誘惑 2
バスタオルで髪を拭きながら、絹一はベットに腰を降ろした。
鷲尾は今夜も仕事だった。帰るか帰らないかは聞いていない。
しわの無いシーツを指先でそっと撫でながら、絹一はため息を一つついた。
自分がスペインから戻って以来、このベットの持ち主がここで眠ったのはただの一度も無かった。
それは決して珍しい事ではない。
鷲尾はホストという仕事に身を置いている。その仕事柄、こんな事は当たり前だったし、戻っても朝方がほとんどで、彼が眠っているのは絹一が会社にでている時間帯だ。
そんな事はこうなる前から十分理解していたが、さすがに一月以上まともに顔も合わさなければ話しも出来ないこの状況は寂しかった。
いや、こうなってしまったから次はこれが欲しい、と我ががまな子供のように自分はただの欲張りになってしまったのだろうか…それはなにがきっかけだったのか、今となってはもうわからない。
それとなく一緒に過ごせるように、お互いを誘いあって食事したりお酒を飲んだりということは、けっして少ないほうではなかった。
鷲尾の英会話の勉強のこともあったし、自分が好きで集めている原書を鷲尾が読みたがる、ということもあったし。…最近では自分も映画が好きになってきていて…そうやって2人で過ごすのはたいてい鷲尾の部屋で、それを不思議と思ったことはなかった。
それが過ごすだけでなく、いつのまにか一緒に暮らすことになっていた。
今年の5月から、鷲尾の部屋で。
自分の借りている部屋の契約切れまであと、半年以上残っていたが、それを別に惜しいと自分は思わなかった。
まだ新しい冷蔵庫やソファも丁度引っ越すと言っていた知り合いの譲ってしまい、絹一はベットと簡単な荷物だけで鷲尾の部屋に移った。
鷲尾の部屋は2LDKだったので、物置代わりに使っていた彼の寝室の隣の部屋を絹一はもらい、そこで新生活をスタートさせた。
どうしても部屋代を入れるときかなかった自分に鷲尾は少し苦笑したが、今まで自分が住んでいた部屋の半分を入れるということで、なんとか折り合いをつけてくれた。
光熱費や食費は、1ヶ月交代で支払うことになった。
いちいち計算するのが面倒だと鷲尾が言ったので。
まだ一緒に暮らし始めて2ヶ月だったが、ケンカやいざこざなどはなかった。
6月の半ばから絹一がスペインに出張に出てしまったせいで、ケンカに至るような会話さえ持てなかったといったほうが正しいかもしれないが。
それでも、日本を発つ2日前の晩は鷲尾も珍しく仕事を入れておらず、絹一は久しぶりに彼とゆっくり過ごした。
相変わらず舌になじむ鷲尾の絶妙な料理と上等な赤ワインを堪能し、酔ってしまった自分を、鷲尾は自分のベットで抱きしめた。
肌を重ねるのは久しぶりで、その熱い身体も手掌も、こんなにも自分を安心させるのだと、愛しさにも似た感情に揺さぶられ、訳のわからぬ切なさに貫かれた。
次の日は、出発の準備で一日休みだと食事中に鷲尾は知ったせいか。
それとも、しばらく会えないことを寂しいと思ってくれたのか。
その夜は、情熱を叩きつけるような鷲尾の激しさに何度も意識が遠くなりかけて…そのたびに引き戻され、途切れることなく攻め抜かれた。
もう壊れてしまう…と自分が懇願した、朝方まで。
次の日、昼近くになってやっと目を覚ました自分の髪を優しく撫で、背中にそっと唇を落とし、鷲尾は仕事に出かけていった。
まだ身の内に彼が留まっているようで、目覚めてからもしばらくはベットからおりることができなかった。
しかしその名残も、今はもうここには無い。
絹一はもう一つため息をついて、ベットに背中から倒れこんだ。
まだ湿った髪がシーツに広がって濡れてしまうのを気にすることもできない。
「…鷲尾さん…」
小さく呼んでみる。
今夜も帰らないのなら、明日の昼、ここで眠る彼にばれてしまうのを承知でここで一晩過ごしてしまおうか。
なんだか自虐的な気分になってくる。わけがわからなくなってしまいたい…
「…カイ…」
最後の夜を思い出して、声が甘くなってしまったとき。
「…呼んだか?」
いきなりドアのほうでした声に、絹一は一気に現実を見て飛び起きた。
脱いだジャケットを片手に、ネクタイをゆるめながら、鷲尾が暗いままの寝室へ入ってくる。
ハンガーに服をかけるため、絹一の横を通りすぎたとき、香水の匂いがふわりと漂った。
今だ一度たりとて、同じ香りを嗅いだことが絹一はない。
いかに鷲尾が女性にもてるか、こんなふにも確認させられてしまう。
「…ずいぶん色っぽい出迎えだな」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、鷲尾は絹一を見つめた。
その言葉の意味がわからなくて考えること十数秒。ふと落とした視線の先に、はだけたままの自分の胸元を見て、絹一はようやく理解した。
薄暗がりにもはっきりとわかるほど顔を赤くし、全開だったパジャマの前をかき合わせる。
そんなしぐさは、はじめてベットで裸体をさらす処女のようで、とても可愛いけれど、そらした視線のなんともいえない艶っぽさにほんの少し、サディスティックな気分がわきあがる…
「…俺のベットで悪さでもしてたのか?」
「…そんなんじゃありません…」
自分がここで考えていたことを全部見られてしまったような恥ずかしさに、絹一は居たたまれなくなった。
これ以上鷲尾のそばにいられるはずもなくて、ベットから立ちあがると、絹一はパジャマの前をかきあわせたまま、鷲尾のよこをすり抜けた。そのまま、自分の部屋へ入ってしまう。
「ちょっといじめすぎたかな…」
腕を組んで壁に寄りかかりながら横目で絹一を見送った鷲尾は、彼が自分のベットに忘れていったバスタオルを拾い上げるとそこに唇を埋めた。
絹一のお気に入りの入浴材の香りがする。
シャンプーやリンスは無臭のものを使う、唯一の彼の匂い。
自然のものしか使われていないというそれはとても甘い、優しい香りだ。
湯に落とされたものを直接嗅ぐより、絹一の身体に移ったものを味わうほうが、鷲尾は好きだった。
艶やかに匂い立つ、絹一の身体と一緒に…そこまで考えて、鷲尾はさきほどの自分に少しだけ反省した。
やっと顔を見れたと思ったら、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「今夜は少々、手ごわいかな」
口元で小さく苦笑しながら、鷲尾は自分もシャワーを浴びるために着替えを持つと、浴室に入っていった。
鷲尾が風呂に入ったのをドアの外の気配で知ると、絹一は自分の部屋から出た。
キャビネットにずらりと並んだ酒の瓶を物色しだす。
ここにあるアルコールは鷲尾のものだったが、好きなように飲んでかまわないからと絹一は言われていた。
実際に自分から手を出したことはなかったが、今日は酒でも飲んで、酔っ払ってメチャメチャになってしまいたかった。
自分にはよくわからなかったが、とりあえず一番アルコール度数の強そうなものを選ぶと、キッチンで氷を入れたロックグラスとボトルを抱えて自分の部屋に引き返した。
絹一にしては珍しく、行儀の悪いベットの上でのヤケ気味な酒盛が始まった。
(……呆れただろうな…)
欲情に濡れた女のように。
ベットの上で、あんな格好で、鷲尾の名を呼んだのだ。
きっとあきれたにきまってる。
ロックグラスの中の濃い液体を、絹一は眉をしかめながらしかし休むことなくあおっていく。
水なのか、水割りなのかわからないものでさえ酔ってしまう自分を、今夜だけは無視してしまおうと絹一は思った。