マーメイド (3)
そして、今夜が結婚式だという日、桂花は知った。
柢王が、風の国の王子で、噂の婿養子だと。
ただの兵士にしては、部屋も豪華だったし、いつも自由に宮殿を歩いていた。
周りの人間たちも「柢王様」と呼んでいた。
気づかなかった自分が馬鹿なのだ。
(これからどうすればいいんだろう…)
ショックに思考は停止してしまっているのに、つい心で問いかけてしまう。
それにしても、自由すぎはしなかったか。結婚間近の王子が女の(ふりをしている)自分と二人きりでいても、どうして周りは黙っていたのか。今更だけど不思議だった。
「桂花?」
「聞いてなかったろう? …ったく。宮殿中みんなそんな感じだけどな」
そう言ってどうでもいいように目の前で笑う男。
「結婚式ったって、ただの海上宴会じゃねーか、なあ?」
…ただの宴会とは違うと思うけど。
そう思ったが、桂花は曖昧に微笑んだ。
ドレスは今朝までかかって、やっと縫いあがった。いまは差し迫った仕事もなく、他のお針子たちと同じく桂花も休みを与えられている。
桂花は男に誘われて、宮殿近くの砂浜に来ていた。
砂の上に寝転がった男は、横に座った桂花の長い髪にずっと指を絡ませている。
「…この髪が赤かったらな」
わけがわからず、首をかしげる。
「どっちにしろ、足の悪いおまえには無理な話なんだがな」
この男以外に、桂花の足が悪いなんて思う人間はいなかった。誰もが桂花の足取りに心惹かれ、うっとりと眺める。
どうしてこの男だけ…。
そんな桂花の思いも知らず、男は指を絡ませたまま桂花の長い髪を引き寄せて、話しを続ける。
「俺を海から助けてくれた命の恩人の髪がさ、こんなふうに長かったんだ」
(…思い出したのか?)
驚きと期待で、顔がこわばる。
声はなくても、男には表情で桂花の言いたいことはわかるらしい。
「…全部じゃないけどな」
「助けられたとき、誰かに呼ばれて目を開けたんだ。そのときうっすらと、目の前に赤い髪が見えた」
桂花の鼓動は早まった。
「おまえにだけ話す。あの事故は俺のせいだ。俺は…まだ結婚なんざしたくなかった」
自嘲するようにつぶやく。
「だから、ちょっと嵐を起こして船を国に引き上げさせられればよかった。なのに…」
風の国の直系には風と雷を呼ぶ力がある。本当の嵐とそれが重なったのだ。
「誰も巻き込むつもりはなかった。だから、他の奴らを沈む船から引き離すのに力を使いすぎて、…自分のための力なんて残ってなかった」
バカだよなー、と笑いながら、
「この国は赤い髪が多いから、誰が命の恩人かなんてわかるはずないと思ってた。そしたらこの国の王サマが、俺を助けたのは自分の娘だって言ったんだ」
娘…!?
「俺が助けられた浜の近くにお姫様の別荘があるとかでさ、『これはやはり柢王殿と姫は結ばれるべき運命に違いないですぞ!』とかオヤジ一人で盛りあがってさー、ハハハ」
そう言って笑ったかと思えば、突然桂花を見つめその手を取り、己の唇にまで持っていく。
「おまえの髪は、赤くねぇのにな…」
なんでか、この腕だって思うんだよなー、と力なく笑った。
(吾だ…。それは吾なんだ…。あなたを助けたのは…吾なんだ…)
「長い髪、赤、そして声…。俺が覚えてるのはそれだけだ」
(声…!)
いまさら悔やんでも遅い。
なぜ自分は声を手放してしまったのか。
だが、果たして声を持っていたとしても、真実を、自分は本当は人間ではないと、言えるだろうか…。
「悪い、変な話しちまったな」
人間に恋しちゃいけない。
わかっていたのに、バカだ、吾は…。
桂花は、自分の腕に擦り寄る男を愛しげに見つめ、一度きつく目を閉じ、そうして、もう一度男を見ると優しくその腕から引き剥がした。そして、『おめでとうございます おしあわせに』と、砂に書く。
男は、書かれた文字に一瞬目を見張り、それから桂花を見た。
「…サンキュ。おまえも来てくれな。話したいこともあるし。今夜は風もなさそうだから、この前みたいなことにはならねぇし…させねぇから」
風と雷を操れる王子の言葉に頷くと、桂花はその場を足早に立ち去った。
この足裏を突き刺す激痛も、今夜で終わる。
いまは痛みだけが、桂花を現実に留めていた。