桜語り「再び、春」3
「桂花!」
再び、突然の声だった。
一瞬耳を疑ったが、戸の開く音とともに耳に飛び込んできたのは、まぎれもなく柢王の声だった。
姿を認めても信じることができず、微笑む柢王を、桂花はただ見つめるだけだった。
「ただいま、桂花。まるで幽霊でも見たような顔だな。お帰りくらい言ってくれよ」
そう言って柢王は荷物を置き、空いた両の腕で桂花を抱きしめた。以前から肉づきの薄かった身体はさらに細くなり、見開かれた瞳は何も映していない。しかし、髪からのぼる薬草の匂いは変わっていなかった。
柢王の胸に埋もれながら、今桂花の中では心配していた気持ちが溶け、怒りが湧きあがり始めている頃だろう。
力の入っていない身体が、桂花の中の混沌を伝える。
ひとりの寂しさ、ひとりの不安、置き去りにされた哀しみ、置き去りにされた怒り。
それでもきっと桂花は、背を伸ばし顎を上げ、真っ直ぐ前を見つめていただろう。気づけばうつむいている顔に、大丈夫だと言い聞かせ自分を鼓舞し…。
柢王以外の人間が見たら冷たく威圧的に見える姿は、崩れることを許さない桂花の最後の砦。
そうしなければ、叫び出してしまうから。
そして訪れる、長い緊張の末の、待ち望んだ温もりに包まれている安堵…。
張り詰めていた糸は、もうすぐ切れる。
もちろん、何も言わず家を空ければ心配されるのは柢王だってわかっていた。辛い思いを桂花にさせることも。
だから一言も発しようとしない背を、柢王は優しく撫で続ける。
どんな罵詈雑言でも受け止めるつもりだった。
「離、して下さい…っ」
腕の囲いを振りほどき、ようやく桂花が声を上げる。
しっかりと上げられた顔には、処理しきれないさまざまな感情が浮かんでいる。
不安だったのだと、寂しかったのだと素直に言えない唇は、その代わりに怒りを吐き出す。
不器用な心とは裏腹に、瞳はその感情を雄弁に物語る。
「あなたは…。吾がどれだけ…っ」
すべて言い終わらないうちに、桂花は唇を吸われていた。振りほどいたはずの腕は、折れるほどの力で桂花の背を抱いている。噛みつくような唇は、そのまま柢王の飢えをあらわしていた。
桂花が落ち着くまで辛抱強く待とうと思っていたのに、濡れた瞳を見れば抱きしめずにはいられなかった。
自分からそうしたものの、柢王にとっても桂花のいないひと月は予想以上に長かったのだ。
乱れた感情は、桂花の中だけでなく柢王の中にも秘められていた。秘められた感情はより強く、でもそれを伝えるにはこうして抱きしめることしかできなくて…。
互いに荒れる感情を鎮めることができず、意識が白濁するほど蜜を絡ませる。腕の中の体温だけが、今ここにある唯一の存在の証。
一言、ごめんな…と流し込まれた声を最後に、激しい嵐の中に桂花は落ちていった。
死んだように眠った次の日は、桜が勘違いしそうなほど麗らかな、春めいた陽気になった。
まだ陽の射さない明け方、突然眠りから放り出された桂花は真っ先に、隣にある優しい寝息を確認した。目を閉じると幼い印象の寝顔は、しかし桂花の眠りを守るいちばんの番人だった。
さらりと髪を梳いて額に唇を落とし、桂花は愛しい恋人の胸にもう一度潜り込んだ。
次に目を覚ました時、陽はもう昇り、眠りの番人は穏やかな瞳で桂花を見つめていた。
髪を梳く指が気持ちよくて、夢と現、ゆらりゆらりと幾度も繰り返す。
守られた眠りには、信じられないほどの幸せがあった。
あるいは、幸せなどという安っぽい言葉では括れないほどの…。