空蝉恋歌〜火印〜
――――――――――――ジャン!
静まり返った江戸の町に、突如響きわたる半鐘の音。
グラインダースは夜着を放って飛び起きると、慌ただしく火事支度をしているめ組の頭である父と弟アシュレイの脇をすり抜け飯を炊く準備にとりかかる。
その間、下女中のシャーウッドに金を持たせ豆腐屋へ走らせた。
江戸の火事は「破壊消火」という消化方法をとるため半日や一日くらいで消火できるものではない。火事が長引けばその都度頃合をみて火事場へ弁当を届けることとなる。火消しの弁当は握り飯に油揚げをのせ、しょうゆをかけてタクアン2、3枚と相場が決まっていた。そのため町火消しの女房は当人達に負けないくらい迅速に行動するのだ。
母親を亡くしているグラインダースは、その母親がするべき役割を見事にこなしていた。
「アシュレイ、あれは着ないのっ?」
父に続いて外へ飛び出そうとしていた弟に大声で呼びかけると「着ない!」と振りかえりもせずに答えて行ってしまった。
『あれ』が届いたのは5日ほど前だったろうか・・・・・・。
「なんとも派手な・・・・・・・」
絶句した父の両手にぶら下がっているものは刺子半纏。
裏地には鳳凰の刺繍があり、金銀の糸が惜しみなく施してあった。
とても火事場の仕事着とは思えない。
刺子とは、木綿生地の布地を細かく雑巾刺しに二重三重に重ね合わせて作られたもので、吸水性に優れているため火の粉を防いでくれるのだ。火消しのユニフォームと言えるものである。
「俺は着ねーぞ、吉原の太夫じゃあるまいし」
「あらどうして? 勿体ない、折角だからありがたく頂戴なさいよ。まぁ・・・・・これくちなしの香が薫き染めてあるわよ、素敵じゃない」
「アシュレイ様にとてもお似合いです」
綺麗なものに弱いグラインダースとシャーウッドが着てみろと勧めてくる。
「どこの誰が贈ってきたか分かんねーモンに袖が通せるかってンだ、絶対着ねえ!」
「我が弟君もスミに置けないわねぇ」
クックックと意味深な笑いをする姉とその他二名に見つめられたアシュレイは、居たたまれなくなって外へ飛び出してしまった。
これ見よがしに飾ってあった半纏を羽織ることなく、いつもの調子で纏を担いでいるアシュレイに、熱い視線を送っている人物がいた。
「あれ? 着てくれなかったのか。気に入らなかったのかな・・・・・でもイイ、いつ見ても素敵だよアシュレイ・・・一目見たその日から私の心に君の姿が刻まれたんだ・・・・・」
ウットリと呟いた男は暗闇を照らしだす炎に怯えるどころか恍惚とした表情をしていた。
「気をつけて・・・・あぁ、足にあんなすり傷が! ・・・・・舐めてやりたい」
纏を掲げアシュレイは何か叫んでいるが、その声を炎の轟音が打ち消してしまう。
「何を言っているの?聞こえないよアシュレイ」
「―――――――――ティア。危険だから火事場へは来るなと言っただろう」
腕の前で指を組み、祈るような姿でアシュレイに見入っていたティアと呼ばれた男は自分の肩に置かれた手を軽く払うと唇を尖らせた。
「アシュレイを見ないで一体他の何を見ろというんだ。あの正義感、プライド・・・・金なんかじゃない、名誉と誇りのために命をかけて火を食い止める・・・・・素敵すぎる」
「分かった分かった、だがな、火消しは何もアシュレイだけじゃないだろう? あいつはやめておけ、な?」
「柢王・・・っまさか! 柢王もアシュレイを狙って――――」
「だ―――っ! お前と一緒にすんなっ! お前、アシュレイの住まいを教えてくれれば大人しくしてるって言っただろう?」
「だから大人しく遠くから見――――」
二人が言い合っている所にドンッと何かが降ってきた。すかさず柢王がティアを庇って転がると目の前にさっきまでアシュレイが持っていた纏が転がっていた。
同時に本人が飛び下りてくる。
「バカヤローッ! 早く逃げねーか!」
柢王とティアはアシュレイにグイッと腕を引かれ、訳がわからないままその後に続いた。
「伏せろ!」
再び腕を強く引かれた途端前のめりに転がってしまう。
ドォォォンという音と共に熱風に煽られ思わず顔を腕で覆い、恐る恐る今来た道を振りかえると、長屋の残骸がメラメラと炎を噴上げ崩れていた。
「大丈夫か・・・・って、なんだ柢王か。ったくお前はお奉行サマのくせしてトロイんだよっ」
「まあ、そう言うなよ。悪かったな、助かったぜ」
アシュレイはただの町火消し。柢王は名奉行。なのになんという捌けた口調だろう。
「そっちの奴は?大丈夫か?」
いきなり自分に矛先を向けられたティアは、声が出ない。
「俺とはずいぶん毛色が違うようだな。大店の息子かなんかか?」
「〜〜〜えーと、アシュレイ、こちら・・・・は、ティア。え〜・・・そう! 名主の息子だ!」
「へえ! どうりでいいもん着てると思ったぜ」
「初めまして、ティアと申します・・・・仲良くしてください」
今時子供でも仲良くしてくれなんて言わねーよ。とアシュレイは笑い、ティアの肩をバンバン叩いた。
「それはそうと・・・・柢王、ティア、またな。あそこが崩れたらもう後は楽勝だぜ今度のは早くケリがつきそうだ」
手をあげ踵を返したアシュレイがピタリと止まった。
「アシュレイ、どうした?」
「――――――――――――纏が・・・・纏がぁぁっ」
「危ない!」
アシュレイはまだ燃えさかる残骸の方へと突進しようとしたが、伸びてきた腕にきつく拘束されてしまう。
瞬間ふわりとくちなしの香りがしたが、ほんの一瞬で煙の臭いに消されてしまった。
「離せ! 離せよっ! め組の・・・・俺の纏がっ!」
泣きながら手を伸ばし続けるアシュレイの体をティアは優しく包んで、なだめるように頬の雫を拭きとった。
「大丈夫、泣かないで。私が新しいのを用意するから。心配いらないから」
「うぅ、う〜っ」
「私を助ける為に大切な纏を投げて、危険を知らせてくれた。私のせいだね・・・・責任はとらせてもらうよ」
柢王の存在をすっかり無視したティアに、嫌な予感が胸をよぎる。
「君の為ならなんでもする、命の恩人だもの。纏のほかに必要なものはない?」
「・・・ひっ、・・・っ、な、ない・・・でも、本当に、いいのかよ?」
「構わないよ、君と私の仲じゃないか。何でも言って?」
おいおい、いつ君と私の仲になったんだよっ!
―――――柢王は突っ込むこともできずに、溜息をつく。こうなるとティアはとことん図々しい。
アシュレイが安心して、慰めてくれる彼の胸に顔を押し付けると(人の服で勝手に涙をふいただけ)その仕草に興奮したティアは背中に回した手に力を込めた。
「・・・・ねえ、突然こんなこと言ってごめんね?私はずっと前から君のことを見ていたよ。勇敢で男らしくて粋が良くて・・・・憧れてたんだ。この江戸を、君が炎から守ってくれてるんだと思うと私も何か役に立ちたくて・・・・・それで、先日半纏を贈らせてもらったんだけど、どうしても名乗り出る勇気がなかったんだ。気味が悪かったよね、ごめん」
煽ての三段重ねに、単純なアシュレイはすっかり気分がいい。
男らしいとか勇敢だとか、火消しの男にはそういった言葉が一番効くのだ。
「・・・・・・お前だったのか。そうか・・・・・だから同じ匂いがしたんだ」
確かめるようにティアの懐に顔を埋めて匂いをかぐアシュレイに、柢王は天を仰いだ。
もうダメだ、止められない。
「別に・・・・あれを着なかったのは、贈り主もわかんねーものを身につけんのに抵抗があっただけで、気に入らないとかそういうんじゃない・・・・・」
「じゃあ、着てくれる?」
「・・・・・ああ、今度な」
「本当に? 嬉しいよ! 早く次の火事にならないかな」
「バカ! 何言ってんだ!」
不謹慎な発言で、アシュレイに冗談にもほどがある! とゲンコツを喰らい、頭をさするティアと、ボーっと突っ立っている柢王を後にアシュレイは現場へと戻っていった。
「・・・・・・ティア、お前、自分の立場、わかってんだろうな」
「わかってるよ?」
いや、全然わかってない。
柢王は、こんな時に気軽に相談できる、絶対他言しない信用ある友人が欲しいと切に願う。
そして、その願いが叶えられるまで、そう時間はかからなかった。