クリスマスの夜に(1)
よくよくこういったことには縁があるようだ。
妙に冷めた頭で一樹は考えた。
ここ数年というもの、慧嫻がつけてくれたボディ・ガードのおかげで危険は減っていたし、自分では気をつけていたつもりだったのだが、上には上がいる、ということだろうか。
昼過ぎに、数日後に迫ったイエローパープルでのクリスマスイベントに備えて諸々の発注をすませ、親しい人たちへのプレゼントのために買い物に出掛けたのが始まりだったのだろう。だろう、というのは、その瞬間まで相手が一樹はおろかプロであるボディ・ガードにも気配を悟らせすらしなかったからなのだが、そんなことはもはやどうでも良かった。
まったく、鮮やかとしか言いようのない手際だった。
一樹の視界に入らないように気を配って警護してくれていた腕利きの男達は、声を発する間もなくほとんど一瞬で沈められたらしい。一樹は、背後から固い銃口を押しつけられるまで、彼らの異変に気付くこともできなかった。
「Please ride in this car without making noise.」
静かに車に乗りなさい。耳元に英語で囁かれた時には、一樹の横には黒塗りのリムジンが横付けにされていた。
「If it says that I am disagreeable, what does it carry out?」
「Do you want to involve in unrelated people?」
ささやかな抵抗はあっさり却下される。本気の声だった。一樹の周囲にはたくさんの買い物客でにぎわっている。巻き込むのは本意ではない。ただ、これから自分は慧嫻のお荷物になってしまうのかと思うと、決して低くはないプライドが疼いた。この拉致が彼に関わっていようといまいと、その事実を知った瞬間から彼が全力で救出にかかることは、火を見るより明らかなのだ。
抱えていた荷物と共に乗り込んだ車にはブラインドが下ろされており、外の様子をうかがうことはできない。不安を感じてはいたが、一樹はそれを努めて顔に出さないようにしていた。
『ガードについてくれていた人たちは無事ですか?』
慧嫻の大切な部下である。まさか殺されてはいまいと思うが、あまり丁寧な扱いを受けたとは言えないはずだった。
『もちろんです。別の車でご同行頂いています』
『……行き先は?』
『申し上げることはできません』
身も蓋もない即答だった。
『では目的は?』
『貴方に会いたいという御方がおられますので、ご招待させて頂きました』
さすがに一樹は呆れた。思わず肩をすくめ、
『とんだご招待だ』
『手段が乱暴になってしまったことに関しては謝罪致します。しかし、貴方はご多忙で、正式に申し込んでもお断りされると分かっておりましたし、何より貴方に近付くことすら、我々は許して頂けなかったものですから』
ハンドルを握る男は、いたって丁寧な口調で受け答えをする。しかし、許されていない事柄に関しては、どんな訊き方をしても小揺るぎもしなかった。
服装は目立たないラフな普段着だが、あきらかに専門の訓練を受けた人間である。一樹の横に座る二人の男も同様だった。外見や顔立ちからして、明らかに日本人ではない彼らが何者であるのか、一樹には見当もつかなかった。彼らの話す英語は、完璧なクィーンズイングリッシュである。しかも、英語が母国語ではない感じだった。語調に癖がなさすぎるのだ。西洋人であることははっきりしている。逆に、それ以外は何も分からなかった。
『傷つけずにお連れするよう、厳命されております。どうかご抵抗なさらないように』
『抵抗したらどうなるのかな?』
『ご到着まで眠って頂くことになります』
相手はプロが三人。しかも拉致のために入念な準備をしてきている。対するこちらはひとりきりで、おまけに丸腰だ。不本意ながら、どうしようもなかった。
降りて下さいと言われたのは、それから一時間と少し経った頃だろうか。着いた先は空港だった。一樹の背中を冷たい汗が伝う。国外に連れ出されてしまっては、取れる手段は厳しく限定されてしまう。卓也や二葉が気付いても、警察に届けを出しても、ほとんど役に立たないだろう。
『手続きは済んでおりますので、こちらへ』
『パスポートは、持っていませんが』
『こちらでご用意させて頂きましたのでご心配は無用です』
まったく、なんの心配が無用だというのか。むしろ偽造がばれてここで足止めを食らうのを切望したい気分である。そんなことはまずあり得ないだろうけれど。
過去に一度、無断出国を経験している一樹は、何とも言えない気分で飛行機に乗り込んだ。飛行機の中に彼ら以外の乗客はいなかった。恐ろしいことに飛行機を丸々一機、貸し切っているらしい。
この、国を挙げてテロを極端に警戒している時期に完璧な偽造パスポートを作りあげ、しかも飛行機を貸し切れるほどの権力と財力を持った相手の目的が、自分に会うことだというのだ。
金持ちの考えることは分からない。
分からないまま振り回されるのが庶民の宿命かなと、あまり庶民とは言えない生活を送っている一樹は、自覚なくそんなことを考えていた。車での走行中に携帯電話は取り上げられていたし、物理的な抵抗も無意味となれば他にすることはなかった。
ファーストクラスでの贅沢なフライトも、監視付きかと思うと素直に楽しむ気にもなれない。腹いせに次々と頼んでみた高級食材も、相手を困らせる足しにはならなかったようだ。この状況で眠れるほど図太くはなかったから、一樹は飛行機が着陸するまでの時間をもてあますことになった。急なことだったので文庫本の一冊も持ってきていないし、一樹を拉致した男達は、暇つぶしの話し相手までは努めてくれなかったのである。