桂輪孤朗青海濶(中)
・・・結局、桂花が船底に戻ることが出来たのは、日も沈みきった夜だった。
この一日で数多い人間の死に直面せざるを得なかった桂花の瞳に色濃い疲労が漂っていた。
(・・・それでも、半数以上を助けられたから、良しとするべきなのだろうか)
水夫達が集まり食事をとったりする大部屋の前を通りかかったところで呼び止められ、ねぎらいや礼の言葉をかけられ、酒を杯に注いで渡される。いつもならうるさいほどにぎやかな水夫達が今は言葉少なに杯を傾けている。部屋の奥からかすかな泣き声がしている。死者を悼んで水夫達が集っているのだ。
「よ、お疲れさん」
水夫達のあいだをかき分けて、馬空が笑いながら寄ってきた。
「・・・カイシャン様は?」
「待ちくたびれて、船室で眠ってらっしゃるぜ」
「・・・そうか」
とりあえず様子だけでも見に行こうとした桂花を馬空があわてて止める。
「ちょっと待てよ、あんた、まだ矢が刺さったまんまじゃねえか!」
いくら後回しするったって、限度ってモンがあるだろ! と馬空が周りの者に船医を呼ぶように指示
を飛ばす。
「・・・・・」
そういえば、時々腕が動きにくくなったり、チリチリ焼けるような感じがあったのを治療にかまけてすっかり忘れていた事を桂花は思い出した。何しろこの体は痛みを感じにくいように出来ている。
「こんなものたいしたことじゃない」
矢柄を掴んで引き抜こうとするのを、馬空が泡喰って止めにかかる。
「よせ! 刺さってからどんだけ時間経ってんと思ってんだ あんた! 筋肉が矢尻に巻きついちまってんだよ! 無理に抜こうとしたら、大出血だぞ!」
「・・・・・」
痛みをあまり感じない桂花としては、このまま引き抜いてしまっても一向に構わないのだが、こうも見物人が多い所で下手なことをして、勘ぐられるハメになるのは願い下げだった。そうこうするうちに、この船の船医が引きずられるように連れてこられ、矢の突きたった桂花の肩口の傷を見て口ごもった。
「切開するしかないのだろう?」
船医が口に出せない言葉を、当の桂花がさらりと口にした。
・・・桂花と馬空の声が聞こえたような気がして、船室でカイシャンは目を覚ました。
目をこすりながら身を起こし、寝ぼけ眼でうす暗い船室を見回す。自分の体の上にかけられた馬空の上着が滑り落ちそうになるのをあわてて掴みとって、カイシャンは自分が馬空と話ながら寝てしまっていたことに気づいた。
「・・・上着・・。馬空に返さないと・・・」
寝台から降り、扉を開いて暗い通路をのぞく。いつもならうるさくて眠れないくらい賑やかな船の中は、驚くほど静かだった。桂花の部屋が真っ暗なのを確かめて、カイシャンは人の声が聞こえてくる明るい方へ足を踏み出す。 通路に放置してある縄の束や桶を何度か引っかけながらカイシャンは、ようやく人の集まる大部屋に辿り着いた。
戸口から覗き込んだカイシャンが、硬い表情の馬空や水夫達に囲まれた桂花を認めて目を見開いて足を止めた。
カイシャンの位置からでは、桂花の横顔しか見えず、何故か口に布きれをくわえている桂花の顔も硬く青ざめている。
カイシャンは、そろりと水夫達の輪に近づいた。
上着を取り払い、上半身裸の桂花の左肩から腹にかけてが、真っ赤に染まっていた。
「・・・桂花?!」
思いがけない子供の声に、布を口にくわえた桂花がこちらを見た。
汗で後れ毛が頬や首に貼り付いている。
いっせいに振り向いた部屋中の水夫達の視線にさらされ、カイシャンは馬空の上着を抱えたまま硬直した。
「あ・・・」
切開の痛みで動いて傷口が広がらないようにと、桂花の左肩を押さえていた馬空が桂花の代わりに声を上げた。
「カイシャン様? 眠ってたんじゃあ・・・」
「・・・ご・ごめん・・・なさい・・・っ!」
馬空の声に体の力が抜けたカイシャンだったか、こちらを見る桂花と視線があった瞬間、顔を真っ赤にして馬空の上着を放り出し、バタバタと走り去ってしまった。
足音を耳でたどっていた桂花が、カイシャンが甲板へ向かおうとしているのを察知してあわてて立ち上がろうとするのを、
「動かないで下さいっ! もう少しで縫合が終わりますから!」
冷や汗をダラダラ流しながら桂花の肩口を縫合していた船医が金切り声で叫び、馬空や水夫達があわてて肩や腕を押さえつける。
「心配しなくったって、海におっこちたりしねえって! ・・・んっとに過保護だな、あんたは」
甲板に続く階段を一気に駆け上がって、カイシャンは扉を開けた。冷たい夜の海風がどっと吹き付けてきたが、カイシャンは寒いとは思わなかった。
月は雲に隠れ、船のあちこちに備えられた明かりにかろうじて甲板の板目が見て取れる。
とりあえず光の届かない船端まで走り込むと、そこでようやくカイシャンは息をついて座り込んだ。
「・・・・・!」
胸の奥が爆発しそうだ
耳まで熱い。
「・・・だって、桂花が」
桂花が血を流していたから。
赤い血をたくさん流していたから。
だから、びっくりしてしまったのだ。
そうに違いないと思ってみても、振り返ってこちらを見た桂花の姿を、汗に濡れた細い首にはりついた後れ毛や、カイシャン達とは違う白さを持つ桂花の肌を思い出し、カイシャンは頬が火照ってくるのを両手で押さえつけて首を振った。
とにかくあの場にいたたまれなくて、逃げるようにここへ来てしまった。真っ赤になった顔もしっかり見られてしまったに違いない。
「・・・変に思われただろうなぁ・・・・」
吹き付ける夜風に火照った頬をさらし、一刻も早く元に戻るよう願うカイシャンだった。