ロミオ+ジュリエット/7
黒衣の神父が昼間っから酒に沈んでいる。その理由は何だろうな」
後ろから声をかけると黒衣の神父は、まるで水の中で自由を奪われた猫科の動物のような緩慢なしぐさで顔を持ち上げる。バーカウンターに体重を残すようにして、片方の肩を落としたまま貴奨を振り返った。少しだけ眉を上げると、困惑したような、それでいて何にも媚びない透明な光を、整った目元に浮かべながら。
その瞬間、首筋から背中を滑るように総毛立ったのを自覚した貴奨は、その原因がどちらにあるのかを判別しかねた。
一つはひどく単純なもので、その透撤した澄んだ氷のようなポーカーフェイスが平素、決して崩れたことのないこの男が、公共の場でこんなにも酔っている。その後ろ姿からでも流れ出す無防備な狂気にも似た、思わず誰もが手を差し伸べたくなる空気に、自分も感化された、ということ。
だだ、もう一つがやっかいだった。酔っている直接の原因がなにか自分と関
わりのあることだという、根拠の無い予感が身体を駆け巡る。
執務の途中で立ち寄ったホテルのラウンジで、後ろ姿を確認して声をかけたのが、裏目に出たことを何故か腹立たしく思った。これから、一時間もしないうちに重役会が始まるというのに。
隣のスツールに腰を降ろすと、高槻の前に空になったカクテルグラスが、無造作に置かれているを視線の端に捕えた。
「こんなところで、おまえに会うなんて。我が父はどういう心づもりなのか……」
ひとりごととも囁きともつかない言葉をゆるゆると吐き出した高槻は、呑めば呑むほどに青ざめてゆく白い頬を手のひらで支えて、バーテンにもう一杯と声をかける。
「ドライ・マティーニか?」
皮肉っぽく口元をつり上げて言うと、高槻は目をしずかに閉じた。長いまつげが、青白い頬に影を落とす。
きっちり喉元を覆う、詰まった襟から真っ白なカラーが覗くいつもの法衣なのに、首から下がる銀のクロスの鈍い輝きとともに、壮絶なほど堕落した印象をもたらす。乱れた髪を直すこともしないで、高槻は酩酊したように、頭を垂れる。
「スコッチじゃ、酔えない」
うめくようにつぶやいた高槻の声は、低くかすれた。
「だからと言って、ジンをストレートでやるのは、おまえの自尊心が許さないか?」
高槻は答える代わりに目の前に注がれたマティーニを、頭も動かさないで手首だけで一息に飲み干すと、薄い笑みをゆるゆると浮かべた。フィルムがコマ落としされてゆくようなスピードで、ゆっくりと顔を近づけた高槻は貴奨の耳もとにつぶやいた。
「自尊心なんてもんじゃないさ……」
次の瞬間、高槻の唇が耳に押し当てられた。貴奨が身をひるがえす間もなく、高槻はすっと身体をひくとタチの悪い薄い笑みを穏やかな美貌に浮かべた。
「芹沢。もう間もなくして、おまえは俺を憎悪するだろうね」
背筋を氷がすべってゆくようにゾクリとした。自暴自棄なほどに透明な高槻のまなざしを見つめ返すと、彼はすっと視線を反らした。嫌な予感が当たったのだと凍りつくような意識の中で思った。それでも、貴奨は口元を皮肉っぽくゆるめる。
「どんな冗談だ?」
「冗談っていうのはこんなもんじゃないさ」
低く笑った高槻は投げやりな笑みを浮かべ、悲痛なまなざしを伏せたかと思うと、長い優雅な腕をゆるやかに貴奨の首に回し抱きしめると、耳元でかすれるような甘い吐息と共に囁いた。
「貴奨。俺をここで抱け。おまえの手で引き裂いてくれ……」
こういう時の高槻が手に負えないというのは長いつきあいの中で、嫌というほど知っていたはずだった。彼が何を考えているかまったく解らなかったが、こういう時はたいてい自分を責めている。だから、貴奨は高槻の背に手をゆっくりと滑らせた。落ち着かせるように。
しかし、高槻はその手を無造作に振り払うと強引に身体を離した。そして、壮絶な笑みを浮かべた。切りつけるように鋭い声で言った。
「……こういうのが冗談ってヤツだ」
そして、喉の奥で声を押し殺すように笑うと、肩を震わせてカウンターにうつ伏せた。目のやり場のないほど憔悴したこの男をこのままにしておくわけにはゆかず、貴奨はそんな高槻の腕をつかむと強く引いた。
「来い。三十分だけ時間をやる」
非情なほど冷たい声が自分の口からこぼれた。貴奨が立ち上がると、驚いたような視線を高槻は向ける。しかし、次の瞬間、ふっと緊張の糸が切れたようにやわらかい笑みをもらした。
「おまえは優しいな」
「来い! お望み通り引き裂いてやる」
ぴしゃりと叩きつけるように再度、貴奨が言った言葉をさえぎるように携帯のベルが胸元で鳴り響いた。露骨に眉を潜めて、それでも高槻の腕をつかんだまま電話に出る。
受話口の奥から切羽つまった声で「会長代理!」と呼ばれ、部下が流れるような早口で話しだした。薄いベールが剥がされるように内容が明らかになった時、貴奨の血液は瞬時に冷えてゆくのを覚えた。
間に合わせの指示を出す。そして、通話スイッチを切る。
「行けよ。芹沢」
高槻のやわらかい声にはっとして、ゆっくりと腕を離した。きびすを返してラウンジを後にしかけた貴奨だが、たまらず一度だけ後ろを振り返った。
ひどく傷ついたような黒衣の神父は、両肘をカウンターについたまま、両手で顔を覆って身動き一つしなかった。
それでも、貴奨は感傷を断ち切るように鋭く前を向き、歩き出した。