清緋揺籃(2)
「・・・なに、あの水場からここって、こんなに近かったの?」
李々は、数人がかりで襲われたあの魔風窟の入り口に立っていた。
あの水場で休息をとった後、李々は子供が消えた横穴を通ってここに辿りついたのだった。横穴は、李々が閉口するぐらい狭かったが、分岐点に目印のように小石が置いてあったため、迷わずここまで来れた。
(あの子が置いたのかしら?)
草地に歩を進めて、李々はぎくりと足をとめた。ここは、先ほど李々が一人を殺し、三人に傷を負わせた場所だ。だが、おびただしい血痕はともかくとして、この、滅茶苦茶に暴れ回ったようなあとは? 土の上に残された、いくつもの爪痕は? そして、眼前の森に続く、何か大きなものが這いずっていったような跡は?
巨大な蛇が、暴れ回った後のようだった。・・・この場に残された死体を喰らいに出てきたのだろうか?
「・・・・・・」
ちがう、と李々の直感が告げていた。蛇は元来臆病な性質だ。魔界の人型以外の魔族がどのような性質をもっているかは知らないが、身を隠すところのない草地に、堂々と単体で蛇が姿をあらわすとは思えなかった。
・・・だとしたら、これは何なのだ?
何か薄ら寒いものを感じ、李々はゆっくりとあとずさった。
「・・・そこ、よくない」
ふいに、声をかけられて、李々は目を上げた。眼前の森の木々の合間に、黒い小さな影が立っていた。
さっきの子供だ。
紫色の瞳が李々を見ている。子供はためらうように、李々に向かって言った。
「そこ、よくない」
まだ言葉に慣れていない、舌足らずな発音だった。
だが、李々にとっては、初めて聞くまともな魔界の言語だった。
子供はその一言を残すと、くるりと背を向けて、駆け出した。
「・・・待って!」
李々は慌てて追いかけた。
生れ落ちてから3年とたっていないだろうに、その魔族の子供は恐ろしく敏捷だった。
(・・・記憶にあるわ。授乳期が終わると、すぐ親から捨てられる魔族の子供は、魔力を持たない代わりに恐ろしいほど丈夫な体と強い血をもってて、獣のように敏捷に動くことができ、怪我をしても、すぐに治るとかって・・・)
だが、強い血を持つがゆえに、その血肉を喰らって力を得ようとする、魔界でも大多数を占める食肉獣に狙われやすく、子供はあまり育たないのだということも聞いた。
そうすると、あの子供はこの苛酷な世界を今まで生き延びてきたということになる。
(・・・天界なら、あの年代って、親がつきっきりで面倒みなきゃいけないくらい、弱弱しくて、危なっかしいのにね・・・)
ツキンと鼻の奥が痛んだ。
・・・あの子は元気だろうか・・・
天界に置いてきてしまった、小さな赤子。
・・・ぬくもりを憶えている。
小さな手足が動くさまを憶えている。
ちいさな重みを憶えている。
その小さな重みを腕に抱え、そして、肩に回されたあたたかくたくましい腕を憶えている・・・
授乳期がすんだあの赤子を、あの男の手にわたして、自分はその足でここへ来た。
「・・・っ!」
歯を食いしばった。
泣くわけにはいかなかった。
自分で決めた別れだった。
泣けば、全部嘘にしてしまいそうだった。
悲しいわけではない。・・・ただ、胸が苦しいだけだ。
ぬくもりをなくした胸が寒いだけだ。
「・・・冗談じゃないわ」
目頭をぬぐうと、李々はぐいと顔を上げた。
前を走る子供が、一瞬だけ振り向いた。紫色の瞳が暗い木立の中で、ともしびのように光った。
水音が李々の耳に飛び込んできた。
「・・・川?」
森はすぐにきれた。幅はさほどないが、深い水量を湛えた川が目に飛び込んできた。子供は河原に立っていた。李々が近づいても、今度は逃げなかった。
「・・・ひょっとして、ここに案内してくれたの?」
子供は一定の距離をおいて李々に対しながら、こくんと頷いた。
「あそこ、こどもの、ばしょ。おおきいの、いけない」
たどたどしい言葉で、子供は言った。
「おおきくなる、あそこ、いられない。つぎのこども、あげる」
「・・・・・・」
魔風窟のあの水場は、一種の聖域だったのだ。
生きにくい魔界で、あの狭い横穴を通り抜けられる小さな子供だけが逃げ込める場所。それがあの場所だったのだ。
あの場所は子供の聖域。そこで育つ子供は、大きくなれば、つぎの子供のために開け渡さなければいけない。そんな暗黙の了解がある場所なのだ。だから大人は立ち入ってはいけない。子供はそう言いたいらしいのだ。
「・・・・・・」
だからといって、はいそうですかとは言えない李々だった。
ここは魔界なのだ。
李々の頭の中には、魔界のことや、魔族に関する知識はある。
ただし、『知識』だけだ。
経験に基づいて蓄積され、応用の出来る『知恵』ではない。
襲われても、撃退する自信はある。しかし、昨日の今日まで天界にいた李々が、知識があるとはいえ、いきなり魔界で暮らせるかといえばそうではない。
しばらく様子を見ながら、徐々に慣れていくつもりだった。それには、やはり帰ってくるところが必要だった。言うなれば、『家』のようなものが。李々にとってあの場所はうってつけだと思われたのだが・・・。
考え込んだ李々を、子供はしばらく見ていたが、脇をすり抜けると、今来た森へと引き返し始めた。
「あ、ちょっと待って!」
振り向いた子供の背後の森がいきなり膨れ上がった。
李々の目には、木々の間から延び出た、緑灰色の細いツタが何百本と絡み合いながら、子供めがけて襲い掛かったように見えた。
「・・・!」
李々は全速力で駆け寄るなり、子供を抱え上げて後ろに飛んだ。飛びながら、絡み合って一本の巨大な綱のようになってなだれ落ちてくるツタを、李々は剣で切った。切り口から青黒い液が噴出し、ツタの群れは痙攣しながらばらばらに解けると、出てきたときと同じような唐突さで森の中に消えた。
「・・・な」
李々に切り落とされたツタが、地面で蛇のようにのたくっている。
「・・・なんなの、あれ」
子供を抱えたまま、李々は呆然と呟いた。魔界では、どこにでもあるような植物のツタが、人を襲うのか?
「・・・まぞく」
腕の中の子供が身じろぎして、李々の腕の中から抜け出した。
「あれ、まぞく。みどりいろ、まぞく、たくさん、もり、いる。まかい、まぞく、みんな、しる」
子供はいぶかしむように李々を見上げた。なぜ知らないのか? というようなまなざしだった。
李々は一瞬返答に窮した。
「・・・魔界は、初めてなの。ずっと、別の所に住んでいたの。だから、魔界のことはよく分からないの。そうね、ここではわたしは何も知らない子供と同じなのかも・・・」
子供は首をひねっていた。この子供は、たどたどしい口調の割に、李々の話す言葉は
すべて理解しているように見える。この子供の賢さに賭けてみようと思った。
「あの水場を見つけたとき、すごく嬉しかった。魔界のことを何も知らないから。あの場所から魔界を見て、魔界の暮らしに慣れるまでの間、暮らすにはとてもいいと思ったの。」
子供は李々を見上げている。
「だからお願い。きみの邪魔になるようなことはしないから、魔界に慣れるまで、しばらくあの水場にいることをゆるして。」
子供は一瞬ためらったあと、こくんとうなづいた。
「ありがとう」
李々は笑った。
途端、子供は怯えた顔をし、背を向けて逃げようとした。
「ちょっと! 何で逃げるの?」
暴れる小さな肩をむんずと掴み、ふと気づいた。腕が真っ黒に染まっている。よくよく見れば、服も、あちこち黒くなっている。
この子供を抱えて飛んだときに、ついたものだと気がついた瞬間、李々は子供を傍に流れていた川に放り込んだ。水が一瞬黒くなった。子供が浮いてきたところを再び捕まえ、自分も川に飛び込むと猛然と子供を洗いにかかった。
「何たって、こんなもの体に塗ってんのよ!」
川に放り込まれたときに逃意喪失したのか、子供は李々のされるがままに大人しくしていた。
「・・・あ・・・あら?」
荷物の中に入れていた石鹸も使って洗い上げられた子供に、李々は目を丸くした。
前髪に一筋紅い尾髪のある、柔らかな光を放つ白い髪に、紫微色の肌。知性の宿る大きな紫色の瞳。
派手な美貌ではないが、誰からも愛されるような、野に咲く可憐な花の印象を思わせる、綺麗な子供だった。
あっけにとられた李々の驚きをよそに、当の本人は、石鹸のにおいに不思議そうな顔をしていた。