花開蝋月(後)
桂花は黙って馬を進める。雪の欠片が桂花の頬をかすめ、ゆっくりと溶けて頬をつたう。
まだ遠い場所にあるが、雪雲が近づいてきている。吹く風の中に雪の気配が強くなって桂花の肩や髪に降りかかり、白くかすませる。
二人ともしばらくの間互いに黙りこくって馬の蹄が規則正しく地を打つ音を聞いていた。
ふいにカイシャンが ぽつんと呟いた。
「梅関の梅は、もう咲いているかな・・・」
特に返事を期待したわけでもないのだが、間をおかずに桂花が静かに応えた。
「・・・この時期なら、もう梅関の梅は咲き誇っていることでしょう」
梅関とは、古来よりの交通の要路であり、関所が置かれまた梅の名所でもあることから名付けられた景勝地の名だ。
泉州よりももっと南下した地にある梅関は、冬でも暖かいと桂花は記憶している。
しかし、カイシャンはその地に赴いたことはないはずだった。
「・・・そうか大都はまだこんなに寒いのに、・・もう咲いているのか。・・・・見てみたいな・・・」
「どうしたのですか、いきなり梅関の話などされて」
どこか懐かしげに話すカイシャンに、桂花が訝しげに問い返す。
桂花の背に頬を押しつけたまま、カイシャンはかすかに笑った。いや、笑おうとした声はかすかな
吐息となって桂花の背に消えた。
「・・・・・ずっとずっと前の、俺がもっと小さかった時に、・・・ああ、バヤンから直接じゃなくてさ・・・、他の人から聞いた話なんだけどな・・・。南宋を平定して故郷に帰る途中で通った、梅関っていう所で、バヤンが詩を詠ったらしいんだ・・・」
言葉を紡ぐにつれて、カイシャンの声は次第に湿り気を帯びる。
桂花の背に頬を押しつけたまま話すので、声の振動が桂花に直接伝わってくる。
カイシャンの気をそらすために、桂花はわずかに身じろぎして言った。
「少し遠い山中になりますが、良い花を咲かせる早咲きの梅の大木を知っています。・・・花の時期にお連れしましょう」
代わりにはならないかもしれないが、それでカイシャンの心を慰める事が出来ればいいと思った。
「ああ、それはいいな・・・」
今度はちゃんとカイシャンは笑った。
そして桂花の体に回した腕に再び力を込めた。
「すごくいいけど、・・・きっと また 俺は泣く と思う・・・・・」
腕の力とは うらはらに、ひどく頼りない声だった。
「来年も、再来年も、きっと花が咲くたびバヤンを思い出して俺は泣くと思う・・・」
泣いていないのが不思議なほどの弱々しさだった。
「・・・・・カイシャン様・・・」
体に回された腕の力とその子供の声にとまどって名を呼んだだけだったが、カイシャンはそれを別の意味に受け取ったようだった。
「―――わかってるよ、桂花。俺だってそうそう男が人前で泣くもんじゃないってことはわかってる。でも、お前の前でだけ泣くなら、別にいいだろう?」
「―――――」
彼が桂花に寄せる無邪気で無防備で無慈悲な信頼が、桂花を剣のように貫いて一瞬声を失わせた。
桂花の沈黙に、カイシャンがかすかな とまどいを見せる。
桂花は焦った。何かを言わなくてはならないと思った。
けれど感情と思考がぐちゃぐちゃになってうまく働かない。
「・・・・桂・・」
「―――バヤン殿は 梅関でどのような詩を?」
何事もなかったかのような声を出せていることを桂花は願った。
「・・・あ、 うん。 ―――こういう詩だった」
話をはぐらかされたことにカイシャンは面食らいながらも、桂花が自分に対して呆れたり怒ったりしているわけではないということに安堵した。
カイシャンは一つ息を吸うと、桂花の背に頬を押しつけたまま低い声で詠(うた)った。
馬首の径徯 嶺を度って帰り
王師至る所 悉く夷を平らぐ
担頭に帯びず 江南の物
只だ挿む 梅花一両の枝
「・・・・・・」
詩にこめられた情景に、桂花はバヤンの人となりを思い出してかすかに力を抜いた。
「・・・バヤンらしいだろ・・・・・」
カイシャンの声に この詩を詠ったバヤンに対する愛情と誇りが にじんでいた。
「ええ・・・」
フビライにその才を見いだされ、対宋戦の総司令官になり、他民族で編成された軍を見事に統率しつつ二十万もの元軍を率いて神業のごとき進軍で南宋を平定したバヤン。
戦で疲れた彼が帰る道すがら見た花盛りの地は、きっと言葉では表せないほど美しかったに違いない。清廉潔白な彼は略奪品など一つも持たず、ただ梅関で手折った梅の一枝のみを手土産にして意気揚々と帰路につく彼の姿が目に浮かぶようだった。
「とてもバヤン殿らしい――――・・・・」
公平にして公正、知識深く、武に秀で・・・・・
元に生涯忠誠を捧げ、外敵から元を守り続けた最高の――――・・・・
「・・・?」
背中ごしに伝わったわずかな変調に、カイシャンが顔を上げた。
「――――・・・」
カイシャンは何か言いかけたが、結局黙って桂花の背に頬を押しつけなおした。
「・・・・・」
彼とは特別に親しいわけではなかったと思う。書物の内容について論議を繰り返したことも、親しく飲み交わした事もない。
ただ、彼のカイシャンに寄せる好意と庇護には、深く共感し、深く感謝するところがあった。
彼とは、カイシャンを間においてこそ成り立つ、一種の信頼関係のようなもので繋がっていたにすぎない。
けれど信頼は信頼だ。
彼は死の間際で、桂花にカイシャンを託して逝った。他の誰でもない、桂花に。
王子を頼みます――― と。
(―――バヤン殿―――・・・)
桂花は今まで必死になって思考から閉め出していた彼の言葉に、声も立てずに涙を流した。
彼の信頼も約束も、桂花には重すぎる。
だが今さら彼との約束を守れない事に許しを請うことも出来はしないのだ。
「・・・・・」
カイシャンは声を立てずに泣く桂花の背の震えを頬で感じていた。
「・・・いつか 」
ためらいがちに、けれど涙の気配の消えた声で、カイシャンは桂花の背中に語りかける。
「いつか行こう、梅関へ 」
真冬のさなかに花開く 南の地へ。
「・・・桂花、お前と一緒に」
彼が行軍の足を止めて見上げた、花盛りの 彼の地へ・・・
「―――――」
桂花は言葉を返すことが出来なかった。
背中に感じるぬくもりが愛しく、同時に悲しかった。
涙が、とめどなく流れ、頬を濡らし続ける。
その冷たさに桂花は身を震わせた。
―――バヤンが死んで、一つの時代が終わったのだ。
彼が生涯をかけて守り抜いた、真冬のさなかの穏やかな小春日のような時代は、彼と共に去ってしまうのだ。
(冬の時代が戻ってくる――――・・・)
桂花は白くかすむ息を長く吐いて、雪の舞う空を見上げ、涙を流す。
・・・この地の冬は長い。
そして冬はまだ始まったばかりだった。