灰皿(続・SWEET ANNIVERSARRY)
来客を告げるベルが鳴った事に少し驚きながら、絹一はノートパソコンのキーボードを打つ手を止めた。
反射的に見たリビングの壁の時計は、夜の9時になろうとしている。
それに、今日は新しい週の始まりだ。
月曜日のこんな時間に自宅にいる自分も珍しいが、こんな風に、平日の夜に訪ねてくる客はもっと珍しかった。
「・・・珍しいな」
小さく呟きながら、絨毯に手をつき立ち上がると、絹一は玄関へと急いだ。
休日ならともかく・・・と最近の自分達の事を思いながら。
チェーンを外し、鍵を開ける。どちら様ですか? とは訪ねない。
何故なら・・・・・
ガチャリ、と開けてやったドアを掴んだのは、見覚えのある大きな手。
悪戯っぽく顔を覗かせたのは、何度見てもため息をついてしまいそうなほどの、いい男。
「相変わらずだな、お前」
少し呆れたような第一声にすいません、と小さく笑いながら、絹一は鷲尾を出迎えた。
リビングに鷲尾を促しながら、心の中でこっそりいいわけをする。
こんな風に訪ねてくるのは、あなたしかいないから・・・と。
こんな風に自分の部屋に迎え入れるのは、あなただけだから・・・と。
「仕事してたのか?」
ソファの前の絨毯に胡座をかいて座った鷲尾が、目の前のテーブルの上に広げられたノートパソコンとファイルを見て絹一に訪ねた。
「ええ。明日、会社が休みなんです」
「創立記念、とか?」
「まぁ、そんなところです」
「だから、仕事を持ち帰ってきたのか」
「・・・だって」
ギルは休日出勤を認めてくれなかったんです・・・と小さく呟いた絹一に、また同じセリフが投げられる。
「相変わらずだな」
今度は、優しい声で。いつもより、甘い声で・・・
自分でさえ時々寂しく感じてしまうリビングが、穏やかな空気に包まれたような錯覚を絹一は起こした。
つい最近、この部屋で感じるようになった、嬉しい感覚。
それを素直に表情に浮かべて見せながら、絹一は鷲尾の隣にぺたりと座りこんだ。
さっさと打ちこんだデータを保存してからバックアップをとると、絹一はパソコンの電源をオフにしてから、ファイルも閉じてしまう。・・・いいのか? と隣の男に、目顔で問われてしまう前に。
それを声には出さずに小さく笑うと、鷲尾は絹一に小さなクラフトの袋を差し出した。
見覚えのある、少し厚めの、茶色いクラフトの袋。
いつか、一緒に横浜へ出かけた時、元町の輸入雑貨を扱う店で、紅茶とチョコレートを包んでもらった・・・
「そろそろ、終る頃だろう? 昨日、実家に戻ってな。ついでに買ってきた」
俺の分もな、と最後に付け加えて、済まなそうな顔をした絹一の口を素早く閉じさせてしまう。
そうでもしなければ、彼は自分に謝ってくるだろうから。・・・ああ・・・でも。
でも、最近は少し違うかな、と鷲尾は思いなおした。
渡されたクラフトの袋を、絹一は膝の上でそっと両手で包んだ。
「・・・ありがとうございます。・・・嬉しいです」
ほら、こんな風に。
以前だったら、それでもすいませんと言ってきただろう彼は今、微笑んでいるから。
少しくすぐったいような気分になって、鷲尾はらしくなく絹一から視線を外すと、胸ポケットから煙草を取り出した。
いつものように、抜き出した煙草の吸い口をボックスでトントンと叩いて口に咥えようとしたところで、この部屋には灰皿がない事に気づいた。
しまった・・・と鷲尾は苦笑した。自分も、素直にならないとな・・・と。
無言で煙草をボックスにしまった鷲尾に、絹一が小さく言った。
「俺、取ってきます」
多分、灰皿に代るものだろう。
ソファに手をついて立ち上がろうとした絹一の手首を、大きな手がふいに掴んだ。
「いい」
「え?」
「いらないさ」
「でも・・・」
口寂しいんでしょう? と少し悪戯っぽく言った絹一の頬を、手首から離れた鷲尾の掌がそっと包み込む。自分を煽ってくれた彼の唇の上を、硬い親指の腹でゆっくりとなぞってやる。
責任とれよ・・・と少し揶揄するように笑いながら。
けれど、こんなときの対処法も、絹一はいつのまにやら習得していた。
「・・・俺は、煙草代りですか?」
わざと拗ねてみせながら、絹一が切れ長の目を細める。触れたままの親指を、唇でそっと押し返す。
あなたから・・・と。
今夜はいつものペースが掴めない・・・と素直に降参した鷲尾は苦笑しながら、絹一の頭の後に手を滑らせ、自分の方に引き寄せた。
それでも、唇が触れ合う瞬間、負け惜しみのようにさりげなくやり返す。
「こっちは、随分と甘いがな・・・」
久しぶりに聞く気障なセリフと、久しぶりに味わう、少し煙草の匂いのする唇。
目を閉じて堪能しながら、絹一はまたこっそり思った。
もう少し、内緒にしておこう。もう少しだけ。・・・・・灰皿を買ってある事は。
こんな風に、あなたと過ごせるなら、嬉しいから。
こんな些細な事が、自分にはとても幸せに感じるから・・・。