投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
涼やかな風が草原を吹きぬける。
桂花は肩を震わせ隣を見たが、体温の高いカイシャンにはちょうどいいらしくグッスリ眠っている。
チンキムが自殺して以来カイシャンの教育係りに加わった桂花は、季節の移り変わりに上都と大都を移動する皇帝一家と行動を共にしている。
明日は大都に向う為、来年までこの地とお別れ。この地が大好きなカイシャンは朝早くから宮廷から離れた桂花のゲルに来て最後の追い込みの薬草採取の手伝いをしていた。
十分に薬草が集まり一息入れているとカイシャンはいつのまに眠りに落ちていた。
その寝顔を見ながら桂花は思う。
大きくなったものだ・・・と。
来年にはこの王子も12才になる。
あまり強く見つめていたからだろうか、カイシャンが目を覚ました。
「ふわぁーーっ、気持ちいいなぁ」
「この短い時間にぐっすり眠ったみたいですね」
「ああ、夢まで見た」
上半身を起こし隣の桂花を見て口元に笑いを浮かべる。
「いい夢だったようですね」
「ん。でも半分しか覚えてない」
「忘れてしまう夢は覚えている必要がないからです」
「そうか? 夢にはおまえも出てきた」
「吾がですか?」
「ああ。おまえはイル・ハーン国の物語の精霊のようだった。絹糸の長い髪に一房の鮮やかな赤い尾髪があって、胸や腕には綺麗な模様があるんだ」
「――――――っ」
「・・・桂花???」
「―――すみません。吾が精霊というのに驚いただけです。カイシャンさまは奇抜な夢を見られる」
一瞬で表面の驚きを押し隠し、桂花はにっこりと笑って見せた。
「綺麗なおまえの側には真赤な髪の男と金色の髪をした綺麗な奴もいて・・・皆で俺を呼んで・・・楽しい夢だった」
カイシャンは夢を懐かしむかのように微笑み、またゴロリと草に身を横たえた。
「それなら、どうぞ続きを楽しんでください」
桂花はカイシャンの目蓋にそっと手をのせた。
少し冷たい桂花の手が気持ちよく、カイシャンは目を伏せさっき夢を思い返す。
何故こんなにも懐かしんだろう・・・。
胸にこみあげるこの気持ちは・・・。
カイシャンは無意識に腕を上げると目蓋に乗った桂花の細い指をギュッと握り締めた。
「カイシャンさま」
桂花はそっと声をかける。
返事はない。眠ったようだ。
子供の皮を脱ぎ捨ててぐんぐん成長していくカイシャン。
だが眠っている顔にはまだあどけなさが垣間見れ、桂花は自然と微笑んだ。
だが・・・。
消された記憶を身体は覚えているのだろうか。
消せないほどの思いだったのだろうか。寝入るカイシャンに愛しい男を重ねて呟く。
「面倒臭がりのくせにお節介なんだから」
柢王が注いでくれた愛の深さに胸が熱くなる。
冥界教主に再生されたこの呪われた身体をも熱くさせる思い・・・。
ふいに涙が溢れ出す。
泣いたらダメだ。カイシャンが起きてしまう。
桂花は涙がこぼれぬよう上を向いた。
吸い込まれそうなコバルトブルーの空が果てしなく広がる中、秋風が桂花の頬を優しく撫でてゆく。
それは、常に温かかった柢王の手によく似ていた。
シトロンのグラスにアメシストひとつぶ。
小さな泡を身にまといながら落ちてく紫が、きれい。
耳元からころんと外れたアメシストをアシュレイはふざけてグラスに落とした。以前なら紫水晶がついているアクセサリーは決して身につけなかった彼が、最近さり気ないセンスの良さで使用するようになった事にティアは気づいていた。
「甘すぎた?」
「いや、ちょうど良かった」
あたたかいお茶を用意していたところ「ちょっと甘くてサッパリしたのが飲みたい」と恋人がリクエストしたので、ティアはシトロンをつくって出したのだ。
アシュレイはグラスをゆらしてレモンの香りを楽しみながら氷の間におさまったアメシストを見つめている。
「桂花と一緒じゃなかった?」
「あいつも誘ってたのか」
「うん、声かけといたんだけどな」
「冰玉いたし、どっか散歩でもしてんだろ」
ついさっき、お茶にしようとアシュレイの姿を遠見鏡で探していたら、思わぬツーショットが目に飛び込んできた。
最近のアシュレイは、桂花にたいする心境の変化があらわれ始めている。以前なら慌てて二人の間に入っていたが、その心配も今は無用だ。
ティアは何を話しているのか気になって、そのまま画面に集中した。
『ったく、俺の顔見りゃ攻撃してきやがってしょうがねぇ奴だ』
アシュレイの手から桂花の手に渡った青いものが冰玉だと、すぐに分かる。
『人がせっかく足に絡まった蔓を取ってやろうとしたのに、突っつきやがって』
アシュレイの手の中にいた時は大暴れだったのに、すっかり大人しくなった冰玉。
『冰玉はあなたの事、吾を邪険に扱う敵だと認識しているから』
『なにぃ?いつ俺が――――』
言いかけて、思い当たる事が山ほどありすぎたアシュレイは押し黙る。
『それに。あなたの護衛も相当なものですよ、吾がここに来るたび威嚇してくる』
護衛?と首をかしげると、桂花がアシュレイの後ろに視線をうつした。見ればリスやら鹿やら鳥たちが、遠巻きにして自分達の様子をうかがっている。
『あれが護衛?ハハッ、たいしたもんだな』
『ですね』
二人の会話はウソのように穏やかに進んでいる。
「・・・・・なんだ、思ってた以上に上手くいってるじゃない」
ティアは微笑んで遠見鏡を消し、椅子に腰掛けた。
もともとアシュレイの心は柔軟性が高いから、変な意地を張らなければ桂花との仲だって自分よりも上手く、深く関われるのではないかと思う。
言葉の通じない、人を警戒する野生動物がいつの間にかアシュレイには気を許し、体を触らせているところを見たのは一度や二度ではない。
魔族である氷暉との共存も成功させた彼。
言葉や態度だけではないなにか・・・心の奥深くに届くなにかをアシュレイは発する事ができるのだと思う。
桂花は、言葉は通じるけれど思考に多少のずれがある。アシュレイと氷暉のような関係ならそれでも大した問題ではないかもしれないが、柢王と桂花は恋人同士だ。
桂花が抱える不安を排除してやろうと説得を試みても、彼の思考の根本には柢王が言わんとする事が欠如しているためうまく伝わらない。
それは魔族と天界人という、種族が違うが為のすれ違い。
初めから欠如している考え方をいくら説得されても、分からないものかもしれない。それでも柢王は諦めないのだ。何度でも。いくらでも、桂花に付き合う。
――――――――柢王は強い。
自分の存在が柢王の立場を不利にしてしまう、と桂花が不安になる度・・・・それでもやはり柢王のとなりが自分の居るべき場所なのだと桂花自らが決心するまで、決してその手を離さない。何度くり返されてもとことん付き合う。
自分だって・・・・アシュレイの手を離すつもりなど毛頭ない。しかし、自分に離すつもりが無くても振り払われたまま失ってしまう可能性はゼロではないのだ。
無鉄砲なアシュレイは恋人であり守護主天である自分を守る為に無茶をする事が多いし、短絡的思考で最悪な事態を選ぶこともある。そのたび彼を失ってしまうのではないかという恐怖に立ち向かいながら必死で救い、奪還するのだ。
まだまだ柢王のように上手くはできないが、最近ではそれも自分達のひとつの在り方なのだろうと思えるようになってきた。
「・・・・・アシュレイ、どこへも行かないでくれ」
こんなに近くにいるのに、愛しい体が遠く感じられてティアはすっかり細くなった腕を掴んだ。
「なんだよいきなり。どこへも・・・・ってのは、困るけどな」
満更でもなさそうにアシュレイは甘え上手な恋人の頭を抱いてやる。
「ダメ、どこへも行ってはいけないよ。もうずっとここにいて。私から離れないで」
「お前な〜」
「できない?」
「できるって言うのかよ」
「・・・・・いじわる。それじゃあこうしちゃう」
ティアはシトロンのグラスをいっきに傾けた。
「あ―――っ!?俺のっ!」
驚いてティアの頬を両手で挟んだアシュレイの細腰をつかまえて、いたずらっ子のようにチロ、と舌を出してみせる。
きれいなピンクの舌の上に、紫の石。
「返して欲しかったら、奪ってみせてよ。手は使っちゃダメだよ」
挑発するような瞳に負けじと、アシュレイの顔が近づく。心なしかティアの顔が期待に染まった。
「――――ばぁか。そんな挑発にのるかってンだ、欲しけりゃやるよ」
「・・・・・・失敗」
ティアは残念そうにアメシストを出し、聖水のグラスに落とす。
アシュレイが笑いながら立ち上がって大きな窓を開け放つと、招かれた風に誘われて薄いカーテンが舞った。
グラスの中のアメシストが、わずかな光をとらえてキラリと光る。
「あいつ、呼んでくるか?」
「そうしてもらえる?」
アシュレイは頷くと、開け放った窓から桂花を探しに行った。
優しい気持ちに包まれて、胸があたたかくなる。
こんな時間を満喫したい。
「こっちは大丈夫だよ柢王・・・・・心配いらない。いらないから・・・・・」
早く帰ってきて欲しい。桂花の為にも早く。
今はただ・・・・無事に共存を終えた柢王が訪れる日を、心待ちにしている。
旧暦の九月九日は菊の節句だ。
もちろん、人間界の、それも一部のこと。天界に四季はないし、節句行事もない。神が自分を祝う事はないから当然だが。
ともあれ、その日が重陽と呼ばれるのは、奇数を陽、偶数を陰と考える人間界の考え方に拠るものだ。陽である九を重ねて重陽。この日の朝、菊の花に降りた朝露を口に含むと長寿が得られるとか、肌につけると美人になるとか、ほほえましいまじないがなされるらしい。
「それで、あなたは吾に美人になって欲しいわけですか」
昨夜、人間界から帰ったばかりの柢王が、飢えたように朝食をかき込みながら話した人間界の行事に、桂花は苦笑いような笑みを見せて尋ねた。
必死で食べ物を飲み下した柢王は、
「お茶。そんなことしなくてもおまえは美人だろ。でも、菊の花露飲んだくらいで寿命が延びるなら安いもんだな。菊を飾った市が立って賑やかだったぜ。人間ってほんとにお祭り好きだよ」
桂花の渡したお茶を飲み干し、大きく息をつく。
「それは人の寿命が短いからでしょう。それに祭り好きならあなたと趣味が合うでしょうに。買い食いしなかったとでもいうんですか」
満腹、満足顔の柢王に、桂花は軽く肩をすくめた。家の中に吹き込む、かすかにひやりとする風に目を細めて唇を歪めてみせる。
「なんだよ、つれないな。昨夜はあんなに可愛かったのに」
柢王は席を立つと、桂花の体を背中から腕に包み込んだ。
滑らかな絹の髪に、ひんやりとした肌。美しい刺青に彩られた魔族の体は相変わらず冷たい。それが熱を帯びたらどうなるのかは知っている。その紫水晶のきつい瞳がどんなに鮮やかに変わるかも。
「なあ、今日は一日・・・・・・」
言いかけた柢王を遮るように、桂花が言った。
「今日は一日、片付けです! ずっと留守をしていて埃も溜まっているし、洗濯もあるし。柢王、窓を開けてきてください」
「ええええ〜」
「えええ、じゃありませんよ。窓を開けたら、どこか邪魔にならないところにいて下さい。あなたがうろうろしていたら掃除にならないんですから」
桂花ははっきりきっぱり言い渡して、柢王の手を振り払った。柢王が人間界に出かけるとき、桂花は天主塔に預けられる。その間、かれらの家は無人になる。草原の一軒家、そう大して汚れるとも思えないが、桂花はきれい好きで、空気がよどんだ部屋を嫌った。
「昨夜だって換気しただろう、それに掃除なんか後でもできるじゃないか」
柢王は甘えたが、桂花は断固として譲らなかった。
「後でするのも先にするのも、するのは同じ吾なんです。さあ、早く、ふとんも干したいし」
そういわれると柢王には返す言葉がない。渋々外に追いやられ、目の前に広がる草原を眺めながらため息をつく。
「あれでもうちょっと、遊び好きならなぁ・・・・・・」
潔癖ともいえる桂花の性分に苦笑いして呟くが、それが真実ではないことは自分で一番わかっている。魔族の桂花とここで一緒に暮らすまでのいきさつはいま思い出しても必死だったとしかいいようがない。
思いが通じて、桂花の気持ちが自分に向いてくれていると思えるいま、何が不満ともいえないだろう。例え、その胸の中のすべてが自分のものだと思えなくても。
柢王は空を仰ぎ見た。
東領には蒼龍王の趣味で秋がある。空が高く遠く、草原がきらめいて、透き通るような風の気配はこのままどこか遠くへ連れ去られそうな感じを抱かせる。
もちろんそれは人間界の郷愁をそそるような日暮れを含んだ秋ではないし、そもそも柢王の生まれた場所はここで、帰る家もここだった。ただ、人間界で見たあの、黄金色の花を気高く並べた菊の市、そこをそぞろ歩く人々の幸せそうな顔を思い出す。
人の子が長寿を願い、事々の四季に節句を祝うのは、その命があまりに短いからだ。注意深く、足元に目を留め、いまあるものを味わう事がないうちにその命が終るかもしれないことをわかっているからだ。
「菊の露一つで長生きできるんなら安いもんだ」
それが本当なら・・・・・・いや、まじないでも、安心できるならしてみたいと、半ば苦笑いして思った気持ちを、桂花は悟っただろうか。
魔族は天界人とは寿命も違う、魂もない。桂花がどれだけ生きるのか誰にもわからない。だから。
「俺らしくもないよなぁ」
弱気なのか。天界人が長生きするといっても死なないわけでもない。命の終わりがいつ来るかなど本当は誰にもわからない。それでも。
あなたの側を離れたら、次に行くのは死の国。
腕の中でそう囁いた声がふと思い出されて。花の露一つでその命が永らえるなら、どんな危険を冒してもそれを手に入れる。汚れない朝の露、それ自体がどんなにか消えやすく移ろいやすいものだとしても。安心と言う名の鎧で、その身を包んでいてやりたい。
そんな気持ちがふとこみ上げて、口に出した露の話を、敏感な桂花は悟っただろうか。だから、人の子の寿命は短いからと、苦笑いに受け流したのか。現実主義の自分が見せた迷いを、見ないふりで許したのか。あるいは本当に関心が薄いのか。
その辺りの判断もまだしっかりとは出来かねる。
「まだまだ知らない事が多いってことだよなあ」
柢王は呟き、唇を歪めた。
まだまだ知らない事が多いなら、これから知れる事も多いだろう。いつまで、と胸の不安があるにしろ、それを見せれば桂花が傷つく。命がまだあるいまは、いまある命を慈しむだけだ。
柢王は瞳をきらめかせ、地面に降り立った。
流されそうな風に身を任せながら、大声で桂花を呼ぶ。
「桂花、桂花っ。なあ、やっぱり掃除なんかやめて南領に温泉でも入りに行こうぜーっ」
ふざけたように家に入って抱きついた柢王に、桂花は怒ったり、文句を言ったりして抗ったが。
ふと見交わした目に、何か言葉にならない色があって、柢王は甘えたふりで抱きしめながら、心で固く誓いを立てた。
命がいつ尽きるとしても。
最後の時まで、側にいるから。
だから、いまはただ、命の終りよりを案じるよりも、重ねる胸の真実だけ信じていよう。
「だってねえ、こんないい女が隣にいるってのに、クウクウ寝てるんだもの。子供よ。
まだまだ子供」
後朝(きぬぎぬ)の別れの時間にもまだまだ早い、朝と呼ぶにはたよりなさすぎる光が
川沿いの道いっぱいに立つ川霧の中に ほわりと満ち、白く濁ってほとんど前しか見えず
人影すらない大門に続く道を並んで歩く女がコロコロと笑った。
その隣を歩きながら、柢王は怒るべきかどうか悩んでいた。文殊塾でティアと女子の人
気をほぼ二分する柢王だが、年の近い少女達がどうすれば喜ぶかということは心得ていて
も自分の母親ほど年の離れた(といっても、母親はまだまだ若いのだが)女性に対しての
手管は(父親を見ていればある程度は分かるものの)まだ解らないのだ。
というか、「泊めるだけ」とわざわざ念を押されているのに、どうして「何もしなかっ
た」と後になって言われなければならないのかよくわからない。
(・・・わかんねえ。本ッ当―に!女ってよくわかんねえよな)
今まで付き合った文殊塾の少女達にも言えることなのだが、今まで笑っていたかと思え
ば次の瞬間不機嫌になっているのは日常茶飯事。言っていることとやってることが全然違
う。黙り込んで怒っているのかと思えば実は嬉しがっていたり等々・・・、内心とまどう事
が多かったのだ。
もはやそれにも慣れたし、どうすればこちらを向かせて笑わせることができるかも心得
ているが、それでも時々 いったいどっちなんだよ? と問い返したくなることがある。
自分が元気な時はそれでもいいのだが、疲れている時にそれに付き合うのはかなりきつ
いものがある。それならいっそ考えていることがすぐ表情に出る、嘘のつけない顔の年下
の友人とドタバタしている方がよほど気が休まるというものだ。
そんなことを考えている柢王の表情から何かを読みとったのか、それともいぢめるのは
これくらいにしておこうと判断したのか、女はふふ、と笑うと急に話題を変えた。
「そういえば昨日の話に出てきたコーヴィラーラがその後どうなったか知ってる?」
「知ってるわけないだろ。」
ニコニコ笑っている女の方を見ずに柢王が返す。
「知りたい?」
「・・・・・・5年前の話だろ? だったら、今も現役で頑張ってるんじゃないのか?」
こっちを見ようとしない柢王が返した言葉に、女はニコニコ顔のまま、「大外れ〜!」
と実に楽しそうに言った。
「花街で1年間bPの座をキープし続けた後、すぱっと引退して今は南領の実家に帰って
結婚して子供を産んで、家業を手伝っているそうよ」
女の言葉に柢王が驚いて振り向いた。
「・・・1年?! ―――たった一年?! 」
柢王の驚きようが可笑しかったのか、女はますます笑みを深めた。
「そう、『なんだか すっかり満足したわ』って。衣装代とかでかさんでいた借金も綺麗
に返済して、意気揚々と故郷に帰ったのですって。なにしろ、彼女の舞のおかげで南領の
知名度がグンと上がったわけで、彼女の実家は怒るどころか故郷に錦を飾ったって大喜び
で彼女を迎えたのですって」
「なんだそりゃあ! いいのかよ!そんなんであっさり辞めちまって!」
「そう?いい引き際だと思うけど。」
コーヴィラーラの舞の人気の追い風をうけて、若手の舞姫達が後に続けとばかりに南領
の舞を披露するようになっていった。 中には四、五人のグループを作ってなおいっそう
華やかにかつエキゾチックな群舞を披露する者達も出てきたのだ。
そんな中で彼女は目新しいものにすぐ興味が向かう、移ろいやすい花街の客達を相手に
一年間bPの座をキープし続けたのだ。トゥーリパン夫人の強力な後押しに支えられてい
たにせよ、並大抵の事ではなかっただろう。
「・・・だからって、そんなあっさり変わっちゃっていいのかよ」
並大抵の事ではなしえなかったとわかるからこそ、それをあっさりと手放してしまった
コーヴィラーラに、納得がいかない柢王が気むずかしい表情でうなる。
「・・・ばかねえ、女は男よりも変化を愛する生き物なのよ」
くすくす笑ってそう言う女の顔は、柢王にはサッパリ理解できないそのことを、きっち
り理解し、なおかつ共感(そして羨望)すら感じているように見えた。
「・・・・・」
柢王は内心で同じ言葉を繰り返した。
(・・・わかんねえ。本ッ当―に!女ってよくわかんねえよな!)
「このまま まっすぐ行けば、すぐ大門に辿り着くわ」
川霧の立ちこめる白く濁る道の先に、わずかに色味が違ってみえる一角を指して女は言
い、立ち止まった。
「結構楽しかったわ。でも送るのはここまでにしておくわね」
別れの挨拶なんかしなくていいわよ、無粋だから。と女は柢王を見て笑い、大門の方向
を指したまま、早く行きなさいと促した。
「・・・あ、宿代忘れてた」
数歩行きかけて立ち止まった柢王が慌てて逆戻りし、懐にあった金を全部丸ごと彼女に
渡した。
「これで足りるか?」
値を尋ねることもせず、おそらく全財産であろうずっしりと重い財布を丸ごと躊躇もせ
ずにぽんと渡してよこすこの少年の豪気さに、受け取った女は目を丸くし、それから小さ
く吹き出した。
「さすが、あのお人の子だね。何だかホントに憎めない。」
「・・・やっぱ ばれてた?」
彼女が自分を見るまなざしから、何となく察していた柢王だった。
「一目でわかったわ。・・・よく似ていらっしゃるもの。 それに何と言っても守天様と南
の太子様を連れていらしたからねえ・・・。守天様の御印はもうちょっとちゃんと隠してあ
げるべきだったね。昨日、屋台街で見た時は腰を抜かすかと思ったよ」
「そんな時から俺が来てるって知ってたのか?」
「屋台街へは良く行くのよ。・・・見つけたのは偶然だけどね。」
どうだか、と思ったが柢王はそれを口にはせず、「次からは気をつける」とだけ応えて
今度こそ背を向けかけたその背中へ、女が声をかけた。
「あ、最後にいいこと教えたげる」
内緒話をするように口元に手を当て、にこっと笑って手招きされたので、耳を寄せる。
「守天様に伝えておいて。私の調合した香玉を気に入って下さってありがとうって」
「・・・え?」
「混乱と変化を愛して。それがいい男ってものよ。あんたはきっとそれが出来るわ。」
優しい声でそう告げた唇は、そっと耳朶を噛んで離れていった。
耳を押さえて飛び離れた柢王に、「じゃあね」と、実に艶やかな笑みを投げてよこすと、
女はすうっと川霧の向こうに遠ざかっていった。
「・・・・・!?!?っ?」
混乱のあまり 耳を押さえたままよろめいた柢王は川岸の柳の木に背中を当てて体を
支えた。混乱したまま頭の中で女の言葉を反芻する。
「・・・ちょっと待て。てことはつまり」
つまり彼女の正体は・・・。
昨晩泊めて貰った個室を見る限りではそれなりの地位の女性とは思ってはいたが。
「・・・損したんだか、得したんだか。」
柢王はつぶやきながら吹き出した。
・・・結局、昨日は自分がどれだけ考えなしの子供かという事を再認識しただけだったと
思う。
自分の知りたいことは何も知ることが出来なかったし、ずぶぬれにはなるし 所持金は
全部渡してしまったし(それは別にいいのだが)、 自分の母親ほど年の離れた女性(し
かも親父のお手つき!)にはからかわれるしで、今の自分はなんだか情けない。
けれどそれ以上に、何だか楽しい。
得たモノなど何もないはずなのに、何だか満腹なこの気分は何なのだ。
ずるずると柳の木の根本に座り込みながら、柢王は笑った。
「わっかんねーぞ。おい・・・」
「絹一。おまえ、長期の休暇って取れるか?」
鷲尾の部屋で、持ち帰った仕事を片付けていた絹一に声が掛かった。
「長期って、どのくらいですか?」
キーボードを叩いていた手を休め、後方のソファへと振り返る。
視線の先では、ソファに体を伸ばした鷲尾が雑誌を捲っていた。
「そうだな……二週間くらい」
「そんなには流石に無理ですよ。一週間が精々かな」
何故?と瞳で問えば、起き上がった鷲尾が、開いた雑誌のページを差し出した。
「行ってみないか?」
「……ここへ?」
誌面を飾るのは、二色の青に塗り分けられた海と、いくつも浮かんだ小さな島々。
鮮やかなカラー写真の上には、『インド洋の真珠の首飾り』との一文が添えられていた。
海岸を吹き抜ける風に、木陰で眠る絹一の髪が靡いた。
頬を擽るその感触に目を覚まし、ゆっくりと深く息をする。
聞こえてくるのは、波の音、鳥の声、葉擦れの囁き。
都会では聴く事の出来ない極上の音楽に、自然と唇が綻んでくる。
「鷲尾さんと、ギルに感謝だな」
呟くと、絹一は腹の上に伏せられた本を取り上げ、揺れるハンモックから足を下ろした。
二ヶ月前の夜、鷲尾が言い出した楽園への旅。
折角の誘いだし、とギルバートに休暇の相談をすると、彼は諸手を挙げんばかりに賛同を示した。
「こんな時でもないと、絹一は有給を消化しないだろう!」
そう言われ、十日間の休みを押し付けるように許可されてしまった。
間際まで、一週間で良いと言い張っていたけれど、今では十日でも足りないと感じている自分が居る。
我ながら現金だと思いつつも、滞在二日目にしてすっかりこの島に魅了されている絹一だった。
踏み出した足の下で、白い砂がさくりと音を立てる。
素足で直に触れる砂が心地良い。
『No News - No Shoes』それが、この島のフィロソフィー。
木陰を出て波打ち際まで歩くと、沖の方で銀色の光が跳ね上がった。
「あ、イルカだ」
目を凝らさずとも、踊るように跳ぶ二頭のイルカが見える。
仲睦まじいその姿をしばらく眺めた後、絹一はそっと溜息を吐いた。
「一緒に……」
見たかったな、と続く言葉を飲み込んだ瞬間、背中がふわりと温かくなる。
「やっぱりここに居たな、絹一」
「鷲尾さん……?」
驚いて振り仰ぐと、柔らかく微笑んだ瞳と出逢った。
腰に回された両腕に抱き締められれば、密着した体から強い潮の香りが漂う。
「ダイビングは……」
「とっくに終わった。ヴィラに戻ったらおまえの自転車が無かったから、多分ここだと思ったんだ」
当たったな、と口角を上げた鷲尾に絹一は目を細める。
海面に反射した陽光が、鷲尾の髪を金色に輝かせていた。
「ここのハンモックが気持ち良いと、夕べ知り合ったイタリア人ゲストが教えてくれたので」
「……知ってる。さっきのボートダイビングで会ったぜ」
昨夜のディナー時、絹一を女性だと思い込み声を掛けてきた陽気な男が居た。
一緒に来るはずだった彼女に振られたとかで、『一人のディナーは寂しい』と纏わり付いてきたのだ。
横に居る鷲尾を邪魔だと言わんばかりの様相で。
「彼、モルディブにはもう何度も来てるそうですね。ここは初めてだって言ってましたけど」
「恋人連れだからって、奮発したんだろ? ダイビングだけが目的なら、もっと安い島があるからな」
「そうなんですか?」
「本人がそう言ってた。最悪な事に、今日の俺のバディがあいつだったんだ」
言いながら、鷲尾は絹一の首筋に顔を埋めた。湿り気を帯びた硬い髪が、ちくちくと絹一の頬を刺す。
それに指を伸ばして掻き混ぜると、潮の香りが一層濃くなった。
「じゃあ、楽しくなかった?」
囁けば、寄せられたままの頭が「否」と振られる。
「ダイビング自体は、最高だった。ポイントに向かうドーニをイルカの群れが追いかけて来てな。潜り始めても逃げやしない」
「一緒に泳いだんですか?」
「ああ。けどヤツらの会話は、やたらと神経に障るんで参った」
「ヒーリング効果は?」
「あんだけお喋りなイルカには、んなモン期待出来ねえだろ」
くくっと喉の奥で笑い、鷲尾は頭を上げる。
「マンタも八枚見れた。初回のエントリーでこれだけ見れれば、大したもんだろう」
「マンタかあ。……俺も見てみたいな」
「ならおまえも潜ってみろよ。体験ダイブがあっただろう?」
尤も体験はハウスリーフでだから、マンタに会える確率はゼロに近いがな。
そう言って抱擁を解き、鷲尾は大きく体を伸ばした。
「そろそろ戻らないか? ランチの前にシャワーだ」
「ダイビングセンターで浴びなかったんですか?」
海の匂いをさせた鷲尾の腕に促され、木陰に停めた自転車の元へ向かう。
「ざっとは流したがな。ヴィラにはプライベートガーデンのオープンエア・バスルームがあるんだ。
折角バスタブもデカイんだし、おまえと一緒の方が楽しいだろ?」
「海水を流すのに、楽しいも何も無いでしょう」
呆れたように呟いた絹一の唇が、柔らかく塞がれる。一瞬だけ触れたそれに、絹一の頬が赤く染まった。
「鷲尾さん! 誰かに見られたらっ」
「だから早く戻ろうぜ。俺達のhideawaysに、さ」
ニヤリと笑った鷲尾の前髪が、海風に舞い上がる。
同じように攫われる自分の髪を片手で抑えながら、絹一は止まった足を再び動かし始めた。
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