誘惑 3(終)
まだ汗の引かない身体に薄手のスエットを穿いただけの姿で、鷲尾はキッチンに入った。
首にかけたタオルで汗の流れる首筋を拭きながら、冷蔵庫からビールを取り出す。
一本だけ掴んでドアを閉めようとしたところでふと思う。
(…一月以上ぶりだな)
こんな早い時間に絹一の顔を見るのは。
彼がスペインから帰国して以来、顔を見たのはベットでの寝顔だけだった。
眠る絹一の額に毎朝唇で触れていたのは彼には内緒だが。
鷲尾はビールをもう一本取り出すと、絹一の部屋へ向かった。
それにしても…<先ほどの、自分のベットにしどけなく横たわっていた絹一を思い出す。
いつもはきちんとボタンを閉めるパジャマの前をはだけさせ、電気もつけない部屋の中でぼんやりしていた。
暗闇に溶けた自分の名を呼ぶ絹一の甘い声に、正直いってドキリとした。
ベットで自分が抱いてきたどの女よりも、それは扇情的だった。
求められているのか…揺らめくような絹一の曖昧な態度に、焦らされているような気分になる。
俺も焼きが回ったかな…と思いながら、鷲尾は絹一の部屋の前に立った。
「絹一?」
ドアを2回ノックしてみる。だが返事は無い。
もう寝てしまったのだろうか。彼が部屋に逃げ込んでしまってから、そんなに時間は経っていないはずだが。
鷲尾はもう一度ノックしてみた。やはり応答は無かった。
さっきの自分の言葉にまだ怒っているのかも…
「絹一? 入るぞ」
眠ってしまったのならそれでもかまわないと思いながら、鷲尾はドアを引いた。
その途端、アルコールの匂いが鼻をついた。
「飲んでるのか?」
珍しいなと思いながら、暗い室内のベットの上に座り込んでいる絹一に近付いた。
片手に持っていたビールをサイドテーブルに置いて、自分に背を向けている絹一肩を掴んだ。そのまま自分の方に振り向かせる。
「おい、お前何飲んでるんだ?」
脚の間に絹一が抱え込んでいたボトルを取り上げてラベルを見た途端、鷲尾の顔がしかめられた。
「…なんでこんなに強いもの飲んでるんだ?」
「…だめだったら…まだ飲むんだから…」
取り上げられたバーボンを取り返そうと伸びてきた絹一の手首を掴んで鷲尾は自分の方に引き寄せた。
「こら、絹一」
「…鷲尾さんも飲みません?」
ロックグラスの中で小さくなった氷を弄びながら、絹一は鷲尾をトロンとした目で見上げた。
掴まれた腕で逆に手を握り返しながら、ベットに引っ張る。
思わず腰を降ろしてしまった鷲尾にクスクス笑いながら、絹一はサイドテーブルにグラスを置くと、隣のビールを手に取った。
そのまま、プルタブを引こうとする。
それをさっさと取り上げて、鷲尾はテーブルに戻した。
呆れた顔で絹一を見つめながら、ベッドヘッドに背を凭れさせる。
「…ったく…。何、自棄になってるんだ?」
「……ヤケになんかなってません」
「ウソ付け。お前がこんな酒の飲み方をする時は、決まってなにか不満がある時だ。」
不満という言葉を口なされて、絹一の頬が赤く染まる。
すでに酔いの回っている自分の頭にもその言葉はダイレクトに響いていて、自分が鷲尾に飢えている、とはっきり突きつけられたようだ。
たぶん…わかっている癖に。この男はこんな時ばかり意地が悪い。
『欲しい』と言えない自分に時々容赦が無いのだ。
でも…
「……もう少し飲ませてください」
「だめだ」
聞き分けの無い我侭な女を諭すように。
腕を掴んで引き寄せた絹一の髪を撫でる鷲尾の声はとても優しい。
時々、ただの子供のようになってしまう自分に、呆れもすれば怒りもするくせに…それでも最後はこんなふうに自分を包み込んでしまうのだ。
「明日、会社じゃないのか?」
「…休みです」
「だからってこんな無茶な飲み方はするな。…まあ、水シャワー浴びてないだけましだけどな」
最後の言葉はおどけてみせた鷲尾に、彼の肩に顔を伏せていた絹一の口元が小さく綻んだ。
「……また看病してくれますか?」
「普通にひいた風邪ならな」
今度はクス、と笑みが絹一の唇から零れた。
「…風邪じゃありませんけど…看病してください…」
いつのまにか自分を素直にしてしまう目の前の男を、絹一は顔を上げて見つめた。
ぞくりとするほど、妖しい瞳で。
静かに見返してくる鷲尾から視線を逸らさないまま、絹一は伸ばされていた彼の脚の上に跨った。
鷲尾の裸の胸をそっと指先でなぞりながら、顔を近付けていく。
絡めた視線はそのままに、唇を軽く触れ合わせたまま、熱い告白が始まる…
「…知ってますか? マヨルカ島ってね…とても暑いんです…」
軽く鷲尾の唇を吸いながら、彼の肌を辿るのとは反対の指先が自分のパジャマのボタンをゆっくりと外していく。
「…陽射が強すぎて…服を着てるのがうっとうしいぐらい…」
「…じゃあ…向こうではどうしてたんだ…?」
絹一の細い腰をゆっくり抱き寄せながら、鷲尾の甘い声が先を促す。
「…裸で寝たんです。…水シャワー浴びるわけにいかないから…」
だって、看病してくれる人はいないでしょう?
悪戯っぽく囁いた絹一に小さく笑い返しながら、鷲尾は絹一のパジャマのウエストを指でなぞった。
漏れてしまいそうになった声は、鷲尾の唇に飲みこまれた。
深く求めてくる舌に応えながら、肩からそっとパジャマを落した絹一の腕が鷲尾の首に回されていく…重なってくる熱い身体はきっと…自分の太陽に違いない。
近付きすぎるととても危険で、いつかは焼き尽くされてしまうかもしれないけれど。
産まれて初めて欲したものは今、自分の腕の中にあるのだ。
だから…たとえどうにかなってしまっても。きっと自分は後悔なんてしない。
マヨルカの青い海に溺れていく錯覚を起こしながら。
かすかに残る思考の中で、絹一はそう思っていた。