2人だけの休日 1
「…痛っ…」
指先に鈍い痛みを感じて、絹一はノートパソコンのキーボードを叩く手を止めた。
痛みが走った指先を見ると、爪が僅かに伸びている。
会社でうち込み作業をしていると時からなんとなく違和感は感じていたのだ。
いつも気をつけていたのに。…うっかりしていた。
絹一は自分個人用のノートパソコンとして私物を使っている。
会社にも各部署によって台数こそ異なるがパソコンはある。もちろんノートタイプのものもそれほど数はないがストックされている。
でも、仕事をしょっちゅう自宅に持ちかえる身としては、やはり使いにくいのが正直な気持ちだった。
それに、絹一が使っているのはとても薄い軽いタイプのもので会社のものより持ち運びが楽なのだ。
だがその分キーボードがめり込んでいて、打つ時は普通のものより指を立てるようにして作業しなければならなかった。
だからほんの少し爪が伸びていると、今のように衝撃はダイレクトに響いてくるのである。
指先の爪を親指の腹でこすりながら、絹一は後ろを振り返った。
「鷲尾さん。俺、ちょっと自分の部屋へ行ってきます。」
その声にリビングのソファで絹一に借りた英語版の原書を読んでいた鷲尾は横文字を追っていた視線を止めて顔を上げた。
「どうした?」
「いえ。ちょっと爪やすり取ってこようと」
「爪やすり?」
「ええ。打つ時少し痛いので…」
「ああ。なら、俺持ってるぜ」
そう言うと鷲尾はソファから立ち上がって寝室に入っていった。ベッドの横のチェストから皮製のケースを取り出すと、リビングに引き返す。
「ほら」
「すいません」
目の前に差し出されたそれを、絹一は素直に受取った。
お借りします、と言って中から細長い金属製の爪やすりを取り出すと、リビングの絨毯に座りこんだ膝の上にテイッシュを広げて形の良い爪にそっと当てた。
「爪きりじゃないんだな」
もう1度読みかけた本を思いなおしたように閉じ、ソファの上に置くと、鷲尾はよりかかっていたソファから背を起こして、斜め前に座っている絹一の背中から彼の手元を覗きこんだ。
「ええ。俺、どうも爪が薄いみたいで、爪きりだとすぐ割れてしまうんです」
「ああ。それで」
「それに俺、ちょっとでも伸びてるとどうしても気になってしまうんです。こまめに短くするにはこの方が便利だし」
「深爪すると大変だしな」
「ええ」
普通に返事をしながら、いかにも絹一らしいその言葉に鷲尾は少し苦笑した。もちろん気付かれるような真似はしない。
まあたしかに女じゃあるまいし、大の男が長い爪をしているというのも変な話である。だが、見ていると、絹一は神経質なほどきっちりと白い部分を最低限しか残さないようにして削っていく。
こんなところも潔癖症だな、と内心思いながら、いつのまにかソファから降りて鷲尾は絹一を後ろから包み込むようにして顎を彼の肩に乗せている。
「…どうしたんです?」
「べつに。楽しいから」
「…鷲尾さんて、変わってますね」
「そっか?」
そうですよ、と爪をやすりで削る絹一の顔は僅かに赤い。
それに気付かない振りをしてやりながら鷲尾は絹一の邪魔をしないように彼のサラサラの髪をかきあげた。
長い髪が視界を邪魔をしないようにという配慮である。
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」
悪戯っぽく返してきた鷲尾に、どうせ今の自分の赤い顔はばれているのだろうと思いながら絹一は反対の手の爪を削りはじめた。
さきほどよりもゆっくり削りながら絹一はそっと鷲尾の広い胸に背を凭れた。それに鷲尾の口元が小さく笑う。声などもちろん出さない。
自分の胸に凭れてきた絹一の手の動きがことさら丁寧でゆっくりな訳など。ちゃんとわかっているのだ。この男は。
今日は絹一にとって約1月ぶりの休暇だった。
6月の半ばからまったく休まず、まさに強行軍のスケジュールだった。
しかも連日終電帰りという。
それなのに、この仕事中毒の男は休みにまで仕事を持ちかえってきたのである。
鷲尾が呆れたのも無理はない。
しかしお互いの仕事のことに口を出すのはとりあえず、NO,だった。…非常事態を覗いては。
「…あのな。」
それきり口を開く気にもなれず、鷲尾は脱力したように絹一を見た。
こ こは絹一が勤める大成書店のロビーである。
広い空間に配置されているソファに座って待つこと約15分。
少し、いやだいぶ不満そうな顔でやってきた絹一に対する鷲尾のこれが第一声だった。
「…今回は倒れたわけじゃありません」
「まだ、だろ。」
「……………」
無言で抗議してみるが。そんな態度が鷲尾に通じるわけがない。
「帰るぞ。」
「……はい」
受付嬢の熱い視線を完全に無視しながら、鷲尾はソファから立ち上がると大またでドアまで歩き始めた。絹一がついてくるのを確かめる気も無いようだ。
「言っとくが、これから3日間、お前は俺の部屋で寝泊まりだ。ここに来るまでに必要なものは買い込んできた。だから俺がいない隙に会社に来ようとしても無駄だ。」
ちゃんと見張ってるからな。
コルベットの前まで来た男が息を少し切らせながら追いかけてきた絹一にくるりと振り返る。
(………すごい怒ってる…)
それきりなにも言わない鷲尾を不安そうに見つめながら絹一は鷲尾が無言で開けた車のドアの奥、ナビシートに収まった。
まさかここまで来て逃げだすとでも思われてるんだろうか。自分は。
(……思われてるかも)
そっと後ろを見れば、大きなクラフトの袋が2つ。
どうやら本当に3日分の食料品やら雑誌、あげくに自分が見るつもりで借りてきたのだろう、レンタルビデオの袋までがそこに居座っていた。
「…それはなんだ?」
「はい?」
突然話し掛けられて、絹一があわてて振り向く。
「まさか、仕事持って帰ってきたわけじゃないだろうな」
静かにハンドルを操りながら、鷲尾が絹一の膝に抱えていた荷物に顎をしゃくる。
それは、いつまでも休みを取らない絹一にごうを煮やして、鷲尾に迎えに来てくれるよう、連絡してしまったギルバートに対する絹一のささやかな抵抗であった。……効果のほどはわからないが。
(……これも取り上げられるかもな…)
なにせ、自分は前科一犯である。今回ばかりは文句もいえなかった。
はあ。絹一の口からため息がひとつ漏れた。
まったく、自分は学習能力がないのだろうか。
いくら、自分が大丈夫だとおもったからといって、周りにこんなふうに扱われてしまうのでは、倒れた前回とさして変わりがない。
ギルバートにも、同僚にも迷惑をかけて。…それから。
それから……鷲尾にも心配させてしまって。
謝りたいけれど。今なにか言ったらきっと雷が落ちる。…たぶん。
そんなことを考えて絹一が我知らず身を硬くしたとき。
「……どうしてもやらなければいけない仕事ならしかたない。だが深夜にまでかかるようなやり方はだめだ。…わかったか?」
「…はい…」
思いがけない優しい声でそう言われて。
自分が頑なに張っていた意地すらあっさりと溶かしてしまうのだ。
この男は。
多くは言わないけれど、鷲尾が自分のことをとても心配してくれているのが今の自分にはわかるから。
「……心配させて…すみません」
うつむいたままの絹一には見えなかったが。
無言で絹一のほうを一瞬だけ見た男の表情は、とても優しいものだった。