揺籃の地を遠く離れて
「あ…」
夜の帳のおりた天界の、空高くそびえる天守塔の一室で、水差しを取り上げた桂花が小さく声をあげた。
「どした?」
「傷が…消えてる」
「傷?」
寝台に仰向けに寝ていた柢王が身を起こそうとしてはたせず、小さく唸った。
血も止まり、傷も塞がっているとはいえ、額に走る傷あとは痛々しかった。
戦雲将軍との戦いで負傷し、その傷に魔族が入り込んだため、霊力がどのように作用するか分からない以上、さしもの守天も、手光で完全に癒してやるわけにはいかず、傷口を塞いだのみで、経過を見守ることとなった。
柢王が寝かされているのは天主塔の一室。先ほど見舞いに訪れた天主塔の主が去った直後だった。
水差しを片手に寝台に近づき、桂花はあきれたように柢王の顔を覗き込む。
「柢王、昨日の今日です。起き上がれるわけがないでしょう?何でもないから、大人しく寝ててください」
「お前、傷って言っただろ。どっかが痛むのか?」
「ちがいますよ、右腕にあった古い傷が消えていたから少し驚いただけです」
「ああ…、ティアの手光は古い傷とかも治すことが出来るんだ。」
親友の負傷によほど動揺していたのだろう。桂花が負った細かな傷を治すおりに、気づかずに古傷も一緒に癒されてしまったらしい。
(・・・ここにあった傷は、李々が憑依されそうになった時の・・・)
あの時の突き傷は、傷がふさがった後も、皮膚が薄く引き攣れ、血の色を僅かに映した深い傷特有の跡を残した。
柢王が、寝台に腰をおろした桂花の右腕を引き寄せてしげしげと眺める。
「・・・ああ、あの傷あとか。…綺麗だったのにな」
「…きれい?」
それ以前に、注意してみないとわからないような傷あとを、よく知っていたな、と、そこまで考え、突然思い出した。城を飛び出したあの夜、桂花の体を、柢王の唇が触れなかった場所などなかったのだ。
「……っ」
幸いにも、柢王は腕に気をとられていたため、上気した顔を見られずにすんだ。
「傷に綺麗もなにもないでしょうが」
「そうか? 星みたいだったぞ?」
「…そんな風に思うのはあなただけです」
「いや、本当だぜ? …ここだったよな?」
更に腕を引き寄せると、柢王は紫微色の肌に唇を押し当て、強く吸った。
「柢王! 病人がなにやっているんです!」
引き抜こうにも、手首を掴んだ手はびくともしない。
「それと、ここ」
「……っ!」
「ここと、ここもだよな」
唇を押し当てられた腕に、白い鬱血の花が咲いてゆく。
「ありゃ。星っていうより、花びらみたいになっちまった。いや、まてよ、こーすればもうちょっと…」
「柢王! 人の腕で遊ばないでください」
意地ずくで引き剥がそうとした腕は、逆に体ごと引きずり寄せられ、桂花は柢王の上に倒れこんだ。離れようとする体を、さっさと両腕の中に閉じ込めて、体を密着させた柢王が首をかしげた。
「変だな、桂花の体のほうがあったかい気がする」
「血を失ったから、冷えているんですよ。自分が病人だって自覚できました? …さ、遊んでないで、早く寝てください」
「じゃ、あっためてくれ」
「柢王」
元気そうにしてはいるが、やはり、血を失ったことが堪えるのか。常人より低いはずの桂花の体温に柢王は安心したように息をついた。
そんな風にされると、桂花も邪険には出来ず、自分の重みが負担にならないようにそっと体をずらし、寄り添うようにした。
「今日だけですよ…」
そう言って掛け布を上げようとした桂花が、ふと右腕に視線をおとし、微かに表情を曇らせた。
「・・・大事な傷だったのか?」
「大事というわけでもないんですけどね・・・古い傷です。・・・ずっと昔の傷跡。・・・不思議ですね。あったときはほとんど気を向けたりしなかったのに、無くなった途端、気づくなんて・・・」
右腕を見つめる桂花の瞳に、感傷の影がよぎるのを、柢王は認めた。
こんな時、桂花は柢王の知らない顔を見せる。
桂花は柢王に出会う前の事をあまり語らない。
自分が触れることの出来ない桂花の人生。
こんな時、たまらなく不安になる。
桂花を全部この手に入れたつもりでも、それはほんの一部分だということを思い知らされる、そんな気がして。
過去から取り戻すかのように、柢王は自分の左手を桂花の右手に重ねた。
軽く指を絡めると、桂花は少し笑った。
きついまなざしが微かにやわらかくなる。
桂花の笑みはとても静かだ。それだけに目をひきつけられる。
胸の一番深いところまで、静かにしみとおってくる、そんな笑みだ。
(この桂花の笑顔を知ってるのは俺だけだよな)
今のところは、という注釈つきなのだが。
一年前、桂花をほとんど奪うようにして人界から連れてきてしまった負い目が柢王にはある。
あの時は、そうするしか桂花を生かす道はなかった。
桂花の意志は聞かなかった。・・・聞けなかった。
自由を望む魂を、天界という檻のなかで、身勝手な己の愛情という名の鎖につないでしまった。
だが、桂花はここにいる。今、自分の、一番近いところにいる。
死ぬな、といった。
一人にするな、と泣きながら言った。
あのとき、確かに桂花は自分と生きることを選んでくれたのだ。
(自惚れていいってことだよな・・・?)
重ねあった手があたたかい。絡める指に少し力を込めると、細い指があやすように応えてくる。
上体を起こし、瞳を覗き込んでくる桂花の紫瞳がやわらかに光る。
「・・・遊んでいないで。早く寝てください。・・・吾は、ここにいますから・・・」
・・・それは、確かな証の言葉のように思えた。
「ああ、・・・いてくれ」
安心したら、急に眠くなった。
「・・・桂花」
「なんですか?」
「俺は、この手を離す気はないから…」
「・・・・・・・・」
返事を返さないうちに、手をつないだまま柢王は眠ってしまった。
年相応に幼くみえる寝顔を、桂花はしばらく無言で見つめ、そっと顔を耳元に寄せた。
「信じますよ…」
囁くように返す。
不意に、涙があふれた。
眠る吐息が、規則正しい鼓動が、体温が、こんなにも、愛しい。
こんなに簡単に泣けてしまう自分が不思議だった。
「どうするつもりだ・・・こんなに吾を弱くして・・・。」
魔界にいたとき、人界にいたとき、自分はもっと強くあれたはずだった。
李々と共に魔界で暮らしていたあの頃。そして、李々との突然の別れのあと、人界の、あまりにも命の短い人間達の営みを傍らで見続けながら生きていたあの頃ならば。
・・・幸福の意味も知らず、絶望の意味も知らずに生きていたあの頃ならば。
「・・・よかった…」
血がとまらず、力を失っていく柢王を抱きしめて天主塔まで飛んだ、あの時の絶望を思えば、彼が生きて、傍にいてくれることが桂花にとってどれほど幸せであるのかなど、柢王にはわからないだろう。
・・・わからなくていいのだ。
柢王は柢王であればいい。
「あなたが、生きてて、本当によかった・・・」
生きることに倦んでいたときに柢王に出会った。
生きることに倦んではいたけれど、死を選ぶほどの情熱もなかった。
人界の底でたゆたうように生きていたそんな桂花を、柢王は強引とも呼べる力でもって、自分の位置まで引きずり上げた。
以来、柢王に振り回されっぱなしだ。
けれどそれが心地よい。
「・・・・・・」
これからどうなるのだろう
これからどうすればいいのだろう
天界人と魔族は相容れない。
憎悪に始まり、恐怖、侮蔑、嫌悪、悪意、好奇の視線にさらされ、一瞬たりとも気が休まる事がない。
体中に力を入れていないと、今にもくずおれてしまいそうだ。
「・・・ん・・・」
眠る柢王が身じろぎをして、ぬくもりを探すかのように桂花のほうに身を寄せる。
握られた手にかすかに力がこもった。
・・・それでも、握られた手はあたたかかった。
このあたたかさに、自分は確かに救われていることを桂花はおもいしらされた。
柢王を失いたくない。
失いたくなかった。
「・・・つよく・・・」
・・・強くならなければ。
この男の隣にいるために。
護られるだけの存在ではなく、この男を支えられる存在になるために。
柢王の『絶対』の存在となるために。
「・・・・・・」
柢王の額にかかる髪をやさしくかき上げ、桂花は安心しきったように眠る愛しい男の寝顔を覗き込む。
桂花は何かを囁きかけようとして、そして口をつぐんだ。
「・・・・・・?」
言いたい事がたくさんあったはずなのに、柢王の寝顔を見た途端、何を言うべきなのか判らなくなってしまった。
何かを誓おうとしていたのは判っているのだが・・・
(・・・・まあ、いいか・・・)
柢王は柢王であればいい。ならば自分は自分であればいいのだ。決意も、誓いも、口にする事はない。自分さえ判っていればいいのだ。
もう一度柢王の寝顔を覗き込み、桂花は胸の奥底からゆっくりと染み透ってくるあたたかなものに、ふと笑いたくなった。
「・・・よかった・・・」
なんなのだろう。とめどなく満ちてくるこの愛しさは。
長く生きていても知る事のなかったこの感情は。
「・・・あなたとめぐり会えて、ほんとうによかった・・・」
掛け布を肩まで引き上げてやりながら、ゆっくりと微笑んでもう一度桂花は呟いた。