BETWEEN THE SHEETS 1
「まだ眠くないか?」
途切れる事のない車の流れを優雅にハンドルを操り追いかけながら、鷲尾はコルベットのナビシ−トに座る絹一に尋ねた。
薄暗い車内のデジタル時計は9時を示している。
たとえ何もない日でも、ベッドインする時間まであと5時間ある。
なにか悪戯を思いついた子供のような微笑みを浮かべている鷲尾に、口元が綻んでしまうのを感じながら絹一は小さく否定した。
(鷲尾さん…憶えてるかな…)
このセリフを聞くのは2度目だ。
はじめては去年の4月。
鷲尾が英会話をはじめるきっかけになった桜のパ-テイの後でのことだった。
クライアントに苦い思いをしていた場に居合わせた自分とそのときは気まずくなってしまったのだが、パ−ティーの後、彼はなにも言わずに誘ってくれたのだ。
屋台のラ−メン屋で御馳走なり、外濠公園の桜並木道を2人で歩いて…そして、テラスに咲き誇る桜を見るためにバ−トン邸に忍び込んだのだ。
それまで見たこともない、やんちゃな少年のような彼に出会ったはじめての夜。
(…なにか企んでる…?)
あの時と同じような表情をしているのに気付いたところで、絹一はまた笑みが漏れてしまうのを押さえきれなかった。
だって、おかしいのだ。
どこにいても、どんなに人ごみに紛れこんでいても、必ず一番目立ってしまう程いい男で。
エスプリの効いた語り口も、その豊かな内面も。
どこから見ても、洗練された大人の男なのに。
時々、思いもかけないようなハプニングを巻き起こしてくれるのだ。
「…なにをしでかすんだか…とか思ってるだろう?」
「!」
唐突に考えていたことを言い当てられて、絹一は吹き出してしまった。
慌てて口を手で押さえる。
そのまま隣でハンドルを握っている男をそっと上目使いに伺ってみる。
鷲尾にしては珍しく、むくれたような声をしていたから。
怒らせると…あとで怖いのだ。
だが、彼は優しく微笑んでいた。
「…鷲尾さんに嘘はつけませんね」
「当たり前だ。お前の考えていることなら大抵見抜く自信はある」
「あなたは他人の気持ちを汲み取ることが上手ですものね」
あっさり自分の気持ちを言い当ててしまったように。
「他人じゃなくてお前の、だ。」
穏やかな声でそんなふうに言われて、ドキッとする。
全く…自信もここまでくると、とんだ自惚れだ。
でも…嫌じゃない。そんなところも、とても…好きで。
そんなふうに今自分が思っていることも、隣の男はきっとわかってしまっていて…こんなところは絶対かなわないと思いながらも、やはり少し悔しいから。
「…俺ばっかり…ずるいです」
鷲尾には聞こえないように小さい声でそっと呟く。いや…本当は聞こえてしまってもかまわない。絹一はそう思っていた。
たまにはこんなふうに拗ねてみせるのもいい。
この男の前でだけは、ものわかりのいい自分を演じなくてもいいのだから。
でも、そんな絹一の態度も大人の鷲尾にはただ可愛い以外のなにものでもなくて。
隣の男の口からは、クスリ、と笑う声が届いただけだった。
思いがけないプレゼントのような夜。
それは本当に偶然だった。
珍しく定時に仕事を切り上げた絹一がマンションのエレべ−タ−に乗りこもうとした時、買い物をして帰ってきた鷲尾と偶然鉢合わせたのだ。
食事もしないで帰って来てしまった絹一を、外でのディナ−に誘ったのは鷲尾だった。
食事に出かける前、鷲尾に薦められて絹一はシャワ−を浴びると、ラフな服装に着替えた。
鷲尾が絹一を連れていったのは、肩を張らずにすむ程度に洒落た感じの、イタリア料理の店だった。
クライアントと出かける以外にも、美味い料理と酒を出してくれる店を自分で探す事を惜しまない。
普段から食事することを人生の楽しみと考える、それは鷲尾の豊さのひとつだった。
六本木にあったその店は、オ−ナ−シェフと奥方の2人だけで営んでいるそうで、こじんまりとしたたずまいだった。
平日の、それも夕食には少し早い時間に訪れたせいか客は自分達の他に1組しかおらず、鷲尾と絹一はゆっくりと落ちついて食事をとることが出来た。
それとも、これも鷲尾の気使いなのだろうか。
明日も仕事の絹一が、少しでもリラックス出来るように…自分が気付かない時でも、この男はこういう事をしてみせる。
まるで、息をするのと同じぐらい自然に…自分は…ずっと後になってやっと気付くのだ。いつも。
店内を明るく包み込むアイボリ−の壁と、オ−ナ−が自ら湘南の海岸まで出向いて拾い集めたという、貝殻や流木のオブジェ。
自然の織り成す微妙な配色やきらめきさえ、鷲尾の優しさのように絹一には感じられた。
そこまで考えて、絹一は唐突に気がついた。
食事中はいつもアルコ−ルを嗜む鷲尾が、今夜はアペリテイフだけで夕食を済ませていた。
いつのまにかぼんやり黙り込んでしまった絹一に、隣の男はなにも言わない。
静かにハンドルを握りながらただ、口元にかすかに笑みを浮かべているだけだ。
そういえば、あの時から楽しそうな表情をしていたような気がする。
なんだか、桜を見に忍び込んだときと同じような気持ちなってくる。
冷や冷やしながら、それと同じだけドキドキしていた。
まるで、授業中の教室を飛び出したような。いや、ささやかなビジネストリップとでもいおうか?
今夜のオ−プニングがあの夜と同じ演出なら。
鷲尾はアッと驚くようなマジックを用意してくれているに違いない。
平日の夜なのに、珍しく車の流れはスム−ズだ。
これもきっと魔法のひとつに違いない。…たぶん窓の外に流れていく街並を見つめながら絹一はそう思った。