投稿(妄想)小説の部屋

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No.581 (2005/09/13 02:15) 投稿者:モリヤマ

マーメイド (1)

 静かな満月の夜だった。
 月の光がかすかに水底に届いている。
 けれど見上げた海面のさざなみが気になって、桂花は海から顔を出した。
 少し離れた船から、にぎやかな音楽と歓声が聴こえてくる。
 風の国の旗を掲げた船だ。
(そういえば…)
 桂花は、海底に棲む赤い髪と瞳の魔女の話を思い出した。
『今度、風の国の王子が隣国の火の国に婿入りするそうよ。王子は三男坊で、婿養子にはうってつけだってね』
(そうか、あれが婿入りの船か)
 自分には関係のないことだ。そう思いつつも、桂花は船から目が離せないでいた。
 さっきまでのさざなみは、高く大きな波に変わってきている。
(早いな…)
 海の中にいたときには気づかなかったが、やはりゆるやかではあるものの、風がふいていたのだ。
 そして、短時間でそれは強まってきている。
 海面から出ている桂花の髪は、既につむじのあたりが乾きはじめていた。
(こんなときに、船はマズイだろうに…)
 しかも、あのバカ騒ぎの様子では、この風に注意を払う者もいないのだろう。
(あんなに浮かれて…)
 そんなにめでたいことなのか、婿養子とは。
 代わり映えのない毎日に、退屈で死にそうだと思っていた桂花だったが、どうやら人間の世界はもっとくだらなさそうだ。そんなことを考えながら船のほうを見ていた、まさにそのとき、突風とともに突然雷が落ちた。
 船の帆がまともにそれを食らい、船体を大きく傾げたかと思うと見る間に転覆してしまう。続けて降りだした雨に、さきほどまでの賑やかな宴は見る影もない。
 あの様子では助かるものはないだろう。
 人々の浮かれた様子を冷めた目で見ていた桂花だったが、突然の不幸を目前にすると、どうにもやりきれなさを感じてしまう。
 自分にはどうすることもできない事故なのだ。たとえ人魚の自分であっても、船の転覆に巻き込まれれば無事に戻れる保証はない。なにもできなくても、仕方ないのだ。
 そう思いつつも、なかなかその場を去ることもできない。
 それでもいよいよ諦めて立ち去ろうとしたとき、なにかが目の端をよぎった気がした。
 驚きと期待に、危険を忘れて桂花は少し前に出て目をこらす。すると、板切れの上に、人の腕と頭が浮かんで見えた。
 波にもてあそばれ、沈みかけながらも、誰かが生きているのかもしれない。
 咄嗟に、桂花は動いていた。
 
「おい、大丈夫か?」
 海上を埋め尽くす板切れなどの船の残骸と荒波の中、人影を探し、ようやく見つけたときには桂花の身体も傷だらけだった。
 なんとか近くの砂浜まで運んで、すぐさま助けあげた人間の頬を叩いて声をかける。
 とにかく浜にあげることしか頭になかった桂花には、その人間が生きているかどうかなんてわからなかったし、確認する余裕もなかった。
「おい、聞こえてるなら返事しろ」
 できれば生きていてほしい。祈るような気持ちで何度も何度も声をかける。
(駄目だ。動かない…)
 間に合わなかったんだろうか。
 不安で人間の顔を覗きこむ。
 少年というより青年…だろうか。それでもたぶん自分よりは年下に見える。
 生きててくれ…そう願いながら、また声をかける。と、願いが通じたのだろうか、男のまぶたが一瞬ぴくっと震えるのが見えた。
(生きてる…!)
 ほっとして一気に身体の力が抜ける。今更ながら自分が緊張していたことに気づいて桂花は驚いた。
(よかった…)
 怪我も心配ではあったが、とりあえず意識が戻ったのだ、人でない自分はすぐにでもこの場を離れたほうがいいだろう。そう思い最後にもう一度男の顔に目をやった桂花は、
(黒い、目…?)
 男の開いた目に、動けなくなってしまった。
 まだ夜は明けず、空は厚い雲に覆われて月も星も見えない暗闇だったが、砂浜からすぐの高台に立つ大きな建物から灯りが漏れ届いている。桂花にはそれで充分だった。
 男は、目も髪も肌も、色素の薄い人魚の桂花には不思議な色に見えた。
 特にその目は、黒いけれど青みがかって、光りの加減か、深い鉛色にも見える。
「…こ、こは」
 不思議な瞳に束の間とらわれかけた桂花だったが、男の声に我に返った。
「大丈夫か? ここは、」
 …どこだ?
 人間の領土に関心のない桂花には、人間たちの約束事で言う「この場所」がどこなのか、いまひとつわからない。だが、そんなことはどうでもいい。
「大丈夫だ、おまえは助かった。そのうち日が昇る。今は休むんだ」
 男は、焦点のあわない目でしばらく桂花を見つめると、目を閉じた。
 桂花は男をもっと陸地側に運んでやりたかったが、如何せん、人魚の身では無理な話だ。浜辺に横たえた身体に、なるべく早く戻ってくるからと小さく告げると、傷つき疲れ果てた身体を起こし海底へと急いだ。
 養い親でもある魔女の棲家へ、初めて願い事をするために。

「本当にいいの?」
「くどいよ、李々」
「…今だってそんなに怪我して」
 桂花の願いにはいくつものリスクが伴う。養い子の桂花を、できればつらいめにあわせたくはない。そんな魔女の心配をわかっているのだろう、桂花は身体の痛みと逸る気持ちを抑え、安心させたくて微笑んで見せた。
「足を得て人間のような姿に変わる代償に、その声は失われ、その身体は一足ごとに激痛を覚える。もしあなたが人間を愛して、その人間もあなたを愛すれば、人魚にはない魂を得て、愛する人間とともに在り続けることができる。でもその人間が他の者と愛を誓えば、…桂花、あなたは次の朝焼けの光りとともに海の泡になって消えてしまうのよ…?」
「わかってる」
 魔女が自分を心配してくれる気持ちは有り難かったが、それでも桂花の心は男のもとへと急いていた。そんな桂花に、魔女は諦めたように息を吐く。
「…冰玉が知ったら大騒ぎになるわね。あの子は図体はデカイけどさびしがりやの泣き虫だから」
「ごめん…」
「まったく、頑固ときたもんね」
 いったい誰に似たのやら…そう呟きながら魔女の手渡してきた薬瓶を受け取ると、桂花は別れの言葉と礼もそこそこに男のいる浜辺へと向かった。

(早く、早く、早く…!)
 自分にも、なぜこうまであの男に執着するのかわからなかった。
 海から助けて、ほんの一言二言言葉を交わしただけの男。
 深い鉛色の目は、決して桂花の姿をとらえているようには見えなかった。
 だが、そんなことはどうでもよかった。あの男を助けたい。あの男のそばにいたい。それだけだった。
 男の横たわる浜辺から少し離れたところまで戻ると、桂花はそこで魔女の薬を飲んだ。
「…………ぐぅ…っ!!」
 あまりの苦しさに、もしかしたら毒薬なのでは…と思いつつ、意識が遠のくのを感じた。
 次に気がついたとき、桂花には尾ひれの代わりに確かに足が生えていた。肌の色も、腰まで伸びた髪の色も今までとは違う。人間と同じ黄色い肌と、金に近い茶色の髪。たぶん…目の色も違うのだろう。
 自分は人間になったのだ。どこから見ても、人間の姿に。
 そうして、おそるおそる立ってみようとして、…驚愕した。
 足の裏から脳天まで突き抜ける激痛は、納得していたこととは言え、想像をはるかに超えていた。
 それでも、早く行かないとあの男が死んでしまうかもしれない。
 周りを見れば昨夜の船の荷物があちこちに散らばっている。桂花は、手近な荷物を取り、中から自分に着れそうなものをいくつか選んで身につけると、おおきくひとつ息を吸いこんで立ち上がった。
 一歩前に踏み出すたびに、人魚の身でいたときには決してありえない痛みが桂花を襲う。
(…早く…行かないと…)
 急ぐ桂花をあざ笑うかのように、朝日が昇り始めた。
 そうして、やっとのことで桂花が男を横たえた場所に戻ったとき、男の姿は既になかった。


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