Writer 続・灰皿
「ミルク、入れますよね」
「ああ。自分でやるからいいぞ」
「はい」
キッチンで紅茶をいれていた絹一は、鷲尾の返事を聞くと、お盆の上にポット・カバーをした二人用のティーポットと二人分のカップ、それから暖めたミルクの入った大きめのミルク・ピッチャーを乗せて、リビングに静かに戻ってきた。テーブルの上にそれをそっと置き、自分も先ほどまでいた場所に座り込む。
「新しい紅茶の缶を開ける時って、なんだか嬉しくないですか?」
「そうだな。新鮮な香りが漂ってきた時なんか、特にそうかもな」
ええ、と返事をした後、絹一は嬉しそうに微笑んだ。
チョコレートの箱の英文を読んでいた鷲尾は、顔を上げてその笑顔をじっと見詰める。
「なんだ、そんなに新しい紅茶が嬉しいのか?」
「当たってますけど、当たっていません」
「なんだそれ」
おかしな奴だな、と笑いながら鷲尾はチョコレートの箱を目の前のテーブルの上に置いた。
「お前も紅茶のいれかたはすいぶん上達したよな」
「ええ。先生が優秀ですし。それに・・・」
「それに?」
「刃物は使いませんからね」
意外なオチのついた事に、鷲尾は小さく吹き出した。それはそうだ、と楽しそうに笑う。
隣で笑い続けている鷲尾を、切れ長の目を細めて眩しそうに見詰めながら、絹一はポットカバーを外して紅茶をカップに注ぎ始めた。
少し濃い目のイングリッシュ・ブレックファースト。そこに好きなだけあたたかいミルクを入れて飲むのだ。
これは鷲尾が最初に自分に教えてくれた、大切な飲み方。彼が自分の部屋に来た時は、だいたいこのやり方でいれた紅茶を出す。
どうぞ、と言って出されたカップの中にミルクを入れてかき混ぜると、鷲尾はゆっくりと飲み始めた。
「美味いな」
「美味しいですね」
「自我自賛か?」
「あなたこそ」
半分は茶葉のおかげだと思っているんでしょう、と口調は可愛くないが、相変わらず絹一は微笑んでいる。
だから憎めない。鷲尾も苦笑するしかない。
「なんだか今夜は手強いな」
「そうですか?」
「ああ」
久しぶりに会ったから、気のせいじゃないですか? と絹一はさらりとかわす。
そんな彼を今度は鷲尾の方が眩しそうに見詰めた。
熱いカップを両手で持って口に運ぶ絹一の長い髪を、鷲尾は伸ばした指先で彼の耳にそっとかけてやった。口元にかかりそうだったのと・・・彼の顔が見えなくなってしまいそうだったから。
「すいません」
「いや」
すいませんとは、半分はありがとうで半分はすいませんなんだな、と鷲尾はおかしな事を考えた。
それから、これはさっきの絹一のセリフの意味に近いのかもな、とも思った。
当たっているが、当たっていない、と楽しそうに自分に言った彼。珍しい、絹一からの謎かけ。
「なんです?」
「なんでもない」
少し意味ありげに笑った鷲尾に、絹一も微笑み返す。
「おかしな人ですね」
(・・・やっぱり手強いな)
鷲尾は手の中のライターを弄びながら、心の中で苦笑した。
「・・・見せてもらえませんか」
「これか?」
「ええ」
ライターを目線で指してきたのを知ると、鷲尾は彼の手の上にそれを乗せてやった。
すいません、と言ってライターを手の中でゆっくりと確かめる。
(この“すいません”もそうだな)
そう思って、また笑う。
絹一との言葉のやりとりは、今夜限りの楽しいゲームのようで。
鷲尾は隣の絹一の手にあるライターを何とはなしに見ていた。沈黙は照れ臭いが、息苦しくはない。
でも、彼の顔をじっと見詰めていると、今度は反対にじっと見詰め返されてしまいそうな気がするから。
絹一の手の中で弄ばれているライターを見詰める。かなり使い込まれた、銀ムクの正方形のライター。
「このブランドの物って、普通長方形ですよね」
「ああ、そうだな。それはずいぶん古いものなんだ」
「そのようですね。だいぶ使い込まれてる感じがするし」
「・・・親父が遺したものなんだ」
少し声を落して呟いた鷲尾に、絹一がゆっくりと顔を上げる。そのまま、鷲尾の顔をじっと見詰める。
微苦笑を浮かべながら自分を見詰め返してきた鷲尾に、絹一はこれ以上ないほど優しく微笑んだ。
微笑むだけで、何も言わない。けれど、鷲尾にはそれだけで十分だった。
絹一は自分の手の中にあるライターを見ると、ふいに鷲尾の手を取った。そっと彼の手にライターを乗せる。その大きな掌にあるライターは、自分の掌にあった時よりも小さく見える。
(やっぱりここが一番)
絹一は心の中でそう結論付けた。
そして鷲尾の手をライターを握り込むように両手で閉じさせると、そこに唇を押し付けた。
それを盗みにくる、熱い唇。
当たっているのは、紅茶が嬉しいという事。当たっていないのは、紅茶だけが嬉しいという事。
紅茶よりも貴方が来てくれた事の方が何倍も嬉しい。何十倍も嬉しい。言葉に出来ないほど・・・
本当はこのライターが欲しかった。一目でクライアントからの贈り物ではないとわかる銀のライター。
でも、このライターが在るべき場所は自分の手じゃない。この・・・大きくて熱い、優しい掌の中。
だからせめてこのライターは自分の部屋の中で使って欲しい。彼と自分の部屋の中でだけ。
そうしたら・・・やっぱり。
「・・・灰皿、取ってきます」
唇が離れた後、絹一は優しく囁いた。