天主塔の頭の痛い一日(2)
ようやく暁の白い光が差し込んできた早朝の天主塔の回廊を急ぎ足で歩いて行く二つの姿があった。
早朝ともあって他に人通りはない。警備の兵士ですらちょうど交代時間であるのか、姿が見えない。
「朝一番にいきなり呼びつけるなんてな。ティアの奴も気がきかねえな」
柢王がぼやくように言った。
「ここ最近、守天殿は寝るまもないくらいお忙しいんです。昨日だって吾を先に帰してしまわれて・・・きっとあの後もお一人で執務室にいらしたのでしょう・・・。疲れが少しでもとれるようにと吾の淹れた薬湯も少ししか飲まれなかったし・・・」
先を歩く桂花が振り向きもせずに応える。長い白い髪が曙光を浴びてさざめくように揺れる。
「お前の創る薬湯は苦すぎるんだよ。」
「・・・それにここ最近よく眠れないとおっしゃっておられたから、よく眠れるように薬をお渡ししましたけれど、この時間帯に呼ばれたということは、昨夜は一睡もなさらなかったということかもしれません」
「ああ、昨日お前が飲んで寝たって言うやつだな」
「・・・ここ最近、吾も、あまり眠れなかったものですから」
「体調管理万全のおまえが珍しいな。何かあったのか?」
「・・・・・・」
殴りかかりたい衝動をこらえて桂花は拳を握り締めた。
与えられていた天主塔の一室の寝台で目覚めたら、隣に腕枕で笑っている柢王がいた。一瞬何が起こっているのか判らなくてぽかんとしている桂花に笑いながらキスの雨を降らせてまた笑う。
人界の警護からいきなり帰って来ていた柢王に寝顔を見物されていたらしい、と思いあたったのは数秒後だ。
・・・どうしていつもこの人はこうなのだ。帰ってくるというのなら一言連絡をくれてもよさそうなものを。・・・判っていたのなら一晩中だって自分は待っていたというのに。
「・・・・・・」
愛しいと思う気持ちと
身勝手さを呪う思いと
傍にいられる嬉しさと
そしてまた
見送ることの哀しさと
あえなくなる寂しさと
そして寝顔を見られていたという気恥ずかしさや、自分の寂しさなどわかってもくれない怒りなど、さまざまな思いが混ざり合ってしまって、今、桂花は柢王にどんな顔を見せていいのかわからない。
「朝から晩まで書類とにらめっこの仕事です。体は疲れきっていても頭だけは変に冴えきって眠れない。・・・あなたはそういことはないのですか?」
「ないな」
「・・・そうでしょうとも」
後ろを歩いていた柢王が横に並ぶと、ひょいと桂花の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑って聞いてくる。
「・・・で? ホントのとこはどうなんだ?」
瞬間、振り向きざま柢王の顔面目がけて桂花の拳がとんだ。
「・・・っと」
その拳をやすやすと手のひらで受け止め、そのまま後ろに受け流す。体勢を崩した桂花を抱きとめ、そのまま腕の中に閉じ込める。
「・・・嫌だっ! 離してください」
暴れても、肩口を殴りつけても、体を抱く腕の力は弱まらない。それどころかますます力が込められてくる。
「ごめん。ごめんな」
「・・・っ! あなたはいつだってそうだ! 何もかも判っているくせに吾を試そうとする! ・・・あなたは吾になにを望んでいるんだ! 吾はあなたのものだと言わせるあなたはこれ以上吾になにを望もうとしているんですか!」
肩口を両手で殴りつけて自分よりも高くなった瞳を睨み上げる。
一瞬の交錯。
・・・はじかれたように瞳をそらしたのは桂花だった。
首をうなだれ、両腕が力を失ったかのように肩口から滑り落ちた。
「・・・すみません。こんなこと、言うつもりじゃなかった。忘れてください・・・・」
どうして自分はいつもこうなのだろう。柢王を目の前にすれば平静ではいられなくなる。
「・・・時々、あなたがわからなくなる。・・・判らない自分に苛立つ・・・・・・そしてこんな苛立ちをあなたに見せてしまう自分に、さらに苛立つ・・・」
顔をそらし、うなだれた桂花の瞳から涙が零れ落ちる。
「・・・こんな自分など見せたくない。見せたくないと思っているのに・・・」
恋人に見せる自分はいつも柢王が綺麗だと言ってくれる自分でありたいのに・・・
「・・・桂花・・・」
回廊の向こう側から、交代した兵士達だろう談笑する声と足音が近づいてきた。
桂花の体がびくっとふるえた。
「離してください・・・・人が来ます」
顔をそらしたまま、桂花は柢王の肩口を押した。
天守塔の回廊で抱き合っているところなどを目撃されれば、柢王の威信に傷がつく。
しかし体を抱く力は緩まなかった。
不審に思って振り向いた瞬間、頤を持ち上げられ、唇に熱いものがおとされた。
「・・・・・・っ!」
至近距離に柢王の瞳があった。
涙の止まらない瞳でおもいきり睨みつける。
そんなに簡単に許してなどやるものか。
「・・・・ぃや・・・だ・・・っ」
重なったまま、なおも抗いの言葉を紡ごうとする唇を柢王は強引にとらえ、深く深く重ねる。
・・・足音と声はすぐそこまで近づいていた。
「・・・っ」
身を震わせ、ついに桂花は瞳を閉じた。
・・・足音は回廊には近づかず、別の通路に入ったのか、次第に遠ざかっていった。
・・・自分がいつの間に解放されていたのかはわからない。気がつけば桂花は回廊の床にへたり込んでいた。まだ体が震えている。足に力が入らない。
すぐ傍にはしゃがみこんで自分を覗き込んでいる柢王がいる。
「大丈夫か?」
桂花の髪を指に絡めながらのんきにそう聞かれ、いったい誰のせいだと言い返そうにも声が震えてうまく出ない。しかたないので睨んでやろうとしたが、それがあまりにも馬鹿馬鹿しい事に思われて
桂花は深々とため息をついた。
体の力が抜けると同時に感覚が戻ってきた。鳥の声や、木々の葉ずれの音、早朝の天主塔で忙しく立ち働く人々の声や足音。・・・木々の香りが立ち込める朝の冷気が体に心地よかった。
いつもの日常、いつもの光景のはずであるのに、桂花は、そのことに目もくれずに日々をすごしていた事に気付いた。
・・・こんな日常に気付けない程、自分は気を張っていたのだろうか。
桂花はゆっくりと柢王を見た。
・・・この人に会えないさみしさのせいで?
戸惑うような表情を浮かべた桂花に、柢王が指に髪を絡めたまま、笑って聞いてくる。
「・・・ただいまって言ってもいいか?」
「・・・・・・」
・・・この人は。本当にこの人は・・・
「・・・おかえり、なさい・・・」
何もかもお見通しなのだ。
にこっと子供のように笑った柢王の肩口に、降参の証として桂花は泣き笑いのような表情で額をおとした。
「くやしい・・・」
くちづけ一つであっさりと懐柔されてしまう自分が。
「・・・あなたには、何一つかなわない・・・」
「遅いっ! てめえらなにしてやがったんだ!」
執務室の扉を開けた途端、凶暴な表情の守天に大声で怒鳴られ、二人は面食らったように戸口で立ち止まった。
「おはよう。二人ともこんな時間に呼び立ててすまない。ちょっと緊急で桂花に相談したい問題がおこってしまってね」
にこやかな表情の南の太子に歩み寄られ、思わず桂花は後ずさる。柢王が桂花を背後にかばうように進み出て剣呑な視線を投げかける。
「・・・おい。ティア、それからアシュレイ。二人して朝っぱらから何の冗談だ?」
「冗談なんかじゃねえ!」
と怒鳴る守護主天。
「これは冗談ではないんだよ」
と南の太子。
『・・・・・?』
柢王と桂花は顔を見合わせた。
天界人は姿かたちを変化の術で変える事ができる。しかし見るものが見れば、術がかかっているかどうかはわかるのだ。柢王が見る限りでは、二人が変化の術をかけているようには見えなかった。
柢王は、長年培ってきた幼なじみ達に対する違和感を肌で感じ取っていた。
桂花は、期間としては短いが恩人に対する違和感と、天敵(←そこまでいうか?)に対する違和感をなんとなくだが感じていた。
というより、優雅な笑みを浮かべ、友好的な態度で桂花に近づく南の太子など、二人の間柄を知る人々にとっても前代未聞・驚天動地の出来事だ。冗談でも絶対やるまい。
冗談ではないとすると、これは・・・
「・・・お二人に質問です。3代前の守護主天の統治17年目、人界を巻き込んだ一つの事件が起こりました。それは何という事件でしょう?」
桂花が、二人にむかって質問を投げかける。
「そんなもん俺が知るかっ!」
と守護主天。
「ああ、『西王母の桃事件』のことだね。よく知ってるね桂花。蔵書室で調べたの?」
とにこやかに南の太子が答えた。
『・・・・・』
柢王と桂花は再び顔を見合わせた。
・・・確定。
桂花は、目の前の少し困ったような笑みを浮かべて自分を見上げている南の太子を見下ろし、恐る恐る尋ねる。
「・・・・・守・・天殿?」
「うん・・・・」
「・・・・ということはお前がアシュレイか・・・」
「・・・おう」
柢王の確認に近い問いに、少々ふてくされたように腕を組んだ守天が返事を返す。
執務室に沈黙が落ちた。
柢王が深々とため息をつきながら天井を仰いだ。
「・・・何をやってんだよ。・・・お前らは・・・」