夢十夜 五
こんな夢を見た。
(寒い…)
肌に染みる冷たさに、桂花は呟いた。背に当たる壁は冷たく堅い。ごつごつと湿った岩肌。辺りは一筋の光も差さない暗闇。
(ここは魔風窟…?)
濁った空気のよどむくらがりに、魔界の洞窟かと桂花は思い出した。ずいぶんと奥に来てしまったらしい。目の前のものもなにも見えない真っ暗闇に、不安を誘われ、思わず声に出した。
「李々っ、李々っ」
声が岩壁にこだまして、闇から響き渡る。
李々、李々、李々…。
嘲笑うようなその響きに、桂花はふと立ち尽くした。胸の奥が冷たくひえる。
そうだった。
李々には置いて行かれたのだ。
自分は、この世に独りきりだ。
*
「…か、桂花っ」
耳の傍で誰かの声が呼んでいる。
瞼に映る世界はまだ暗い。桂花は目を閉じたまま、耳朶をすべる冷たさを感じた。
泣いている。真っ暗闇の中で、よるべもなくて、さみしくて。涙の冷たさが、魂まで冷やす孤独の冷たさと一致して、暗い視界に飲まれていきそうな心細さに、諦めてただ身を任せようとしたとき。
「桂花、桂花っ」
また声がして、温かな手が、こすり取るように頬を拭った。ふいに、体が引き起こされて、ぬくもりにしっかりと包み込まれた。髪を撫でる手。確かな胸。心配そうな声が、
「桂花!」
「…柢王」
目を開いて、桂花は事情を悟った。
薬草の匂いがほのかに漂う部屋はまだくらがり。夜目の利く紫水晶の瞳に、それが、見慣れた自分たちの家だと映る。冷えた体を半ば抱きかかえるように胸に抱いてくれていた男の顔が、その声に、ぱっと安堵の笑みを浮かべたのも。
「柢王」
「大丈夫か、うなされてたぞ」
覗き込んでくるその顔を、桂花は底知れぬ安堵の思いで見返した。暗闇に、間近に見るその瞳が一筋の光のように思われる。
「大丈夫か、桂花。おまえ、震えてないか」
耳元に唇を押し当てて、柢王が尋ねる。言葉を捜すより先に、優しい声がはげますように続けて、
「怖い夢か。俺がいるだろ、もう泣くなよ」
しっかり抱きしめ放さない。桂花は思わず涙の浮かんだ瞳を、見せないように、かれの肩に顔を押し当てた。
近頃、急速におとなびてきた柢王は、背ももう桂花よりだいぶ高い。精悍で、凛々しくて、頼りになる。若い樹木が育つように、短期間で見る見る変わっていくようだ。
でも、かれは桂花を置いてはいかない。さみしい夢を見た夜に、誰より先に気づいて、名を呼んで、流す涙を諦める前に、温かい手で拭い去って抱きしめてくれる。変わるものへの恐れを心が呼び覚ます前に、確かな現実でぬくもりを与えてくれる。
この安堵…この愛しさをひとは愛と呼ぶのだろう。そんな言葉では縛れないくらいに、ただ愛しくて、恋しくて、泣きたくなるほど。
「夢を見て…」
桂花が呟くと、柢王がうん?と覗き込んでくる。どんなことでも見逃さないでいようとする顔で。桂花はそれに微笑んで答えた。
「夢を見て…昔、李々がいなくなった頃の。魔風窟の真っ暗闇で、李々の名前を呼んだ。置いていかれたんだと気づいたところで、柢王、あなたの声がした」
「桂花」
抱きしめる腕が強まって、桂花はかすかに息をついた。
「大丈夫ですよ、柢王。あなたが、吾を見つけてくれたから」
そう微笑むと、心配男は桂花の顔を真顔に見て、
「そうだぜ、桂花。俺がいるから泣くなよ」
もう泣いてもいない桂花の頬を指で拭う。そのあたたかさ。桂花は笑って、
「泣いてなんかいませんよ」
胸の不安も見透かして、全て包み込もうとする目からかすかにまなざしをずらす。それは迷いからではなく、見つめていたら愛しくて泣き出しそうだからだ。そのことは伝わっていてほしいと、その首に腕を回して身を預けた。
「俺がいるから心配すんな」
いつものように、柢王が囁く。耳の傍で。
「おまえには、俺がいるから心配すんなよ、桂花」
「わかっていますよ、柢王」
「絶対離さないから」
「わかってるったら」
「俺がずっと側にいる。約束するから」
「ええ」
「絶対に離さないから、もう泣くな」
泣いているこちらより、胸が辛いのだと囁くように。でも、そんなことは言わずになぐさめて、抱きしめてくれる年下の恋人。
心の底から愛しいと思える人がいま、腕の中にいる幸せ。この肌にぬくもりを、この胸に優しさをくれる大切な人。
桂花はその腕の中で、目を閉じ、囁いた。
「あなたがいるなら、世界が死んでも泣きませんよ……」
*
(寒い…)
瞳を上げると広がる蒼い暗闇に、桂花はひとり息をひそめた。
命のない身に月日など関係あるかと嘲笑いながら、ここ数日、夢に見た幸せな頃の記憶を脳裏に蘇らせる。
柢王の側にいた幸福な時間。
自分がいまなぜそれを思い出すのかが、桂花にはわかる。月日の流れの中で日に日に蘇る思い出は、生きている人の生み出してくれるもの。懐かしい、愛しい、泣きたくなるほど恋しい思いは、日に日にそれをくれた人に似てくる人の蘇らせてくれるもの。
そして、それは百年の孤独を桂花の心にまざまざと思い出させるものでもあった。
柢王が死んでから、桂花は幾度もかれの夢を見た。幸福だったと思えるときのことも、最悪だったときのことも。
夢の終わりはいつも唐突で、目覚めれば世界はいまと同じ、時をとめた静寂。遠くに水の音のする、地の底、死者の国。青白い闇の中で声をあげて泣き崩れたのはいつの夜か。
いまの桂花はもう泣くことはない。ただ、傍らの、冷たい体に頬を押し当てて、その名を呟くだけだ。
「柢王…」
もう泣くなとも言わない、桂花のことなど何も知らないその空の器は、だが、桂花が誰より愛した男のものだ。輝いていた瞳も笑顔も優しさもその熱さも、すべてを失って存在する、冷たい屍であってすら。
「柢王…ごめん」
冷たい手に指を絡ませ、桂花は囁く。
日ごとに思い知る。理解せずにはいられない。
たぶん、自分は間違っているのだと。わかっている。だから…
「許して……」
このまま百年のときを、物言わぬ身体として側にいさせることを。それはむなしい、悲しい行為にすぎない。かれは生きて、闘って、死んでいった。その時にあった全てがかれの存在の全て。こうして身体だけ再生されて存在を残すことなどきっとかれは望まなかっただろうけれど。
(吾たちに未来はないから…)
柢王の魂はカイシャンという子供のなかに生まれ変わった。そして、その子供は桂花に、それが確かにかれの魂を持つのだと日に日に思い知らせるけれど。
(でも、もうあなたはいない)
だからこそわかる。命の終わりの短い人の子として存在するあの子供を見ればこそ、愛した男が失われた事実がどうしようもない真実で胸を貫き通す。
生まれ変わる自由な魂。魂を持たない死者である自分。
それはどんな未来も自分たちにはないことの証だった。
いや、未来など端から自分たちにはなかったのかも知れない。天界人で王族の柢王と、魂を持たない魔族の桂花。出会えたのも愛し合えたのも奇跡に違いない。桂花と出会ったことで、柢王は多くのものを手放した。それでも、おまえがいればいいと笑っていた。そんな風に愛されるのは二度とはない奇跡だ。
その奇跡の記憶を大切に抱いて、それだけでいいと言い切れる強さがあればどんなにかよかっただろうに…!
恋しくて恋しくて恋しくて……!
絶対に離さない、そう囁いてくれた言葉がどうしようもなく切なくて。
生きている間には惜しみなく慈しんで、その腕で守って、最後の最後までいとおしんで胸の中を満たしてくれた大切な人。生きることの自由さと誇り高さを、崖っぷちで飄々と風を受けるような顔で示してくれた人。
(おまえは強い)
そう笑っていた記憶の笑顔がいまでも鮮明に思い出せる。何もかも覚えている。何もかも色褪せていない。
(違うよ、柢王。強かったのはあなただけだ。あなたはちゃんと吾の手を放したのに、吾はいつまでもすがりついている…)
この恋に。百年もすがりつこうとしている。愛した男はもうどこにもいないというのに。
「柢王…」
桂花は呟き、掴んでいた冷たい手を頬に押し当てた。わかっている。きっと自分は間違っている。だから。
(お願いだから、今度は誓って……)
生まれ変わることなど望まない。未来などいらない。ただ、もしいまこの世のどこか過去の場面で、この手が自分の手を選ぼうとしてくれいるのであれば……。
(共に死ぬことを求めると誓って)
魂を持たないこの身に、それが全ての終わりだとしても、愛しい男の手にかかる死であっても、二人の地が交じり合い地に吸い込まれていく時まで、側にいて、共にいて、最期の時まで側にいたい。
未来などいらない。むなしい望みを期待する心とは裏腹にもうどこかで気づいているから。生きていることも、愛していることも、ただ一度だからこそ意味を持つと。永遠に咲く花などいらないのだと、もうどこかで自分はわかっているから。
だから、もし許されるなら過去に、全てを終わらせる誓いを求めさせてほしい。
それが胸いっぱいの愛で満たしてくれた人に求められることではなくても。自分が執着の結末を知らずに求めたことの真実を知らなかったのと同様に、
(死ぬことと生きていることとは違う)
そう言ったその時に、その言葉の真実を知らなかったのだとしたら―。
命を失うより大切なことがある。
愛する者と死ぬことは、百年の冷たい夜に、胸を切り裂く孤独な夢より、はるかにましだから―。