桜語り 3
一方で若者は、何とかしてこの美しい青年の笑顔を見たいと思っていました。
いつも不安げに揺れているこの瞳を見て、何度、抱きしめたいと思ったことでしょうか。
「花霞」と言う名をつけたのも、青年が儚げで、いつか霞みのように消えてしまうのではないかと思ったからでした。
だから若者は、花霞がどこにも行かないように、毎日ここに通うことにしたのです。
……今日も花霞は笑ってくれません。心に張り巡らされた壁は、まだまだ高く厚いのです。
しかし若者は、少しずつではありますが、花霞が自分に心を開き始めていることも、同時に感じていました。
ふたりが出逢って、ひと月が経ちました。
そのあいだ、若者は一日も欠かすことなく花霞のもとへ通いました。
今では、花霞はもう随分と柔らかい表情をするようになりました。
春の陽気で桜の蕾がほころぶように、若者のあたたかい笑顔で、花霞の心もだんだんと溶けていったのです。
若者が隣りにいることに慣れ、なにかを聞けば、答えてくれるようにもなりました。
しかし花霞の方から声をかけることはありませんでした。
それに、まだ笑顔も見せてくれません。困ったような、はにかんだ笑顔を浮かべることはあっても、若者が見たい笑顔からは少し遠いものでした。
なぜ笑うことができないのか、花霞自身はいやと言うほど分かっていました。
花霞の心には、けっして溶けることのない塊が沈んでいるのです。
今は人間の姿をしていても、花霞は鬼なのです。
変化の下には紫微色の肌と、白い髪が隠されています。
その事実が、花霞の笑顔に暗い影を落としているのです。
しかしそれを忘れてしまいたくなるほど、若者との時間は心地よいものになっていました。
いつまでも、このままでいたいと思うのです。
花霞にとって、ただひとつの願いでした。
………吾の本当の姿を知っても、あの人は吾のそばにいてくれるだろうか……。
そんなことばかりが頭の中を駆け巡るので、花霞はどうしても笑うことができませんでした。
若者との別れを考えると、胸が締めつけられるように痛むのです。
もう二度と、大切な人は失くしたくないのです。
若者が帰っていったあとは、いつも淋しい気持ちが拭えません。
夜はこんなに長く暗いものだと、花霞は初めて知りました。
ひとりでいるのはもう、疲れました。
何もかも、あの若者の腕に委ねてしまいたいのです。
ぐっすりと、優しい温もりに抱かれて眠りたいのです……。
そしてまもなく、花霞は運命の日を迎えるのです。
桜の山が、満開の頃でした。