桂輪孤朗青海濶(下)
縫合が無事にすみ、もう押さえていなくても大丈夫ですよ、と汗をぬぐう船医の指示に馬空達の手が離れる。
「・・・ったく、戦傷に慣れた大の男でも暴れるほど痛てえってのに、ほとんど顔色も変えねえで施術に耐え抜くほど肝も神経も太てえあんたもすげえが、そのあんたをここまで慌てさせるカイシャン様もすげえよな」
桂花の口から布きれを引っ張り出しながら、馬空がいたずらっぽくにやにや笑う。
「そんな布きれなど無くても耐えられると、人が不要と言っているものをわざわざ押し込むな!」
馬空のにやにや笑いが癇に障って桂花が声を荒げる。
桂花にとっては歯噛みするほどの失態だった。
いくら疲れていたとは言え船医が来るなり抗議する間もなく大部屋の中央の椅子に座らされ、寄ってたかって上着をはぎ取られ、有無を言わさず馬空に口に布きれを押し込まれたのだ。
衆人環視の中で施術されることになった桂花は、人間とは違う嘘の赤い血に気づかれたりはしないかという懸念と、船医のあまりの腕の悪さに対して冷や汗をかいたのだった。
「昔、同じようにそう言って施術を受けてて痛みを我慢するあまり奥歯を噛み砕いちまったバカな奴がいてなあ・・・。それ以来そいつは柔らかいモンしか食えなくなったらしいと言う話を聞いて以来、俺はこーゆー場合には、たいしたことがない時でも板っきれや布っきれを噛んで奥歯を保護するよう部下達や知り合いには言ってまわってんのさ」
疑惑のまなざしを送ってくる桂花や水夫達にあわてて言っとくがそいつは俺じゃねえぞ! と馬空は言い添える。笑い声があがった。今までの話し声すらまばらのしんみりしていた暗い空気が、いつの
まにか、笑い声のする明るい空気に変わっている。
カイシャンがおとしていった自分の上着を拾い上げると、布を巻き終え、血の始末を終えて立ち上
がった桂花に投げて寄越す。
「風が吹きっさらしの甲板はきっと寒いぜ。カイシャン様は上着も着ずに行っちまったから、今頃寒い思いをしてらっしゃると思うけどな」
いたずらっぽくにやにや笑って、馬空が言った。
甲板へと続く扉がひらく音にカイシャンは顔を上げた。誰かが自分を探しに来たのだろうかと思ったが、頬はまだ火照ったままである。見つかりたくないカイシャンは身を縮込ませて暗がりに身を寄せた。しかし甲板に出た軽い足音の主は、まっすぐカイシャンへ辿り着いて、驚くカイシャンの前で足を止めた。
「夜の甲板に出られる時は、お付きの者と上着を忘れぬよう、と以前申したはずですが」
馬空の上着を裸の肩にはおった桂花があきれたように立っていた。上着が風にはためいて見え隠れ
する左肩に巻かれた白い布が痛いように眩しく見える。
「・・・どうして ここにいるってわかったの?」
桂花は黙って空を指した。・・・雲が払われ、月が煌々と照る夜空を。
「・・・・・」
月を隠していた雲がいつの間にかなくなっていたのだ。暗がりにいたと思っていたが、実のところ、丸見えだったというわけだ。恥ずかしさのあまり、カイシャンはまた顔を伏せた。
顔を伏せて動こうとしない少年の傍らに膝をつき、桂花は低く頭を垂れた。
「申し訳ありません。吾が不用心でした」
「え・・・?」
「あなたに、ふたたび、・・・・人が、・・・死んでゆく様を、見せてしまったことを・・・・」
思いがけない言葉に顔を上げたカイシャンは、桂花が馬空の上着を肩からおとして差し出してくるのを慌てて固辞した。押し問答の挙げ句、まだもう少しここにいたいと言う少年の言葉に、馬空の上着を羽織ったまま甲板に腰を下ろした桂花の右腕側にカイシャンがもぐり込むことで決着が付いた。
「・・・・・」
少年の温かさと重みを右腕に感じながら、ようやく得た休息に桂花はさまざまなことが一気に訪れた今日一日を思い返して瞳を閉じる。
海賊に襲われ、アシュレイに助けられたこと。人間の死を看取ったこと。
・・・そして何よりも カイシャンが声を取り戻したということ。
少年の、桂花を呼んだ声は、まだ耳の奥に残っている。
嬉しかった。
少年の、ずっと俺のそばにいてよ、という言葉が。一生懸命にさしのべる小さな手が。桂花はどれほど嬉しかったか・・・。
・・・・・けれど。
(その言葉に 吾は 決して 応えることが出来ない・・・・・)
造られた偽の鼓動が冷えてゆくのを桂花は感じた。
今日流した赤い血が本物であれば、桂花はその言葉に応えただろう。
けれど。
この少年がいざなう未来へ、桂花は共に行くことが出来ない。
「・・・・・」
けれど。
さしのべられた手を。桂花を信頼して寄りかかるこの小さなあたたかさを。・・・今さら、振り払うことなど桂花には出来なかった・・・。
「・・・・・」
閉じたまぶたの奥が少し熱くなったような気がして、桂花はきつく目を閉じた。
この身に流れる人間と同じ赤い色の血はいつわりのものなのに、流す涙は真実同じものだということが、いっそ桂花には悲しかった。
「・・・・・」
桂花と二人並んでカイシャンは月を眺めていた。・・・気恥ずかしくもあったが、上着がちゃんとかかるようにとカイシャンの体に回された桂花の腕の感触を感じながら、桂花って体温低いんだなあと少年はぼんやりと思った。頬はまだ熱いままだったが、もうあまり気にならなかった。安心感のほうが大きかった。
ここは安全だと、桂花は信じていいのだとという安心感に包まれながら、カイシャンは昼間から(本当は、もっと前から)ずっと感じていた胸に残る小さなしこりのことを考えた。
桂花にもたれかかりながら、カイシャンがぽつりと桂花に問う。
「・・・桂花、・・・人は、死ぬ時に、大事な人の名を呼ぶものなの・・・?」
桂花は瞳を見開いた。この少年にとって、「死」はまだ禁忌だ。声が出なくなる程衝撃を受けた原因が、近しいものが目の前で死を選んだのを見てしまったからに他ならない。それなのに、ようやく声が戻った今日の今日という日に、またこの少年に人が死んでゆくところを図らずも見せてしまったという負い目が桂花にはあった。
その少年が、その死について口にしたのが、桂花には驚きだった。
「・・・何故いきなりそのようなことを?」
「桂花が俺に船室に行けっていう前、水夫の一人が、死んでしまう前に、誰かの名前を呼んでいた。そしたら、馬空が、あれは恋人の名前だって・・・言ったから・・・・・」
「・・・・・」
どうしてあの男は教えなくてもいいようなことを言うのだ!と腹の中で桂花は馬空に向かって毒づいた。
「・・・・・チンキムさまは、何にも言わなかった」
「!」
抱えた膝の上にあごをのせた少年の大きな瞳に涙が盛り上がっているのを桂花は見た。
「・・・何にも言わなかったんだ・・・・・」
人は、死の間際でも、大事な人に思いをはせ、心を寄せ、その存在にすがろうとする。
大事な存在だから、そうする。
ここで命を失っても、魂はその人の元に還ることが出来るように・・・・
でも。
カイシャンは、桂花に看取られながら、大事な人の名を口にしながら逝った水夫の安らかな顔を覚
えている。
でも。
(・・・・・チンキム様は、だれにも すがれなかったんだ。)
その事実が、悲しかった。
「・・・俺が、子供じゃなかったらよかったのに。もっと大きい大人だったら、あの時、チンキム様を止められたかもしれないのに・・。そばにいて、いっぱい話をしたり、話を聞いてあげたりして、一人で苦しまないでって言えたのに・・・」
でも。もう何もかも遅いのだ。
あの、おだやかな魂の人は もう どこにもいないのだ。
「・・・俺は、チンキム様が好きだった・・・・」
震える声で、少年は、声と共に封じていた思いをようやく言葉にした。
「カイシャン様・・・・・」
やがて、小さな嗚咽とともに、潮の香りに、温かい涙の香りが混ざった。
胸に残る小さなしこりを洗い流すように 少年は泣く。
少年の隣に座る桂花は、少年の頭を撫で、カイシャンの体に回した腕にそっと力を込めた。
・・・泣けるうちに泣いておいた方がいい。死者を悼む涙なら、いくらでも流していい。そう思う桂花はただ黙って少年の嗚咽を聞いていた。
「・・・・・」
この少年のそばにずっといることは出来ない。
共に未来に行くことも出来ない。
・・・けれど「今」を守ることは出来る。
この傷つきやすい少年が、成長し強い心を持つことが出来るようになるまで。
だから、それまでは。
(それまでは、あなたの言葉に、吾は応えることにしましょう・・・)
そっと桂花は月を見上げた。満ち欠けを繰り返し日ごとにその姿を変える、美しい天上の銀盤を。
桂花の名前は、そこから来たのだ。
(李々・・・)
再会してもかたくなに沈黙を守る桂花の女神。
・・・彼女も、今、自分が考えたことを、同じように思っていたのだろうか。己に信頼を寄せる一つの小さな命を育て上げようと思った時に。突然なにも言わずに桂花の前から姿を消した彼女は、最初から別れを心に決めていたのだろうか。
もしそうなら、李々もきっと苦しかっただろう。今の自分が苦しいように。
(「絶対なんか ない」李々がよくそう言っていた・・・ )
全くその通りだ。李々は正しい。
そして、自分は昔と変わらずに、李々を愛している。
突然の別れは、身を切られるほど悲しかったけれど、李々からもらった情愛と知識と共に過ごした記憶は、桂花の中に変わらずに輝いている。
「・・・・・」
ふいに右腕が重くなった。 視線を落とせば、いつの間にか泣き疲れて少年は寝入ってしまっている。風邪をひかれては大変とばかりに桂花は少年をあわてて上衣にくるむと片腕で抱き上げて立ち上がった。
船内に足を踏み入れる前に、桂花はもう一度月を見上げた。
(・・・同じように出来ると思う? 李々・・・ )
情愛を傾け、知識を与え、一人で生きていけるようになるまで共に歩いてゆくことが、この吾に?
( 貴女と、同じように・・・ )
腕の中の少年が身じろいだ。不安定な片腕抱きに少年の体がずり落ちかけ、桂花はあわてて抱えなおす。安心しきっているのか、少年は目覚めもしない。肩口にかかる少年の健やかな寝息が愛しい。
「・・・・・」
桂花は肩をすくめて小さく微笑み、甲板に通じる扉を閉じた。
甲板の上には、穏やかな海を照らし続けている 優しい光を放つ月だけが残された。