マーメイド (2)
火の国の宮殿では、王女の結婚式の準備に追われていた。
先方からの婿入りの船が突然の嵐に遭うという不幸に見舞われはしたが、幸い王子も供の者達も全員無事だった。
打撲と擦り傷、突然の事故による多少の記憶障害。王子が、それだけで済んだのは奇跡に近い。王家お抱えの医師も、無理せず焦らず休養をとるようにと診断した。しかし、王子にそんな時間は与えられなかった。
自国とはマナーも習慣もなにもかも違う他国へと旅立つ王子のため、火の国に馴染めるだけの時間を持てるようにと風の国の王からの要望で、もともと式は半年後の予定だった。だが、
「災い転じて福となす。この大きな災害に屈服することなく、より大きな幸福のために、準備ができ次第、盛大に結婚式を執り行う」
不慮の災難を口実に、火の国の王の宣言によって予定はいともたやすく変更されてしまったのだ。
そのため、宮殿は猫の手も借りたいほどの大忙しに混乱していた。
桂花はそこに紛れ込むことにした。
あの男が、いるかもしれない。男もあの船に乗っていたのだ。
もしあのあと誰かに助けられていれば、王子の供としてこの宮殿にあらわれるはず。そう考えた。
声は持たないが、もともと手先が器用な桂花にとって、予定が早まり急遽増員を余儀なくされた花嫁衣装のお針子として、宮殿の内部に入り込むことは難しいことではなかった。
「桂花もキリのいいとこで終わっていいよ」
朝早くから夜遅くまでの針仕事に、ただひたすらに取り組んでいる桂花に周りのものは優しい。
桂花が笑顔で頷くと、安心して仲間は帰って行く。
黙々と針を刺しながら桂花は違うことを考えていた。
ここに来て三日、まだあの男は見つからない。
お針子達は皆おしゃべり好きで、手を動かしながらも噂話に余念がない。
ここにいれば、労せず男の情報も耳にできるのではと考えたのだが、どうやらあてが外れたらしい。
明日からは、もっと他にも顔を出して話を聞いたほうがいいのだろうか。
ただ、お針子と違い他の仕事は座ったままではできないだろう。楽をしてあの男に会おうとしたことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
『…痛っ!』
考えごとをしていた桂花は、純白の生地だけでなく、自分の指にも針をさしてしまった。
「大丈夫か?」
背後から覆いかぶさるように聞こえた男の声に心底驚き一瞬反応が遅れた桂花は、その指を後ろから取られ突然現れた男の口に含まれた。
(なっ…!?)
捕まれ含まれた指に鼓動が早まる。と同時に、自分の鈍感さにめまいがした。水の中なら、どんな些細な気配でも感じとることができる自分だったのに。
声も出せず、ただじっと身をこわばらせている桂花に気づいた男は、指を離すと桂花の前にその姿を現した。
「器用だなーと思って見てたら、いきなりブスッ!だもんな」
俺のほうが焦っちまったぜ、と笑いかけてくる、その男。
(見つけた…!)
あの男だ。
ああ、生きていたんだ…。
安堵と喜びに胸が熱い。
「おい…、どうした? そんなに痛いのか?」
男が突然自分の袖口を伸ばして桂花の顔を拭いだす。
「痛いなら痛いって言え。俺の部屋、来いよ。塗り薬がある」
部屋?
兵士たちの大部屋とかだろうか。
まだ仕事は残っているけれど。
あとで戻って片付けよう。とにかく今は、この男についていきたい。
そう思い、立ち上がり男について行こうと一歩を踏み出す。
(……っっ!!)
三日経って足のあることには慣れたが、痛みには慣れない。相変わらず、ナイフを踏み抜くような痛みは新鮮だ。
だが、魔女は言った。与えられる苦痛からは想像もできないほど、その足取りは誰もがうらやむほど愛らしく軽やかで見るものの心を惹き付けてやまないだろうと。
確かに、今まで会った全ての者達に、桂花はその足取りを誉められていた。
男の目にも、そんなふうに見えているだろうか。人間の自分の姿はどう映っているだろう。不安と期待におののきながらまた一歩踏み出す。
「…おまえ、足が悪いのか?」
だから男にそう訊かれて、桂花は心底驚いた。なぜ、どうして、という疑問が頭を埋め尽くす。それに、悪いわけではないのだ。
「そんな不思議そうな顔しなくても、おまえの顔見てりゃわかるさ」
男は桂花を抱き上げると、さっさと歩き出した。
連れて行かれた部屋は、大部屋などではなく、宮殿の東館の中の豪華な一室だった。
桂花をソファにそっと座らせると、その前に片膝をつき、男はじっと正面から桂花の目を見つめる。
髪も長く、容姿も悪くない、むしろ綺麗なんだが…、と男は自問自答のようにつぶやくと、不躾な質問を正直に桂花にぶつけてきた。
「おまえ、男か?」
服を着るという観念のない人魚の桂花が、たまたま浜辺で身につけた服は女物だった。宮殿に入って女と間違われた桂花は、咄嗟に女のふりをすることに決めた。下手に男だというより、警戒される心配もないと考えたのだ。
一瞬答えに詰まった桂花だったが、この男には隠してもしょうがない。
この男を捜して、自分はここにいるのだから。
桂花は静かに頷き、男を見た。
「そっか」
立ち上がった男は、なんか飲むかー?と訊いておきながら勝手になにかをグラスに注いでいる。
お針子部屋に、口はきけないけど超美人が入った、普通あれだけの美人が入れば他の女達からイジメに合いそうなもんだが、仕事はまじめだし、なにより相当の貧乳らしく女達は哀れがってなにかと気にかけてやってるそうだ、…そんな話を耳にしてただの好奇心で覗いただけだったんだが…、
「…まあその見てくれじゃ、いろいろと事情があんだろな」
貧乳ねぇ……くっ…くくっっ、独り言かと思えば急に噴き出して笑い出す。桂花が首をかしげると、
「あーっと、俺は柢王。おまえは?」
ていおう…ていおう…。
心で何度も繰り返し呼んでみる。
両手にグラスをふたつ持って戻ってきた男…柢王は、片方を桂花に差し出し、もう一度「おまえの名は?」と訊いてくる。
『けい…』
思わず口唇が動いたが、すぐに思い直し、濡れたグラスの表面の水滴でソファの近くにあった小さなテーブルの上に、桂花、と書いた。
「桂花、か…」
桂花、桂花、へぇーいい名だな!と嬉しそうにつぶやいて笑顔を返す男に、胸が高鳴る。早まる鼓動に知らず胸を押さえると、
「なんだ? 胸が苦しいのか? 痛いのか?」
そうじゃない。
首を振り、違うと訴える。
そうじゃない、嬉しいのだ。
心配げな男に、どうすればわかってもらえるのだろう。
声さえあれば、なんでもないことなのに…。
桂花は男の手を取ると、自分の胸に押し付けた。
突然の桂花の行動に驚く男に、
『だ・い・じょ・う・ぶ』
声は出ないけれど、くちびるをゆっくりと動かして告げて『ありがとう』と微笑む。
男は、…少し驚いたように目を見張り顔をそむけると、わかったとだけ答えた。
そしてそっと桂花に捕らわれた自分の腕を引き抜くと、菓子もあるから持ってくる、と部屋を出て行ってしまった。
男を安心させたくてやったのだけど、失敗したかもしれない…。桂花は、はじめて声が出ないことを悲しく思った。
男と再会した翌日。
いつものように結婚式のドレスを縫っていると、
「今日はケガすんなよ?」
背後から、桂花の耳元でささやく声がした。
驚いた桂花は、また針で指を刺しそうになる。
「おおっと…、危ねえ、危ねえ」
どうしてそんなことができるのか、男は桂花の腕を掴み、笑いながら針を紙一重のところで止める。
「なーなー、こんなんでこいつ大丈夫なのかー?」
誰にともなく声をかけると、女達は口々に楽しそうに言葉を返してくる。
男を探しあてはしたものの、声を持たない桂花はこの先どうすればいいのか考えあぐねていた。
男を助けたのは自分だと告げるべきだろうか。
でも、もし覚えてなかったら…。彼は信じてくれるだろうか。
堂々巡りで結論は出なかったが、このままでいいような気もしていた。
桂花は黙って手を動かしながら、耳に入る男の声だけを追っていた。
数日後。
ドレスの完成は間近だった。
式の日取りも迫っている。相変わらず、男はお針子たちに茶々を入れに通ってきている。
その声を聞きながら必死で針仕事に専念している桂花に、男がささやいた。
「…俺たち、どっかで会ったことねえか?」
突然の言葉に心臓が止まるかと思った。
「柢王様ったら、また〜。聞こえてますよ、ちゃーんと」
「ホント、この前も出入りの商人に同じこと言ってませんでした?」
くすくす笑いながら女達が言う。
(誰にでも言ってるのか…?)
そんな言葉に少しがっかりはしたが、それでも期待せずにはいられなかった。もしかしたら…という想いが桂花の中に淡く芽生えた。