清緋揺籃(6)
「・・・・・・!」
万力のように締め付けてくる肉塊に完全に両腕を封じられ、李々は己の失態を悔いた。
完全に己の失態だった。
目前で繰り広げられた光景のあまりの異様さに、体がすくみあがってしまっていたのだ。
あまりにも異質な光景だった。
李々の持つ常識を凌駕し、紛れもない恐怖となって、李々の体を拘束して動けなくさせたその隙をつかれたのだ。
その一瞬の隙が、命取りとなった。
肉隗の一部が蛇のように長くのびて腕を伝い、首まで這い上がってきた。生暖かい肉塊が首筋を這う感触に李々は総毛だった。
「冗談じゃないわ!」
李々は必死に顔をそむけ、手近の木に腕ごと肉塊を何度も叩き付ける。枝が折れ飛び、ささくれだった樹皮や小枝の破片が肉塊に突き立って青い血をしぶかせたが、這い上がってくる動きが弱まったのは叩き付けた一瞬だけだった。
宿主から離れて長くは生きていられない肉隗は顎の下まで迫っていた。おそらく顔を覆い、窒息させて失神させた後、口腔より入ってくるつもりなのだろう。
(・・・冗談じゃ・・・!)
「李々!」
彼女の養い児がこちらに走ってくるのが見えた。
「来てはだめ!」
叫んだ瞬間を狙って肉隗が伸び、顔全体を覆おうと一気に広がる。
「ぐ・・・っ!」
「李々!」
走りよった桂花が肉隗を引き剥がそうとして、右手を捕えられた。
かろうじて首をひねり、顔の左半分を覆われるだけで防いだが、肉隗は徐々に広がりつつある。顔全体を覆われるのは時間の問題だった。
頑強に抵抗する李々より子供のほうが憑きやすいと見たのか、肉隗は桂花にも巻きつきかけている。
(このままじゃ、共倒れになる!)
・・・こんなときはどうしたらいいのか、李々は必死で記憶を探った。
(血と、血とを、闘わせるしかない・・・!)
覚悟を決めた。
李々は養い児を見下ろした。
せめて、桂花だけは逃がさなければならなかった。
「・・・桂花、時間がないからよく聞いて。こいつを引き剥がすには血が大量に必要なの。だから桂花の持ってる短剣で、私の首を突きなさい」
「・・・・・李々!」
「即死にいたる急所は教えたはずよ。・・・うまく外してね」
「そんなこと出来ない! 他に方法は?!」
首を振り、半狂乱になって叫ぶ桂花の首にも肉隗は巻きつきかけている。
「ないわ。血で戦わせても勝てないかもしれない。でも何もせずにあきらめるのは絶対にいや。失敗したとしても、憑依され・・・」
肉隗が口や鼻まで覆って、李々は息がつげなくなった。
なんとか侵食を免れている右目と白い頬が、息苦しさに引きつるのを見て、桂花は意を決したように唯一自由な左手で短剣を抜くと刺突用の短剣の先を李々の首筋に押し当てた。手が微かにふるえている。
息苦しさの底で、李々は桂花を見返した。ためらうな、と目で促す。
先に力が込められ、その後に来る苦痛を李々が覚悟した瞬間、唐突に刃の感触が消えた。
驚く李々の目線の先で、桂花は握った短剣を逆手に持ち替えると、捕えられた己の右腕に幾度も突きたてた。
「李々から離れろ! 憑くなら吾に憑け!」
白い血が迸り、青黒い肉隗に滝のように滴り落ちた。
目を見開いた李々の頬にも、血は跳ねた。
肉隗がいきなりふるえた。桂花の血が滴った場所から白煙が立ち上り、強酸を浴びたかのように溶け崩れ始めた。
肉隗は声なき絶叫を上げ、痙攣しながら収縮をはじめた。
魔力を持たない魔族の子供を生かすための、唯一の武器である強い力を内在した血が、今、猛毒となって、肉隗を蝕み始めたのだ。
腕を捕らえた力が弱まった瞬間、李々は顔面を覆った肉隗を引き剥ぐと、息を継ぐのも忘れて叫んだ。
「桂花!」
養い児はその場に崩おれていた。
投げ出された腕に何箇所も開いた傷口から血が流れ出している。
肉隗は白煙を上げながらさらに収縮し、李々から離れて地に落ちた。溶け崩れながら、なおも桂花に向かってにじり始めた肉隗に、吐き気をこらえつつ李々は剣を振り下ろした。
「桂花!」
剣を地に突き立てたまま、李々はまろぶように走りよって桂花の半身を抱き上げる。
養い児は薄く瞳を開き、李々を認めてかすかに微笑した。
体が冷たい。どんどん冷たくなってゆく。
「なぜこんな無茶をしたの! ・・・どうして私を刺さなかったの!」
桂花を巻き込んだのは私なのに・・・!
声にならなかった。
己を見下ろしたまま声も出せずに震える養い親を見上げ、桂花は左腕を上げると、李々の頬に散った血を指で拭い取った。
「・・・憑依されて李々が李々じゃなくなるのは嫌だった。だけど李々を傷つけることなんて吾には絶対に出来ない。・・・李々だけだ。この魔界で吾を見つけてくれたのは。名前を付けて、いろんなことを教えてくれて、ずっと傍にいてくれた。・・・吾には李々がすべてだもの。李々がいなければ、吾はいなかった。・・・李々を傷つけるくらいなら、吾が傷つくほうがいい・・・」
ことりと腕が地に落ちて、養い児はその紫瞳を閉じた。
「・・・・・!」
冷え切った体を抱きしめて、李々は天を仰いだ。
猛々しい感情を内に秘めた真紅の瞳が雷光を移して獣のように煌いた。
その瞳は、雷光の閃く暗い魔界の空を貫いて、その先に存在する青く美しい宙に浮かぶ宮に住まう天上人のことをおもった。
「・・・なぜです」
とどかないのはわかっている。それでも問いかけずにはいられなかった。
…天のはるか高みにおわします偉大なる御方よ、なぜこの世界をお捨てになられたのですか!
こんな暗い寂しいところで、
魔族として生れ落ちたがために疎まれ、
慈しまれることもなく、
やさしさも、
生まれてきた意味も知らぬまま、
ただ生き延びるためだけに人生を費やし、
やがて朽ちていく。
・・・こんな哀しい宿命を持つ世界と生命をなぜ創られたのですか!
・・・李々の胸中に渦巻くのは、悲しみでなく、怒りであった。
これが魔族の宿命だと言うのか。
桂花が、魔族が何をしたというのだ。
廃棄され、呪われたこの世界でなおも生き延びようとするこの種族を誰が責められると言うのか。
宿命などではない。
そんなもの認めない。
「・・・冗談じゃないわ」
着衣を引き裂いて腕を止血し、急激な失血でショック症状をおこして呼吸と鼓動のとまった桂花の体を蘇生にかかる。
「冗談じゃないわ! 今、ここで、全部終わりにしてしまうつもり!? ・・・笑い方もろくに知らないくせに、心の底から幸せだって思えたこともないくせに、逃げ場を探せないくらい人から愛されたこともないくせに! ・・・生きなさいよ! 死ぬために生きるんじゃなく、命なんかいらないって思える瞬間のために生きてみなさいよ!」
横たえられて仰向いた桂花の目元に、頬に、透明な水滴が降り落ちる。思わず天を仰いだ頬に熱いものが伝って、李々は自分が泣いていることを知った。
かろうじて息を吹き返した桂花を両腕に抱き、李々は勢いよく立ち上がった。
「・・・死なせるものですか!」