不思議の国のナイトアウト(前編)
ある暑い暑い土曜日の昼下がり。
忍は新宿御苑の中にある1本の木の下にいました。
ここは忍のお気に入りの場所で、天気が良ければ、この木の下に来て読書をしているのです。
今日も本当はそのつもりで来ていましたが、なんとなくページが進みません。
木陰にいるお陰で、忍はそれほど暑さをかんじませんでしたが、まだ梅雨も明けていないというのに、太陽は真夏のようにジリジリと地面を照りつけています。
余りに良すぎる天気とそよそよと吹く心地良い風にだんだんと目蓋が重くなってきました。
もう少しで眠りに落ちそうな忍の目の前をヘンなものが通り過ぎていきます。
くっつきそうだった目蓋を開いてよ〜く見てみると二葉ではありませんか。
でもいつもと明らかに違うところがその二葉にはありました。
二葉のキラキラと輝く金色の髪から見えているのはまっすぐに伸びた白いウサギの耳だったのです。
「大変だ、遅刻だーーーーっっ!!!」
叫びながら二葉は地面にぽっかりと空いた穴に向かって走って行きます。
忍は何が大変なのか知りたくて二葉に声をかけました。
「ねぇ、二葉、なにがそんなに大変なの?」
「一樹からの呼び出しに遅れそうなんだよ、大変だっっ」
それだけを短く言うと、二葉はウサギの穴へと飛び込んでいきました。
ひとり残された忍は、二葉のことがなんだかとっても気になって後を追いかけることにしたのです。
「えいっ」
ウサギの穴に飛び込んだ忍の体はひゅ〜〜〜〜〜〜っと下へ下へと落ちていきます。
どこまで行っても底につく気配はありません。
「どこまで行くのかなぁ」
忍は少し後悔しはじめました。
とりあえずウサギの穴に飛び込んだはいいけれど、本当に二葉の後を追いかけられるのか、とても不安になってきたのです。
けれど落ちていく体をとめることはできないし、このウサギの穴を昇って地上に出ることも不可能です。
とりあえず、底まで行くしかありませんでした。
どのくらい落下を続けていたのでしょう。それすらもわからなくなったときにやっと忍の体は敷き詰められた藁の上に落ちたのです。
「ここ、どこだろう…」
辺りを見回すとすいっと二葉の後ろ姿が廊下の向こうに見えました。
慌てて忍は二葉を追いかけました。
長い長い廊下を二葉は時計を見ながら走っていきます。
「やべぇっ!!! もうこんな時間じゃねーかよっ」
「待ってっ!!」
忍は二葉を呼び止めますが、その声は聞こえていなかったらしく、二葉はどんどん先へと走っていってしまいます。
今度こそ見失わないように、と忍は一生懸命走りました。
「二葉っ! 待ってってば!!!」
忍は走りながら叫びますが、二葉は立ち止まってくれる気配もありません。
いつもなら、二葉が忍を呼んで立ち止まらないことがあってもその反対のことはなかったのです。
忍はだんだんと悲しくなってきました。
「二葉……。俺の声、聞こえてないのかな……」
もう後ろ姿すら見えなくなった二葉に忍は込み上げてくる涙を堪えることができませんでした。
立ちすくんだまま泣いていると背後から聞き覚えのある優しい声が忍を呼びました。
「忍?」
振り返ってみると、ハートの王子様仕様の一樹さん(マント着用)が香港系トランプの兵隊を引き連れて立っていました。
「一樹さん……」
「…泣いてたんだね。一体、どうしたの?」
一樹さんは忍にゆっくりと近づき、そっと涙を拭ってくれました。
忍はとうとう堪えきれなくなって一樹さんの胸に顔を埋めて泣いてしまいました。
「二葉とケンカでもしたの?」
「…ちがっ…、俺の…声が……っ」
涙に邪魔されて、忍の声はなかなか言葉になりません。
「声?」
一樹さんは焦らずにゆっくりと聞いてくれています。
「…二葉…、俺の…声が、聞こえて…ないみたいで…っ、止まってくれなかっ…っ」
追いかけたのに、と忍はしゃくりあげながら言いました。
よしよし、と一樹さんは忍の体を抱き寄せ、背中をゆっくりさすってくれました。
「あぁ、そんなに泣かないで。…お茶でも飲んだら、少し気持ちが落ち着くかもしれない」
一樹さんは後ろに引き連れていた香港系トランプの兵隊に向かって一言「お茶の用意を」というと忍を連れて歩いて行ってしまいました。