ロミオ+ジュリエット/8
コンクリートで打たれた外観の近代的なビルのエントランスの天井は、果てがないようなくらいに高く、靴音は一瞬だけ響くとすぐに吸いこまれてゆく。
しかし、朝の九時を回っていないこの時間でも、若い営業の連中はきっちりとしたスーツに身を包み、足早に移動をしている。それでも彼等は年若くも、経営の要を握る社長子息の顔を見かけると、機敏なしぐさで挨拶をする。社員の挨拶には押し付けられているという義務感はみじんも感じられない。それは彼が、経営の一端に就いた事によって、旧体質だったこの会社がいくぶんか持ち直し、急速に利益を上げだしたことにもよるだろう。そして、その利益は実力によって社員にきちんと還元されている。無能な幹部たちは焦ることはあっても、若く実力のある社員にとっては若い切れ者の社長子息に嫌な感情を持つものはいない。
細身の身体に吸い付くような仕立ての良いスーツをきっちりと着こなした健は、足早に重役専用のエレベーターに向かう足を止めもしなかったが、鋭さのなかにも柔和な笑みを混ぜて挨拶を返した。
数人の社員がそんな社長子息の初めて見るような柔らかい笑みに堂目したが、それは一瞬の事だ。彼等とてこなさなければならない仕事を多数抱えていたから、今日は機嫌がいい、くらいにしかおもわなかった。誰もが、婚礼帰りだとは思いもよらなかったはずだ。
健は無意識にあふれる薄笑いを押し隠すこともしないで、自身の執務室のドアを開いた。その瞬間、身体をすうっと取り巻く緊迫した冷たい空気に、表情が一転して尖って行くのを感じる。何かがあったのだと、瞬時に悟り、姿を確認する間も惜しむように、叫んだ。
「何があった」
パソコンデスクの前に座った江端は、くわえ煙草のまま顔も上げずに返す。
「どっかのバカがウチのシステムに入り込んで来た」
声は普段と変わりのない淡々とした響きをしていたが、表情は怒りが透けて見えるほど、研ぎ澄まされていた。健は身を翻すと、江端の後ろに回りモニターを覗き込んだ。乱数が画面いっぱいに表示され、それは次々にスクロールされてゆく。
時折、ほころびを繕うようなしぐさで江端はキーボードを叩き、入力してゆく。
やがて、画面を閉じもしないで、別のシステムを立ち上げ、いくつかの指示を入力すると立ち上がった。
「出かけて来る」
鋭く言うと椅子の背にかけてあったスーツの上着をつかむと江端は、ドアへ向かった。
状況の説明も何もなく、あっさりとそれだけを言うから、健は細身の身体に殺気すら込めて低く言った。
「俺にはなんの説明もナシか?」
「帰ったらゆっくりするさ」
しかし、江端は表情を崩しもしない。こういう時の江端に何を言っても無駄な事はよく知っていた。だから、健はドアを閉めようとした彼の背に鋭く言う。
「被害は?」
「ゼロ。未然に防いだ」
顔をドアから覗かせて一言告げた江端は、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「結婚おめでとう」
「おう。サンキュー」
デスクに腰を降ろしたまま、ぱたんと音を立てて閉じられたドアを見つめた健は、長めの髪をかきあげてから、煙草に火をつけ立ち上がった。
そして、今まで江端が座っていた椅子に腰を降ろし、ふたたびシステムに侵入した。それは、江端を信用しているとか、していないとかそういう種類のことでは全くなかった。ただ、自分で確認するための作業だった。
どんな経路で侵入が行われたかを確認して、江端が行った処置の正しさに満足を覚えてうっすらと微笑みながら彼が次に行ったであろう道筋をたどり、侵入者の居場所を突き止めた瞬間、健は立ち上がった。身体中の血液がすうっと下がってゆくような感覚に、足元がふらついたように思った。
なんて、ことだろう。
複雑な感情が意識をがんじがらめに縛り上げながらも、今の自分の立場なら侵入者の行動をも許さなければならないなんてと絶望に似た憤りを抱え、いろんな方向に引き裂かれるように心臓が鋭く痛んだ。
それでも、健は江端を止めなければならなかった。
間にあってくれと、祈りながら、ドアを開いてバイクの留められている駐車場へ急いだ。