クリスマスの夜に(2)
明らかに海外と分かる空港に着いた頃には、すでに日付は変わってしまっていた。
飛行機を降りてまたすぐに車に押し込まれた一樹は、質問も許されないまま移動する羽目になった。
開店時間になっても戻らない自分を、卓也や二葉、桔梗、忍は心配しているだろう。
まして前科のある身の上である。
日本で起こるであろう騒ぎを想像して、一樹は抑えようのない焦燥に駆られた。
まだ、無事に帰してもらえるかすら分からない。
無意識のうちに、唇を噛んでいた。
『そろそろ、国名くらいは教えてくれませんか?』
『ご心配ですか?』
からかうような口調の挑発に乗るほど、一樹もウブではない。
『単なる好奇心ですよ。いい年をした男を誘拐する物好きがどこの誰なのか、ちょっと気になります』
『ご謙遜を。物好きでなくとも、傍に侍らせたいと思う人間は多いと思いますが』
日本からずっと一緒のこの男は、くつくつと笑いながら返答をよこした。
三人のうち、彼がリーダー格のようだ。
しかし、命令を下した張本人ではない以上、一樹の交渉相手にはなり得ない。
相手の目的が一樹自身であった場合は、一樹にも交渉する余地が残されている。
切り札は自分なのだから、取引をすることも場合によっては可能だろう。
しかし、単なる人質として捕らえられたのであれば、状況を自力で改善することは難しい。
ようは、一樹がエビとして捕まったのか鯛として捕まったのか、ということだ。
それによって取るべき道はずいぶん違ってくる。
少なくとも、それがはっきりするまでは大人しくしているべきだろう。
だから一樹は、一切の抵抗をしなかった。ホテルで車から降ろされ、専用キーでエレベータに乗せられた時も、黙って従った。
案内された部屋は、誰がどう見ても高級スイートとしか判断できないようなところだった。
日本で言えばキングスイートといったところか。一泊数十万はするという冗談のような部屋である。毛足の長い絨毯が敷き詰められたリビングは無駄に広く、ベッドルームなどもいくつかあるらしい。このぶんだと洗面室も複数だろう。
『ここで待っていればいいのかな?』
『はい。もうすぐ、我々の主人が到着すると思いますので、もうしばらくお待ち下さい』
『日本の友人達に連絡が取りたいのだけど』
『申し訳ありませんがご遠慮願います』
予想していた答えに、小さく溜息をつく。
ウェルカムフルーツがあったので、それをつまみながら待つこと一時間ほど。
どこまで喋ることを許されているのかを試す意味も兼ねて、
一樹はそばを離れようとしない監視役の男達と話をしていた。
しかし、新たにわかったことと言えば、この国がイタリアであるという程度だ。
なんの足しにもなりはしなかった。
その彼らとの言葉遊びにも飽きてきた頃、ようやく呼び鈴が鳴った。
これでようやく事態が進展するのかと思うと、正直なところ少しほっとした。
さらわれた身で、黒幕を立って迎える気にもなれず、一樹は座り心地の良いソファに腰掛けたまま扉の方を見つめた。
入ってきたのは、ひとりの男だった。
明らかにオーダーメイドだと分かる隙のないスーツに磨き上げられた革靴を履いた彼は、そこにいるだけで人に頭を下げさせるだけの威厳を兼ね備えていた。
一樹の髪はやわらかなクルミ色をしているが、
彼の髪は太陽の光を閉じこめたような豪奢な金髪だった。
『はじめまして、ミスタ・フレモント』
『強引なご招待にあずかりました。貴方は俺をご存じのようですが、俺は貴方を知りません。自己紹介をして頂けますか』
優雅に礼をした男に、萎縮するでもなく一樹は言った。
男は、楽しそうに口を開く。
『これは失礼した。私はクラウディオ・サルヴィーニ。この国を中心にいくつか事業を手がけている』
『観光事業で有名な、あのサルヴィーニ氏ですか?』
『知っていたか。さすがだな』
『さぞお忙しいでしょうに、なぜわざわざ日本からしがない一般人を招待しようなどと思ったのです?』
一樹の声は南極の氷の如く冷たい。
『ただの好奇心、というところだ』
これが二葉だったら、間違いなくこのきれいな顔に拳をたたき込んでいるだろう。
『俺はいま貴方に会っています。ご満足ですか?』
『ずいぶん気の強い。きみを生かすも殺すも、私の気分ひとつだというのに』
『殺したいのでしたら、機会も手段も山ほどお持ちだったはずです。はったりは時間の無駄ではありませんか』
薄笑いを浮かべながらの脅しには相当な迫力があったが、ここで動じたらその程度の相手と思われて終わりだった。これは駆け引きなのだ。一樹は一歩も引かなかった。
『気に入った。しがないバーの支配人など辞めて、私の元で働かないかね』
『遠慮させて頂きます。俺は忙しい。用事が済んだのでしたら、さっさと日本に帰して下さい』
『そう焦らなくても良い。しばらくここに滞在してくれ給え。必要なものはすべて揃えよう。なんなら、私の傍で仕事を手伝ってもかまわない』
イタリアの帝王は、一樹の向かいに足を組んで座り、控えていた男に飲み物を作るよう命じた。
すぐさま運ばれてきた琥珀の液体を一樹にも勧めて、自らはストレートで口に運んでいる。
『俺は、誰の人質ですか?』
サルヴィーニの眼がすっと細められた。
『ミスタ・フレモント。私はビジネスマンだ。マフィアでも無能な政治家でもない。自分の不利益になるようなことはしない。きみはもう少し自惚れても良い。きみは、きみ自身の価値によってここにいる』
『俺の意志はどうなります?』
『可能な限り尊重しよう』
『……貴方は、俺に何を望んでいるのですか』
『いずれ分かる。今日はもう休み給え』
傲岸不遜に言い渡して、サルヴィーニは行ってしまった。
慧嫻はもうこの事態に気付いているだろうか。
恐らく、一樹の身に何かが起こったことくらいは把握しているだろう。
攫われてほとんど半日が過ぎていたし、ガードについていた人間からの提示報告も途絶えたはずだ。
それなら、こんなところに閉じこもっているより、たとえ監視付きでも外に出た方が手がかりを与え易くなるはずだった。
その可能性がコンマ以下であっても、何もしないより遙かにマシである。
一樹は後ろに控えていた男に、
『スーツを一揃え用意して下さい。あと、彼の傍に付くのに必要な物も。せっかくの機会ですから彼の仕事ぶりを見学させてもらうことにします』
不敵に笑って戦う意志を伝えた。
そうして、何の因果でか一樹はイタリアでも秘書のまねごとをすることになった。
しかし即席でできる仕事など限られている。
せいぜい書類のコピーを取ったり、いらなくなった分を処分したり、お茶を淹れる程度だ。
それでも一樹の容姿は十分に人目を引くものであったし、サルヴィーニも彼を隠したりしなかったので、ほんの数日で、一樹は社内でも有名な存在になっていた。
電話は許可が下りなかったが、FAXで卓也達に連絡もとらせてもらった。
もっとも、許されたのは最低限の指示だけで、こちらの状況を伝えることはできなかったが、何も知らせられないよりは良いはずだった。
行動を共にしても、サルヴィーニの真意はさっぱり見えなかった。
まさか一樹を侍らせるためだけにこんなところまで連れてきたとも思えない。
その気になればどんな無体も働けるはずだったが、仕事中もそれ以外でも、彼はいたって紳士だった。
『今晩はパーティーがある。きみも正装して出席してもらう』
『強制ですか?』
『出席すれば、明日には日本に戻すと約束しよう』
つまり、このパーティーで彼の目的は果たされるということだった。
『わかりました』
『部屋に人を呼んである。準備をしてき給え。時間に迎えをよこそう』
相変わらず、否定の返事など微塵も疑っていない調子である。
ここのところ常に彼に付いていた一樹は、彼の実力を目の当たりにしていたので、この態度が確かな自信に裏付けられたものだとわかる。
人を従えることに慣れきった種類の人間であることも、悟るには十分な時間があった。
『では、これで失礼します』
マニュアル通りの礼をして見せて、一樹は部屋に戻った。