夢十夜
こんな夢を見た。
「桂花! 桂花!」
そんなに飲んだ記憶もないのに、頭の中がふわふわとして夢を見ているようだ。甘い香やおしろいの匂いがほのかに漂う廊下を歩きながら、柢王は必死な面持ちで状況を振り返った。
抑えた照明。絢爛な蒔絵の天井。それとは対照的に煌々と明かりの点る向こうの座敷から聞こえてくる音曲と女たちの笑い声。それは慣れ親しんだ東領の花街の楼であるらしい。
「桂花、水…」
後頭部にずんとくる重みと共に絹の寝所でそう呟いたのは少し前。なんだかやたらと頭が重く、喉が渇いて目が覚めた。目が覚めたことに驚いて、本当に飛び起きた。
なじみの店で酒を過ごしてつい寝込む。そんなことは今までにも幾度もあった。ふらふら連れ帰られたり、時にそのまま泊り込んだり。花街は柢王の庭先だったから、多少の羽目外しはいまさらのことだ。
だが、今夜は何かが違う。目覚めた柢王には自分がなぜここに寝ているかの記憶がなかった。なぜ自分が花街にいるかの記憶さえない。寝かされていた部屋はなじみの店の離れのもので、調度にも見覚えがある。
(飲みすぎた記憶がないほど飲みすぎたかぁ?)
ふらふらして思考散漫な頭の重みに、半ばあぜんとそう呟いたが、いくら酔っても完全に沈没するなど考えられない。第一、いつもなら目が覚めれば誰かがすぐに気づいて声をかけてくれる。それがいまは柢王が廊下をふらふら歩いていても誰も気づかないどころか通りかかりもしない。そんなことは初めてだ。
いや、まず桂花の姿が見当たらない。表座敷へ向かう廊下を歩きながら、柢王は必死で桂花の姿を探した。
「桂花! 桂花、どこだっ!」
心細いような、おかしな気持ちにとらわれる。体が自由に動かない。表座敷の明かりは目の前なのに、足が重くて、頭がふらつく。見えない網で体を絡めとられるような不快感に、漆黒の柱によりかかるようにして、
「桂花! けーかーっ」
思わずも情けないような大声でそう呼んだとき。
「何を大声を出しているんですか」
ピシャリと近くの引き戸が開いて、桂花の不機嫌な声がした。
「ああ、桂花、よかった!」
ほっと振り向いた柢王の顔が唖然となる。
「け、桂花?」
近くの座敷の引き戸を開けて、こちらを見下ろしているのは確かに桂花だった。酔っていようが、眠っていようが間違えるはずがない大事な大事な相棒兼恋人。だが、そのなりは…。
「おまえ、何やってんだ?」
おそるおそるそう尋ねた柢王に、桂花は刺すような視線をくれた。色素の抜けた髪に一筋の赤い髪。紫微色の肌には魔族の美しい刺青。
だが、そこにいる桂花は、髪を高く結い上げ、身にまとっているのは美しい絹の装束。耳朶に揺れる耳飾。紫水晶の瞳を際立たせるような銀をまぶたに、紅を唇に。絶世の美女さながらに、妖艶な楼の女の装いをしていたのだ。
(俺、そんな要求出したっけ…?)
一瞬、体の不調も忘れて、冷や汗とうれしさ半分、伺い見る柢王に、
「なにを寝ぼけているんですか、あなたは」
いつものはっきりとした口調で桂花は言って寄越した。
「花街で、密売品絡みの取引があるらしいって言ったのはあなたでしょう。その証拠を掴むためにわざわざこんな格好で女たちに混じって調査をしていると言うのに、あなたはご機嫌で大酒を食らって爆睡ですからね。吾がどんな起こしてもおきなかったんですよ」
いいかげんにしろとばかりの鋭い口調に、柢王は顔を強張らせる。
「ご、ごめん、桂花。あ、そうか、潜入捜査ね。ああ、そう言われればそんな気も…ごめん、飲みすぎだよな、記憶が…」
記憶がまるでない。不機嫌な桂花にそんなことは言えず謝る柢王は、しかし何かがおかしい気がしてならない。潜入捜査? そんな大事なことを忘れるか? 第一、桂花のなりは確かに美女だが、誰がどう見ても魔族にしか見えない。それも、東領では知れ渡った『柢王の大事な』魔族にしか。
だが、そんな柢王など気にもとめず、桂花は豪華な衣装のすそを返すと、座敷の方に足を向けて、
「まったく、あなたと来たら。酔っ払いなら休んでいなさい。吾は向こうの座敷の客に呼ばれています。少しでも多くの者に話を聞かなくてはなんのための捜査ですか」
ぴしゃりと言って去っていこうとする。柢王は待った! と叫んだ。おかしい、何かがおかしい。魔族の桂花が女装して、花街の座敷に出るのの何が潜入捜査なのか。いや、それよりなにより、そのまぶしいほどの姿を他の男に見せるのもいやだ。いや、と、いうよりその前に、
「呼ばれているって、誰に?」
そんな命知らずの男が東領にいるなら見てみたい。いや、見たくはないが、何がなにやらわからない。
と、座敷のほうから女将が小走りにやってくる。柢王を見ると微笑んで、
「まあ、お目覚めでございますか、柢王様。桂花様をお連れに参りましたのよ。お客様から矢の催促でございますもので。柢王様はどうぞゆっくりお休み遊ばして」
「休んでられねーって!!」
柢王は叫んだ。頭の芯がぐらりとした。ふらつきながらも二人の顔を見比べて、
「なあなあ、俺がおかしいのか。何で桂花に指名がかかるんだよ。てゆーか、何で桂花がこんななりしてるんだよ。俺はそんな指示を出した覚えがないんだけどっ」
いくら酔っていようが非常時だろうが、桂花を魔族のなりで着飾らせて座敷に出すような真似をさせるはずがない。ましてや他の男の座敷など。
蒼白になって訴える柢王に、しかし、二人は冷静に、
「柢王、酔っていますね」
「まだお休みになられたほうが」
「ちっがーうっ!!」
拳を固めて訴えるが、桂花も女将も知らぬ顔で、
「では行きましょうか」
「そうですわね」
「待て待て待て!! だめだ、絶対行かせない」
「柢王、放してください、着付けが大変だったんですから」
「そーゆー問題じゃないだろっ。なあ、桂花、俺が悪かった、作戦は変更、俺と一緒にうちに帰ろう、頼むからそんな姿で他の男の座敷になんか出るな、頼むからっ」
頭の芯がグルグル回りながら、桂花の袖を掴んで訴える。
と、そのとき。
「女将、遅いぞ!」
いつの間にか開け放たれた座敷の戸の向こう、きらびやかな座の奥から、痺れを切らせたらしい客の声が響いた。その声に、柢王はうそだろーっと絶叫する。
あでやかな美女たちを大輪の花々のようにはべらせて酒を飲んでいるあの男。顔が見てみたいどころか、生まれついてこの方出来る限り顔も見ないで過ごしてきたあの男が…
「輝王が桂花の客だってえぇぇぇ」
天界切っての魔族嫌いで自分好きの義兄弟がっ。
「ありえねえってーっ」
絶叫した柢王に、桂花と女将は冷ややかに、
「何言っているんです、柢王。輝王様は吾の大事な客です。花街のことをいろいろお聞きしているんですから」
「輝王様っ?」
「輝王様は桂花様がたいそうお気に入りで。やはり美しいものに目の肥えたお方ですから」
そんな馬鹿なことがあってたまるか!
「さあ、行きましょう、女将。ずいぶんお待たせしましたから」
「そうですわね、では柢王様、ごゆっくり」
「ごゆっくりじゃねえって! 桂花、桂花っ、行くな、俺は絶対嫌だからな、桂花、頼むからやめてくれ、何でも言うこと聞くから、頼むから、輝王だけはやめてくれーっっっ」
ぴいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ
「柢王! あなた何しているんですかっ」
鋭い桂花の声に、柢王ははっと身を起こした。目の前には怖い顔をした桂花と、青い羽が飛び散って、冰玉がぴいぴい悲鳴を上げて羽をばたつかせている姿。そして、その冰玉を胸にぎゅうぎゅう抱きしめて身を強張らせている自分…。
「放してください、早く! 死んでしまうじゃありませんかっ」
桂花が柢王の腕の中から冰玉の体を奪い取る。青い鳥はブルブル身を震わせ、さかんに抗議の声を上げている。
「ゆ、夢…?」
見れば薬草の匂いのほのかにする二人のうちの寝台である。花街も輝王もみんな消えてしまって、あるのは鈍い頭痛と、
「桂花ぁ!」
いつもと同じ、薬草のにおいのする桂花。
だが、抱きしめようとした柢王の腕はかわされ、桂花の不機嫌極まりない声が、
「花街で酔いつぶれて帰って来るのはいいですが、いきなり寝ていた冰玉を掴んで抱きしめるなんて、あなた、何の夢を見ていたんですか。吾が悲鳴で気がつかなかったら、死んでしまっていましたよ」
頭ごなしに叱り付ける。
「ごめん、ごめん、だけど本当に嫌な夢を見たんだ。おまえが…」
柢王はあわてて言いかけ、はっと口ごもる。桂花の目が鋭く光る。
「吾に言えない夢ですか」
「いや、そうじゃないけど…てか、そいつ大丈夫か、俺、気がつかなくて」
まだ桂花の腕の中で震えている冰玉に指を伸ばすが、危うく主人の馬鹿な夢のために圧死しかけた鳥はぴぃと鋭く鳴いて柢王の手を拒んだ。桂花も冷ややかな顔で、
「俺が悪かった俺が悪かったって、何度もおっしゃっていましたけど、そんなに悪いことをしているんですか。吾に言えないようなこ・と・を?」
紫水晶の瞳が光り、明けがたの気温は最低温度。柢王は冷や汗を感じた。どうやら泥酔状態で見た悪夢にうなされ、平和な家庭に不和の種を蒔いたらしいのがわかり、あわてて桂花と冰玉にいま見た夢の顛末を聞かせた。
「…ってことで、俺は生きた心地がしなかったんだって。だから冰玉、ごめんな。わざとじゃないんだ。桂花を引き止めたくって」
謝る主人に龍鳥の方は仕方ないといいたげに、ぴいと鳴いたが、恋人の方はあきれきった顔で一言。
「ばっかじゃないですか」
ばっさり切って捨てると、身を起こし、寝台を離れる。
「おい、桂花、どこ行くんだよ」
柢王があわてて身を起こそうとするのに、
「酔っ払いはまだ寝ていなさい。吾は薬草を積みに行きます。あなた、しばらくは禁酒してください。そんな夢で冰玉が死んだらどうするんですか」
おいで、冰玉と手を伸ばすとさっさと外へ出かけていった。
どうやら二日酔いらしい鈍い頭痛を抱えた柢王は、寝台で大きくため息をついた。
「最悪な夢だった…」
桂花はしばらく機嫌が悪いだろうなあと頭をかく。
「でもあの桂花はすげえ色っぽかったよなぁ」
夢の中の艶姿を思い出し、にやにや笑う。花街のあでやかな姿まではいかなくても、着飾り、その美しさを存分にさらした姿。
「ただし、座敷は俺限定」
懲りない三男坊はそのうち桂花を着飾らせて堪能することを夢見て、酔いの残る二度寝をむさぼることにしたのだった。