天主塔の頭の痛い一日(9)
にこにこ笑って礼を言いながら厨房へバスケットを返してきた南の太子が戻ってきた。
日はまだ高く、落ち合う約束をした夕刻までまだまだ間がある。
さて夕刻までどう時間をつぶしたものかと桂花は悩んだ。
「約束の夕刻まで、まだ随分と時間がありますが 守天殿、これからどうなさいますか?」
南の太子の姿の守天はちょっと考え込んだ。
「う〜ん、ずっと前から行ってみたかった所があるんだけど・・・・」
嫌な予感がしたが、とりあえず桂花は聞く。
「それはどんな所でしょうか?」
「・・・魔風窟探検に行ってみたいんだけど・・・・・ダメ?」
「・・・・・」
一瞬、桂花は守天が何を言ったのかわからなかった。
・・・魔風窟探検?
「ダメですっ!」
一瞬後、言葉の意味を理解した桂花が、南の太子(外見)に対する天敵意識も何もかも忘れて怒鳴った。
「ダメと言う以前に無茶です! 無謀です! 吾では万が一の時に、守天殿を護りきれません!」
「大丈夫だよ。何しろアシュレイの体だし。ほら、こんなに身軽なんだよ」
そう言って、桂花の周りをぴょん、と跳んで見せる。
「おそろしい事をおっしゃらないでください!守天殿の反射神経では無理です! ・・・御覧なさい!」
振り向き様、桂花はいきなり南の太子の顔面に平手を振り下ろした。
もちろん叩く気などない。ぎりぎりのところで止めるつもりだった。しかしそれよりも先に南の太子の姿が眼前から消え失せていたのである。目標を失って桂花の手は空を切った。
「?!」
はるか高みに南の太子の姿があった。桂花が行動に出た瞬間に、跳躍して空に逃れていたのだ。
空中でくるりと一回転。跳んだ本人も一瞬何が起きたのか判らないと言うような顔をしている。
「・・・すごい! さすがアシュレイの体だね、気がついたときには跳んでた。でも桂花、これなら絶対に大丈夫だと思わないかい?」
状況を判断したのか、ぽかんとしていた顔をぱっと笑わせ、空から降り立ちながら守天が嬉しそうに言う。しかし着地した瞬間、彼はバランスを崩してころんと転げたのである。
「あれ・・・?」
両足を投げ出し、尻餅をついた格好で南の太子がきょとんと首を傾げる。何で転んでしまったのか判らないと言う顔だ。
「やはり・・・。アシュレイ殿の肉体の反射神経と、守天殿の反射神経がうまくかみあわさっていないようですね。とっさの時には防衛反応として肉体の方が先に動きますが、守天殿がそれを行動として知覚した瞬間、ギャップが生じて次の行動につながらなくなるようです。」
「・・・それってつまり、私がトロいって事なのかな?」
桂花は即答を避けて、手を差し出した。
「人には向き不向きがあると言うことです。本能の南の太子殿(←おいおい)、理性の守天殿。あなた方はそれでバランスがとれていました。そのバランスがひっくり返ってしまっているのだから、ギャップが生じるのは当たり前のことです。・・・とりあえず、そんな状態では、魔風窟どころか、天守塔の外に出るのも危険です。あきらめてください。・・・しかし、よりにもよって、『魔風窟探検』などと言う言葉を、守天殿、あなたともあろう方がおっしゃるとは思いませんでした・・・」
桂花の手につかまって立ち上がりながら、南の太子の姿の守天は、悲しそうに笑った。
「・・・だって、憧れだったんだよ。文殊塾にいたとき、柢王とアシュレイが魔風窟探検によく行ってて、そこであったいろんなことを嬉しそうに話してくれてたから。あの二人といるときは、けっこう無茶もしていたような気がするけど、魔風窟だけは、二人して何があってもダメだって、絶対連れて行けないって、言われてたから。よけいに」
ダメだと言われれば、よけいに行きたくなるのが子供というものだ。
・・・でも自分は『守護主天』だから。
少しでも危険な所に近づいてはいけないから。
そして万が一のことがあったら、アシュレイや柢王といる事を禁じられてしまう。・・・それが何よりも怖かったから。
だからダメだと言われれば、「うん」といって、二人を見送った。
そして一人で待った。傷だらけになって、それでも瞳をきらきらさせて、笑いながら帰ってくる二人をこちらも笑って出迎えるために。
・・・でも本当は自分だってアシュレイたちと魔風窟や、下町探検に行きたかったのだ・・・。
「・・・でも、やっぱり、ダメだよね・・・。そうだね、桂花にも迷惑かけられないし、天主塔のどこか一室で大人しくしていたほうがいいよね・・・」
しゅぅん、とうなだれてしまった南の太子の姿の守天。小さな子供のようだ、と思い、そして突然桂花は、今の今まで別人のように思えていた守天の行動の意味を理解した。
(・・・ああ、そうか・・・・。)
別人ではない。子供なのだ。
遊ぶことの出来なかった子供。
思い切り遊ぶことが出来なかったまま、大人になってしまった子供。
思い切り甘えることが出来なかったまま、大人になってしまった子供。
なぜなら、
彼は彼である以前に『守護主天』だったから。
子供である以前に『守護主天』であったから。
一人の『ティアランディア』である以前に『守護主天』であったから。
人は、彼を見る前に『守護主天』である彼を見た。
・・・・・生まれる以前から定まっていたキマリゴト・・・
「・・・・・」
『自分』である以前に、別の確固たる存在として確立していなければならないというのは、どんな
気分なのだろう。
けれど桂花も、この天界では、『桂花』である前に『魔族』として見られている。
『魔族』という言葉で一旦認識されてしまえば、『魔族』はいつまでも天界人の敵である『魔族』だ。
もう桂花個人の個性すらも認められない。なぜなら桂花を『個人』として見るよりも、『魔族』という言葉で一くくりにして認識するほうが楽だからだ。
「・・・・・」
(・・・けれど、他人がどう思うと、どう見ようと、吾が『吾』以外のものであった瞬間などなかった。
吾はいつだって『吾』だ。そして、これからもずっと。)
他人の認識に振り回されれば、いつか己をなくす。
他人がどう思うと、自分は自分であるのだと。
常にそう思っていなければいけない。
それはよくわかっているけれど。
けれど、何かとてもさみしい。
(守天殿はずっとこんな想いを抱えてらしたんだろうか)
何ものでもない、素のままの自分を見てほしいと願うのは『人』として当然のことかもしれない。
守護主天という孤高の聖人へ、信仰のように捧げられる祈りや敬愛のみで心の安寧を満たすには、彼はあまりにも人間的過ぎるのだ。
・・・思えば彼の周りを固めるあの二人のなんと大胆な事か。彼を『ティア』と呼び、彼に触れ、同じ視点の高さで語る。
・・・けれどそれはきっとティアランディア彼自身が切実に望んだ事なのだろう。
「桂花?」
守天が桂花の名を呼ぶ。
・・・稀有なお人だと思っていた。
天界人の要であるこの人が、魔族である自分をあっさりと『名』で呼ぶ。
のみならず、重要な機密を扱う執務を手伝わせたりなんかしている。
柢王への義理や、自分に対する慈悲だとずっと思っていたけれど。
「・・・こんな事を思うのは不敬なのかもしれませんが、貴方と吾は、どこか通じるものがあるのかもしれませんね・・・」
「え? 桂花? なんて言ったの、聞こえなかった」
独り言です、と桂花は首を振った。そして南の太子の姿をした守天に向き直ると、少しだけ笑って見せた。
「魔風窟や、天主塔の外に行かれるのは断固として反対いたしますが、天主塔の領地内でしたら反対いたしません。守天殿のお好きなようになさってください。・・・天主塔探検でしたら、吾も喜んでお供させていただきますが?」
「いいの?!」
南の太子の顔がぱっと嬉しそうに輝いた。まるっきり子供だ。
「ええと、ええとね、じゃあ、まずはクリスタルロードの絵を見よう。新しいのが入ったと聞いているんだけど、見に行く機会が全然なくてね。それからその次は・・・ええと、時間が惜しいし歩きながら考えよう。桂花、早く早く」
にこっと笑いながら差し出された手に思わずひるむ。
「・・・あ、そっか」
南の太子はちょっと困ったように笑った。どうも浮かれすぎてるみたいだねといって、小さな子供が大人の気を引くために衣服を引っ張って見せるようなかんじで、手をつなぐ代わりに桂花の袖口をちょんとつまんだ。
「これならいい?」
ついに桂花は吹き出した。
「・・・守天殿」
「なに?」
「子供のようですね」
「子供だよ。何てったってまだ十代だからね。さ、早く行こうよ」
うきうきと歩く南の太子に袖口を引っ張られながら、ちょっと困ったように笑う桂花が後に続く。