白山羊さんのご返事 前
守護主天はほとんど初めて、視界を塞ぐ書類の山に感謝した。
両手を伸ばした長さより広い黒檀の机の上に、座っている彼の金髪までもが隠れる高さの山が七つ。
俯いてしまえば、その向こうから注がれているはずの紫水晶のきつい眼差しは、彼の視界から完全に排除できた。
未決裁の書類の山に侵食されて、彼の周りにはほんの僅かなスペースしかない。指一本ほどの高さの未決裁書類を左手におき、目の前の一枚にサインして右側に置く。その程度ですら困難な狭さだった。
サイン済みの書類に、紫微色の手が伸びてきた。無言で持ち上げる静けさののち、頭上からは今まさにティアが手に取った書類の梗概が流れてきた。
「・・・ありがとう。桂花」
「私は書類が溜まるのが何より嫌いだと申し上げました」
にべもない返事である。それでも流れてくる言葉は、彼がこの書類の山に目を通していることを意味していた。
優秀すぎる秘書は、未だ目を通していない外側の山を低い卓に運び、内容や期限で選り分けていく。
「その山が終わったら休憩にしましょう。二日酔いに効くお茶を淹れます」
「頼む・・・」
ティアはがんがん鳴る頭を押さえ、ペンを走らせた。山の高さは指半分、この程度の苦行はこなせと暗に言われても、反論はできないことは自覚している。
そもそもの発端は、昨日だった。
柢王の長期休暇は、人界で費やされるのが常だった。土産な、と投げてよこされた瓢箪を受け止め、赤い房を指先でもてあそぶ。
「人界か・・・いいな・・・」
波の音を聞きながら愛しくも晩生な恋人の体温に溺れた逢瀬を思い出し、ティアはほうっと息をつく。
「守天殿。机はこちらです」
まさに遠見鏡に張り付こうとした刹那の絶妙なタイミング、反射的に振り返ったティアの眼前には、書類の山が三つ。
「手前のものが至急です。こちらの二つはまだ余裕があります」
「あ、ありがとう、桂花」
いつのまに・・・と背筋に汗が流れるのを感じながら見上げた先、美貌の魔族は控えめに微笑んでいた。
「吾は明日からお手伝いをいたします。今日中に至急のものだけでも片付けておいてくださいね」
「ああ。・・・明日?」
「あ、俺、出発今夜だから」
柢王は桂花の肩に腕を回し、頑張れよーと鼻歌交じりに出て行った。
取り残された寂しいティアは、恨めしげに書類の山を見遣った。背後には遠見鏡、恋人は天界にいるはずだが、麒麟に並ぶ足の早さが災いして、外に出て行かれたら、姿を捉えることすら容易ではない。
桂花が分けてくれた至急の書類は、僅か一山。
・・・少し休んでからでもこれくらい、すぐできる。
そう自分に呟きながら伸ばした手の先には、親友の手土産がある。幼馴染の好みを、ティアは全く失念していた。
――脳内で銅鑼が鳴り響いているのに気づいたのは、真っ暗な執務室においてだった。こめかみを押さえつつ歪む床を踏みしめると、扉にすがって出てきた主の姿に使い女が声を上げた。
「若様、執務室にいらしたのですが? 何度お呼びしてもご返事がないものですから、おいでにならないものと・・・」
高い声が頭の中で反響し、ティアはよろよろと歩んだ。
「お夜食は召し上がりますか? 湯殿の準備も調っておりますが・・・」
「いや・・・いい。寝る」
なんとか自室に戻って寝台に倒れこみ、日が高くなってから起きると、執務室で桂花と書類の山が待っていた。
「おはようございます、守天殿」
吾は、この書類は至急と申し上げたつもりでおりましたが、吾の記憶違いでしょうか?
笑顔の桂花が恐ろしく見えたのは気のせいだろうか。
酔いが残る頭を抱え、ティアはおとなしく着席した。
サインを続けていると、緑を思わせる香が漂ってきた。
「こちらをどうぞ。楽になりますから」
茶托に載った陶器には、くすんだ緑の液体が入っている。香も味も僅かに苦いそれはするりと喉を通り、ほう・・・と息をついたティアは、随分と肩に力が入っていたことに気づいた。
「ありがとう、桂花」
「少し休憩なさってください。その間に薬も効いてきますよ」
「ああ」
ソファに移動して背もたれに寄りかかると、冷やした布が目の上に乗った。
「柢王の手土産ですか。まさか全部お一人で?」
「う・・・そのまさかだ」
「無茶をなさる。あの人の好みはご存知でしょうに」
それを言われると返す言葉もない。
いつも一緒で仲睦まじい幼馴染とその恋人に嫉妬したから・・・なんて。
我が身と引き比べると、もう溜め息すら出てこない。
濡れた布に隠された頬の線が僅かに動いたのを紫の瞳が認め、こちらは小さく溜め息をついた。
「薬は効いてきましたか。落ち着かれたら、執務にお戻りください。柢王が帰ったら、今度の手土産はもう少し加減するよう言っておきますから」
ティアはのろのろと布を除けた。