空蝉恋歌〜花盗人〜
「ちょっと待て」
しくじった! と思った時はすでに遅い。
桂花の細い腕はきつく絞り上げられ、美貌の顔を歪ませる。
「・・・・・・・・離せ」
「それを言うならお前こそ俺の印籠を離せよ」
可笑しそうに笑った男は、将軍の覚えもめでたい名奉行(という噂)の「柢王」と呼ばれる男だった。
「お前、そんなんじゃ三日も経たずに首が飛ぶぞ」
普通スリというのは幼い頃からその技術を叩き込まれるものだ。なのにこの男は技術も何もなっちゃいなかった。
3度目までは捕まっても刺青や敲(たたき)で釈放されるが、4度目となると即打ち首へとつながる為、30歳を前にして死んでいくスリが多い。
しかも、この家業、技術を持った職人であるという誇りを持ってやっている者が多く、一目見ただけでそれと判るような外見をしていた。
プロのスリは髷の元結を一本一本細い紐でしばり、トレードマークとしていたのである。リスクを承知でそのような格好をしてスリの粋な姿を見せつけることが心意気だったというわけだ。
その点、桂花は月代を剃ることもなく無造作に切りそろえた肩甲骨くらいまでの髪を紐でひと括りにしている頭をしていた。
彼が素人であることは技術のなさや姿からして一目瞭然だった。
「たとえ奇跡的に上手くスレたとしてもお前みたいな素人が勝手に縄張りを荒らしたことが奴らにばれたら指を詰めさせられるんだぞ、わかってんのか」
「・・・・・・・・」
「初犯だな」
「―――――――そうだ」
「バカな事はやめてまともな職にもどれ。それがダメでもお前ならいくらでも働き口があるだろう」
「・・・・・・・・例えば? 例えば、歌舞伎俳優とか? そこで陰間になれとでも?」
これまで何度もそういった誘いを持ちかけられ、そのたび嫌悪丸出しで断ってきた。この男にまでそんな風に言われたら自分は立ち直れない。
桂花が卑屈めいた笑いで柢王を見た途端、視界が突如ぶれる。
「何す――――」
しびれる頬をおさえ柢王を見据えると、それ以上のきつい眼差しを向けられた。
「来い」
柢王は容赦ない力で見物人を掻き分け、桂花を引っ張っていく。
「・・・・・・・刺青か。分かってるさ、この体のどこにでも入れればいい。どうせこんな体何の役にもたたない! 刺青でも敲でも死刑でも、好きにしろっ!」
泣き落としのつもりなどなかったが、勝手に溢れ出すものを止められないでいると、前を行く男が足を止めた。
「バカなこと言うな。誰がお前にそんな事をすると言った? いいか、お前は今日から俺が預かる。わかったな」
柢王は優しく言うと懐紙を取り出し桂花の涙を拭った。
「だ、誰が・・・・・・・」
男の優しさに調子を狂わせ、言葉を詰まらせた桂花はつかまれた手をふるわせる。
「とりあえず、お前が不慣れなスリを何故やったのか教えてもらおうか」
「理由などない」
「じゃあ、医者の仕事はどうした?」
「!?」
「桂花。俺は以前お前に腹痛を診てもらったことがあるぞ」
「――――――覚えて・・・いたのか」
「お前ほどの美形は忘れるほうが難しいだろう。ほら、早くわけを言え」
俯いていた顎をつかんで上向かせると、桂花は観念したように目をそらした。
「・・・・・目安箱に・・・・医療施設を作って欲しいと懇願したんです・・・・でも、その気配はなくて。もうこれ以上、貧しい者が医者にかかれず死んでいくのをただ指をくわえて見ているだけなんて事は嫌だ。吾の持ち合わせている薬だけではどうにもならないんだ。今朝も・・・・幼い子供が死んでいった・・・・吾は何の役にもたたない、小さな命を助ける事もできない・・・・・吾は医者なんかじゃないっ」
当時、医者というものは誰でもなれる職業であった。
希望者は医者に弟子入りすることが一般的ではあったが、修行が辛く途中で逃げ出しそのまま開業してしまうケースが多かった。
資格というものも存在していなかった為、昨日まで棒手振をしていた者が(品物を担いだり下げたりして大声をたて売り歩く人)次の日からいきなり医者になっていることすらあった。
「それで? お前は医者を辞めてスリに転職というわけか。安易だな」
「――――――以前、あなたを診た時・・・・高価な印籠をお持ちになっていたのを思い出して・・・・・・・。それを売ればもっと良い薬草が手に入ると・・・・・・申し訳ありません」
「なるほどな。まあ、俺は財布も軽いし印籠狙いとは適切な判断だったな」
―――――上手くいってればの話。と付け加えて柢王は再び歩き出す。
その手はもう桂花の腕を掴んではいない。
「どうした、早く来いよ。お前を預かると言ったろう?」
「・・・・なぜです。あなたともあろう方が何故私を捕らえないのです?」
「・・・・そうだな〜お前に刺青入れるのもいいけどよ、お前みたいな綺麗な男にあのガラは似合わねーしな・・・・患者だった俺から言わせてもらえばお前は立派な医者だったよ」
「・・・・・・所詮金がなければ誰一人助けられない役立たずなのに?」
「だから俺と来いって。詳しく話したいことがある、うちに来い」
これ以上この場で話す気がないのか、柢王はそれきり振りかえりもせずに歩いていく。
まるで、桂花がついてくるのが当たり前だというかのように。
逃げたりせずに、自分の後をついてくる事を信じているかのように。
「強引な方だ」
苦笑して、涙の乾いた頬を掻くと、広い背中の後を追った。
「その、小石川養生所に吾を?」
目を丸くした桂花に酒を注ぎ足し柢王は上機嫌に話を続けた。
「しかしあの投書がお前のものだったとはなぁ。俺はうれしいぜ」
投書というのは、桂花が目安箱に「診療所を作って欲しい」と訴えたあれだ。将軍様はきちんと目を通してくださっていたのだ。
「小石川薬園に小石川養生所を作ることを決めて、それなりの医師や薬師を――――ってちょうど探してたところだ。何ちゅ―タイミングの良さ!」
酔っているのだろうか? ・・・酔いもするだろう、いくらなんでもこれだけ空ければ。
それにしてもやけに密着してくる。
「投書を読んだ上様も喜んでたぜ?お前みたいな善良な奴もいるんだって」
「吾など・・・・」
「もーホント気に入った! その謙虚な態度! その容姿! お前は綺麗だがどこか儚くて、それでいて凛とした強さも具えてる。まるで野に咲く花みたいだな。おう、お前の好きにしろ。さっき言ってた漢方薬っての? そーいう薬草を国産で作りゃあもっと安価な良薬が手に入れられるようになんだよな?やれやれ、どんどんやれ! なっ!」
肩を強く抱かれ、桂花は「はぁ」と曖昧な返事を返すばかり。
突然降って沸いた話に困惑しながらも、胸の動悸をごまかしきれない。
スリなど上手くいきっこないと分かってた。
この人なら助けてくれるかもしれない。何とかしてくれるのではないかと無意識のうちに頭のどこかで賭けていたのだと思う。だから「来い」と強い力で捕らえられ、そのまま連行されると思った途端に裏切られた気分になって涙が溢れたのかもしれない。
(吾があなたの懐を狙ったのは・・・・・どうせ捕まるならあなたがいいと思ったからだ)
柢王に話を聞いてもらうきっかけが欲しかった。その為なら刑も覚悟していた。
こんな事になるとは、夢にも思っていなかったが。
「いいか、要る物とか遠慮せずに言えよ・・・・何でも・・・俺に言え・・・・・」
桂花のひざを枕にして寝入ってしまった柢王の頭を撫で、自分の頬をつねり上げてみる。
――――――――夢なんかじゃない。
自然とほころぶ顔を、薄目をあけて柢王が見ていたことに桂花は気づきもしなかった。