清緋揺籃(8)
・・・魔界の空を覆い尽くす雷雲はなお暗く厚くわだかまり、頭上を覆い尽くす木々の影をなおいっそう黒く見せる。
「・・・・・・」
わずかに残る空き地に立ち尽くし李々は空を見上げる。
最初に創られた、世界。
最初に創られた、生命。
・・・そして、最初に捨てられた、世界と、生命・・・。
この世界は生きようとするものに苛酷な宿命を負わす。
けれど。祝福の手を離れ、見捨てられたこの世界で、・・・それでも命は続いていく。
生きることについて本能的に貪欲な魔族は、本当は人間よりも、天界人よりも、強いのかもしれない。
「李々!」
己の妖力をもって風を生み出すことに初めて成功した子供が、風に髪をなぶらせながら、振り返って李々を見て嬉しそうに笑う。
(あら・・・?)
養い児の、思いがけないほどあざやかな、微笑み。
両手を広げ、自身を風になぞらえるかのように、くるりくるりと踊るように体をひるがえす。
子供のようだ、と思い、そして実際に桂花はまだ子供なのだという事に思い当たる。
『笑う』ということを、威嚇行為に置き換え、怯えてさえ見せた子供が、今、楽しげに笑っている。
無邪気に喜ぶ子供が見せる表情。
李々もつられるようにして笑った。
のばされた手をつなぎ、李々も桂花の動きにあわせてくるりくるりと身をひるがえす。
妖力の使い方を学ぶと共に、薬草の知識を習い始めた桂花の髪から、やわらかな草の香りがする。
桂花が声を立てて笑った。
桂花の風に己が生みだした風を相乗させると、体をひるがえす勢いはそのままに、いきなり桂花の体を抱きしめて李々は大地を強く蹴った。
二人の体は螺旋を描いて、高く高く空へと浮かび上がった。
小さな悲鳴をあげて李々の首にしがみつきながらも、桂花は高みから見降ろす魔界の姿に息を呑む。
「・・・李々! もっと! ・・・もっと高く飛んで!」
養い児の願いを聞き入れ、体を抱く腕に力を込めると、李々は一気に上昇した。
樹海が見る見るうちに遠ざかる。
頭上の暗雲が李々の興す風に渦巻くように分かたれ、空の色をのぞかせる。
雲の上高く、二人は浮かび上がった。
「・・・これが、魔界・・・?」
桂花が、微かに震える声で李々に問いかける。
李々も同じように魔界を見下ろし、心の中で賛嘆の声をあげた。
楽園の面影を残す、どこまでも続く、原初の緑と、岩石の、世界。
「・・・そう。桂花はここで生まれたのよ。魔族はここから生まれ、生きてゆくの・・・」
・・・そうして、生き延びるために命をすり減らし、生きる意味を知らないまま朽ちてゆくのだ・・・
「・・・ここが、吾の、生きる世界・・・・・・?」
魔界を見下ろす桂花の瞳が、揺れた。泣き出すのではないのかと李々が感じるほど、激しく揺れた。だが、桂花はその瞳のままゆっくりと李々に向き直ると、いきなり問うた。
「・・・魔族とは違う赤い血の流れる天界人は、どんな生き方をしているの? ・・・人界の人間たちはどんな生き方をしているの?」
李々は返答につまった。
李々の首を桂花はしっかりと抱いているために、吐息の触れ合うほど近い位置にある桂花の瞳から顔をそらす事は不可能に思えた。
・・・桂花には、ほとんど魔界で生きる知識しか教えていない。
けれどこの子供は、李々から学ぶ言葉や物語、行動の端々に、魔界とは違う世界の存在を、実存するものとして理解していたのだ。
「・・・李々、吾は知りたい。魔界の事、魔族のこと。・・・吾が、魔族であるために。そして、自分が何なのかを知るためには、魔界だけでなく、吾を取り巻く世界、世界を取りまく世界の物事をもっと知りたい。・・・李々はあまり話したがらないけど、・・・知っているんでしょう? 人界や、天界のことを」
暗い魔界には存在しない、黄昏と暁の色の瞳・・・
そこに宿る、桂花本人ですら理解する事が出来ないであろう狂おしいまでの激情に李々は魅入られたように言葉を失った。
・・・これは、叛逆なのかもしれない・・・
永遠とも呼べる時をかけ、やがては淘汰され消えてゆくこの世界に、知識を持ち込むことは許されない行為であるのかもしれない。
けれど。
祈る言葉もなく
還る場所もなく
護るべきものを亡くし
命の半分を託し
力の半分を無くし
・・・それでもまだ死に場所が見つからない。死の意味もわからない。 ・・・ならば、この身が動き続ける限り生き続けたいと思う。
そう思って赴いた魔界で桂花に出会った。
楽園を遠く離れた地で生まれた子供・・・
ただ、生き延び、ただ、朽ちてゆく宿命の魔界の子供・・・
(・・・宿命などではない。そんなもの認めない)
けれど桂花は李々に出会った。
天界・人界・魔界。・・・多層に進化し、ある一点で交わる以外、互いに(一部を除いて)知られざる世界としてあり続けるその三界の知識を持つ、神に等しい女に出会ってしまった。
魔界の底で、獣のように暮らしていた子供が名前を貰い、知識を得、笑う事を学んだ。
そして今、更なる知識を望もうとしている。
(・・・宿命などではない。そんなもの認めない)
「・・・・・・」
李々は桂花の瞳をのぞき込み、そして、ゆっくりと頷いた。
「・・・桂花が、望むのなら・・・」
・・・やがて、この叡知の女が己のすべてを与えて育て上げた魔界の子供は、人界にて天界の貴人と運命的な恋におちることとなる。
・・・そして、その恋情ゆえに、望まないながらも己の持つ知識と知略、才覚のみをもって、天界・人界を震撼させる存在へと台頭してゆくのを、李々は魔王の傍らに座して見守り続ける事となる。
・・・けれど、
それは、
もう少し先の、
話になる・・・