投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ガシガシ、コツコツ、・・・。はあ〜〜〜・・・。
ここ数刻、この状態が東領元帥棟執務室で続いている。
たまには一人で解決するのもいいだろうと放置していたがいささか耳障りになり桂花は整理していた書類から顔を上げ声をかけた。
「何してるんですか?」
先ほどからの柢王の奇怪な様子を桂花は仕事とは思っていない。花街警備の報告書や軍の通知や編成などは柢王の意見を聞き桂花本人がまとめているのだから。といって私用に手紙を書くほどマメな男ではない。
いったい???桂花は立ち上がると柢王に歩み寄り机上に乗っている書類をそっと取り上げた。
「『第×××回 文殊塾 大運動会』・・・?何ですか、これ?」
「文殊塾恒例、四国対抗の競技大会だ。人界では神にささげるスポーツ大会があるらしんだが、我が子の成長と参観を兼ねて塾でも早々と取り上げられてる風物行事さ」
「それで、あなたは何をされてるんですか」
「その運動会での親子競技と保護者競技の種目と様々な規制を創案依頼されたんだ」
「毎年恒例ならお約束競技みたいのがあるのでは?」
「子供のはな。こーゆーのは親がヒートしちまうんだ。年甲斐もなく張り切りすぎてぎっくり腰や後日の筋肉痛、神経痛はあたりまえ。靭帯を切っちまったり、昨年なんか『棒ひっぱり競争』で膝の皿割っちまうなんて惨事もあったんたぜ」
「・・・・・」
「ま、今年はティアが控えてるから心配ねーけど」
「守天殿が、来賓ですか?」
「名目上はな。ケド実際のところは養護員というか救急隊というか」
この天空界の象徴でもある守天殿をそんなことに使うなんて・・・魔族は何を考えているか分からないというが桂花にしてみれば天界人こそ正にミラクルだ。
「今回は西の水帝王とうちの親父が問題なんだ」
「蒼龍王様?でも王には塾に通う年頃の子息女なんていないじゃないですか」
「ああ。だが親子競技といっても保護者が参加してもいいわけでさ、翔王に太芳の代理出場を訴えてたぜ。年が近いから水帝王にライバル心あんじゃないか?太芳は昨年の未就園児競技で懲り懲りだろうけど」
「未就園児競技?」
「塾に通う前の子供のかけっこがあってさ、打倒カルミアと親父特製のミックスジュース飲まされ鼻血出してぶっ倒れたんだ、強すぎたんだなぁ。あれ以来、太芳は親父を避けてたけど参加登録に翔王じゃなく親父の名があるとこみると捕まったんだな、気の毒に」
「・・・競技選出の方は分かりました。様々な規制というのは?」
「こないだ城に顔を出したとき東国(ウチ)の仕立て屋に会って聞いたんだが水帝王がカルミアにすごい衣装仕立ててるみたいでさ、規制ひかねーと今にファッションショーになっちまう。たたでさえ勝利人はヒートしてるってのに」
「料理人が?」
桂花には何もかも見当がつかない。
「そ、昼に食う弁当ひとつとっても大変なことでさ、各国のトップ料理人が最高の食材と腕を振るった創作物なんだ」
「・・・・・」
くだらない。あまりにもくだらなすぎると桂花は思った。
「俺やアシュレイが卒塾して一旦は落ち着いたらしがカルミアと太芳が入塾したからな、まったく王族ってのは」
「あなたやサルの時も騒ぎに?」
「まあ、な。特に炎王が・・・あそこは親子そろって負けず嫌いだからさ。『Red Scorpio』なんて赤と金モールでド派手な旗つくってきたのはいいんだが、デザインがアシュレイでさギリを模ったらしいが、ありゃとヴ見てもザリガニというかヤドガリというか、くくくっ、アイツ絵心ないからさ」
思い出し柢王は吹き出した。
「それだけ力が入っていたのなら南国の圧勝だったと?」
「いや、塾の先生方王族には配慮するからさ。ウチの親父を気遣って『借り物競争』なんて競技を作り出したんだ」
「借り物競争・・・ですか」
きっと蒼龍王好みの品が書かれていたことだろう。
もはやリピートする桂花の口調には力がない。
「それが縁で親父付の侍女になった者も結構いるんだぜ。あとは、そうグラインダーズ殿を将とした騎馬戦や取り囲むチアガールなんかに炎王も親父も大絶賛だったな」
聞いているだけでリアルに情景が浮かび上がってくるようで桂花は痛み始めたこめかみをそっと押さえた。
「おっと話は逸れちまったけど、この行事で確実に増えるだろうティアの心労を少しでも減らすようにと四海(文殊先生)に依頼されたんだが・・・」
「なるほど」
守護主天の秘書をしている桂花は息子や妻との諍いによって及ぼされた暴風雨や雷雨の人界被害に当たりをつけ納得した。
そして李々と人界にいたとき夏には炎天下が(炎王が予行練習に燃えていたのかも)秋は長雨、台風があったことを思い返していた。
「ま、頑張ってください」
言って桂花は何もなかったかのように自席に戻った。
「桂花ぁ〜おいおい、そんなこと言わずに一緒に考えてくれ〜」
柢王の泣き落としを背中で聞きつつも虫を決め込み、桂花は一つ大きく息を吐き出した。
なぜ天主塔に麒麟が・・・・。
先日偶然見つけた、守天の気に入っている薬草を摘んで帰ってきた桂花は、中庭を抜けようとした所でその姿に気づき身動きがとれなくなる。
下手に動けば相手を刺激してしまう―――――否。既に魔族である自分の存在が許せぬ相手、何もせずとも十分刺激を与えてしまっているだろう。
以前、北の国でこの獣と出くわしてしまった時は、柢王が寸でのところで助けてくれた。
しかし今、その柢王はいない。
「・・・・・吾を殺すか」
小さく呟いた桂花に、ジリジリと間を詰めてくる麒麟。
一触即発の状況に嫌な汗が背中を伝う。
その時、突如青いものが麒麟めがけて飛び出した。
「冰玉っ!?やめろ!冰玉!」
麒麟には鋭い角がはえている。あんなもので一撃されたら、冰玉などひとたまりも無いだろう。
「逃げろ、早く!」
悲鳴のような声を無視して冰玉は狂ったように麒麟の体を突いていたが、それは岩の如く硬い鱗におおわれており、たとえ鏃であっても傷ひとつつけられない。
桂花はいよいよ焦って鞭を取り出した。
北の王がかわいがっている麒麟。それは百も承知だったが、このままでは冰玉が危ない。
ビュッと鞭をうならせた瞬間、それが何かに引っかかってしまった。
「?!」
鞭の先を見ると、南国の王子がその先端を手に巻いて浮いていた。
「何を―――」
「早まンな」
「でも、冰玉が!」
「反撃されてなかっただろ。孔明!悪かったな、こっち来いよ」
ごろんと石を転がして、アシュレイは孔明に手招きをする。
「今、ティアのとこに山凍が来てんだ。お前いなかったから孔明を庭で遊ばせてた」
冰玉を体にまとわりつけたまま目の前までやってきた麒麟に、桂花はゴクリと喉をならした。どこまでも追い詰めてくるこの獣の恐ろしさは身をもって承知している。いななき一つで体が動けなくなるなんてフェアじゃないと言いたいところだ。
「大丈夫だって。こいつは頭いいからな、お前らの事は襲いたくても襲わない」
「え?」
「柢王からも頼まれたしな。な?孔明」
ブルル、と鼻を鳴らしてから孔明は石にかじりついた。
その間も、冰玉は必死に孔明の尾をむしろうとしている。
「コラ、止せって冰玉――――ちっこいくせにお前を守ろうと必死なんだな・・・・お前ら似てるな」
フッと笑ったアシュレイに桂花が首をかしげる。
「似てる?」
「だってそうだろ、お前なんか柢王より弱いくせにいつも奴の楯になろうとしてたじゃん、そっくりだ」
彼は持っていた袋から更にいくつか石を出し、孔明の頭を撫でてやる。
「お前は本当に賢いな。普通なら本能で魔族を殺すところを・・・・俺達の言うことを理解してくれて、約束守ってくれてるんだもんな」
ガリガリと豪快な音をたて石を食べる孔明を見ながらアシュレイは微笑んだ。
「そういや、冰玉はなに食ってんだ?やっぱり・・・・あの、ムニムニか?」
「ムニムニ・・・?」
「ホラ、あれだ、あの蝶とか蛾とかになる・・・・」
嫌そうな顔をしたアシュレイに桂花は思わず嬉しくなってしまう。この暴れん坊にも苦手なものがあったのか、と口元がゆるんでしまいそうだ。
「ああ・・・・どうでしょう。食べるかもしれないし、食べないかもしれない」
どっちだ!とアシュレイが叫んでも、白をきる桂花。
桂花は勘違いしているようだが、実の所アシュレイは幼虫など素手で、平気でつかめる。
ただ、さなぎが羽化するところを見るのが苦手なのと、かわいい鳥がおいしそうにアレを食む姿はいただけない・・・・と思っているだけだった。
「もったいぶりやがって、このケチ魔族」
アシュレイがむくれて背を向けると、孔明が桂花をギロリと睨んだ。
なにもされなくても、とんでもない威圧を感じる。やはり麒麟は苦手だ。
対抗して孔明に眼を飛ばしている冰玉を抱いて、桂花はそそくさとその場を後にした。
歩きながらホッと息をつく。どうなるかと思った・・・・・。
冰玉を空に飛ばし、しばらく木陰で休んでいるうちに先ほどのアシュレイとのやりとりを思い出す。
『俺達の言うことを理解して、約束守ってくれてるんだもんな』
そうだ・・・確かに柢王は吾に手を出すなと麒麟に言ってくれていた。しかし、南の王子ほどあの麒麟との間に信頼関係があるわけではないとも言っていた。
『あいつはガキん頃から孔明に乗らせてもらったりしてよ、仲いいんだ。孔明もアシュレイの言うことはよく聞いてくれるしな。ま、山凍とアシュレイには叶わねーよ』
俺達の言うこと――――恐らく柢王だけでなく、南の王子も麒麟を説得してくれたのだろう。そして、北の王も。
ここには柢王以外、誰一人として味方はいないと思っていたが、自分達のために守天はとても良くしてくれた。彼なら信じてもいいのだと、天界で生活しているうちに思えるようになった。
柢王が留守の今、頼れるのは守天だけなのだと。
けれど――――――柢王だけじゃなかった。守天だけじゃなかった。他にも魔族の自分を受け入れようとしてくれる者がいる。守ろうとしてくれている者が。
柢王を本当に愛してくれている人たちと待つと決意したあの日からも、冷たいすきま風が吹き続けていた心に、あたたかなものが広がっていく。
不意にこぼれた雫を拭って、桂花は冰玉を呼んだ。
腕に降り立った龍鳥の体に頬を押しあてささやく。
「吾は一人じゃなかった・・・・・」
クルルと鳴いて冰玉はしきりに桂花の頬へくちばしを滑らせる。
「そうだね、お前もいるしね」
やわらかな笑顔を見せた彼にぴったりと寄りそって、龍鳥は大人しくなった。
柢王が帰ってくる頃にはもっとここに馴染めているかもしれない。
そうしたら―――――――きっとあの人は驚くだろう。
嬉しそうに、笑いながら。
回廊で使い女たちの、ひそやかに見えてかしましい囁きが聞こえる。
「ねえ、若様の今日のご様子、ご覧になった?」
「ええ、なんだかお悩みがおありなのかしらね、ため息ばかりついておいでよね」
「お仕事が大変なんでしょう。お机の上には書類が山積みですもの」
執務室の机の上に山と詰まれた書類を前に、美しい面をこわばらせて執務につく若い守護主天の姿は、使い女たちには常に関心の的だ。下手なスパイを雇うより、天主塔での生活のあることないことを知るには彼女たちに聞くのが早いというほど、何事も見逃さない。
見逃さない、のではあるが、正しく解釈しているかどうかはまた別だ。
「でも、最近はとみにため息が増えておいでよ。きっと他にもお悩みがあるのよ。例えば、南の元帥様がおいでにならないとか」
「そうよね、近頃は柢王様方もおいでにならないし。おさみしいのかしら」
「もしかして、秘めたる恋なんてことが」
「いやだ、相手は誰かしらっ」
その辺りになるともはや妄想である。
聞こえていないと思っているらしいその声が、執務室の厚い扉を超えて耳に入ったティアランディアは、大きくため息をついて机に突っ伏した。
生まれたときから天界の最高位人物を約束された守護主天。絹のような髪、白い額に美しい御印。ティアランディアはため息をさそうような美形だった。
温厚で、優雅で、だが、時に非情の決断もせねばならない身の鋭さもその瞳に覗かせている守天はしかし、山積みの書類を前に、晴れ渡った窓の外に目を向けて嘆息、嘆息、また嘆息。
「あああ、もう、桂花手伝いにきてくれないかなあ・・・」
いくら見てもどんどんと積もっていく書類の束は、物心ついたときからずっと見慣れているし、自分が天界一の責任を負う身だという自覚はある。一心不乱に片付けて、そしてまた次の日も片付けて。そんなことは日常だった。
自分の決断ひとつが、世界を変える。
その重みは端からわかっている。と、いうより他に生き方などない。だから、するべきことはするのは当然。なのだが・・・。
「どうしてこんなことまで私のところに来るのかなあ」
決断者が自分だけなので、大概の裁可が自分に委ねられる。それはいいが、誰か機敏で適切な判断の出来るものが大まかに作業を分類、『これは妥当と思われます』と保証して署名だけするという作業工程がなかばにあれば、どんなにか機能的だろう、とティアは思う。
歴代守天は文句を言わなかったのか、ティアのところに来る書類は大抵が分類もしておらず、大事も小事も一緒くたになっていて、いながらにしてこの世がどんな問題で埋もれているか理解できるほどだ。
東領元帥、柢王の副官である魔族の桂花は、初めて執務を手伝ってくれたとき、その非合理的なシステムにほとんどあきれ返っていた。以降、桂花が手伝ってくれるときには、概ねの分類を桂花がしてくれ、合理的且つすみやかに作業が進むよう心がけてくれている。
が、その桂花はいまは軍にいるので、手伝いは期待できない。
それでティアは必死に書類をめくるのではあるが。
「こんなこと、私にどうしろというんだ」
はぁぁ、とため息をついて空を仰ぐ。
こんな些事、という懸案もある。そして、これはどうしようもないという懸案も。だが、ティアランディアが一番滅入るのは、こんなことをどうしろというのだといいたいような懸案の数々だ。
例えば、
『人間界で、ここ数日、雷鳴が続いている』とか、
『一昨日から人間界で集中豪雨』とか。
人間界の天候は、天界の管轄内のこと。天界には四季はないが、人間界の天候に関してはそれぞれ気候を司る東西南北の王たちが決め事に従って管理していた。だから、天候のことはそこに行くべき問題ではあるのだが、その問題の発端となった出来事があまりにバカらしすぎる。
東西南北の王族は気候を司る。だから、
『悪い、ティア、親父が女のことで母上と大喧嘩して機嫌悪いから、たぶんどっかで雷落ちるぜ』
とか、
『ティア兄様、聞いてください。お父様に叱られたので、ついはずみで、お父様なんて大嫌いと言ってしまったら、お父様がショックで寝込まれてしまったんですぅ』
とか。
家庭の問題はご家庭内に治めてくださいっ、といいたいような理由で、雷を司る東の王と水を司る西の王が、落雷と涙雨だ。こんな理由で起きる異常気象を人間たちが『天気』と呼んでいるのは当たらずしも遠からず、というべきだろう。
「どこか遠くに行きたいなあ・・・」
適わぬ願いでも、口に出すのは自由だ。
ティアランディアは、諦めて再び満載の書類に手を伸ばした。
心ひそかに、守天に生まれたのは仕方がないが、今度、生まれてくるときには守護主天以外のものにも生まれてみたいものだと思いながら。
・・・・・ ピシャン・・ ―――
黒い水が波立って、湖面がざわめいた。
揺れる湖面の中央が、金色に光り輝いている。
湖に面した館の階に腰をかけた人物の髪と同じ色だ。長い長い髪の一部は湖にひたされ、
扇のように広がっていた。
そのわずか先の湖面には、中央と南の境、南の太子が魔族を破壊した場所を背景に飛び回
る兵士達が映し出されている。
片膝を立て、もう片方の足は階の上に伸ばし、立てた膝の上に置いた腕の手の甲に顎を載
せ、もう片方の手は扇をもてあそんでいる。 一見懶惰に見えるその姿も、この人物がすれ
ば奇妙に似合う。
それは、この人物が醸し出す誑惑の気配と、並はずれて美しい容姿と、威圧的な金黒色の
眸のせいかもしれない。
今、その金黒色の眸は、わずか先の湖面に映し出される映像ではなく、光り輝く湖の中央
を見据えていた。
波立ち、金の波紋を広げるその中央で、金黒色に輝くひとしずくが浮かび上がり、垂直に
立ちのぼって果てのない冥界の暗闇へと消えてゆく。
冥き再生の水―――・・
それは力となって教主の望むところへ向かう。
また 金黒色のひとしずくが波紋の中央から生み出され、上空の闇へと消えてゆく。
教主の傍らにひっそりと従う赤毛の女がわずかに膝を進めた。
鮮やかな赤毛が流れ落ち、伏せたままの女の白い貌を覆い隠す。
「冥界から天界まで直接力を渡し続けるのは、いかな貴方様でもお体に触りましょう・・・」
ましてや、霊力の満ちた異界の地で力をふるうとなれば・・・
ぱちり、と扇を閉じる音が、奇妙なまでに大きく湖面に響いた。
「・・・何のために閻魔の協力を取り付けたと思っている?」
李々の言葉を冥界教主はわずかな哄笑で退けた。
閉じた扇を李々の伏せた頤にあてがい、強い力で顔を上げさせる。
目と目があった。
「あの、愚かで醜い閻魔に近づいたのは、なんのためだと思っている? 先代の守護守天が
戯れに与えた快楽の味を未だに忘れられないがために、己の養い児にまでおぞましい情欲を
寄せるあの老人に?」
李々は身を引こうとした。金黒色の眸とその声に呪縛される、その前に。
「今頃閻魔は、我があてがった姿形だけはおのが養い児に似た人形に溺れていることだろう
よ。我に感謝すらしながら。」
髪を掴まれてさらに引き寄せられる。激しい痛みが走ったはずだが、李々は瞬きすら出来
ずに、魔王の貌を見上げ続けることしかできなかった。
「・・・そのまま溺れ死んでしまえ老醜め! 偽物ごときで満足できる程度の浅はかな妄執で
手に入れられるとでも?」
呼吸をすることすら忘れたままの李々の喉が小さく鳴った。床についた手は蝋のように白
く、小刻みに震えて今にも崩れ落ちそうだった。
その時、湖面がひときわ光り輝いて李々の視界の端を焼いた。
「――――」
髪が離されると同時にすべての重圧が離れていった。のど元を押さえて浅く息をつぐ李々
に背を向けた教主が湖面を見おろし、ゆっくりと笑う。
「・・・あの兄妹が 魔刻谷に到着したらしいな―――・・」
・・・笑いの発作に見舞われていた柢王をアシュレイが引きずり起こし、脳みそが飛び出る
んじゃないかと思われるくらい揺さぶったあげくに事情を聞き出せたのは、それからしばら
くしてからだった。
ちなみに水の入った大壺を見て笑ったティアと桂花は何も言わずに先に執務に戻ってい
る。
「じゃあ何か、あの岩が、魔界から持ち込まれたんじゃないかと思ってたんだな」
「ああ、治水工事が終わったばっかのあんなとこに、いきなり大岩が生えてること自体が
・・お、おか、かしいから、な」
アシュレイに応える柢王の言葉の語尾が震えたのは、またもや笑いの発作が襲ってきたか
らだ。
口元を押さえて必死で笑いをこらえている柢王をアシュレイはじろっと睨み付け、それか
ら内心で首をかしげた。あの時、足元の岩の色は何色だったかな、と。
激しい噴火を起こす火山のマグマが固まった岩は確かに白っぽいモノが多いので、境界線
の所に立てられていた数柱の岩と混同しても可笑しくはないのだが・・・
「・・・・・?」
何だろう この感じ。
道を行く途中で忘れ物をしたと気づいたのに、何を忘れたのかがわからないような。
「・・・どうした、アシュレイ?」
柢王の声にアシュレイは引き戻された。
アシュレイは考え込むことを放棄した。いくら考えても分からないなら、それ以上の事は
アシュレイにとっては時間の無駄なのだ。
それならば一旦原点に戻ってみればいい。柢王と一緒に現場に行って確認すれば済むこと
だ。
「いや、何でもない。・・・つーか、いつまで笑ってんだよ!いー加減にしろ!」
「・・・おかしな気分だ」
むき出しの岩肌に背をつけて座る氷暉が黒紫色の瞳をすがめて言った。彼の本来の瞳は藍
色。今は魔刻谷に満ちる赤い結界光に照らされてそんな色に見えるのだ。
「何が?」
座る彼の足の間の地面にちょこんと腰を下ろした水城が振り返って問い返す。彼女の白い
肌も髪も赤く染まっている。瞳だけが同じ赤だ。
「目の前にお前がいるのに、お前が見えているのに、頭の中にもう一つの風景が見える。天
界人がうろつき回っている風景が」
「あたしにも見えているわ。氷暉と、その向こうに同じ光景が」
「目障りだな。蛟(ミズチ)を出してあいつら全員川底へ沈めてやりた―――」
頭上でおこった小さな物音に、氷暉は妹を胸元まで引き寄せて覆い被さった。
チリン、カシャン、とくぐもった鈴のような音が頭上で交錯し、彼らからわずかに離れた
場所に、水晶の小片が落ちてきた。それを見届け、兄妹は安堵のため息をついた。
・・・水晶は 魔を祓う。
水晶をこそげ落とされ岩肌をのぞかせる、人一人がようやく腰と背を落ち着かせられる場
所に彼らはいる。 だが彼らの周りは水晶だらけだ。 ろくに身動きもとれない彼らにとっ
てはここは牢獄、いや、拷問部屋にも等しい場所だ。
「水城、お前は別に来なくても良かったんだぞ」
「馬鹿を言わないで。同じ血を持つ者同士の力の共振で氷暉がもっと強くなれるなら、あた
しは氷暉の側にいるほうがいいでしょ。 ・・・それにあの赤毛! この前ここであたしの邪
魔をしたばかりか、私をずたずたに切ってくれたのよ? あいつに仕返しが出来るせっかく
の機会なのよ! それだけでも来た甲斐があるってものだわ」
いまいましげに言う妹を宥めるように氷暉は妹の細いうなじを撫でる。
「もうすぐ結界が閉じる。水が満ちればアレが目覚める。今回俺たちの役目は、水を通すた
めの『管』だ。・・・楽なものだ」
最後の言葉を語る声に不満は感じられない。少なくともこの任務で妹を危険にさらさずに
済むことに氷暉は安堵していた。自分のことはどうにでもなるし、最悪死んだところですぐ
に湖に浮く(そのことについてはよほどの自信がある)。
しかし妹に何かあれば―――彼女が傷つくことさえ氷暉には絶えられない。妹は無用の心
配だと笑い飛ばすが、そういう問題ではない。以前の任務で天界人に肉体を寸断されて湖に
浮いた妹の姿を見た時の衝撃は、未だに氷暉を苛む。
当人は何でもないふりをしているが、時折仕草がぎこちなくなる事を氷暉はとっくに気づ
いていた。おそらく天界人に斬られた傷はまだ完治していないのだ。
(何とかしなければ・・・)
今の状況で妹を守り抜くのは無理だ。もっと根本的な―――
(そこまでだ。考えるな)
己の膝をきつく掴んで氷暉は自分を戒めた。
それ以上は 考えてはいけない。
術の触媒として、黒い水に直接繋がっている今は特に―――
「・・・・・」
あの、水底の修羅達を支配する、美しい恐ろしい魔王が笑む様を思い出し、氷暉は奥歯を
噛みしめた。
―――息苦しい。
蒸気と土埃の舞い上がる現場周辺で地道な探索作業を続けている兵士の一人が、手をかけ
た岩隗にもたれかかるようにして息を吸い込み、吐きだした。この体勢が一番息を吸い込み
やすく感じるのだが、どれほど息を深く吸い込もうとしても、胸の奥まで空気が落ちてこな
い。そして、すぐ息を吐き出してしまう。 まるで、体が息をすることを拒んでいるかのよ
うだ。
そしてこの蒸し暑さ。いや、『蒸す』などという生ぬるいレベルではない。
頭まで湯につかっているような気分だ。
暑いが木陰に入れば嘘のように涼しい、乾燥した南領の気候とは違う。
(少し前までは、こんな感じじゃなかったよな・・・。風向きが変わったのか?)
兵士がちらりと視線を向けた方向の地は、未だ土煙と蒸気を高々とあげ続けている。
あの蒸気が風に流されてここに満ち始めているのだろうか。
胸苦しさを解消させようと浅く息をついだ兵士が、ふと顔を上げた。
「・・・気のせいじゃない。やっぱり、聞こえる」
気が遠くなるくらい 高いところから 水が 一滴 一滴 間隔をあけて落ちて来る
そんな水音が。
「・・・でも、一体どこから・・・?」
汗をぬぐいながら周囲を見回す兵士からわずかに離れた場所の、瓦礫が積み重なって出来
た山が崩れたのは、次の瞬間だった。
「―――・・っ!」
柢王とアシュレイが、そしてわずかに遅れて桂花が弾かれたようにバルコニーの方角を振
り返った。
高々と上がる土煙と蒸気は執務室からでもよく見える。
「ティア!遠見鏡! 境界を映してくれ!」
振り返った柢王の声に弾かれたようにティアが手をかざすと、境界の場所が映し出される。
「―――魔族!」
空中で、高々と伸び上がって身をくねらせる、黒く、長大な姿。
「でかい! ・・・蛇、いや百足(ムカデ)か? ティア!もっと近づけてくれ!」
ティアが遠見鏡を操作するのを嘲笑うかのように長大なモノは身をくねらせて瓦礫の山
に身を沈めた。はじきあげられた瓦礫が空中に舞い上がり、土埃がもうもうと立ちこめる光
景が遠見鏡の画面に映し出される。
「クソッ!隠れやがった!」
「・・・人界の水生昆虫に似ています」
柢王の怒声のかたわらで、いままで食い入るように画面を見つめていた桂花が言った。
「・・・・・!」
柢王の怒声と桂花の押し殺した声をアシュレイは背中で聞いていた。バルコニーから見え
る光景を目を見開いたまま見つめている。
あそこには、南と、天主塔の兵士達が、いる。
魔族が 出現したのだ。それも、巨大な。
あそこには、兵士達が、まだいるのに。
兵士達がいるところに魔族が出た。
「アシュレイ!」
考えるより先に、体が動いていた。気付いた時にはアシュレイはバルコニーの柵を蹴って
飛び出していた。
「あ・・・」
薬草を摘んだ手の甲に、朝露が落ちたその冷たさに、桂花はかすかに息を呑んだ。
秋の早朝。日差しはまだ低く、胸に吸い込む空気は冴えて冷たいが、見上げる空は遠い輝きを予感させる気配を見せている。ある種の薬草を摘むには適した時刻。甘えん坊の恋人を置き去りにして、寝台を抜け出し、林に向かった。
露の降りたつややかな緑の草を、ゆっくりと摘み取る。朝の林は深い緑と露の匂いに満ちている。
手の甲に落ちた水滴は、桂花にふと、何日か前のことを思い出させた。
人間界から戻ってきた柢王が、溶けるほどの夜を過ごした翌朝、食事の席で何気なさそうに告げた人間界での出来事。
菊の節句と呼ばれる吉日。人間たちは長寿を願って朝露を口に含むとか。
そんなもので長生きできれば安いものだと、笑いながら話していたその態度に、いつもと違ったものはなかったはずだけれど。
ふいに抱きしめてきたその腕の強さが、やはりと、苦笑いを誘った。
花の露を口に含んで長生きできるなら。
それをさせたい、あるいはしたいと思うかと。
冗談めかしてでさえ、しかし、口にしなかったのは、優しさだ。
天界人とは寿命も違う桂花には、いつまで柢王といられるかの保証はない。いや、誰の命にも保証はないが、柢王を唯一に天界にいる桂花に、不安を引き起こすことは口に出さなかった、あれはとっさの優しさなのだと。
「まったく、大雑把なのに、聡いんだからな」
苦笑いで、光る朝露を眺める。きらきらと、透き通り、儚くて。
そんなものに願いをかけなくても、自分にはいくつも耐えられることがある。そう笑いたいところだけれど。
正面切って傷つくのなら癒されるけれど、こちらの胸の中に、自分でも知らないうちについている傷。あるいはあまりに辛くて封じ込めた・・・。
そんな痛みすら、見抜いて、温かな腕で癒してくれようとするその顔を見たら、弱気は笑い流し、見ないフリをするしかない。
守られているだけでいいと思っていないから。そんな気持ちも見抜いて、もっと俺を信用しろと怒るのもわかっているけれど。
「まったく、甘いよな」
胸の中にこみ上げてくる温かさ。そして、ふいに肌を過ぎる秋の風のひやりとする冷たさと。
愛しさと不安の両方を抱えながら。
桂花は立ち上がった。
濡れた露草が足元を濡らし、飛び散る。光の珠のこぼれるようなその儚く、透明な美しさに目を細めて。
「多少、秘密があるほうが、恋も盛り上がるよ、柢王」
振り払うように微笑むと、ふたりの家に戻るため歩き出す。
いまだ寝台を恋しがる、甘えん坊の恋人を起こすために。
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