秘密(続・P,S…)
クライアントとの会合は目白にあるホテルで1時という約束だった。
3日前から来日しているフラワ−デザイナ-のアレンジメント写真集の責任者として、絹一はこの仕事をギルバ−トから任されていた。
サブチ―フのポストを勤めている特別企画部の同僚と、新橋の会社を出たのが12時。
約束の時間にはまだずいぶんと時間があるが、まあいいだろう。
別の仕事の件で電話をしてくるからと言った同僚に、ロビ−で待っているからと告げて絹一はひとりでエントランスを抜けた。
先方にはあらかじめ連絡を入れておいたが、一応フロントで確認をする。
「・・あと30分はあるな・・・。」
腕時計の針は12時30分。
書類を詰めた鞄を右から左へと持ち替えながら、絹一はソファのあるほうへと歩き出した。
緑を基調とした落ち着いた空間がつかの間、都会の喧騒を忘れさせてくれる様だ。
都会の真中にあるとは思えないほどの緑の中にたつこのホテルは、突如出現した和みの空間と言っていい。
広さという贅沢。東京という場所で、これに勝るものは無い。
そんなことを思いながらなにげなくエントランスの方を見やった時。
流れるような動作で女性をエスコ―トしている男の姿に一瞬目が釘付けになった。
スリムで上背のある身体に上品なス―ツを纏い、心憎いまでの優しい微笑みを女性に向けている。
ロビ―にいた人々が一斉にむけた視線など、まるで目に入らないというように。
その甘い微笑みで、どんなに気位の高い女王の棘をも落としてしまう男。鷲尾カイ…。
彼と契約を交わした女性はその限られた時間の中でつかの間の夢に酔うのだ。
(・・いけない)
いつのまにかじっと見つめてしまっていた自分を叱咤する。
わざとらしくならないように視線をはずし、絹一は鞄を大理石の床に置いた。
その横を鷲尾が女性を伴いながら通り過ぎる。
その瞬間。
彼の瞳は確かに女性を見つめていたが、ほんの一瞬・・・自分に微笑んだような気がした。
「悪い。遅くなった」
「・・そろそろ時間ですね。行きましょうか。」
やっと戻ってきた同僚に、もしかして今のを見られたのではないかと一瞬でもひやりとした自分に内心呆れてしまう。
鞄を持ち上げて歩き出した絹一の目の端が、女性とエレベ―タ−に乗り込む鷲尾の姿を捕らえていた。
無事に契約をすませ、絹一達がクライアントから解放されたのは夕方の5時を過ぎた頃だった。
このまま一度アメリカへ戻ると言うクライアントを見送り、残務処理のため会社に戻ったのがちょうど6時。
今日二つ目の待ち合わせまであと2時間。
1時間もあれば、終わるだろう。
急いでいると悟られないように絹一は手早く仕事を片付けていく。
「そんなに急いで約束でもあるのか?」
「え?」
突然話し掛けてきた声に、絹一は一瞬ぎくりとした。
いつのまにか、ギルバ−トがコ−ヒ−の入ったカップを持って横に立っていた。
・・うかつだった。ちっとも気がつかなかった。
「ほら」
「・・ありがとう」
差し出されたカップを受け取り、熱いコ−ヒ−をやけどしないようにそっと飲む。
「契約のほう、うまくいったようだな。」
「ええ。無事滞りなく終了しました。・・あとは撮影を待つばかりなりってね。」
悪戯っぽく呟いた絹一にギルバ−トもたのしそうに笑い返したが、不意に真面目な表情を作って絹一を見つめた。
「君には本当に感謝しているよ。絹一」
「そんな、改まって…」
「いや。君は本当によくやってくれている。君と契約して正解だったよ。」
「・…ありがとございます。ボス。」
絹一にとってこれは仕事であり、高い契約金を払わせて雇われたのだから、それだけのものをビジネスで返すのは当たり前の事だ。
でも、それとは別にこんなふうにストレ―トに感謝されると・・・くすぐったい気持ちはあるものの、素直に嬉しい、と思う。
意識してやっているのかそうでないのか。
この男は、人に気持ち良く仕事をさせるのが本当にうまい。
自分は上司に恵まれている。
絹一は素直にそう思った。
「さて。仕事はもう終わりだろう?」
「ええ。このディスクのコピ―を取れば、もう終わりです。」
「そうか」
急に上司の顔から茶目っ気のある悪戯小僧のような顔になってギルバ−トが言う。
「待ってるんじゃないのか?」
「え?」
「鷲尾」
「……!」
ふいをつかれて真っ赤になってしまった自分が情けない。
そんなことをしても無駄だとしりつつ、ギルバ−トを睨む。
「なんだ、やっぱりそうなのか」
「ギル!!」
かまをかけられたと知って耳まで赤くなった絹一を満足そうに眺めながら、ギルバ−トは気持ちよさそうに笑った。
絹一が会社でギルバ−トにさんざんからかわれていたころ。
鷲尾はコルベットを目白のホテルに向かって走らせていた。
今日、クライアントと利用したホテルである。
契約の終了した彼女を送り届けて、また引き返しているのだ。
営業中には吸わなかった煙草を1本咥えて火をつける。
おいしそうに吸い込んだ煙を静かに吐き出しながら、鷲尾は喉の奥で小さく笑った。
「・・目は口程に物を言い、か。」
昼間、ホテルのロビ−ですれ違ったときの絹一を思い出す。
切なげな、なんとも艶っぽい眼差しだった。
嫉妬している訳ではなかった。でも、妬かれるよりももっと刺激的だった。
ダイレクトに五感に訴えるような。
絹一にそんなつもりは毛頭無いのだろうが、鷲尾にしてみればこれ以上はない挑発だった。
緑の中に明かりが見えてくる。絹一はもう戻っているだろうか。
今日、自分の営業と絹一の仕事がバッテイングしたのは本当の偶然だった。
今夜、このホテルで過ごそうと絹一を誘ったのは自分だったが、まさか昼間絹一と鉢合わせるとは思ってもいなかった。
だが、おかげで思わぬ収穫を手にしてしまった。
うかつに手を出せない、駆け引きの予感。
熱くなりそうな夜を感じながら、鷲尾は車を乗り入れた。
ホテルの中に入ると鷲尾はきさくに声をかけてきたフロア担当のホテルマンに馴れたようすで微笑み返しながらフロントに向かった。
開放感のある広い空間に穏やかな時が流れるのを感じながら、さきほどクライアントと利用したときとはまったく違う気分を感じていた。
今夜、ここで過ごす時間を心から満喫しよう…と。
さりげなく、それでいて緻密に計算された芝居にのように流れるこの時間に、満たされた気分でチェックインシ−トにサインする。
そのとき、ふっと気がついた。
今夜の主役は自分達なのだ、と。
チェックインをすませて部屋に案内される。
鷲尾が今夜リザ―ブしたのは、クラブスウィ−トと呼ばれる部屋だった。
スタッフの丁寧な説明を受け終わると、シャワ―を浴びるために鷲尾は浴室に向かった。
ほんの数時間前に抱いた女の匂いを消すために。
ボディソ―プで丁寧に身体を洗い、香水の移り香が残っていないのを確認してから低めに調節した湯を浴びる。
まだ絹一の顔も見ていないのに、もう身体が熱い。
そんな自分に内心苦笑しながら鷲尾は浴室を出た。
髪をドライヤ−で乾かし、持ってきていた新しいシャツとネクタイ、ス―ツに着替える。
大きなガラスがはめ込まれた窓辺により、煙草に火をつけたところでベルが鳴った。
火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、ドアに向かう。
「…遅くなってすいません」
遠慮がちにしたアルトより少し低い声に、ドアを開けてやる。
「全部終わらせてきたのか?」
「はい。」
後ろ手にドアを閉めながら、絹一は鷲尾を見つめた。
「…食事は?」
「まだだ。」
「じゃあ…とりあえずレストランに行きましょうか。」
そう言って絹一がドアを開けようとした時、鷲尾は絹一の頭の後ろに大きな手を潜り込ませて自分の方に引き寄せた。
「・・・・・…っ・・」
突然広い胸に抱き込まれ唇を奪われて、絹一は眩暈を起こしそうになった。
いつになく強引な唇の交わりに、きつく閉じた瞼が熱い。
意識が飛ぶ一歩手前まで翻弄され、絹一の身体から力が抜けそうになったところでようやく解放された。
それでもまだ鷲尾の腕は絹一の身体を抱きしめている。
いつもより少し早い心臓の鼓動とともに、石鹸の香りが絹一の中に流れ込んでくる。
それだけで、鷲尾がシャワ―を浴びたばかりなのだということがわかった。
この間の事を気にしているのだろうか。
女の匂いをつけたままの鷲尾に、初めて抱かれた。
あの夜のことは、思い出すだけで顔から火が出てくる。
余裕が無かった、とあの時鷲尾は言った。
でも、自分は嫌ではなかった・・…。
「鷲尾さん…」
「ん?」
鷲尾に聞いてみようかと思ったけれど。
言葉にすることはできなくて、かわりに絹一は鷲尾の唇を自分からそっと吸い上げた。
肉をメインにしたコ―ス料理は、フレンチベ―スのポテトソ―スを使っていたからか、絹一の胃にもすんなりおさまった。
いい気分になりたいからとバ―での乾杯に誘った鷲尾に、絹一は2人だけでシャンパンを飲みたいと珍しくわがままを言った。
部屋へ帰りル―ムサ―ビスでフル―ツとシャンパンのフルボトルをオ―ダ−すると、それらが届くまでの間にシャワ―を浴びてくるから、と絹一は浴室へ入っていった。
いつになく甘えるような絹一の態度に、鷲尾は甘ったるい気分を持て余していた。
なんだか、そこらへんにいるただの恋人同士のようだ。
そんな自分が妙にくすぐったくて。ガラでもない、と笑ってみる。
こんな気分は、この間の夜以来だ。
その時、ドアがノックされた。
あとは自分でするから、とボ―イのサ―ブを断って、絹一が出てくるのを待つ。
「すいません。…待ちました?」
「いや、今来たところだ。」
そうですか、と幾分安心したような表情で絹一はバスロ―ブ姿のまま、塗れた髪をバスタオルで拭きながら鷲尾が座るソファの隣に腰を降ろした。
その途端。
記憶にある香りがほのかに流れてきた。
髪を拭いている絹一を、鷲尾がじっと見つめる。
「…乾杯しませんか?」
「・・ああ・・そうだな」
ゆったり微笑むだけで、絹一はなにも言わない。
シャンパングラスにそっと注ぎ、軽くふちを触れ合わせるだけで、二人は無言で乾杯した。
「この間も飲んだな。シャンパン。」
「ええ。これ、この間のと同じ銘柄でしょう?」
「よくわかったな。」
言外に、酒の味に疎い事を指摘されて絹一が鷲尾をそっと睨む。
「冗談だよ」
そんな絹一の様子を横目で見ながら、鷲尾は苦笑した。
冷えたいちごを指で摘んで口の中にほうり込む。
「俺にもください」
もう酔いの回ってきたような口調で言う絹一に、ガラスの器からいちごをひとつ摘んで絹一の口元に運んでやる。
「違います・・…」
いちごを持っている鷲尾の手をそれごと包みこむように手を添えながら絹一は彼の唇に自分のそれを押し付けた。
その瞬間、ブラック・ウィドウの香りが2人を包み込んだ。
今夜、この香りをつけようと、絹一はこのホテルに誘われたときから決めていた。
シャワ―を浴び終えて、まっさきにこの香水をつけた。
熱い湯で火照った肌にひんやりとからみつく香水のシャワ―は、昼間の自分をリセットしてくれるような気がして。
「…あの夜のあなたも好きです」
「絹一・・」
どんなあなたもすきだから。どんなあなたもあなたに違いはないから。
自分にもありのままを見せて欲しい。
自分があなたに全部曝け出しているように。
そこまで言葉にはできないけれど。
無言で身体を重ねてきた鷲尾の温もりに、甘い香りがむせかえる。
静かに燃え上がりはじめた情熱と。次第に表情を変える甘美な香りは。
2人だけの秘密だった。