追憶 (前)
夢を見た・・・
・・・・・おまえは 殺さない
長いつややかな胡桃色の髪が降りかかってくる
あとから あとから
とめどなく体の上に降りかかる。
まるで、埋め尽くそうとするかのように。
・・・・・殺さないで あげる
胡桃色の髪に隠されたあの人の瞳は見えない
髪の間からのぞく細い鼻梁と、濡れ光る朱唇
・・・・・私に一度も『好きだ』とは 言わなかった
折れそうなほど華奢な首や肩はぬめるような白さだ。
それを見上げる己は 胡桃色の長い髪の波に溺れて息も継げないでいる。
・・・・・その ・・・・・
・・・瞳が見たい。 そう思った。
(なぜ・・・)
オパールのようにきらめく粒子を内に秘めた、その瞳を。
(何故、貴方は泣いているのですか・・・?)
ぐらりと世界が傾いだ。
うねくる波のようにまとわりついていた胡桃色の長い髪がずるりと離れた途端、
白い貴人の姿はたちまち遠ざかり、すぐに見えなくなった。
彼は目を見開いたまま 凄まじい勢いで墜ちていた。
世界が 暗く 深くなり、風を切る音だけが耳に届いた。
どこかもの悲しさを感じるその音を、山凍はどこかで聞いた、と思った。
・・・・・夢の終わりはいつも曖昧だ。
あのお方の笑みのように。
「・・・・・」
山凍は深々と溜め息をついた。今朝からあまりにも繰り返しすぎて、もはや何度目なのかと数える気など、とうに失せている。
・・・あのお方の夢を見るのは、実に久方ぶりだった。
懐かしさも何もなく、言いようのない喪失感が残されていた。
「・・・・守護主天様が、来年をもって文殊塾を卒業なさいますので、元服式の準備とその祝賀の式典について・・ ・・・毘沙王様、お聞きでしょうか?」
目の前で書類を読み上げていた表情の乏しい青年が言葉をきり、山凍を見る。
・・・夢を見て疲れるというのは、何年ぶりだろうか。だが、たとえどんなに夢見が悪かろうと、現実にはしなければいけないことが山のようにある。・・・生きるというのは案外難儀な事なのだな。と『北の武王』と誉れも高い毘沙王は、執務の机にひじを突いてまたもや ため息をついた。
「・・・聞いている」
「・・・お茶をお持ちいたしましょう・・・」
扉の内側にいた侍従の少年に茶の用意を言い渡し、青年は傍らにいる少年の手から渡された書類を手に取った。
・・・北の王は女性よりも男性を好む。そういった風評が(あながち嘘でもないのだが)ひろまり、権力に近づこうとする北の領地の貴族達は己の子息や見目形のよい少年を行儀見習と称して城に送り込んでくるのがあとをたたない。
たいてい何事もなく1、2年で辞めていくのだが、優秀な者たちは山凍が裏で手をまわして留めおいている。
この青年も行儀見習として城に入り、そのまま祐筆(秘書の事)の一人として山凍に仕えている。
「・・・・・」
祐筆として仕えて割と長いが、この青年の表情は乏しくてあいも変わらずとらえどころ
がない。
(・・・前々から誰かに似ていると思っていたのだが)
文殊塾を中退してしまい後々まで世話をかけてしまった、王となった山凍がいまだに頭のあがらない数少ない天界人の中の一人。
・・・文殊先生に似ていたのだ。
表情のない、千年も揺るがないように思える、・・・あの智慧の番人に。
(・・・新しい、守護主天か。・・・早いものだな・・・)
その智慧の番人の依頼を断れず、北の領地の視察(遠足だろう)へと文殊塾の子供達を招待し、魔族騒ぎがおこったあれから、もうそれほどの時が経ったのだ。
幼い力を振り絞って、魔族から子供達を護るべく、結界を張り続けていた高貴な子供。
元服前から、金の髪の天界の守護神の評価は賞賛の声に満ちている。
「だが、文殊塾を卒業すれば、元服式が待っている・・・・・・・・。」
夢見の悪さに追い打ちをかけられたようで、山凍はまたもや ため息をついた。
・・・今日は、とてもとても執務の机に座っている気がしない。
その時、するどい嘶(いなな)きが執務の部屋の窓の玻璃をふるわせた。
「孔明!」
山凍の騎獣である黒麒麟が執務室の窓の外で鼻を鳴らす。
祐筆の青年の制止の声も聞かずに、山凍は窓から飛び出すと、黒麒麟に飛び乗った。
追いかけてくる制止の声は、たちまち遠ざかる。風を巻き上げて空中を疾走する黒麒麟
の凄まじいスピードに景色が水のようにゆがみ、左右に分かたれてゆく。
孔明の霊力に反応して、大気の分子が ぱちぱちと火花のように爆ぜて きらめきながら後方に流れさっていった。
それを見上げる城下の人々の目には、一条の光の水脈(みお)を引く流れ星のように映
っていることだろう。
ごおごおと鳴る風の音に耳を傾け、たてがみに顔を埋めながら 山凍は笑った。
「・・・ははっ! いいぞ孔明! お前は、私を理解する唯一のものだ!」
川の流れる平原のはるか先に切り立つ白い嶺の連なりを見渡せる、丈の低い草がはえた小山の中腹に孔明は降立った。
周囲に人一人いない、無人の空き地だった。
鼻を鳴らし、首を後ろに向けて山凍を見る孔明に、山凍は苦笑した。
「・・・まったく。本当に得がたい奴だよ。お前は・・・ 」
時々思う。この稀有な霊獣は、その底知れない深い色の瞳で 何もかも見通してしまっているのではないのかと・・・
「・・・俺は 何も言わなかったんだがな」
黒麒麟から降り、その首を叩いてやりながら、山凍は目を閉じて白い嶺から吹き降りて
くる冷えた風の音に耳を傾けた。
どこかもの悲しさを感じる、それでいて、どこか透徹した頑なさを宿し、体の奥底をゆ
さぶるように響く 北の風。
雪と氷に交わり、荒涼な凍土の下に、豊かな鉱脈を育む北の嶺々を 巡り 巡りて吹く風の中に、山凍は立ち尽くした。
・・・どのくらい そうして立ちつくしていたのか。ふと孔明が身じろぎし、山凍は我に帰った。 どうした? と言いかけて、山凍は 遠くからこちらに向かって空を飛んでくる人影を認めた。
あたたかい風が どっ、と押し寄せてきた。
ひづめを地に打ちつけ、鼻を鳴らす孔明が何となく嬉しそうだ。
「よーお」
自らの興す風に、すこし長めの黒い髪を躍らせながら、少年は屈託のない笑みを山凍に向けた。
草木が繁茂する、暖かな東の国を象徴するかのような、緑の香りのする風だった。
やわらかく、あたたかな風を纏い、東国の第三王子は山凍の傍らに降りたった。