SWEET ANNIVERSARRY・1(続・リトル・マジック)
『たぶん…8時ごろには帰れると思います。』
『そうか。わかった。もし無理そうだったら当日でいいからまた連絡くれるか?』
『はい。…あの、鷲尾さん』
『ん?』
『…きちんと約束できなくてすみません。』
受話器ごしの、心底申し訳なさそうな絹一の声に鷲尾がふ、と小さく笑った。
『仕事なんだから気にするな。』
『…はい。』
『じゃあな。』
『あの…!』
『なんだ?』
『…俺も会いたいです。』
そう言って切れたのが、一昨日の月曜の夜だった。
ため息のような絹一の声が忘れられない。
なんとなく食事に誘ったり、短い旅行に誘ったり・・・
一緒に過ごすために互いを誘うことは何度もあったが、こんなのは初めてだった。
ただ、会いたいから・・・など。
受話器の向こうに絹一を呼び出すコ−ル音を聞きながら、そんなことを言うつもりなど無かったのに、気がついたらそう告げていた。
自分をデ−トに誘ってくる女のようだな、と内心苦笑したのを憶えている。
約束の時間まであと10分。キャンセルの電話は無い。
「これなら無駄にせずにすむかもな。」
そう独り言を呟きながら、鷲尾は鍋の中身をおたまでかきまぜた。
今日の料理は、以前絹一と一緒に入ったフランス料理の店で彼が事のほか気にいっていたものだった。
夏でも冷たいものよりは暖かい料理を好む絹一のために、鷲尾は帰り際こっそりレシピをこの店のシェフに聞いておいたのだ。
そこまで思い出したところでまたそんな自分に呆れて苦笑がもれる。
こんな風に他人を自分の部屋へ招くのも、食事をして一緒に過ごすのも、鷲尾には初めてのことだった。
それどころか、ホストの仕事を始めてから他人とこんなふうに個人的に付き合ったのも絹一が初めてなのだ。
自分のテリトリ−に他人の存在を許すなど、以前の自分からは考えられないことだった。
それも、客として出会った男だ。
男の相手は絹一がはじめてだったが、だからといってそれだけで特別になると思ったことはなかった。
特別…というより、忘れられない…と思ったことはあったが。
その、しなやかな身体も艶やかな声も。
初めて絹一を抱いた時、鷲尾は彼に後を引く身体だな、と言った。
一度抱いた人間はその底無し沼のように甘美な肉体にいつのまにか捕らえられている。
それなのに、ベッドを出れば今までの媚態が嘘のように取り澄ました顔になるのだ。
まるで、捕まるのはそちらの勝手だといわんばかりに。
「全く…罪な男だよな」
自分も捕まりかけているのを自覚した声が、自嘲したように呟いた時。
玄関のベルが鳴らされた。
冷蔵庫の上の時計は8時15分を指している。
鷲尾は玄関に向かいながら、扉の向こうで遅れたことをどう謝ろうか困っている顔を想像してすこし楽しくなった。
「はい?」
「絹一です。…遅れてすいません」
案の定、済まなそうな声で返事をした絹一に、小さく笑いながら鍵を開けてやると、ス−ツ姿のままで入ってきた。
顔が心なしか赤い。息も少し切れているようだ。
「…走ってきたのか?」
「…いけませんか?」
あっさりばれてしまった事が恥ずかしいのか。
視線を外して憎まれ口をきく絹一に、鷲尾はそれ以上追求するのはやめにした。
お邪魔します、と靴を脱いであがってきた絹一を先に行かせると、鷲尾はキッチンに入った。
あらかじめ暖めておいた鍋の中に、本日の主役の蛎を入れる。
硬くならない程度にそれをあたためれば、完成だ。
「鷲尾さん」
皿にメインディッシュをよそろうとしていた鷲尾がその声に振りかえると、絹一はネクタイを緩めながら少し困った顔で鷲尾を見上げた。
「あの…申し訳無いんですけど、なにか着替えを貸してもらえませんか? うっかり忘れてしまって…」
わき目も振らずまっすぐここへ来た事を、白状してしまっていることに気がつかない絹一がなんだか可愛く思えて。
鷲尾はつい、噴出してしまった。
「…なんですか?」
「いや…何でも無い。」
怪訝そうに聞き返してくる絹一を見ないようにしながらコンロの火を消すと鷲尾は寝室に彼を促した。
クロ−ゼットの中を覗いて適当な服を選び出すとベッドの上に広げてやる。
「お前には少しサイズが大きいからな。スラックスよりジ−ンズのほうがいいだろう?」
「そうですね。ありがとうございます。お借りしますね。」
素直に礼を言って着替えはじめた絹一を寝室に残し、鷲尾はキッチンにもどった。
冷蔵庫から良く冷えたシ−フ−ドサラダと白ワインを取りだし、テ−ブルにセッティングする。
「これ、よそっていいですか?」
着替え終えた絹一がコンロの前で鷲尾を振りかえりながら聞いてきた。
「ああ。頼む。」
ワインのコルクを手際良く抜いて応えると、鷲尾はようやく完成したディナ−の席に椅子を引いて絹一を座らせた。
いただきます、と行儀良く両手を合わせて食事を始めた絹一は、今日の料理が鷲尾と一緒に食べに行った店のものだとわかると、とても嬉しそうに微笑んだ。
「いつも思いますけど、鷲尾さんって本当に料理が上手ですよね。」
「そうか?」
「そうですよ。だって、いくら食べたことがあるといってもそれだけで同じものが作れるなんて。俺にはとても無理です。」
「そんなこと無いさ。なんなら、今度やってみるか?」
「え? 本気ですか?」
「ああ。それで俺にご馳走してくれよ。」
お腹こわしても知りませんよ、と本気であせる絹一に鷲尾はわらいながらグラスの中のワインを開けた。
「蛎は火がちゃんと通ってないとちょっと危ないが、熱を加え過ぎるとすぐ硬くなっちまうからな。そのへんに気をつければあとはわりと簡単だ。」
「そうですか・・・」
神妙な顔でうなずく絹一は、まるで算数の問題を解く子供のようだ。
手が止まってるぞ、と鷲尾笑われ、あわてて食事に戻る。
「じゃあ…今度、目玉焼きとかから教えてもらえませんか? それぐらいなら、なんとか出来そうな気が…」
「卵料理ってのは、簡単なようで案外難しいんだぜ?お前の場合、そうだな…料理もいいが、紅茶の入れ方から覚えたほうがいいな。」
「え? 俺、毎朝紅茶飲んでますよ?」
「お前がいつも入れてるのはティ−バックだろ。そうじゃなくて、リ−フから。時間はかかるが、こっちのほうがうまいだろ?」
「ええ…たしかに」
絹一と自分のグラスに鷲尾が2杯目のワインを注ぐ。
それをじっと見つめている絹一に何でもないことのように、さらりと言葉をつないだ。
「それに…お前の入れた紅茶で朝を迎えるってのも、いいしな。」
それだけで、絹一の目元がうっすらと赤くなった。
ベッドの中では、普段からは想像もつかないほど大胆になるくせに、こんなところが絹一はいつまでも初々しい。
まるで…処女と娼婦を演じ分ける魔性の女のようだ。
「…じゃあ…今夜教えてください」
ほら…こんなところが。
それだけで充分挑発している事に気がつかない絹一を、鷲尾はじっと見つめた。
無意識なのも、ここまで来ると罪だな…と思いながら。
「…今度教えてやるよ。」
言外に今夜の申し出を断ると、鷲尾はワインを飲み干した。
絹一はそれを黙ってみていたが、自分もグラスを開けるとごちそうさまと言って席を立った。
洗い物を始めた絹一に、先にシャワ−を浴びてくるからと鷲尾は浴室へ入って行った。それを横目で見送りながら、絹一は不安な気持ちを持て余していた。
食事の最後のほうから、なんだか鷲尾の気分を損ねてしまったような気がして。
「…俺ってどうしてこうなんだろう…」
洗い終えた皿を丁寧に拭きながら、ため息まじりに独りごちる。
せっかく久しぶりに会えたのに。
こうして2人でゆっくり過ごすのは、目白のホテルに鷲尾と泊まった時以来だ。
鷲尾に誘われて、過ごしたあの夜。
昼間、偶然出くわした鷲尾とクライアントの女性の姿が頭から離れなくて、無が夢中で鷲尾にしがみついた。
独占したいとか、女性に嫉妬したとか。…自分だけを見て欲しいとか。
そんなふうに思ったわけではなかった。
でも、胸がせつなくてじぶんでも訳がわからなかった。
自分だって、客として相手をしてもらった過去があるのだから。
鷲尾の仕事など、わかっているはずなのに。
もしかして、自分は傷ついているのだろうか。…それを辛く思っているのだろうか。
彼をとても好きだ。たぶん…愛しい、とも自分は思っている。
愛、という感情は今までの絹一にはずっと無縁のものだった。
欲しいと思ったこともなければ、それによって生じる喪失感を辛いと感じたこともなかった。
始まりも、終わりも独り。
人間など所詮、誰とともにすごしていても、誰と一緒に歩んでいても、必ず1人になるときがくるのだ。
それが、別れや死といった言葉はちがえどなんらかの形で。
だから誰も愛せない自分が異端であるとは思っても、それを寂しいと思ったことは無かった。
鷲尾に出会うまでは。
暖かい思いやりをごく自然に他人に与えることの出来る鷲尾に、最初は興味がわいた。
でも、それは客となった者相手にだけであって、ただそれだけのことなのだ、と思っていた。
1度目の契約のときも2度目のときも。
金を払わせた時間はプロに徹すると言いきった鷲尾に、絹一もそれは当たり前のことだと思ったし、実際、彼はそれを証明してみせた。
だが、そればかりではなかったのだ。
2度目の契約のとき、ギルバ−トに対する自分の態度に怒りながら、それでも自分の知らないところで彼をいさめてくれた。
いや…自分に対して厳しい言葉ではあっても、そんなふうに怒ってくれたのは、鷲尾が初めての人間だった。
その時から、きっと自分は鷲尾に惹かれていたのだと思う。
(でも…縛りたいとか思ってるわけじゃない…)
そんな関係を自分は望んでいるわけではない。
一緒にいたい、そばにいたい、望んでもらえる自分でありたい、とは思う。でも、盲目的に相手だけを見つめる関係とは違うはずだ。
だったら…この感情はなんなのだろう。
思い出すと切ない、この胸の痛みは…
「…絹一?」
「え?」
いつのまにか、ぼんやりと自分の世界に入ってしまっていた絹一に不思議そうな声がかけられた。
あわてて、残りの皿を拭き始める。
それを小さく笑って止めると、鷲尾は絹一の背中を浴室に向かってそっと押し出した。
「あとは俺がやっとくから。お前はシャワ−浴びて来い」
「でも…」
「いいから。早くサッパリして来い。」
そう言って自分を見つめる鷲尾の瞳はとても優しくて。
さっきまでの不安な気持ちをあっさり打ち消してしまう。
この瞳に見つめられると、抵抗する気持ちがいとも簡単に拡散していってしまうのだ。
それと同時に、押さえきれない衝動が湧き上がってくる…
「…怒ってますか…?」
目の前の広い胸に吐息を埋めながら、絹一は鷲尾の背に腕を回した。
一月前、鷲尾と食事に出かけた帰りに立ち寄った店で、彼に勧めたアロマのバスソルトを思い出す。
今、自分が寄り添っている身体から漂う、シトラスの香り。
セクシャルな感じはまるで無いのに、鷲尾がつけているだけで、自分にはとても甘く感じる。
「…俺…また鷲尾さんが怒るようなこ……ン…っ」
頭の後ろを少し強くつかまれて、強引に上を向かせられると、みなまで言わせまいと、鷲尾は絹一の唇を塞いだ。
少し怒ったようなきつい交わりに、かたく閉じた絹一の瞼が怯えたように震える。
強引でも、少々乱暴でも、この唇はいとも簡単に自分を蕩かしてしまう…と絹一は思っていた。
いや、いっそ乱暴なほうが自分を強く求められているようで、身体の芯が次第に熱くなっていく感じすらするのだ。
次第に力の抜けていく絹一の身体を抱きしめながら、鷲尾はようやく唇をはなした。まだ触れ合う距離で、甘い声が絹一の唇をなでる。
「…怒ってなんかいないさ。…明日も会社だろう?早く疲れを取って来い。」
あなたの存在を感じていることで自分はすでに癒されているのだと。
言葉にしなくても唇から伝わればいいのに。
そう思いながら、返事のかわりに絹一は鷲尾の唇にそっと触れた。