっ、ガラン。「デっ!!」
飛び起きると目の前には積み重なった木材があった。どうやら寝返りをうった時に角で頭をぶつけたらしい。アシュレイは頭をさすりながら胡坐をかいて周囲を見渡した。スタジオの床の上に寝ていたようだ。組み立てた後の記憶がないので終った瞬間床にひっくり返ったのだろう。それはアシュレイだけではないようで、他のスタッフ達も同じように床の上や荷物の上で鼾をかいている。結構大きな音をたててしまったというのに誰1人起きない。まぁ、やっと目途がついたんだもんなぁ。アシュレイはスタジオの頼りない照明の中に浮かび上がるセット達に目を細めた。残っている幾つかの工程を頭の中で反芻して、間違いなくクランクインに間に合うことを確認して一人頷く。
クランクイン前の作業も楽しいが、撮影もアシュレイは楽しみだった。撮影中も道具を組み替えたり、直したりする作業はあるし、何よりも自分が作った道具達が生き生きとその存在を輝かす瞬間を見るのが嬉しかった。それらはただの物ではなく、物語を鮮やかに彩らせる。
アシュレイはさっき頭をぶつけた木材を撫でた。クランクインの日が楽しみだ。
再び作業が始まったのは午前8時くらいからだった。スタジオは相変わらず耳がおかしくなりそうな電機工具の音が響き、木屑が舞っている。しかし、ピークは乗り越えてしまったので、昨日までの殺気立った雰囲気はなく、作業するスタッフの手付きもどこか気楽な様子だった。アシュレイものんびりと図面を眺めて配置の確認をしていた。
ふとスタジオを見渡すと、いつもより人数が少ないことに気が付いた。上の人間が何人か姿を消している。
「なぁ、今日は少なくねぇか?」
アシュレイは側にいた同僚に尋ねると、緊急に召集があったのだという。
「ふーん」
何か変わったのだろうか。俳優が急に降板したとかだったら代わりが誰になろうが足を引っ張る奴じゃない限り構わないが、セットを全部作り直しとなったら話しは別だ。そうなったら怒鳴り込んでやる。
その時、スタジオ入り口の鉄のドアが開いて、今回のドラマの脚本を書いているナセルが入ってきた。
「よお、ナセル」
アシュレイは手を振ったが、いつも穏やかなナセルの表情が暗かった。アシュレイの顔を見るとやっと微笑んだ。
「どうしたんだ。どっか悪いのか?寝てないとか」
何せ売れっ子脚本家である。
しかし、彼は首を振った。
「別に何ともありませんよ。でも・・・アシュレイさんはまだ何も聞いていないんですか?」
「聞くって?何を?」
「今回のドラマのことです。この間ブラック&ヘル・コーポレーションが急にスポンサー降りるって言い出したそうです。それで・・・、ドラマが中止になるかもしれないって。さっきミーティングでそう言われました」
「な、なんだってーっ!?」
アシュレイの絶叫がスタジオ中に響いた。ナセルの言葉を聞いたスタッフ達も一斉にざわめきだした。
「ブラック&ヘル・コーポレーションって1番の大口だろ?」
「でも、何で!?」
ブラック&ヘル・コーポレーションとは、人材派遣で急成長を遂げている企業で、もちろん一部上場だ。天界テレビにもブラック&ヘルからの派遣社員が多く働いている。最近では宝石の販売でも成功を見せていて、今最も注目を浴びている企業の一つである。スポンサーを降りられるとなると、かなりの打撃である。その場にいる全員の表情に言い知れぬ不安と驚愕が浮かんでいた。
「社長を始め、トップの方にも衝撃が走っているらしくて。結構混乱しているようです。まぁ、でも決定ではないそうですから」
ナセルが気を取り直すように明るく言った。
「そうだよな。あそこの取締役とここの会長って懇意なんだろ?そんな無茶なことはないよな」
皆もそうだよな、と自分を納得させるように頷いた。そう思いながらもアシュレイはまだ不安だった。
「アシュレイさん?」
他のスタッフは三々五々作業へと戻っていったが、アシュレイだけはクルリと背を向けてナセルの呼びかけにも振り向かずスタジオから出て行った。
翌日、いつも通り登校した桂花は、朝一番に理事長室に呼び出された。反応の早いことだ。
しかし、当然といえば当然だろう。
将来国政に携わる事が確実である王族が、半人前のうちから敵国の人間と関わって良いことなどあろうはずがないのだ。
今度こそ、完全に外界から遮断された場所に監禁されるかも知れない。どうせ遠からず処分される身だ。
多少扱いが手荒くなるくらいで嘆くような繊細な神経はとうに捨ててしまっている。
「粗相のないように」
先導して歩いていた職員に念を押され、小さく頷く。
「理事長、留学生を連れて参りました」
「ありがとう、入りなさい」
「は、失礼致します」
桂花も俯き加減に足を進め、理事長のデスクの前に立った。
「君は下がって良い。通常業務に戻って下さい」
「しかし」
「彼はこんな場所で私に害を及ぼすほど頭は悪くありません。下がりなさい」
「かしこまりました。しかし、何かございましたらお呼び下さい」
「私の身を気に掛けるのは君の職務ではないはずだ。余計なことはしなくていい」
「……出過ぎたことを申しました。お許し下さい」
渋々といった様子で、桂花を案内した職員は出て行った。
この状況に、桂花は少なからず驚いていた。扉が閉まってしまった今、理事長室には理事長と桂花の二人がいるだけだ。
「よろしいのですか。私のような者と無防備で向き合うようなことをなさって」
思わず言ってしまった。
「構わないよ。伝えたいことがあっただけなんだ。立ったままではなんだし、そちらに掛けてもらえるかな」
何でもないことのように応接用のソファを指され、桂花は軽い目眩を覚えた。
一対一で話すのは初めてだが、初対面と時とはあまりに印象が違いすぎる。
身柄を引き取られる時には、この理事長は物静かだが隠しがたい威厳を滲ませ、抑揚のあまりない言葉で最低限の言葉を発しただけだ。
「その方の身柄は我が学院で預かることとなった。身を慎んで学ばれよ」
跪き、顔を伏せたままだった桂花は、まともに顔すら見なかった。
その時の理事長と今目の前にいる理事長とが同一人物とは思えない。珍しいことに、桂花は本気で混乱していた。
「そんなに硬くならないで。とって食べたりはしないから。すぐに済ませるから、とりあえず座ってもらえるかな」
再度すすめられ、ようやく桂花は動くことができた。
「失礼して、座らせて頂きます」
「うん。授業前に呼び出したりしてすまなかった。
私もいろいろ予定があって、朝を逃したら今日中に時間が取れるか分からなかったものだから」
「とんでもありません」
「単刀直入に言わせてもらおう。要件は二つだ」
「はい」
「できれば、柢王を裏切るようなことはしないでもらえると嬉しい」
「……は?」
予想外の言葉に、眉をひそめてしまった。
「柢王は私の大切な友人だ。彼が悲しむのを見るのは忍びないから、お願いだけはしておこうと思ってね」
「ご命令では、ないのですか」
「君もいろいろなものを背負ってここにいるはずだ。命令したところで、聞けないこともあるだろう。
しても無駄なことは、私はしない。ただできるなら、柢王の味方になってあげて欲しいんだ。
彼がこの学院に入ってから、積極的に第三者に近づいたのはこれが初めてなんだよ。
君の掟と誇りに触れないなら、彼の傍にいてくれると嬉しい。これは柢王の友人としての頼みで、ただの希望だよ。
君にもし何かあったら――恐らく柢王は自分の身分や立場を顧みないで動いてしまうだろう。
強引に引き離したりしたら、間違いなくそうなる。
そうなれば私は彼を処断しなければならないし、騒乱の火種になった君もただでは済まないだろう」
つまり理事長は、自分の安全の為にも柢王の傍にいた方が良いと言っている。
「私といることで、彼の立場が悪くなるのではありませんか」
「うん。なるだろうね」
あっさりと、理事長は認めた。
「昨日柢王が私に君の保護を訴えに直談判をしにきたんだけど。私もはじめは止めたんだよ。
関わらない方が良いって。でも聞くものじゃない。
だから友人としては、できる限りのことはしようと思ってね」
「……」
「公に私の権限が及ぶのは学内だけだ。ここにいる限りは、柢王も君も守ることができる。
でも、何かあってそのことが外に漏れたら、私は私情で動くことは許されない。わかるね」
公人としての理事長を初めに見ている桂花は、実感を持って頷いた。
「できる限りご期待に添えるよう、努力致します」
「ありがとう。あとできれば、君に私が言ったことは柢王には内緒にしておいてくれると助かる」
「はい」
「そして二つ目なんだけど。保健医から正式な要請が昨日あってね。君を助手に欲しいそうだ。
時間のある時には保健室に顔を出してもらえるかな」
昨日の今日だというのに、一樹はさっそく動いてくれていたらしい。
有言、即実行の見本を見せつけられたような気分だ。
「喜んで、お手伝いさせて頂きます」
「そう、ではお願いしよう。話はこれだけだよ」
「はい。失礼して授業に行かせていただきます」
一礼して立ち上がる。
「桂花」
そのまま出て行こうとした桂花の背に、声がかけられた。
「私は、東に貸しを作るために君を引き受けた」
桂花は足を止めた。
「連中は体よく君をここで始末するべく機会を狙っているはずだし、私はそれを黙認するつもりだった」
「当然のことかと存じますが」
振り向かずに答える。
「でも柢王が流れを変えた。君が生き延びるための細い一本の道を、柢王は作ろうとしている」
「……」
「まだ死ぬつもりがないのなら、生き残る努力をして欲しい。君にはそれだけの知恵があるはずだ」
「おとなしく殺されるのは、御免被ります。吾には自虐の趣味もありません。……ありがとうございます」
無礼とは思いつつ、最後まで振り向くことはできなかった。
ポーカーフェイスのままでいる自信がなかったのだ。
「お待ちしておりました」
校門脇の車寄せには、すでに1台しか車がない。もう部活動の時間もとっくに過ぎているのだから当然だ。
もちろん桂花は、自分を監視しているような連中に下校が遅れることなど伝えていなかった。
慇懃に頭を下げたスーツ姿のこの男は、2時間以上ここで待ちぼうけをくらったことになる。
しかし彼の表情筋はぴくりとも動かず、余計な言葉も一切話さない。
「お待たせしました」
対する桂花の声にもまったく感情というものが籠もっていない。
「お手を」
短い言葉に促され、桂花は左手を差し出した。紫微色の美しい手首に無粋な黒い腕輪がはめ込まれ、微かな電子音が響く。
「桂花?」
黙っていた柢王が、低い声で問いかけてくる。たった今桂花に装着されたものが何であるのか、彼は知っているのだろう。
しかし、それに関してここで問答することは避けたかった。
「柢王、送って下さってありがとうございました。この通り、迎えがおりますので今日はここで」
そして車に足を向けかけたが、柢王がそれを許してくれなかった。思いのほか強い力で肩を掴まれたのだ。
「待てよ」
ぐい、と引き戻され、その動きを予測していなかった桂花の身体が傾いた。バランスを崩した身体は、あっさり柢王に抱きとめられる。
「こ、困ります!」
振り向きざま叫んだがあっさり無視された。柢王が一歩踏み出したことによって、桂花は彼の背中に庇われる形になる。
「気にいらねーな。俺のダチを犯罪者扱いか?」
「貴方には関係のないことです」
「許さないと言ったら?」
「貴方に命令権はありません。喚くなりなんなり、ご勝手になさればよろしい。私は職務をまっとうするだけです」
スーツの男は小揺るぎもしない。
「桂花殿、こちらへ」
「はい」
従順に頷いた桂花は、切実な願いを込めて柢王を見た。
「行かせて下さい。この腕のこれは、吾のためのものでもあるんです。この国でどんな扱いを受けても仕方のない吾の、身分証を兼ねています」
発信器とバイタルサイン測定器が組み込まれた黒い腕輪は、本来なら監視の必要な犯罪者に取りつけられるものだ。
しかし、桂花の腕にはまっている腕輪には、くっきりと金で王家の紋章が象眼されていた。
この紋章を身につけている者には、いかなる職務の人間も、許可無く手を出すことができない。
元服した直系の王族にしか発行の許されない紋章は、この国における最高位の身分証だった。
「これは、王太子の紋章か」
「そうです。翔王様より賜りました。校内にいる時には、必要がないので外して頂いています」
「わかった。……行けよ」
悔しそうな声に背を押され、桂花は今度こそ車に乗り込んだ。
「納得したわけじゃないからな」
「承知しております」
動じずに柢王をいなした翔王の部下は、軽く一礼を残して踵を返した。
車が走りだしても動こうとしない、今日知り合ったばかりの少年の姿が、網膜に焼きつけられたように桂花の中から消えなかった。
「一週間も経たないうちに、あれほど友達思いの友人を作られましたか」
「今日が初対面です。友人などとは……」
必要事項以外の言葉をこの男が発するとは珍しいこともあるものだ。
「彼は、そうは思っていないようでしたが」
「一方通行の友情があっても、ここではおかしくないのではありませんか?」
「彼も報われないことだ。お分かりでしょうが、深入りはなさらないように」
監視者に、言われるまでもなかった。
「心得ております」
平然と返し、桂花は視線を落とした。
国の上層部に睨まれ、監視付きの生活を送っている自分と関わって良いことなどありはしない。
恐らくこの男から報告が上がれば、あの柢王という少年にも警告が為されるだろう。
彼はいずれ、この国の中枢を担うであろう人物なのだ。
その経歴に傷を付けるようなことは、周りの人間が許さないはずだった。
桂花に与えられた住居は、学園にほど近いマンションの最上階にあった。
この階に入居しているのは、桂花とその監視に当たる者だけだ。
関係者以外が訪れることはなく、単独での外出はもちろん許されていない。
部屋からは、外部と連絡を取るための機器の一切が排除されており、陸の孤島に軟禁されいるようなものだった。
それを苦痛だとは思わない。
その程度の自由なら、国にいた時にすでに奪われていた。
ここでは何かを無理強いされたりしないだけマシとすらいえた。
それにしても、と桂花は嘆息する。これほどの疲労を覚えたのは久しぶりだった。感情が動きすぎたのだろうか。
身体は鉛のように重いのに、食欲はまったくなかった。
火や刃物を使って自ら調理することは許されず、与えられる食べ物は温めるだけのレトルトだけなのだ。
栄養面での問題はなくとも、不味い食事は桂花には苦痛だった。普段も、最低限のカロリー摂取分を口にするだけだ。
何もする気になれず、殺風景なリビングにぺたりと座り込んで目を閉じる。手近にあったクッションを抱き寄せて身体を丸めた。
もう寝室まで歩くのも怠い。空調が効いているのでそのまま眠っても大丈夫だろう。
そう思うと、もう立ち上がる気は完全に消えてしまった。
シャワーは明日の朝に浴びよう。そう決めてしまった桂花の意識は、急速に遠のいていった。
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