マーメイド (4)
穏やかな海の上。
結婚式は無事に終わり、桂花の思い人は、いまこの大きな船の中に設けられた貴賓室で桂花以外の者と愛を誓っている。
男の望み通り船に乗り、小部屋もひとつ与えられはしたが、もう息がつまりそうだった。
(嵐が来ればいい…)
ひとり甲板に出て、暗い海を見つめていると、ふいに心がつぶやいた。
(全てが壊れてしまえばいい)
そんなこと、思ってはいけないのに、考えてはいけないのに、馬鹿なことばかり考えてしまう。
(みんな消えてなくなってしまえば…)
この胸の痛みもなくなるだろうか。
そんな自分が情けなくて、ゆがむ口唇を噛み締める。
「バカな子。そんな顔をさせたくて、薬をあげたんじゃないのに」
暗い海から海底にいるはずの魔女の声がした。
桂花が声のほうを見ると、魔女は懐から短剣を出すと投げてよこす。
「それで王子を刺しなさい。王子の血がおまえの足にかかれば、そうすれば、その足は元に戻るわ。人魚に戻れるのよ」
しなければ?と桂花の目の問いに、魔女は「海の泡になって、消えるわ…」と震える声で答える。
この短剣で、あの人を…?
吾が…?
「迷わないで。もうすぐ夜が明ける。王子はおまえ以外のものと愛を誓った。おまえには時間がないのよ」
吾が…?
自分のために、あの人を?
「…おまえが消えてから、冰玉はなにも食べない。…私もね、」
さびしくて仕方ないわ…。
言うか言うまいか迷った末に、それでもほんの少し笑みを浮かべて優しく告げる魔女の言葉に、桂花の心は揺らぐ。
「桂花、待ってるわ、必ず戻ってくるのよ!」
そうして、魔女は去っていった。
自分の命が惜しくて、吾が、あの人を刺す…?
吾のために、吾を待つものたちのために、あの人の命を…。
(ふ…ふふ…あはははは)
…おかしくて死にそうだ。
嵐の中、命懸けて救った男を、どうして今さら自分の命と引き換えにできる?
あのとき既に、吾はあの人を選んでいたのに…。
―― 桂花、前世を信じるか?
―― 俺も信じちゃいないけどさ。
―― なんかおまえとはどっかで会ってるような気がすんだよなぁ…。
―― もし前世でないとしたら…、来世か?
―― ははっ、来世の約束で、いま会ってんのかもなー。
―― んでも、だったら、すげーな、すごい絆だよな、俺達っ。
嬉しそうに、でも少し照れながらそんな話を聞かせた男の言葉が忘れられない。
桂花は、短剣を胸に抱いた。
(来世なんか、ない…)
短命な人間には魂というものがあって、死んでも命は続くのだそうだ。だが長命な人魚には魂というものがなく、生きるだけ生きてあとは海の泡になって消える。
(吾には来世なんかないんだ、柢王…)
自分は、海の泡になって消えるのだから。
前世も…、男と会ったことなんかない。男と会ったのは、あの晩の海が初めてだ。
そして、今夜のこの海が最後なのだ。
男に愛され魂を得て、命の続く限り男のそばにいたいと思ったこともあったけど…。
来世なんていらないから、今が欲しい。
…絶対かなわない夢だけど。
そっと鞘から短剣を抜く。
(どうせ海の泡になるのなら…)
覚悟して、短剣の鞘を抜き、刃の切っ先を咽喉元にあてる。
(柢王…)
愛しい男の名を、心で呼ぶ。
(…自分の声で、呼んでみたかった)
後悔はそれだけ。
もう一度だけ男の名前を心でつぶやくと、柄を握る両手に力を込めた。
そのとき。
「なにやってんだっ」
花嫁をひとり置いてきたのだろうか。
現れるはずのない男の熱い掌が、桂花の手に重なり短剣を止める。
「なぜだっ…」
その声には怒りがにじんでいるのに、男の目は悲しみをたたえている。
「俺をひとりにするのか?」
どうしてそんなことを言うのだろう。
吾以外のものと幸せになるくせに。
どれほど願っても望んでも、吾とともにあってはくれないのに。
「自分で命の糸を断ち切ったら、生まれ変わりなんてできない。…来世なんかないんだぞ?」
「俺は…俺のわがままで船を沈め人を危険な目に遭わせた。その償いと責任は俺が負うべきものだ。その機会を与えてくれた命の恩人には報いなきゃならない。だから、俺は結婚する。でも、それは形だけのものだ」
男の目から一筋光りがこぼれる。
(涙…?)
泣いて…いるのか?
人魚は、本当の悲しみ苦しみつらさを知らないから、人間達のように涙というものがないんだよ、って魔女は言ってたけど…。
どうして…。
どうして泣いてるんだ…?
「そばにいてくれ」
「初めて会ったとき、おまえ、泣いただろう?」
(泣く? 吾が?)
人魚の自分が泣くなんてありえない。
「胸をおさえて泣いただろうが。こんな恥ずかしいこと絶対言いたくなかったが、…あんな綺麗な涙、はじめて見た。綺麗だけど、でも…二度と泣かせたくないって思った」
あのとき…そういえば、柢王は吾の顔を自分の袖口でぬぐってたけど…。
泣いてた…吾が?
涙は、本当の悲しみ苦しみつらさを知る人間だけのものではないのか?
「命を絶つほど、なにがつらいんだ、俺にはなにもできないのか?」
「教えてくれ、桂花!」
その言葉だけで、もういい。
そう思ったとき、桂花の視界がぶれた。
目の前の男は、あのときと同じように袖口で桂花の顔をぬぐいだす。
「…泣くなっ」
そうか…吾は泣いているのか。
嬉しくても、涙が出るんだ。嬉しくても、人間は泣くんだ…。
あのときも今も嬉しかったんだ、吾は。
桂花は微笑むと、声の出ない唇で告げた。
『うれしい ありがとう さようなら』
そうして、今はもうゆるく置かれているだけだった柢王の手を振り切り短剣を捨てると、桂花は海に飛び込もうとした。が、
「ちょっとは人の言うことを聞け…っ!」
真剣な男の腕に捕まり、桂花はその場に押し倒される。
「誰がおまえを海の泡なんかにさせるか!」
(……え…?)
「さっき、おまえが怪しいやつと話してたの、全っ部聞いてたからなっ」
そう言って不敵に笑う。
「俺の血があればいいんだろう?」
…ちょっと違う。
「ちょうど宴会で赤ワインやらトマトジュースやらマムシ酒やら、大量に飲まされて腹がタプタプしてたとこだったんだっ」
そうして、桂花の腹の上に横向きで腰を下ろし、いきなり自らの腕のあたりを短剣でザクザク切りつけると、桂花の足にかざす。
男の血が、一滴また一滴と桂花の足を濡らす。
それだけで桂花はパニックになりかけていたのに、
「…おまえの肌とか…色が変わってきてる」
『…ひっ…!』
男の言葉に桂花はできる限り身体を縮こませ、両手で顔を覆って隠す。
昔からの言い伝えで、人魚の姿は人間の目にはとても醜く映ると聞いていたのだ。
(いやだ、いやだ、いやだ…!!)
人魚の自分の姿を醜いと思ったことなど一度もないが、桂花は男に醜いと思われたくなかった、嫌われたくなかった。
だから魔女に薬をもらった。
だから、人魚の自分を捨てたのだ。
男の血を受けた足元から失神しそうな痛みとともに、自分の姿が変化していくのがわかる。
(どうして…)
吾を生き延びさせて、どうしようと言うんだ。
吾は、もう…陸では生きていけない。
万一、人魚の姿を疎まれなくても、あなたのそばにはいられない…。
だったら、消えてしまってもよかったのに…。
人魚の姿に戻っても、桂花の目は涙を流し続けていた。
「…おまえ」
男の声が間近で聴こえる。
少し震えている男の声は、人魚の自分におびえているのだろうか。
息もできないほどの絶望に、今度こそ桂花は海に飛び込もうと必死でその不自由な身体をよじった。
「見つけた!」
突然前髪の一部を捕まれた。
「離して下さい…っ」
「…!! おまえだ!!」
足を持たない人魚の桂花の抵抗など、到底抵抗などと呼べるものではなく。すばやく体勢を変えて正面から両肩を男の腕で強く拘束された桂花は、痛いほど男の視線を受ける。
「長くて、赤い髪があって…。極めつけにその声! 覚えてるって言ったろう、会ったことがあるって言ったよな?」
紫微色の肌と、色素の抜けた白い髪にひとすじ赤褐色の尾髪、紫水晶の瞳が印象的な細身で綺麗な目の前の人魚。
「綺麗だ…」
「え…?」
歓喜と苛立ちと興奮で、自分でも制御し切れない感情に男自身混乱しているようにも見える。
少しお調子者だったり、どこかさびしげだったりはしていたが、それほど感情の起伏が激しいとは思えなかった男の強い感情に、桂花自身も戸惑っていた。
「おまえだったんだな…」
「吾は…」
「ああもう、絶対離さねえ!!」
そう言うと、男は息もできないほどに桂花をきつく抱きしめてくる。
「あなた…は…、姫君と結婚を…」
「ああ、ありゃ偽装結婚だから」
「…は?」
「仮面夫婦っつーの? …ここだけの話、姫君は小鳥が大好きなんだそうだ」
「…ことり、ですか?」
「そう。んで、来たるべく『華麗なる出奔&小鳥ちゃんと愛の逃避行計画』に備えて親父殿をだまくらかすための一環なんだとさ、この宴会は」
「宴会…ではなく、結婚式でしょうが」
「いーんだよ、当事者同士が宴会だっつってんだから」
(こんな弾けた男だったろうか…)
「早いとこ式だけでも挙げとけば、姫君が諦めるとでも思ったんだろうな、ここんちの王様は。俺にも、恩人だとかなんとか言って姫をプッシュしとけば大丈夫だろーみたいな? 毎日遊び歩いててもなんも言われなかったしさ。つか、姫の趣味のことがあったから大目に見られてたのか、もしや…。てかさー、ひと目ぼれだったんだな、俺。今まで気づかなかったなんて…カーッ!俺としたことが!!」
ぶつぶつ呟いていたかと思うと、突然桂花に向き直る。
「なわけで、俺としては命の恩人の姫君の計画に協力したら、新妻に逃げられた情けなーい婿養子として哀愁背負って宮殿を出るつもりだったんだ、おまえを連れてな。…ったく、ちゃんと話したいことがあるって言っといただろうが」
「…うそ」
「嘘なもんか。あとで見せてやるよ、姫と可愛い小鳥ちゃんをな」
こっちはお魚ちゃんだけどなー、と今まで見た中で一番嬉しそうな男に、桂花もつられて笑った。そしてためらいながらも男を抱き返すと、いつのまに絡ませたのか桂花の長い髪をつんとひっぱる。
「たまには海に帰っていいからさ、」
その言葉に海を見ると、いつの間にか魔女の李々とイルカの冰玉が心配そうにこちらを伺っている。
「そんときゃ、俺も連れてけよ」
「溺れますよ」
「また助けてくれるだろう?」
はじめて見たとき、青みがかって黒いけれど、光りの加減で鉛色にも見えた男の瞳は、やんちゃな少年のように生き生きとして見える。この人も、吾と同じ気持ちなのだろうか。
本当の苦しみもつらさも知らなかった。だから、本当の幸せも知らずに生きていた。でも今は…。
(李々、ありがとう。吾は幸せだから)
海に向かって微笑む。
李々は一度頷くと、海に消えた。
あとには少しさびしげなイルカの鳴き声と水平線から覗く朝焼けが、柢王と桂花を包んでいた。
終。