Happy Birthday to・・・(前)
12月23日 PM10:30。
イエロー・パープルのカウンターで、絹一はしかめ面をしながらグラスを傾けていた。
思い出したくなくても、どうしても頭がなぞってしまう、10分前の電話。
「え、来れないって、どうして・・・?」
今まで約束の時間の10分前にはついて、ほとんど自分を待たせたことのない鷲尾からの電話の内容は、今日の約束の、土壇場のキャンセルだった。
――わりぃ、ちょっと断れない客につかまっちまったんだ。何時までかかるかわからねーから、先に帰っててくれ。
心底申し訳なさそうな声が、耳に当てた携帯電話から流れてくる。
「そう、ですか・・・」
絹一の頭に、鷲尾が以前海外旅行まで付き合った客がいたことが思い浮かぶ。
おそらく、その人だろう。
「わかりました。じゃあ少し飲んでから帰ります。おやすみなさい」
声が不機嫌になりそうなのを何とかごまかして、絹一は通話を切ったのだった。
明日は、いや、もう一時間半後には自分のバースデイだ。
『23日、仕事が終わったら会おうぜ。10:30にローパーで待ちあわせな』
24日は丸一日一緒にいよう。そう言ってくれたのは鷲尾だった。
昔は、誕生日をこんなに特別に思うことなんてなかった。
ただ、自分が生まれてから何年かが過ぎた、ということをあっさりと受け止めるだけの、日常とそうたいして代わり映えのない一日。祝ってもらった記憶も、ほとんどない。
ましてや、この歳になって、誕生日など気にすることでもないはずだった。
それが、特別な日に変わったのは、特別な人ができてから。
共に祝い、自分がここにあることを喜んでくれる人がいるからこそ、その日を自分も大切に思うことができる。
なのに、急なキャンセルで、その気持ちがふわふわと浮いてしまった。
大切に思っていたのに、それは彼が一緒に過ごしてくれるから大切だったのに。
「鷲尾さんのバカ・・・」
思わずそう呟いたとき、斜め後ろでクスリと笑い声が漏れた。
驚いて振り向くと、そこには支配人の一樹・フレモンとが立っていた。
「随分とまずそうにお酒を飲んでいるから、何か変なものを出したのかと思ってしまいましたよ」
くすくすと笑いながら隣のスツールに腰を下ろす。
その目の前に、無言でコトリとバーボンのグラスが置かれた。
「卓也、『サンライズ』を」
一樹の言葉を受けて、バーテンがシェイカーを振りはじめた。
「鷲尾さんと、喧嘩?」
バーボンを美味そうに飲みながら、一樹が絹一を流し見る。
その目の色っぽさに思わずどきりとしながら、絹一は苦笑した。
「いえ、そうじゃないんですけど・・・。急な用事が入ったみたいで」
おそらくさっきの電話も聞かれていたのだろうが、あえて言わないところが一樹のやさしさだ。
そのとき、絹一の目の前にすっと『イエロー・パープル』のロゴの入ったコースターが置かれ、音もなくロート型のカクテルグラスが乗せられた。
「俺からのオゴリ。もうすぐ、誕生日でしょう?」
極上の微笑で「乾杯」とグラスを差し出してきた一樹にカクテルを取り上げてあわせながら、絹一は驚いて聞いた。
「よく憶えてくれてましたね。言ったことありましたっけ?」
「前に一度ね。そのときに桔梗と同じだなって思ったから・・・。ああ、言ってなかったっけ。桔梗も明日なんだよ、バースデイ」
カチン、とグラスを鳴らしてから、一樹は一息で残りのバーボンを飲み干した。
「一樹、おかわり」
ほとんど溶けていない氷の上に、新たに酒が注がれる。
「へえ、そうなんですか」
絹一もカクテルを喉に流しつつ、桔梗の顔を思い浮かべる。
整った、元気そうな顔立ちは、この店で何度か見かけたことがある。確か、目の前のバーテンと恋人同士だったはずだ。
「いいんですか、卓也さん。仕事なんかしてて」
思わず自分の境遇に重ね合わせてそう問い掛けると、卓也は苦笑しながらグラスを磨き始めた。
「ここを閉めた後に、寝るまもなく長距離ドライブですよ」
「がんばってください」
眉根を寄せつつ答える卓也に、絹一は笑って励ましの言葉を送った。
そして、自分の発した問いを後悔した。
隣に鷲尾がいない。ただそれだけなのに、とても寒く感じる。
思わず溜息をつきそうになったが、一樹と卓也の手前、何とか平静を保った。
そのとき、キィッとドアの開く音がした。
鷲尾かと思って思わず振り向いた絹一の瞳が、入ってきた人物の瞳とぶつかる。
残念ながら、鷲尾ではなかった。
入ってきた人物は、黒のロングコートを見事に着こなしている長身の男性だった。
歳は、30は過ぎているだろうが、いくつか読ませない。立ち居振舞いはきれいで、歳をとっているようにも、若くも見えた。
「貴奨さん」
隣の一樹がすっと席を立って、彼を迎えに行った。
「どうしたんですか、こっちに顔を出すなんて、珍しいじゃないですか」
一樹が男の肩からコートを滑らせ脱がせると、腕にかけてカウンターへと誘う。
「ああ、一時間後にここの近くで待ち合わせをしているんだ。時間をつぶしに来た」
今まで一樹が座っていたスツールに腰を下ろすと、卓也がちょうどいいタイミングでグラスを差し出す。
「ありがとう」
礼を言って受け取り、とりあえず、といったふうに口をつける。
そして、ちらり、と絹一を見て、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。
そこで初めて、絹一は相手を見つめていたことを知り、慌てて目をそらした。
随分と長身な彼は、おそらく鷲尾より高いだろう。ということは190前後はあるはずだ。長い足をカウンターの下で持て余し気味にしている。完璧な8頭身のプロポーションは、おそらくどんな服でも着こなすだろう。今着ているのはアルマーニだろうか、随分と似合っている。
顔立ちは彫りが深く、端整といっても自分のように女っぽくはない、男らしい雰囲気を醸し出していた。
いい男。誰でもそう思うタイプだ。
思わず見つめてしまった恥ずかしさをごまかすように、絹一はカクテルを飲み干した。
そこへ、男のコートを掛けに行っていた一樹が戻ってくる。
「ずいぶんと久しぶりですね。ちょうど今は忙しい時期じゃないんですか?」
「ああ。10日ぶりの休暇だ」
親しそうに話し掛ける一樹が、絹一と男のスツールの間に立つ。
「ああ、穐谷さん、紹介するよ。彼はね、芹沢貴奨。こう見えてもホテルマン」
その紹介の仕方に、貴奨は眉根を寄せる。
「何だその、「こう見えても」ってのは」
「だって、あなたそんなおカタイ職業やってるようには見えないし」
くすくすと笑いながら、そのたくましい肩にしなだれかかる。
「で、彼は穐谷絹一さん。5ヶ国語を操る通訳さん。ねえ、穐谷さん。彼、これから1時間ヒマなんです。話し相手になってやってくれませんか?」
それが、今夜一人になってしまった自分への気遣いだということに気づいて、絹一は自然と微笑んだ。
「はい」
そう素直に返事をした絹一に、一樹はいとおしいものを見つめるような視線を寄越した。
「やっぱりかわいいなぁ、穐谷さん。貴奨さん、手、出さないで下さいね。卓也、穐谷さんにもう一杯『サンライズ』を」
それだけ言い残すと、他の客のところへと行ってしまった。
一方残された絹一は、一樹に「かわいい」と言われたことがちょっとショックで、思わず溜息を漏らしてしまった。
それを貴奨にクスリと笑われて、とりあえず気を取り直し、隣に座る男に笑みを向けた。