花開蝋月(前)
馬首径徯度嶺帰
王師至所悉平夷
担頭不帯江南物
只挿梅花一両枝
歩む馬の背に揺られながら、桂花は空を見上げた。
12月の外気は ぴぃんと どこまでも澄んでいる。
天空に輝く星々は今にも凍て砕けて降り注いできそうだ。
遠くから風が運んできた雪の欠片が時折視界をよぎってゆく。
白くかすむ息を長く吐いて、桂花は背中に向かって問いかけた。
「寒くありませんか?カイシャン様」
「・・・大丈夫だ・・・・」
背中から返る声は、まだ湿っていた。
・・・・・バヤンが死んだ。
父親にも等しい、いやそれ以上の存在であった彼の死が、今カイシャンにどれほどの喪失感を与えているのか。
バヤンは最期までカイシャンのことを気遣っていった。
カイシャンはバヤンの亡骸に取りすがって、泣いて泣いて泣いて・・・
そんな彼を桂花は抱きしめて宥めようとしたがカイシャンの涙は止まらず、まぶたが腫れてもまだ泣き続けたものだから、目が開けられなくなるほどまぶたが腫れ上がってしまったのだ。
まぶたを冷やすことにより、かろうじて目は開くようになったものの、そんな状態のカイシャンを一人で家に帰せるわけもなく、彼を馬に乗せて自分が手綱を引いて彼の屋敷まで歩いて帰るつもりでいたが、お前にそんなことをさせるくらいなら俺が歩く、とカイシャンが突っぱねたのだ。仕方がないので鞍を外して桂花が前に乗って手綱を取り、カイシャンがその後ろに乗るという二人乗りで帰ることになった。
二人も乗せた馬の歩みは自然ゆっくりとしたものになる。
整然と整備された大都の北西区画の夜道は人通りもなく、しんと静まりかえっていた。
(・・・夜で良かった)
桂花は思った。騎馬で大陸を制したことで名高い王族の末裔が、鞍を外した馬に二人乗りでしかも後ろに乗っているところなどを人目にさらさずに済んだ事に桂花はほっとしていた。
桂花の背に頬を押しつけてほとんど黙りこくっているカイシャンの腕は、馬上から落ちないように
掴まるというよりは、すがりつくような痛々しい強さを持って桂花の体に回されている。
桂花はそっとカイシャンの手を見おろした。禁軍に入って修練に明け暮れる彼の手は、幼さをまだまだ残しながらも力強い男の手に変わろうとしている。
「・・・・・」
―――その手で、カイシャンは桂花の手をずっと掴んで離さなかったのだ。
まぶたを冷やすために別室の寝台の上に仰向けになっている間も桂花の手を掴んで離さなかった。
そのため、まぶたの上の濡れ手巾を取り替えることもままならなかったのだ。
桂花がどれほど「ここにいます」といっても、うわごとのようにカイシャンは繰り返し言ったのだ。
―――「どこにも行くな」と。
掴まれたところはまだ赤みが残っている。
「・・・・・」
・・・柢王は滅多に桂花に弱さを見せようとしない人だった。
それが寂しいと思わないでもなかったが、その強さゆえに桂花は彼に己の運命をゆだねることが出来たのだろうと今では思う。
・・・だからこそ とまどうのだ。
成長するにつれ、ますます柢王に似てきたこの子供に泣かれてしまうと、桂花はどうしていいのか分からなくなる。
小さな子供の頃なら良かったのだ。抱き上げ、あやしてやればそれでよかった。
しかし、自分とあまり背丈が変わらなくなってきた今ではそういうわけにもいかない。
――― 人の子の 何と成長の早いことか―――・・・ 桂花はこの現実に打ちのめされる。
彼はもうすぐ大人になる。全身で寄りかかられても、もはや彼を受け止めることは出来ない。
(吾に残された時間は、もうあまりない―――・・・ )
いや、もはや一刻の猶予すらないのかもしれない。彼の人間としての幸福を望むというのならば。
彼が天に選ばれた人であるというのならば、彼を支える者達が彼の周囲に集まり始める時機だろう。
(離れなければ)
そう思う桂花の背に頬を押しつけていたカイシャンが身じろぎし、鼻を啜りながら言った。
「・・・お前の家に泊めてくれ、桂花。こんな顔、みっともなくてシビュラに見せられない」
「・・・吾ならよろしいと?」
考え続けてもおそらく堂々巡りになってしまう思考を破られたことに安堵しながらも、桂花の考えていることなど何の斟酌もしていないだろうのんきなカイシャンの言葉に、わずかな苛立ちを感じながら桂花が返す。
「生まれた時から俺を知っているお前に、今さら何を隠すことがあるって言うんだ?」
「・・・・・」
「俺の家には、バヤンから貰った物がいっぱいあるんだ。 ・・だから・・・・」
その一つ一つを見るたびに、バヤンと過ごした思い出が溢れると同時に、彼はまた泣いてしまうのだろう。彼はそれを館の女達に見られたくないのだ。
「・・・・・」
桂花は黙って馬首を返した。我ながら甘い、と思いつつ、安心したかのようにわずかにゆるむカイシャンの腕の感触に、今の状態の彼を放り出せるはずもないと桂花は自分に言い訳をしながら。